五十五話 二通の文
清須の部屋で、紗季は香炉の蓋を持ち上げかけていた。
冬になってからは、庭に面した戸を開けておける時が短い。締め切る前に、少しだけ香りを聞こうと思ったところへ、佐和が戻ってきた。
「作兵衛殿がお見えにございます」
蓋を取り落とさぬよう、両手で置く。
「父上のお使い?」
「はい。すでに表では、お話をなさったとのことです」
紗季は袖を直し、立ち上がった。父の返事だろうか。兄からの便りを預かっているかもしれない。
廊下へ出ると、佐和がいつもより半歩近くについてくる。尋ねたいことは幾つもあるのに、口にするのがためらわれた。
奥と表の間にある座敷へ入ると、作兵衛は庭に近い下手で待っていた。旅の着物の膝に、乾いた泥が残っている。
紗季が座るのを待ち、男は両手をついた。
「姫様。孫四郎様と、喜平次様が、お亡くなりになりました」
次の言葉を待った。
どちらが病だったのか。それとも、二人でどこかへ出たのか。
「新九郎様の御命令で、討たれたとのことでございます」
紗季は顔を上げた。
「兄上が?」
「はい」
「どうして」
作兵衛は、すぐには答えなかった。その間に、隣で佐和が膝を動かす音がする。
「お二方は、お見舞いに参られたと聞いております。私がその場におったわけではございませぬ。御隠居様へ届いた知らせを、申し上げております」
「父上は」
「お二方を討った理由を、新九郎様御自身の口から聞くと仰せです。姫様にも、お知らせするよう命じられました」
それは、いつのことかと尋ねた。作兵衛が日を答える。
ほんの数日前だった。
清須で朝の膳を食べ、信長と何でもない話をしていた頃、美濃では二人が殺されていた。
「間違いでは、ないのね」
聞き直すのは作兵衛を困らせるだけと分かっている。男がもう一度頭を下げるのを見て、紗季は、そう、と言った。
それ以上、声が続かなかった。
佐和が湯を勧めたが、作兵衛は膝元の椀へ手を伸ばさない。紗季が何かを尋ねるかぎり、答えるつもりで座っているらしかった。
「父上と兄上は、会えるのかしら」
「今は、何とも」
できぬとは言わず、できるとも請け合わない。その返事を聞き、ようやく、この人にも分からないのだと思った。
「文を書きます。二人に」
作兵衛が目を上げる。
「父上にも、兄上にも。少し、待っていてもらえる?」
「承知いたしました」
紗季は立とうとして、膝に置いていた手をつき直した。佐和の差し出した腕に触れ、今度はゆっくり腰を上げる。
部屋へ戻る廊下で、庭を掃く女が身を引いた。
その向こうには、まだ掃かれていない落葉がある。風が吹けば、今寄せた分まで散ってしまう。それでも女は、紗季が通り過ぎると竹箒を持ち直した。
部屋には、開けなかった香の包みが残っていた。
*
その頃、鷺山の利政は、稲葉山へ遣わした使いの帰りを待っていた。
座敷の戸を一枚開けさせてある。人の足音が近づくたびに、入口を見た。寒うございます、と家臣に言われても閉めさせなかった。
昨夜、口上を繰り返させた。
孫四郎、喜平次を討った次第を、自ら参って申せ。
なぜそう命じたのか。誰の訴えを聞いたのか。二人の言葉を聞いた上で討ったのか。
使いへ託す問いは、途中でやめた。新九郎に直接尋ねればよい。
待つうちに、男が庭へ入ってきた。
利政は、供に別の者がいないかと、その後ろを見る。
「新九郎は」
「お目には掛かれませなんだ」
使いの膝へ、利政の目が戻った。
「病か」
「奥へは通されず、取次ぎの者に仰せを伝えました。御返事は、預かっておりませぬ」
利政は座り直した。隠居しても、自分の名を告げた使いが、返事を得ずに帰ることなどなかった。今はその名を告げても、息子には会えぬという。
「もう一度参れ」
男が畏まる。
「来て、話せと申せ。文の返事をよこせとは言うておらぬ。わしの前で申せと」
言い終えると、家臣の一人が口を開きかけた。
利政はその顔を見た。兵を備えることを言いたいのか。息子を怒らせぬよう、言葉を和らげよというのか。
「何じゃ」
「こちらの門も、堅めておくべきかと存じます」
新九郎が来るのを待つ門を、閉ざすのか。
利政は開いた戸の先を見た。使いの草履から落ちた土が、縁の下に残っている。
