一話 友達の声が届く所
「ねえ、三組の莉央、宮原先輩と付き合ってるんだって」
石段を上りきったところで、野々村美羽が声をひそめた。ひそめたつもりでも、その声は後ろから来る紗季に十分届く。
「あの先輩、ほかにも何人か彼女いるって聞いたけど」
相沢千尋は遠足のしおりを二つに折り、首もとの汗をあおいでいた。さらりと言うものだから、美羽が勢いよく振り返る。
「何人かって、二人とか?」
「そこは知らない。噂だし。莉央には言わないでよ」
「ええ、気になるじゃん」
二人に追いつき、紗季はリュックの肩紐を掛け直した。新緑の間から見える岐阜城は、下で見上げたときよりずっと白い。屋根の端が青空へ反り、日の当たらない軒裏には、細い木組みの影が重なっている。
あの窓からなら長良川がよく見えそうだ。しおりにある見学の問いを先に確かめようとすると、美羽が顔をのぞきこんできた。
「紗季ならどうする? 付き合ってから、ほかにも彼女いるって分かったら」
「やだ。別れる」
「即答」
「だってさ。私は、やっぱり高橋紹運みたいな人がいい」
「出た! 歴史オタ!」
美羽が待っていましたとばかりに両手を広げ、千尋も笑う。
「岐阜城まで来て、またその人?」
「場所は関係ないでしょ。側室作らなくて、奥さん一筋だったらしいし。かっこよくない?」
「その、そくしつっていうの、今なら作らないのが普通だから」
「昔の話だってば」
武将の話をするときは、いつもここから説明しなければならない。ただ、二人が笑うのは嫌ではなかった。先月、好きな男子の名前をしつこく聞かれて紹運と答えて以来、美羽は名前だけなら覚えてくれたし、千尋は図書室で戦国の本を見かけると取っておいてくれる。
「それに、息子なんて、あの立花宗茂よ? すごくない?」
「知らんし」
「千尋、早い。もうちょっと聞いて。雷神の義理の息子にもなるんだよ」
「人間の話してる?」
「してる。雷神って呼ばれてる道雪の娘と結婚して、養子にもなるの」
「じゃあ紗季、付き合う前に息子の進路まで決めるんだ」
美羽の言い方がおかしくて、紗季も吹き出した。
「そうじゃなくて。自分が大事にするって決めた人を、ちゃんと大事にできる人がいいの」
千尋が、ふうん、と少しだけ真面目な声を出す。照れくさくなって、紗季は城の方へ顔を向けた。
山を渡る風が、枝先の若葉を裏返していく。少し離れた曲がり角では、担任が生徒を数えていた。美羽は売店に寄る時間を気にし、千尋はしおりの集合時刻を指でなぞる。そろそろ行こう、と言いかけた紗季の靴の下で、石の色が消えた。
木の影ではなかった。
右足の周りだけが、墨を落としたように黒い。黒さは左足へ広がり、石の継ぎ目も、小さな砂粒も、まとめて覆ってしまう。
「紗季、足――」
千尋が腕を伸ばす。
その指に触れる前に、地面が抜けた。
体が沈む。かかとを置く場所がない。とっさに突き出した手が何かをかすめ、美羽の爪の薄桃色が目の前で跳ねた。
「紗季!」
名前を呼ぶ声が、急に遠くなる。
空まで細くなっていくのを見上げながら、紗季は息を吸おうとした。けれど胸が詰まり、声も出ない。背中のリュックに引かれ、暗闇の中で体が横を向く。
次の瞬間、肩と腰に衝撃が走った。
斜面を滑りかけ、両手で地面を押さえる。指の間に枯れ葉が入り、爪が土を引っかいた。頭のすぐ横でリュックの水筒が鈍く鳴る。
しばらくは、その音の余韻だけが耳に残った。
息を吐くと、ようやく次の息を吸えた。土の匂いがする。鼻の奥に痛みを感じ、紗季は頬についた葉を払った。
「……美羽?」
返事がない。
「千尋。いる?」
木々の上で鳥が鳴いた。見上げても穴はなく、枝の隙間に薄い雲が浮かんでいる。さっきまでの眩しい青空とは、光の色が違っていた。
転げ落ちたのだろうか。道の脇に穴があったのかもしれない。そう考えて斜面の上を探したが、手すりも石段も見当たらない。
膝を曲げると右の腰が痛む。それでも立てることにほっとして、幹に手をついた。紺のジャージの膝は土で白く汚れ、左の手のひらには細い擦り傷がある。骨が折れたような痛みではない。
大丈夫、と口にしてみた。
声が思ったより弱く、それを聞いた途端、もう一度二人を呼びたくなる。
