↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
文蝶 〜文が紡ぐ戦国のんびり生活〜  作者: 藤原 智
美濃

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

1/52

一話 友達の声が届く所

「ねえ、三組の莉央、宮原先輩と付き合ってるんだって」


 石段を上りきったところで、野々村美羽が声をひそめた。ひそめたつもりでも、その声は後ろから来る紗季に十分届く。


「あの先輩、ほかにも何人か彼女いるって聞いたけど」


 相沢千尋は遠足のしおりを二つに折り、首もとの汗をあおいでいた。さらりと言うものだから、美羽が勢いよく振り返る。


「何人かって、二人とか?」

「そこは知らない。噂だし。莉央には言わないでよ」

「ええ、気になるじゃん」


 二人に追いつき、紗季はリュックの肩紐を掛け直した。新緑の間から見える岐阜城は、下で見上げたときよりずっと白い。屋根の端が青空へ反り、日の当たらない軒裏には、細い木組みの影が重なっている。


 あの窓からなら長良川がよく見えそうだ。しおりにある見学の問いを先に確かめようとすると、美羽が顔をのぞきこんできた。


「紗季ならどうする? 付き合ってから、ほかにも彼女いるって分かったら」

「やだ。別れる」

「即答」

「だってさ。私は、やっぱり高橋紹運みたいな人がいい」

「出た! 歴史オタ!」


 美羽が待っていましたとばかりに両手を広げ、千尋も笑う。


「岐阜城まで来て、またその人?」

「場所は関係ないでしょ。側室作らなくて、奥さん一筋だったらしいし。かっこよくない?」

「その、そくしつっていうの、今なら作らないのが普通だから」

「昔の話だってば」


 武将の話をするときは、いつもここから説明しなければならない。ただ、二人が笑うのは嫌ではなかった。先月、好きな男子の名前をしつこく聞かれて紹運と答えて以来、美羽は名前だけなら覚えてくれたし、千尋は図書室で戦国の本を見かけると取っておいてくれる。


「それに、息子なんて、あの立花宗茂よ? すごくない?」

「知らんし」

「千尋、早い。もうちょっと聞いて。雷神の義理の息子にもなるんだよ」

「人間の話してる?」

「してる。雷神って呼ばれてる道雪の娘と結婚して、養子にもなるの」

「じゃあ紗季、付き合う前に息子の進路まで決めるんだ」


 美羽の言い方がおかしくて、紗季も吹き出した。


「そうじゃなくて。自分が大事にするって決めた人を、ちゃんと大事にできる人がいいの」


 千尋が、ふうん、と少しだけ真面目な声を出す。照れくさくなって、紗季は城の方へ顔を向けた。


 山を渡る風が、枝先の若葉を裏返していく。少し離れた曲がり角では、担任が生徒を数えていた。美羽は売店に寄る時間を気にし、千尋はしおりの集合時刻を指でなぞる。そろそろ行こう、と言いかけた紗季の靴の下で、石の色が消えた。


 木の影ではなかった。


 右足の周りだけが、墨を落としたように黒い。黒さは左足へ広がり、石の継ぎ目も、小さな砂粒も、まとめて覆ってしまう。


「紗季、足――」


 千尋が腕を伸ばす。


 その指に触れる前に、地面が抜けた。


 体が沈む。かかとを置く場所がない。とっさに突き出した手が何かをかすめ、美羽の爪の薄桃色が目の前で跳ねた。


「紗季!」


 名前を呼ぶ声が、急に遠くなる。


 空まで細くなっていくのを見上げながら、紗季は息を吸おうとした。けれど胸が詰まり、声も出ない。背中のリュックに引かれ、暗闇の中で体が横を向く。


 次の瞬間、肩と腰に衝撃が走った。


 斜面を滑りかけ、両手で地面を押さえる。指の間に枯れ葉が入り、爪が土を引っかいた。頭のすぐ横でリュックの水筒が鈍く鳴る。


 しばらくは、その音の余韻だけが耳に残った。


 息を吐くと、ようやく次の息を吸えた。土の匂いがする。鼻の奥に痛みを感じ、紗季は頬についた葉を払った。


「……美羽?」


 返事がない。


「千尋。いる?」


 木々の上で鳥が鳴いた。見上げても穴はなく、枝の隙間に薄い雲が浮かんでいる。さっきまでの眩しい青空とは、光の色が違っていた。


 転げ落ちたのだろうか。道の脇に穴があったのかもしれない。そう考えて斜面の上を探したが、手すりも石段も見当たらない。


 膝を曲げると右の腰が痛む。それでも立てることにほっとして、幹に手をついた。紺のジャージの膝は土で白く汚れ、左の手のひらには細い擦り傷がある。骨が折れたような痛みではない。