「見張りを増やせ。人を入れる前に、誰の使いか確かめよ」
家臣が頭を下げる。
利政は、息子ならば通せ、と言い足そうとした。だが、使いに返事もよこさぬ相手を、息子だからと迎えてよいのか。
家臣の前で迷いを口にするのはやめ、命じた口上も変えなかった。
再び発つ使いを見送り、今度は戸を閉めさせた。
*
紗季は、清須の机に二枚の紙を並べた。
父上様、と一枚に記す。もう一枚には、兄上様。
その先が続かない。
どうして弟たちを殺したのですか。
兄にまず尋ねたいのは、それだった。理由を聞けば、納得できるとは思えない。けれど、恐ろしいことをした兄を、恐ろしい人だと決めて文を書けば、その先には何も届かなくなる気がした。
夏に送った便りを思い出す。佐和と廊下で迷ったことを書いた。兄が笑ってくれるところまで想像したのに、その返事を待つ間に、何があったのだろう。
筆を硯の脇へ置き、父宛ての紙を手前に寄せた。
孫四郎、喜平次のこと、作兵衛より承りました。
いまだ信じられず、何を申し上げればよいのか分かりませぬ。
書いてから、紗季は長く紙を見ていた。
二人は、もう帰ってこない。
父は、そのことを自分よりずっと近くで受け止めている。遠くにいる娘が、どうか怒らないで、と言えることではない。
それでも、父が兄を討てば、もう一人失う。
父上が兄上を討たれることだけは、どうかお思いとどまりくださいませ。
まず兄上のお言葉を、お聞きいただけませぬか。
私は父上にも、兄上にも、生きていていただきとうございます。
筆先が紙を離れた。
父と兄が戦う。その先に何があるか、紗季は教科書にあった短い記述を思い出そうとし、やめた。そこに書かれた父は、今この文を届けたい父ではない。年と出来事を思い出しても、止める言葉は見つからなかった。
帰蝶、と署名する。
続いて兄宛てを取った。
お二人のことを聞き、悲しくてなりませぬ。
兄上が何をお考えになったのか、私には分かりませぬ。
父上と、お話しいただけませぬか。
いったん止め、筆に墨を含ませる。
私にお話しくださることがあれば、お返事をお待ちしております。
これ以上、身内が互いに刃を向けることのないよう、お願い申し上げます。
どうか、御身をおいといくださいませ。
こちらにも帰蝶と記した。
夏の便りと同じ願いが、今は違うものに見える。兄の身を案じることが、二人の弟を忘れることになるのだろうか。
紗季は文を裏返さず、墨が乾くのを待った。
佐和が戸口から声を掛ける。
「殿がお越しにございます」
紗季が振り向くより先に、信長が部屋へ入ってきた。庭の戸を見てから、机の二枚へ目を移す。
「作兵衛から聞いたか」
「はい」
「何と書いた」
紗季は二通を寄せ、自分の手で差し出した。
夫は座って読み、父宛てを先に戻した。兄宛てまで読み終えても、すぐには口を開かない。
「父上は、兄上を呼んでおられるそうです」
「呼べば参るか」
「……分かりませぬ」
信長は紙を机へ置く。
「兄の方も、父が話を聞くだけで済ませるとは思わぬであろう」
紗季は兄宛ての文へ目を落とした。ただ話してほしいと書くことが、兄には、父の前へ出て裁かれよと聞こえるのかもしれない。
ならば何と書けばよい。
二枚の紙の間で、手が止まる。
「それでも、出したいのです」
信長を見た。
「黙って待つことは、できませぬ。清十郎様に届けていただきたいと存じます」
「なぜ、あの者じゃ」
「父上も御存じの者です。兄上にも、私の使いだと分かっていただけます。それに……届いたかどうかも分からぬまま待つより、直接、お願いしたいのです」
「作兵衛と行かせる。一人では出さぬ」
紗季は頷いた。すぐにも礼を言おうとして、夫の言葉の続きを待つ。
「道中の刀は貸し与える。こちらへ戻れば返させよ。先方で利政の用に留め置かれるなら、作兵衛を返して知らせさせる」
「ありがとうございます」
「文を渡せば済むとは限らぬ。返事を待たされることもあろう」
信長は、机へ置いた紙を指で押さえた。
「お濃。届いても、そなたの願う返事が来るとは限らぬぞ」
その言葉から顔を背けたくなった。
