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文蝶 〜文が紡ぐ戦国のんびり生活〜  作者: 藤原 智
美濃

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二話 父の知らない娘

 傷に水が触れた瞬間、紗季は槙の手を押し返しかけた。


「痛みますか」

「少し。でも、洗ってください」


 後の言葉は、自分に言い聞かせるつもりで口にした。砂が入ったままではよくない。それくらいのことなら、ここでも同じはずだ。


 廊下の端に腰を下ろすと、庭に膝をついた槙が、紗季の手首を下から支え直した。そばの女が柄杓を傾け、細く流した水で傷の周りを洗っていく。血と土の混じった雫が、足もとの盥へ落ちるたび、水面に浮いた葉屑が縁へ寄った。


 槙の涙はもう止まっていた。ただ、ときどき紗季の顔を見上げる。そのたびに、布を持つ指が休む。


「お梅。替えを」


 呼ばれた女が盥を脇へよけ、新しい布を差し出す。近くで見ると、思っていたより若い。頬にそばかすがあり、たすきの下から出た襟が片方だけ折れていた。


 水を運んでくれた人に、まだ礼を言っていない。


「ありがとうございます」


 お梅は布から手を離し損ねた。槙が軽く引くまで、紗季を見つめたままだった。


「……いえ」


 かすかな返事の後、お梅は急いで顔を伏せた。礼を言うことまで変なのだろうか。紗季は右手を膝の上へ置き、次の言葉を探すのをやめた。


 浅い傷の砂が取れると、槙は手のひらを布で覆い、手首のところで結んだ。


「きつうはございませぬか」

「大丈夫です」


 今度は、槙の方が困ったような顔をする。


 紗季は靴を脱ぎ、揃えて廊下の下へ置いた。お梅がしゃがんでそれを持ち上げたので、とっさに身を乗り出す。


「それ、どこへ」

「泥を、落としてまいります」

「捨てないでください」


 言ってから、そんなつもりで持ったのではないと分かった。お梅は片方ずつ靴を見て、両手で抱え直す。


「お返しいたします」


 真面目な声だった。紗季はうなずき、リュックを抱いて立ち上がった。


 廊下の板は靴下越しにも冷たかった。槙が半歩先を歩き、曲がり角で待つ。庭から見えた溝の上を短い渡り廊下で越え、その先で右に折れると、裏門は見えなくなった。


 戻るときは左。それから溝を越えて、また左。


 曲がった回数を頭の中で繰り返しながら歩く。閉じた戸の向こうで衣擦れの音がしたが、人影は現れなかった。


 案内されたのは、小さな庭に面した部屋だった。板敷きの手前に畳が二枚並び、奥は屏風で仕切られている。開け放された戸のそばには、足を置くたびにわずかに沈む板があり、槙はそこを避けて中へ入った。


「こちらでお待ちくださいませ」


 勧められた畳へ膝をつくと、右腰に痛みが走った。紗季が顔をしかめたのを見て、槙はすぐに屈みこむ。


「ほかにも、お怪我が」

「落ちたときに打っただけです。たぶん」

「拝見いたします」


 伸びてきた手に、紗季は体をひねった。


「自分で、できます」


 槙の手が宙で止まる。傷を洗ってもらったばかりなのに、こんな言い方は悪かったと思う。けれど、服までめくられるのは嫌だった。


 槙は無理に近づかず、屏風の端を少し開いた。


「では、おひとりでお確かめください。痛みが強ければ、お隠しになりませぬよう」


 その向こうには畳と、畳んだ夜具があった。紗季はリュックごと奥へ入り、背中で人の気配を確かめてからジャージの裾を引き上げた。腰の右側が赤くなっている。そっと押してすぐ指を離し、服を戻す。


