五十四話 弟殺害
鷺山の利政は、帰蝶からの文を膝に広げていた。
畳み癖のついた紙は、指を離すと端から浮く。折り目を押さえながら読み進め、息子の名の並ぶ所で目を止めた。
孫四郎か、喜平次か。
娘が案じているのは、新九郎の優しさだった。国衆の言い分を聞き過ぎるのではないかと、遠くから父へ問い掛けている。
天文二十三年の秋も深まり、庭の落葉を掃く音が、戸を閉めた部屋まで届いた。利政は紙を明るい方へ向ける。
新九郎は、人の話を聞く。聞いた上で、その者が引き受けられる所へ落ち着けようとする。譲歩を一つ覚えさせれば、相手は次にも同じものを求める。その時に退けられるか。
道の普請では、孫四郎らに聞かせれば、まだ出せる人がいた。
仕事を待たせたと息子が気にしていたことも覚えている。利政には、その待つ間より、初めの申し出だけで済ませようとした方が気に掛かった。
帰蝶の申す通りかもしれぬ。
心の内で強く思ってみると、自分の考えが少し定まったように思えた。
家を譲るのを早まったか。
利政は文を読み直そうとして、やめた。今すぐ決めねばならぬことでもない。新九郎にも、まだ覚えさせることはある。
紙を元の折り目に沿って畳み、箱へ戻す。蓋を閉じてから、廊下へ人を呼んだ。
入ってきた家臣は、次の用に誰を遣わすかと尋ねる。利政は孫四郎の名を挙げ、喜平次にも聞かせよと告げた。
家臣が頷くのを見て、ふと口が動いた。
「あの二人の、どちらかに継がせるべきであったかの」
返事が途切れた。
家臣の顔を見て、利政は自分の言葉がどう聞こえたかを知る。
「独り言じゃ。用を申しただけと思え」
「……はっ」
男が下がると、廊下で別の声がした。待っていた者が、次の取り計らいを尋ねている。
利政は箱を脇へ寄せ、今度は政務の紙を取った。
*
年が改まった天文二十四年、夏の初めに、紗季は那古野の部屋から最後の小箱を運び出した。
机を退けた跡だけ、畳の色が違う。佐和が忘れ物はないかと戸の陰を確かめ、空になった衣箱へ蓋をする音がした。
信長は先に清須へ移っている。紗季の身の回りの物も順に送り、今日は本人が発つ日だった。
「それも、お預かりいたします」
佐和が小箱へ手を添える。
「これは、自分で持つわ」
兄から戻った文も、信長の短い便りも、中にある。机に残していた紙まで収めると、思ったより重くなった。
佐和は手を引き、敷居の向こうを見た。
「では、お足元を」
紗季は頷いて部屋を出た。いつも通る廊下なのに、もう戻らないつもりで歩くと、曲がり角を一つずつ確かめたくなる。
庭では、荷を担いだ者が列を作っていた。清十郎もその端にいて、運ぶ順を聞いている。腰に刀はなく、紗季の姿を認めると、手にした縄を置いて頭を下げた。
「清十郎様も、ご一緒なのですね」
「荷の者たちと参ります。清須でも、取次ぎを務めよとの仰せでございます」
一人で先へ行くのではないらしい。紗季は、では後ほど、と答え、小箱を抱え直した。
輿が動き出すと、庭で聞いた声は、すぐ後ろへ遠ざかった。
道へ出てからは、揺れるたびに箱の角が腕へ当たる。途中で止まった時、垂れた布の隙間から、荷を負った男の背が見えた。額を拭い、また荷縄を肩へ掛ける。その先にはまだ道が続いている。
住まいを移すとは、箱を送ることだけではなかった。
清須で輿を降りた時、紗季はまず、足を置く所を探した。前の者が敷いた物を佐和が直し、奥から出てきた女房が、こちらへと身を引く。
通された廊下では、曲がるたび、紗季は前を行く女房の足を追った。どこで曲がれば部屋へ行けるか、給仕はどちらから来るか。佐和さえ一度、案内の女房へ道を尋ねた。
部屋へ着くと、庭に面した戸口の脇へ小箱を下ろす。
荷の出入りが落ち着いた夕方、信長が顔を出した。
「迷うたか」
「佐和と二人で、少し」
「二人なら、なお迷うたであろう」
佐和が困ったように笑い、紗季も笑った。夫は戸口から庭を見て、明日の朝ならこちらも開けられる、と告げる。今日はまだ、荷を運ぶ者が通るという。
その言葉を聞き、紗季は香炉の置き場所を窓際から少し奥へずらした。
夜、机を据えてもらうと、兄の文を箱から出した。
こちらへも、時折、暮らしを知らせよ。
その返事に、ようやく書けることが増えた気がする。
兄上様。
清須へ住まいを移しました。
まだ廊下を覚えられず、佐和とともに迷っております。
父上のお住まいを案じておりましたが、自分のこととなると、戸惑うばかりでございます。
お返事を頂戴し、嬉しゅうございました。