 大丈夫、と口にしてみた。


 声が思ったより弱く、それを聞いた途端、もう一度二人を呼びたくなる。


 まず連絡。リュックの脇のポケットに手を入れた。遠足中は出さない約束だったスマートフォンを、今だけは先生も怒らないはずだ。


 画面の隅には圏外の文字が出ていた。


 母とのやり取りを開く。朝、駅へ着いてから送った「いってきます」の下に、母からの「楽しんでおいで」が残っている。紗季は、落ちた、けがはひどくない、と打ちかけて消した。これでは母が驚く。


『道に迷った。先生と連絡取って』


 送信を押しても、文字の横の小さな印が動くだけだった。


 山だから電波が悪い。人のいる方へ行けばいい。


 スマートフォンをポケットへ戻し、紗季は木々の間を見渡した。少し下に、草の生えていない細い道がある。枝を握ってそちらへ降りると、坂の先に人の姿が見えた。


「すみません!」


 二人いた。肩に荷を担いでいた男が足を止め、その前を歩く男も振り向く。


 近寄りかけて、紗季の足は鈍った。


 二人とも着物姿で、足には草鞋を履いている。先を行く若い男は、腰に刀を差していた。時代劇の催しだろうか。岐阜城ならそういうこともあるかもしれないが、道端に案内の旗も、見物の人もいない。


「学校の人たち、見ませんでしたか。私と同じ服の――」


「動くな」


 若い男が荷担ぎを背にかばう。低い声に、紗季は口を閉じた。


 男の手が刀の柄に置かれている。


 夕方の道場で、先生が木刀を構えるところなら何度も見てきた。相手の動きを待つ間の静けさも知っている。けれど、目の前の男の視線は、稽古のときのものとは違う。足をどこへ出しても、追ってこられる気がした。


 紗季は両手を少し開いた。左の手のひらがひりつく。


「何も、持ってません」


 薙刀部でも剣術道場でも、こんなときに何を言えばよいかは教わっていない。


 雲が流れ、顔に日が当たる。


 男の目が見開かれた。


「……姫様?」


 後ろの荷担ぎが、紗季の顔を見て口を開ける。肩から滑りそうになった縄を、慌てて引き上げた。


「弥七。荷を下ろせ」

「けんど、作兵衛様」

「よいから下ろせ」


 作兵衛と呼ばれた男は、刀から手を離した。近づこうとして一歩を踏み出し、そこでためらう。その間に紗季は後ろへ下がった。


 知らない人についていってはいけない。


 小学生のころから言われてきたことが頭をよぎる。なのに今は、この人たち以外に誰も見えない。


「帰蝶様で、ございますか」


 聞き覚えのある名前なのに、自分へ向けられたとは思えなかった。


「違います。あの、人を探してて。先生か、友達を」


「お怪我を」


 男の目が手のひらへ落ちる。紗季は傷を隠すように指を曲げた。


「これくらい、大丈夫です。道に戻りたいだけなので」


「お館まで、おいでください」


 その言葉に、紗季は坂の向こうを見た。


 枝葉の切れたところから、遠い川が光っている。曲がり方には見覚えがあった。城へ上がる前、写真を撮った長良川だと思う。けれど、その手前にあるはずの橋が見えない。白や灰色の建物が詰まっていた場所には低い屋根がまばらに続き、その間を、土の色をした道が通っていた。


 ビルが一本もない。


 川を間違えているのだろうか。それなら、山まで変わってしまったことになる。


「ここ、岐阜城ですよね」


 作兵衛は答えず、紗季の顔を見つめた。


「この山のお城です。名前、分かりますか」

「稲葉山の城にございます」


 紗季は、幹をつかんでいた右手に力を入れた。


 岐阜城が昔そう呼ばれていたのは知っている。織田信長が入る前。斎藤道三や、その一族がいたころ。


 そこまで考え、打ち消そうとした。


 そんなこと、あるわけがない。


 作兵衛の衣の肩に、何度も針を通した跡が見える。足もとの草鞋から出た指には、乾いた泥がこびりついている。作り物かどうかを見破るための目印を探していたのに、目を凝らすほど、二人は山で仕事をしている人にしか見えなくなった。