 母なら、どこから落ちたの、頭は打ってないの、と続けて聞く。大丈夫と言っても簡単には納得せず、病院へ連れていこうとするに違いない。その煩わしさが今は欲しかった。


 ジャージのポケットの中で、スマートフォンの角が腿に当たる。


 人目を避けて取り出しても、圏外の表示は変わらない。朝の母の返事を開きかけ、紗季は指を止めた。今それを見たら、屏風の向こうへ戻れなくなる気がした。


 画面を消し、ポケットの奥へ押し込んだ。


「血は、出てないです」


 戻ると、槙は小さく息をついた。お梅が運んできた椀からは湯気が上がっている。紗季が手を伸ばすより先に、槙が椀を包むように持ち、熱さを確かめた。


「冷ましてあります。お飲みください」


 湯は何の味もしなかった。二口飲んで初めて、舌も唇も乾いていたと分かる。両手で持った椀の重みを確かめながら、紗季は庭へ目を向けた。


 低い垣の内側に、まだ葉のない木が一本ある。枝先には硬そうな芽が並び、地面の湿った部分だけが黒い。現代の山を覆っていた明るい緑とは、季節まで違うように見えた。


「今って、何月ですか」


 槙は紗季の顔を見た。それから、問いを聞き違えたのではないかと確かめるように、ゆっくり答える。


「二月でございます」

「何年の?」


 椀を握る指に力が入る。


「天文十七年にございますが」


 天文。


 その二文字は本の中で何度も見てきた。信長が生まれたころにも使われていた年号で、永禄より前。けれど十七年が西暦でいくつに当たるのか、すぐには思い出せない。


 それでも、母が迎えに来られる年ではなかった。


 違う、と頭の中で言い直す。相手がそう答えただけだ。まだ何も確かめていない。そう思おうとして椀を置くと、縁が膳にぶつかり、少しだけ湯がこぼれた。


「すみません」


 お梅が膝で進み、布を当てた。拭き終わっても立とうとせず、紗季の顔を下からうかがう。


「お梅」


 槙に呼ばれて、お梅は弾かれたように下がった。


 なぜ、みんながそんなふうに見るのだろう。


「帰蝶様っていう人、私にそんなに似てるんですか」


 槙はすぐに答えなかった。膝に置いた手の親指で、もう片方の指を押さえている。


「槙は、姫様に乳を差し上げて育てました」


 静かな声に、紗季は言い返せなくなった。


「お顔を、見間違えるはずがございません」


 乳母なのだ。


 物語なら何度も読んだ役目だった。姫に付き従い、諫めたり、逃がしたりする人。けれど目の前にいるのは、紗季の知らない小さな子を抱き、泣けばあやしてきた女だった。


 似ているからといって、その子にはなれない。


「でも、私は――」


 廊下で足音が止まった。


「槙殿」


 作兵衛の声に、槙の背が伸びる。立ち上がって戸口へ行き、外の誰かへ深く頭を下げた。


 入ってきた男は、部屋の敷居を越えたところで足を止めた。


 紗季は立つべきか迷い、膝に手をつく。男はその手の動きを見て、それから顔を見た。まっすぐに向けられた視線のせいで、途中まで浮かせた腰を畳へ戻すしかなかった。


 髪に白いものが混じっている。眉が濃く、頬には深い筋が刻まれていた。暗い色の衣の袖口から見える手は大きい。その右手が、持っていた扇をゆっくり閉じた。


 後ろから来た年配の男が、紗季を見て息を漏らす。


「姫様……」


 先の男は答えなかった。


 槙も、お梅も、廊下の作兵衛までが頭を低くしている。紗季だけが座ったまま見上げていることに気づき、慌てて目を伏せた。


「顔を上げよ」


 声には、思ったほどの大きさがない。


 従うと、男は紗季のすぐ前まで来て座った。近づけば、顔のしわや爪の縁まで見えてしまう。その人も、息をし、年を取り、毎朝起きて着物を着るのだという、当たり前のことが妙に恐ろしかった。