兄上様も、くれぐれも御身をおいといくださいませ。
帰蝶と書き、紗季は筆を置いた。
こんな便りを読んで、兄は笑うだろうか。
翌朝、佐和に託した文は、清須の表の取次ぎへ渡された。
*
同じ年の秋、稲葉山を訪ねた国衆の男は、通された座敷で、袖の内の手を握り直した。
去年、川沿いの道の普請で人を出した家の主である。用向きを告げる時には、あの件も引き合いに出すつもりでいた。だが、正面に座る新九郎を見ると、余計な話から始めるのはためらわれた。
まず、今年引き受けた用の済んだことを申し上げる。
新九郎は聞き終わると、存分に働いたと答えた。そこで下がれば、礼を申し上げに来た者として帰れたはずだった。
男は膝を進めた。
「今一つ、お耳に入れておきたいことがございます」
新九郎が頷く。
「鷺山様が、孫四郎様へ御家督を継がせ直されるとの話が」
口へ出してから、声が大き過ぎたと思った。
新九郎はすぐに問い返さなかった。庭へ向けていた扇を、膝へ戻す。
「誰が申した」
「鷺山の御家中にて。以前、あの二人のどちらかに継がせるべきであったかと、仰せがあったそうでございます」
「そう聞いたのか」
「はい。私が御前で承ったことではございませぬ」
男は言い添えた。伝えてくれた家臣も、独り言であろう、と初めは言っていた。けれど、その後も用を預かる弟二人の姿を見ているうちに、何のこともない一言とは思えなくなった。
それを家の者に話すわけにはいかない。今は誰の命令を待つべきかと問われた時、主である自分まで迷っている顔は見せたくなかった。
「何ゆえ、わしへ申す」
新九郎の声が、さっきより低い。
「今後も殿の御下知を受けて働くと、家の者に申し聞かせたく存じます」
新九郎は扇を閉じた。
「家督を継いだのは、わしじゃ」
「仰せの通りにございます」
「廃嫡もあると思うか?」
男は、口を開かず深く頭を下げた。
退出の許しを受け、廊下へ出る。先ほどまで膝の上にあった手が冷えていた。男は袖へ収め、待っていた供へ、帰るぞ、とだけ言った。
*
稲葉山の新九郎は、夜になっても父へ使いを出さなかった。
机へ置かせた白紙の前で、墨を磨る音を聞いている。文で尋ねれば、父は答えるだろうか。
そのような話を聞いたのかと、かえって笑われるかもしれぬ。家臣の前で、息子は噂一つにうろたえておる、と。
では、直接会うか。
鷺山で父の返事を待つ自分を思い浮かべると、去年、家督を譲られたはずなのにと、同じ所へ戻ってしまう。
新九郎は墨を磨っていた者を下がらせた。
箱の中から、夏に帰蝶がよこした文を出す。清須へ移ったとある。廊下を覚えられず、侍女と迷っているらしい。
読んだ時には、自分で荷を持とうとして、周りを困らせているのではないかと思った。
妹は、兄上様、と書いている。
父へ何を聞くより先に、帰蝶へ返事を書いてやりたくなった。だが、今、息災にしておると書けば、自分のしていることまで確かなもののように思われそうだった。
新九郎は文を箱へ戻した。
父がまだ迷っているだけなら、決め直される前に、こちらが動かねばならない。
そう考えた途端、父が本当に迷っているのか、という問いが浮かぶ。
答えを知る者は鷺山にいる。その答えを聞きに行くのをためらっている間にも、弟たちは父の傍へ出入りしていた。
「明日から、用はこの部屋へ持って参れ」
呼び入れた近習へ、新九郎は命じた。
「御気分でも」
「病と申しておけ。人には会わぬ」
男が顔を上げ、すぐ伏せる。
「鷺山様よりお尋ねがあれば」
「同じように答えよ」
新九郎は横になった。
誰にも会わなければ、返事をためらう顔も、父へ伺いたいと頼む者も、見ずに済む。戸が閉まると、その安堵を恥じた。
病と知らせた翌日には見舞いの申し出が来た。新九郎は断らせる。幾日も過ぎると、戸口で告げられる声は、体を案じるものへ変わっていった。
寝ているふりをして聞くうち、病を理由にすれば、弟をこの部屋へ呼べることにも気づいていた。
それを口にするまで、さらに日が掛かった。
夜の庭を渡る風が冷たくなり、衣を重ねる頃、新九郎は近習を呼び止めた。
「孫四郎と喜平次に、会うておきたいと伝えよ」
「お二方に、お見舞いを」
「うむ」
男が下がろうとする。
「待て」
新九郎は起き上がった。病人らしくない動きに、男の目が揺れる。
まだ、ただの見舞いとして二人を迎えることはできる。会って話せば、弟の口から聞けるかもしれない。
父に、何を言われているのか。
家督を受けよと命じられたのか。