届けさえすれば、父も兄も考え直してくれる。そう思いたくて、二通を書いたのかもしれない。
「はい」
答えると、信長は手を離した。乾いた紙は、押さえた所だけわずかに平らになっている。
紗季はそれぞれを畳み、宛名を違えぬよう、別々の上包みに収めた。
*
翌朝、清十郎は清須の表で、鞘に収まった刀を受け取った。
柄へ触れる前に、渡した家臣の顔を見る。
「道中のために貸すとの仰せじゃ。勝手に抜くな」
「承知いたしました」
刀を帯へ差すと、しばらく忘れていた重みが腰へ戻った。鞘尻がどこへ来るか確かめ、袖の掛かりを直す。
作兵衛は先に旅支度を整え、庭の端で待っていた。
そこへ佐和が来て、二人を廊下の脇まで呼ぶ。紗季は部屋から出た所にいた。清十郎は敷居を越えず、庭へ膝をついた。
「清十郎様。二通ございます」
差し出された包みを、両手で受ける。
「兄上に先にお渡しください。争わず、お話ししてほしいと書きました。父上への文も、同じ願いです」
「必ず、お手渡しいたします」
言いながら、必ずという言葉を選んだ自分を意識した。今の美濃で、どちらの前にも通されるとは限らない。それでも、取り次いだ者に預けて戻るつもりはなかった。
紗季は、父宛ての上包みへ一度だけ指を添えた。
「お二人が、何と仰ったか……帰ったら、聞かせてください」
「はい」
作兵衛が脇で頭を下げる。清十郎は二通を懐へ納め、紙の角が折れぬよう着物を直した。
出立の時刻を知らせる声がする。
顔を上げると、紗季はまだこちらを見ていた。声を掛ける代わりに、清十郎は深く一礼し、立った。
門を出てから、作兵衛が歩幅を揃える。
「寒うなるぞ。日暮れまでに、泊まれる所へ入る」
清十郎は頷いた。
刀を帯びる日が来るなら、もっと嬉しいものと思っていた。今は歩くたびに鞘の位置を気にし、その上にある二通へ手をやりそうになる。
道のくぼみを避け、畦の脇で荷の列を待つ。人とすれ違う時には、作兵衛が先に道の様子を尋ねた。美濃で何が起こったか、こちらから語ることはしない。
その夜、泊まった家の隅で、清十郎は懐から二通を出した。
開けずに端を確かめ、乾いた所へ置く。火の近くへ寄せようとして、火の粉が飛ぶのを見てやめた。
「着けば、帰るのであろう」
作兵衛が、小さな声で言った。
「御返事を頂いてからです」
清十郎は答えた。紗季が最後に頼んだことを、置いて帰るわけにはいかない。
作兵衛はそれ以上言わず、明日の道を宿の者に尋ねに行った。
清十郎は横になり、刀を自分の側へ置いた。借りた刀の鞘に、明かりが細く映っている。
それを見ていた目を閉じた。
*
稲葉山の新九郎は、鷺山の使いを、二度目も奥へ入れなかった。
来て、自ら申せ。
取次ぎの者は、父の口上をそのまま伝えているのだろう。新九郎には、父が目の前で命じたように聞こえた。
「待たせておけ」
返事を持たぬ者が下がる。
父の所へ行けば、なぜ討ったと問われる。二人を立てるおつもりではなかったか、と答えたら、父は何と言うだろう。
誰から聞いた。わしが命じたと、誰が申した。
弟たちはもう答えられず、父の前に残るのは、二人を殺した自分だけだった。
門をくぐった後に、帰してもらえるとは思えない。
新九郎は、次に会う者を通せと命じた。
待っていた国衆の一人が、膝を進める。秋に廃嫡の噂を尋ねてきた男ではない。家から兵を出すよう求められ、まず、何のためかを確かめに来た者だった。
「御隠居様からも、人を出せと申し越してまいりました」
新九郎は顔を動かさなかった。
「そなたは、何と答えた」
「まだ、お返事はいたしておりませぬ。先に、殿の御意を伺いたく」
男は言い、その後で膝の上の手を解いた。
「村より出せる者には、限りがございます。同じ家から半分ずつ、御父子のもとへ遣わすわけにはまいりませぬ」
新九郎にも、それは分かる。人を分ければ、同じ村の者が向かい合うことになる。
ならば父へ断れと言うか。断った家を、自分が守ると言い切れるか。
「事ここに至っては、御隠居様を攻めるほか、ございませぬ」
男の声が低くなる。
「御下知が二つあれば、我らは動けませぬ。どちらの御命令にも背かぬつもりでおれば、どちらからも背いたと言われましょう」