「わしが分かるか」


 紗季は首を横に振った。


 誰なのか、もう見当はついていた。でも、絵でしか知らない顔を知っているとは言えない。


「お父上にございます」


 槙が脇から囁く。


「斎藤利政様に」


 利政。道三の、別の名。


 好きで読んでいた本の一頁が、ようやく頭の中で開いた。美濃の蝮。国を手に入れ、やがて息子と争う男。その最期について浮かびかけたものを、紗季は押しとどめた。


 今ここで、それを考えたくない。


 男は、紗季が名前に反応したのを見逃さなかった。


「思い出したか」

「……いいえ」


「では、そなたは誰だ」


 初めて尋ねられた。


 うれしいはずなのに、答えが喉につかえた。名乗れば、この部屋を出してもらえるだろうか。帰蝶ではないと分かった途端、あの門の外へ放り出されるのではないか。


 それでも、自分の名まで分からなくなったわけではない。


「森下、紗季です」


 男は音を確かめるように、紗季、と繰り返した。


「父はどこにおる」

「父は……。

「どうした?」


 いつもなら住所を言えばよいだけだった。けれど、今ここで町の名や番地を並べても、それで家へ帰れるとは思えない。まだ何も言っていないのに、答えられない自分が嘘つきに見えてしまいそうだった。