まず連絡。リュックの脇のポケットに手を入れた。遠足中は出さない約束だったスマートフォンを、今だけは先生も怒らないはずだ。
画面の隅には圏外の文字が出ていた。
母とのやり取りを開く。朝、駅へ着いてから送った「いってきます」の下に、母からの「楽しんでおいで」が残っている。紗季は、落ちた、けがはひどくない、と打ちかけて消した。これでは母が驚く。
『道に迷った。先生と連絡取って』
送信を押しても、文字の横の小さな印が動くだけだった。
山だから電波が悪い。人のいる方へ行けばいい。
スマートフォンをポケットへ戻し、紗季は木々の間を見渡した。少し下に、草の生えていない細い道がある。枝を握ってそちらへ降りると、坂の先に人の姿が見えた。
「すみません!」
二人いた。肩に荷を担いでいた男が足を止め、その前を歩く男も振り向く。
近寄りかけて、紗季の足は鈍った。
二人とも着物姿で、足には草鞋を履いている。先を行く若い男は、腰に刀を差していた。時代劇の催しだろうか。岐阜城ならそういうこともあるかもしれないが、道端に案内の旗も、見物の人もいない。
「学校の人たち、見ませんでしたか。私と同じ服の――」
「動くな」
若い男が荷担ぎを背にかばう。低い声に、紗季は口を閉じた。
男の手が刀の柄に置かれている。
夕方の道場で、先生が木刀を構えるところなら何度も見てきた。相手の動きを待つ間の静けさも知っている。けれど、目の前の男の視線は、稽古のときのものとは違う。足をどこへ出しても、追ってこられる気がした。
紗季は両手を少し開いた。左の手のひらがひりつく。
「何も、持ってません」
薙刀部でも剣術道場でも、こんなときに何を言えばよいかは教わっていない。
雲が流れ、顔に日が当たる。
男の目が見開かれた。
「……姫様?」
後ろの荷担ぎが、紗季の顔を見て口を開ける。肩から滑りそうになった縄を、慌てて引き上げた。
「弥七。荷を下ろせ」
「けんど、作兵衛様」
「よいから下ろせ」
作兵衛と呼ばれた男は、刀から手を離した。近づこうとして一歩を踏み出し、そこでためらう。その間に紗季は後ろへ下がった。
知らない人についていってはいけない。
小学生のころから言われてきたことが頭をよぎる。なのに今は、この人たち以外に誰も見えない。
「帰蝶様で、ございますか」
聞き覚えのある名前なのに、自分へ向けられたとは思えなかった。
「違います。あの、人を探してて。先生か、友達を」
「お怪我を」
男の目が手のひらへ落ちる。紗季は傷を隠すように指を曲げた。
「これくらい、大丈夫です。道に戻りたいだけなので」
「お館まで、おいでください」
その言葉に、紗季は坂の向こうを見た。
枝葉の切れたところから、遠い川が光っている。曲がり方には見覚えがあった。城へ上がる前、写真を撮った長良川だと思う。けれど、その手前にあるはずの橋が見えない。白や灰色の建物が詰まっていた場所には低い屋根がまばらに続き、その間を、土の色をした道が通っていた。
ビルが一本もない。
川を間違えているのだろうか。それなら、山まで変わってしまったことになる。
「ここ、岐阜城ですよね」
作兵衛は答えず、紗季の顔を見つめた。
「この山のお城です。名前、分かりますか」
「稲葉山の城にございます」
紗季は、幹をつかんでいた右手に力を入れた。
岐阜城が昔そう呼ばれていたのは知っている。織田信長が入る前。斎藤道三や、その一族がいたころ。
そこまで考え、打ち消そうとした。
そんなこと、あるわけがない。
作兵衛の衣の肩に、何度も針を通した跡が見える。足もとの草鞋から出た指には、乾いた泥がこびりついている。作り物かどうかを見破るための目印を探していたのに、目を凝らすほど、二人は山で仕事をしている人にしか見えなくなった。
手の中の樹皮が砕ける。これも夢なら、なぜこんな細かい手触りまであるのだろう。
「どちらから、おいでに」
答えかけた紗季は、作兵衛が自分の背負った物を見ていることに気づいた。服にも、靴にも、その目は向けられる。
学校、遠足、スマートフォン。ひとつでも通じる言葉があるだろうか。もし、本当に自分の思っているような場所なら。
「分かりません。気がついたら、あそこにいて」