新九郎は男の袖を見た。畳へ置いた手の先まで、袖口がずれている。ここで父の方へ付くと言えば、自分に討たれると思っているのか。
この男も、忠節を申し立てるためだけに参ったのではあるまい。
そのことを分かってやるだけでは、もう家は治まらなかった。
「そなたの家からは、わしのもとへ出せ」
新九郎は言った。
「ほかの家にも伝える。鷺山へ兵を集めさせるな。道を見張れ。こちらの支度を急がせよ」
男が深く頭を下げる。
命じた後、父へ一度だけ使いを出そうかと思った。呼び出しには応じぬが、こちらにも話はあると。
だが、その文を書いている間に、今ここで命じた言葉も家々へ伝わっていく。
新九郎は男を下がらせ、近習を呼んだ。
二日後、清須から帰蝶の使いが着いたとの知らせを受けた。
「作兵衛か」
「作兵衛殿と、篠原清十郎と申す者にございます」
名には覚えがあった。妹の傍へ付けられ、尾張へ渡った男である。
新九郎は二人を通させた。
清十郎が手にした上包みを見て、妹が知らせを受けたことを知る。今になって、書かずにいた夏の返事が気に掛かった。
「帰蝶は、何と」
「お文を、お預かりしております」
男はそれ以上、言葉を添えなかった。
新九郎は紙を受け取り、広げる。兄上様、とある。
清須へ移った時の便りより、筆の運びが硬い。その筆で、弟二人の死を悲しんでいた。
父上と、お話しいただけませぬか。
新九郎は、その行をもう一度読んだ。
妹は父に会えと言う。
自分がなぜ会えぬか、帰蝶にも分かっていない。いや、離れている妹に、分かるはずがないのかもしれなかった。
返事を待つ、とも書いてある。
あの二人を討ったのは、そなたの兄じゃ。父に家督を取り上げられるのを恐れた。今は、父の門へ入るのが恐ろしい。
それを、妹へ書けるか。
新九郎は文を畳んだ。
「返事は、今は書けぬ」
清十郎が、わずかに顔を上げる。
「読んだとは伝えよ」
「父上様とのお話し合いにつきましては」
新九郎は男を見た。使いは両手を膝へ戻し、それ以上進もうとはしない。
帰蝶が尋ねよと頼んだのか、この男が聞こうとしているのか。
「帰蝶が案じておることは、分かった。そう申せ」
それなら、嘘にはならなかった。
二人を下がらせると、新九郎は文を懐へ入れた。箱へしまうために立つ気になれず、そのまま次の者を呼ぶ。
父が返事を待っているのも、妹が待つのも、知っていた。
先に兵を集めるよう命じたのは、自分だった。
*
清十郎は稲葉山の居所を出ると、案内の男の後ろへ付いた。
来る時には空いていた庭に、今は荷を背負う者がいる。通路の端で縄を締め直し、呼ばれるたびに立つ。
作兵衛が道を空け、清十郎も柱の脇へ身を寄せた。
馬を引く男が通り過ぎる。草履を履こうと屈んだ時、向こうの者が声を張った。
「鷺山へ通じる道じゃ。荷も人も見落とすな。御隠居のもとへ入る者は、引き留めて確かめよ」
清十郎は立ち上がった。
続いて、槍を運ぶ者に、鷺山へ向かう備えを急げ、と別の声が掛かる。
案内の男は振り返らない。清十郎も問い掛けず、門を出るまでは同じ歩幅を保った。
外へ出てから、作兵衛の袖に触れる。
「聞かれましたか」
「急ぐぞ」
二人は町の道を折れた。清十郎は、兄宛てを渡し終えた懐の、残る一通を押さえる。
父子の話し合いを待つための備えには、思えなかった。
どこまで命令が出ているか、いつ動くかまでは聞けなかった。だからこそ、今聞いた言葉のまま伝えねばならなかった。
行く手で止められると、作兵衛が利政への使いだと名乗った。男は二人の顔を確かめ、帰蝶からの文を届けると聞くと、しばらく迷って道を空ける。
作兵衛は礼を言い、清十郎を先に通した。
鷺山へ着いた時には、清十郎の足袋の先が湿っていた。門には見張りが増え、誰何の声が重なる。
ここでも待たされるかと思ったが、作兵衛の姿を認めた者が奥へ走った。
通された座敷で、利政は膝を立てて待っていた。
「新九郎の所へ参ったか」
「はい。帰蝶様より、お二方へお文を預かってまいりました。こちらを」
清十郎は残る一通を差し出す。
利政が包みを開くのを待ち、口を開いた。