「遠いところです。帰りたいけど、道が、分からなくて」


「誰と山へ入った」

「友達と、二人……私を入れて三人で。でも、離れてしまって」


 言い直すと、後ろの年配の男が眉をひそめた。紗季は数をごまかしたかったのではない。ただ、美羽と千尋の顔がいっぺんに浮かび、言葉が追いつかなかった。


「名は」

「美羽と千尋です」


 利政は作兵衛へ目を向けた。


「山でほかに人を見たか」

「見ておりませぬ。弥七を荷の回収に戻し、付近を見させております」


 紗季は作兵衛を見た。頼んだことを忘れてはいなかったのだ。二人が見つからないかもしれないという恐れの中で、そのことだけはありがたかった。


 利政が右手を差し出した。


「腕を見せよ。怪我をしておらぬ方だ」


 紗季はジャージの袖口を引き上げた。手首を取られ、内側へ返される。男の指は乾いて硬かった。親指が肘に近いところまで肌をなぞり、そこで止まる。


 槙の息が、短く途切れた。


 男は何も言わず、手を離した。


「槙と、作兵衛は残れ」


 お梅が膳を持ち、年配の男も廊下へ下がる。戸が閉まる直前、その男がもう一度だけ紗季を振り返った。


 利政は扇を膝の脇へ置いた。


「帰蝶には、ここに傷があった」


 自分の右腕を指で示す。


「幼いころ、火鉢を倒しかけてな」


 紗季は袖を下ろした。違うと分かってくれた。その安堵は、槙が両手を握り合わせるのを見て、小さくしぼんだ。


 この人は、もう気づいていたのだろうか。


「帰蝶様は、どこにいるんですか」


 本人が来てくれればよい。二人並べば、似ているだけだと誰にでも分かる。その人だって、自分ではない子が自分の部屋に入れられていると知れば、困るはずだ。


「七日前に死んだ」


 利政は紗季を見たまま告げた。


 庭の方で鳥が鳴いた。さっきから時折聞こえていたのと同じ声なのに、なぜ今鳴くのだろうと思った。


「熱が下がらなんだ。槙も、わしも、最期を見た」


 紗季は槙へ顔を向けた。否定してほしかった。あまりに急にそんな話をするから、と利政をたしなめてほしかった。


 槙は畳に目を落としていた。


 帰蝶が、死んでいる。


 そんなはずはない。本の中では、信長に嫁ぐ人だった。詳しい生涯を知らなくても、それだけは間違えようがない。


 では、目の前の人たちが間違っているのか。


 紗季は、手に巻かれた布を見た。指先を汚しながら傷を洗ってくれた槙が、自分の育てた娘の死を取り違えるだろうか。


「このことを知る者は、まだ少ない」


 利政が続けた。


「そなたを見た者は、帰蝶が戻ったと思うであろう」

「でも、違います」

「分かっておる」


 短い返事に、紗季は言葉を失った。


 分かっているなら、なぜそんな話をするのだろう。リュックを抱え直すと、利政の目がそちらへ落ちる。紗季は肩紐を自分の側へ引き寄せた。


「その袋も、衣も、見たことがない。そなたが何者か、調べねばならぬ」

「だから、私は」

「名だけでは分からぬ」


 道三は怖い、と本では思わなかった。むしろ、どうやって相手を出し抜くのかと、先を急いで読んだことさえある。


 今はその男が、自分の答えを待っている。


 未来から来た。口に出せば、どんな顔をするだろう。信じるより先に、なぜ知っているのかを問うはずだ。知らないことまで答えろと言われても、紗季には答えられない。


 抱いたリュックの縫い目へ視線を落とす。取っ手のほつれを、母が別の色の糸で縫い直した跡がある。先週、新しいのに買い替えたいと言ったばかりだった。


「返してもらえますか」


 利政はすぐには答えなかった。紗季は顔を上げる。


「調べるなら、見てもいいです。でも、捨てたりしないでください。全部、私のです」


 声の最後が震えた。道に迷っただけだと言い張るには、遠くまで来すぎている。家そのものは持ってこられなかった。せめて、自分で背負ってきた物を残したかった。


 利政は扇を取り、閉じたまま指先で回した。


「槙。持ち物を改めよ。刃物があれば預かれ。ほかは、そのまま置いてやれ」


「かしこまりました」


「この娘を、奥から出すな」


 紗季は立とうとした。痺れかけた足へ体重がかかり、膝が畳を擦る。


「待って。山へ戻らないと」


「日が暮れる」

「明日になったら、戻してくれますか」


 問いながら、すがるような言い方になったのが悔しかった。


 利政は庭の垣へ一度目をやり、それから紗季へ視線を戻す。


「まず、そなたの申した場所を調べさせる」

「私も行きます。木の形も覚えてるし」

「今はならぬ」


 理由はそれ以上与えられなかった。


 作兵衛が静かに戸口の方へ体をずらす。手は刀に掛かっていない。それでも、紗季が走ればすぐに止められる位置だった。


 槙が膝のそばへ手を添えた。


「お座りくださいませ。お怪我に障ります」


 優しい声だった。その優しさと、部屋から出られないことが、紗季にはうまく結びつかなかった。


 利政は立ち上がり、戸を開けさせた。廊下で待っていた者たちが一斉に頭を下げる。お梅は空の膳を持ったまま、少し離れた柱のそばに控えていた。


「帰蝶が戻った」


 利政の声が、廊下へ通った。


「病の苦しみで、覚えておらぬことがある。騒ぎ立てず、槙の申すとおりに世話をせよ」


 年配の男が顔を上げかけ、また伏せた。お梅の膳が傾き、柱に小さく触れる。


 紗季はその場で首を横に振ったが、利政はもう自分を見ていなかった。


 違うと知っている人が、帰蝶と決めた。


 やがて足音が遠ざかり、槙が戻ってきた。戸は細く開けてある。隙間の向こうには、作兵衛の衣の裾が見えた。


「お持ちの物を、見せていただけますか」


 紗季はリュックを膝に載せたまま、しばらく動けなかった。槙も手を出さずに待っている。


 争ったところで、ここを出られるわけではない。


 右手でファスナーを引く。小さな音に槙の目が動いたが、紗季は説明しなかった。水筒、タオル、弁当の包み。取り出した物をひとつずつ畳へ置きながら、最後に、朝から開けていない包みの結び目を握った。


「これは、自分で開けます」


 槙がうなずいた。


 蓋を持ち上げると、卵焼きが少し片側へ寄っていた。転んだときに動いたのだろう。隣のおにぎりには、母がいつも使う海苔が巻かれている。


 紗季は蓋を置き、卵焼きを指で戻した。


 誰かの娘になったと言われても、お弁当を作ってくれたのは、あの家のお母さんだった。

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