さっきの斜面を指した。今は、それ以上言う勇気が出ない。
作兵衛は弥七を振り返った。
「先に下りよ。槙殿に、裏の口へ来ていただけと。ほかの者には申すな」
弥七は紗季をもう一度見てから、身軽に坂を下りていく。残された荷のそばで、作兵衛が道の下手へ身をよけた。
「足もとは悪うございます。急がずとも」
命じる声から、気遣う声へ変わっていた。それがかえって怖かった。帰蝶という人を待っているのだとしたら、間違いに気づいたらどうなるのだろう。
紗季は振り返り、落ちた場所を探した。二股に分かれた幹と、その根元の白い石を目で覚える。帰るなら、まずここへ戻らなければならない。
「友達が来たら、私を探してたら、ここにいたって伝えてください」
作兵衛は少し間を置いて、承知しました、と答えた。
それを聞いてから、紗季はようやく足を踏み出した。
山道では作兵衛が先を歩いた。踏むと動く石があれば足で脇へ払い、急なところでは振り返って待つ。紗季が滑りそうになると腕を出したが、触れる直前に引っ込めた。
紗季も、その腕へ頼ることはできなかった。体の向きを変え、木の根に足を置いて坂を下りる。道場で姿勢を直されるたびにうんざりしていたけれど、足の裏のどこに重さをかけるかを考えている間は、ほかのことを考えずに済んだ。
それでも歩き続けるうちに、後ろから千尋の声が聞こえたような気がした。振り向いても、風で葉が揺れているだけだった。
山を下りきるころには、喉がからからになっていた。
建物の間から煙が上がり、どこかで木を打つ音がする。道を横切ろうとした女が紗季を見ると、脇の籠を引き寄せ、通り過ぎるまで顔を上げなかった。ジャージが珍しいのか、それとも、別のものを見ているのか。紗季には確かめられない。
作兵衛は人の多い道を避け、板塀に沿った細い通りへ入った。先に小さな門が開いている。待っていた弥七が何かを囁くと、作兵衛は短くうなずき、紗季を中へ促した。
門の内側は踏み固めた土の庭だった。右手に低い建物があり、戸口では袖をたすきで留めた女が水桶を持っている。左には石を据えた浅い溝が延び、その向こうを木の廊下が折れて奥へ続いていた。
水桶の女が動きを止めたため、水面だけが揺れた。作兵衛が目配せすると、女は戸口の陰へ下がる。
紗季は門の方を振り返った。そこを出れば山へ戻れる。その位置だけは、覚えておこうと思った。
「こちらへ」
廊下の曲がり角から声がした。
出てきた女は母より年上に見えた。髪を後ろにまとめ、鈍い藍色の小袖に、細い帯を締めている。作兵衛に何か尋ねようとした口が、紗季を見たまま閉じなくなった。
ほかの人たちと同じ反応だ。
紗季はリュックの肩紐を握りしめた。
女が廊下を下りてくる。足袋のまま土へ踏み出しかけ、作兵衛が足もとの履物を寄せた。女はそれにも気づかない様子で、紗季の前に膝をついた。
「……お顔を」
紗季が逃げ腰になると、女の手は途中で止まった。
「どうか、お顔を、よう見せてくださいませ」
目の縁が赤くなっている。紗季の頬から額へ視線を移し、髪に挟まった葉をそっと取り除いた。その指が震えていたので、紗季は動けなくなった。
「槙が、お分かりになりませぬか」
首を横に振ると、女の眉がわずかに寄った。怒らせたのかと思ったが、違った。槙という女は何かをこらえるように唇を引き結び、紗季の左手を取った。
「まず、お手を洗いましょう。砂が入っております」
水を、と背後へ言う声は、それまでよりしっかりしていた。水桶を持っていた女が、今度は小さな盥と布を運んでくる。作兵衛は二人から離れ、門のそばに立った。
誰も紗季に名前を尋ねない。
「あの。私、人違いだと思います」
槙の手が止まる。
「帰蝶様っていう人じゃ、ないです」
言い終えると、庭がひどく静かになった。盥を置こうとしていた女の腕まで止まっている。
槙は紗季の目を見たまま、しばらく何も言わなかった。それから、握っていた手を両手で包み直す。
「お寒うございましょう。中へお入りください」
違うと、もう一度言わなければならない。
けれど口を開く前に、左手へ温かなものが落ちた。槙の涙だった。
紗季には、その手を振りほどくことができなかった。