 手の中の樹皮が砕ける。これも夢なら、なぜこんな細かい手触りまであるのだろう。


「どちらから、おいでに」


 答えかけた紗季は、作兵衛が自分の背負った物を見ていることに気づいた。服にも、靴にも、その目は向けられる。


 学校、遠足、スマートフォン。ひとつでも通じる言葉があるだろうか。もし、本当に自分の思っているような場所なら。


「分かりません。気がついたら、あそこにいて」


 さっきの斜面を指した。今は、それ以上言う勇気が出ない。


 作兵衛は弥七を振り返った。


「先に下りよ。槙殿に、裏の口へ来ていただけと。ほかの者には申すな」


 弥七は紗季をもう一度見てから、身軽に坂を下りていく。残された荷のそばで、作兵衛が道の下手へ身をよけた。


「足もとは悪うございます。急がずとも」


 命じる声から、気遣う声へ変わっていた。それがかえって怖かった。帰蝶という人を待っているのだとしたら、間違いに気づいたらどうなるのだろう。


 紗季は振り返り、落ちた場所を探した。二股に分かれた幹と、その根元の白い石を目で覚える。帰るなら、まずここへ戻らなければならない。


「友達が来たら、私を探してたら、ここにいたって伝えてください」


 作兵衛は少し間を置いて、承知しました、と答えた。


 それを聞いてから、紗季はようやく足を踏み出した。


 山道では作兵衛が先を歩いた。踏むと動く石があれば足で脇へ払い、急なところでは振り返って待つ。紗季が滑りそうになると腕を出したが、触れる直前に引っ込めた。


 紗季も、その腕へ頼ることはできなかった。体の向きを変え、木の根に足を置いて坂を下りる。道場で姿勢を直されるたびにうんざりしていたけれど、足の裏のどこに重さをかけるかを考えている間は、ほかのことを考えずに済んだ。


 それでも歩き続けるうちに、後ろから千尋の声が聞こえたような気がした。振り向いても、風で葉が揺れているだけだった。


 山を下りきるころには、喉がからからになっていた。


 建物の間から煙が上がり、どこかで木を打つ音がする。道を横切ろうとした女が紗季を見ると、脇の籠を引き寄せ、通り過ぎるまで顔を上げなかった。ジャージが珍しいのか、それとも、別のものを見ているのか。紗季には確かめられない。


 作兵衛は人の多い道を避け、板塀に沿った細い通りへ入った。先に小さな門が開いている。待っていた弥七が何かを囁くと、作兵衛は短くうなずき、紗季を中へ促した。


 門の内側は踏み固めた土の庭だった。右手に低い建物があり、戸口では袖をたすきで留めた女が水桶を持っている。左には石を据えた浅い溝が延び、その向こうを木の廊下が折れて奥へ続いていた。


 水桶の女が動きを止めたため、水面だけが揺れた。作兵衛が目配せすると、女は戸口の陰へ下がる。


 紗季は門の方を振り返った。そこを出れば山へ戻れる。その位置だけは、覚えておこうと思った。


「こちらへ」


 廊下の曲がり角から声がした。


 出てきた女は母より年上に見えた。髪を後ろにまとめ、鈍い藍色の小袖に、細い帯を締めている。作兵衛に何か尋ねようとした口が、紗季を見たまま閉じなくなった。


 ほかの人たちと同じ反応だ。


 紗季はリュックの肩紐を握りしめた。


 女が廊下を下りてくる。足袋のまま土へ踏み出しかけ、作兵衛が足もとの履物を寄せた。女はそれにも気づかない様子で、紗季の前に膝をついた。


「……お顔を」


 紗季が逃げ腰になると、女の手は途中で止まった。


「どうか、お顔を、よう見せてくださいませ」


 目の縁が赤くなっている。紗季の頬から額へ視線を移し、髪に挟まった葉をそっと取り除いた。その指が震えていたので、紗季は動けなくなった。


「槙が、お分かりになりませぬか」


 首を横に振ると、女の眉がわずかに寄った。怒らせたのかと思ったが、違った。槙という女は何かをこらえるように唇を引き結び、紗季の左手を取った。


「まず、お手を洗いましょう。砂が入っております」


 水を、と背後へ言う声は、それまでよりしっかりしていた。水桶を持っていた女が、今度は小さな盥と布を運んでくる。作兵衛は二人から離れ、門のそばに立った。


 誰も紗季に名前を尋ねない。


「あの。私、人違いだと思います」


 槙の手が止まる。


「帰蝶様っていう人じゃ、ないです」


 言い終えると、庭がひどく静かになった。盥を置こうとしていた女の腕まで止まっている。


 槙は紗季の目を見たまま、しばらく何も言わなかった。それから、握っていた手を両手で包み直す。


「お寒うございましょう。中へお入りください」


 違うと、もう一度言わなければならない。


 けれど口を開く前に、左手へ温かなものが落ちた。槙の涙だった。


 紗季には、その手を振りほどくことができなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。