「稲葉山を出る折、鷺山へ通じる道を見張れとの指図を聞きました。御隠居様へ入る者を引き留めよと。槍を運ぶ者にも、こちらへ向かう支度を急げとの声が掛かっております」
利政が紙から目を上げる。
「誰が申しておった」
「名は存じませぬ。新九郎様より直接伺った命ではございません」
作兵衛も、同じ言葉を聞いたと申し添えた。
利政は脇の家臣を呼び、道へ出した者を戻して話を聞くよう命じる。別の家臣が、先に戻っていた使いからも、人の集まる様子は聞いていると答えた。
清十郎は、そのやり取りが済むまで頭を下げていた。
利政が文を読み進める。
紙の端をつまみ直した時、指が止まった。
「……わしにも、生きておれと申すか」
清十郎は顔を上げた。
利政は独り言のように言い、すぐ、もう一度文へ目を戻す。紗季が選んだ言葉の一つ一つを、清十郎は知らない。ただ、預かった二通の片方が、今、この人の手に届いていた。
「新九郎は、帰蝶に何と答えた」
「お読みになったこと、案じておられるのは分かったと伝えよとの仰せです。今は御返事をお書きになれぬと」
利政は文を膝へ置いた。
「わしには、何もよこさぬ」
清十郎は答えられなかった。
父の呼び出しにどう答えたかは、兄の口から聞いていない。推し量って言葉を足せば、今届けたものまで違ってしまう。
利政は二つ折りにした文を、膝の脇へ置く。家臣へ合図して下がらせ、作兵衛には戸口に残るよう告げた。
「清十郎。帰れ」
はっ、と言いかけた声を、清十郎は呑んだ。
「帰蝶の元へ戻れ。あれを頼む」
紗季は、帰ったら聞かせてほしいと言った。
今戻れば、兄にも父にも手渡したと伝えられる。二人がどのように文を読んだか、自分の見たことなら話せる。
それが、引き受けてきた務めだった。
清十郎は畳へ両手をついた。
「もし、戦になるのでございましたら。私も、御陣にお加えください」
利政は返事をしなかった。
清十郎は頭を下げたまま続ける。
「御恩に、報いとうございます」
「帰蝶から、そう命じられたか」
「いいえ」
「ならば、文使いの用を済ませて帰れ」
戸の外で、急ぐ足音がした。利政はそちらへ目をやったが、人を呼ばず、清十郎の言葉を待っている。
「帰蝶様は、お二方に刃を向けてほしくないと、お考えです。戦いたいと願うのは、私自身でございます」
口にすると、届けてきた願いから自分が離れることが、はっきりした。
清十郎は顔を上げた。
「それでも、ここを去れませぬ。殿に命をお預けした者として、御危難を知りながら戻ることは、できませぬ」
「わしに返す命が惜しくないと、あれに申すつもりか」
利政の声が厳しくなる。
清十郎は、敷居の向こうで自分を見ていた紗季を思い出した。生きて帰ると、言えばよかった。だが、今ここで同じことを言っても、約束を果たせる見込みが増すわけではない。
「惜しゅうございます」
利政の目を見て答えた。
「死んで御恩を返せばよいとは、思っておりませぬ。生きて、お役に立ちとうございます。どうか、使ってくださいませ」
利政は清十郎の腰へ目を落とした。
「その刀は」
「尾張の殿より、道中のためにお借りいたしました。殿の御用に留め置かれるなら、作兵衛殿を返し、知らせるよう仰せを受けております」
利政が作兵衛を見る。男が頷くと、しばらくどちらも口を開かなかった。
やがて、利政は膝の脇の文へ手を伸ばす。もう一度広げるのかと思ったが、畳んだまま懐へ収めた。
「作兵衛。尾張へ戻り、わしが留めたと申せ。帰蝶にもじゃ」
清十郎は、そこで初めて息を吐いた。
「清十郎は、わしの用で残す。戻す日を、今は申せぬとな」
「承りました」
作兵衛が頭を下げる。
利政は清十郎へ向き直った。
「朝に、武具を見せる。身に合うものを選べ。勝手に先へ走るな」
「はっ」
返事が、思っていたより大きく出た。
利政は、それを叱らなかった。戸口へ人を呼び、清十郎を泊める部屋を命じる。出てきた家臣は一度清十郎を見てから、こちらへと廊下を示した。
立ち上がると、借りた鞘が帯の下で動いた。
懐は、二通を抱えていた時より軽い。
清十郎はそこへ触れかけた手を下ろし、もう一度、利政へ頭を下げた。
今度は、使いを終えた者の挨拶ではなかった。