もし二人が、何も知らぬと答えたら。
新九郎は、こちらを見る近習へ言った。
「二人を、帰してはならぬ」
近習は動かなかった。
「それは」
「討て。二人ともじゃ。わしの命じゃ」
今度は返事があった。
新九郎はそれを聞いてから、枕元の水へ手を伸ばした。飲むつもりで取った椀は、しばらく口へ運べなかった。
*
その冬、孫四郎は喜平次とともに、稲葉山の兄の居所へ入った。
案内の男は足を速めず、廊下の先で一度だけ振り返る。
「長くは、お話しになれぬかもしれませぬ」
孫四郎は頷いた。
兄が人に会わなくなってから、具合を尋ねても、同じような返事しか戻らなかった。最後に顔を見た時、何を話したかを思い返す。
用の話だった。
父から聞かされたことを伝えると、兄は、そうか、とだけ言った。その後、自分から話すことを探せずに下がった。
今なら、もう少し違う言葉を掛けられるだろうか。
喜平次が隣へ寄った。
「父上にも、様子をお伝えせねばな」
「会ってからじゃ」
小声で答えると、弟は口を閉じた。何でも父の用にしてしまう言い方が、今日は少し気になった。
次の間で、案内の男が腰の刀を外す。
孫四郎もそれに倣い、手の届く所へ置こうとして、男に示された脇へ寄せた。喜平次の刀と並ぶ。
奥の戸が開いた。
薬を煎じたらしい匂いが残っている。枕元に水の椀があり、衾を掛けた兄は、二人を見ると肘をついて身を起こした。
「そのままで、兄上」
孫四郎は急いで座った。喜平次も隣へ膝をつく。
思っていたより顔色は悪くない。だが、会いに来られたのを喜んでよいのか、軽々しく言葉にしてよいのか迷った。
「お加減は、いかがでございますか」
兄が自分を見る。
用の話をした時とは、違う目だった。答えを待つというより、まだ話していないことまで探られているように感じる。
「父上の所へは、参っておるか」
「はい。御用を承る時には」
孫四郎は返事をし、言い添えた。
「兄上がお悪いと申し上げております。今日はお目に掛かれたと、お伝えいたします」
兄は何も答えなかった。
脇で衣の擦れる音がする。孫四郎が目を向けるより早く、喜平次が短く息を吸った。
弟の肩が崩れ、手が畳を滑る。
何かを受け止めようとした孫四郎の腕を、横から強く押さえる者がいた。
「何を――」
腰へ手をやり、刀を次の間に置いたことを思い出す。
喜平次が口を開いた。兄上、と呼んだのかもしれない。声は言葉にならず、孫四郎の膝へ弟の手が掛かった。
「兄上」
今度は自分が呼んだ。
新九郎は、起こした身を元へ戻さずにいる。
どうして止めてくれない。
孫四郎は弟の手を掴もうとした。指が触れた時、背中から体を伏せさせられ、兄の顔も、入口も見えなくなった。
冷たい畳の匂いが鼻へ近づく。
戸が閉まる音を、ひどく遠くに聞いた。
*
同じ部屋で、新九郎は衾を押し退けた。
近習が一人、二人の傍へ膝をつき、やがてこちらへ向き直って頭を下げる。
もう終わったということだった。
水の椀が倒れている。孫四郎が座った所から、喜平次の袖へ水が広がっていた。
兄上がお悪いと、父へ申し上げている。
弟の返事は、それだけだった。家督についても、父に何を命じられているかについても、問いを尽くす前に、自分の命令が果たされていた。
新九郎は二人の顔から目を逸らした。
あの返事を、そのまま信じればよかったのか。
考えかけ、戻せぬことを考えるなと、自分へ言い聞かせる。父が二人を立てれば、自分に従っている者も居場所を失う。それを先に止めた。
そう言えば、ここにいる者たちへは説明できる。
弟たちには、もう何も尋ねられなかった。
「鷺山へ、人を遣わせ」
近習が顔を上げる。
「孫四郎と喜平次は、わしの命で討った。そう申し上げよ」
言葉を選ばずに済んだことが、新九郎には恐ろしかった。
使いに立つ者へ同じことを繰り返すと、相手は深く頭を下げて去る。
新九郎は立ち上がり、次の間へ出た。脇へ並べられた二振りの刀を見つけ、足が止まる。
持ち主が帰りに取るはずの向きのまま、柄がこちらを向いていた。
*
鷺山の利政は、稲葉山から来た使いを、座る前に呼び止めた。
「新九郎は、どうした」
病が重くなったのかと思った。二人が見舞いに行ったと聞いてから、戻ったという知らせはない。
使いは膝をつき、両手を畳へ置いた。
「孫四郎様、喜平次様、お二方を討たれたとの仰せにございます」
利政は男の口を見た。
聞き違えたのではない。何を言っているかが、分からなかった。
「何を言っておる」
「新九郎様の御命令にて」
「あの二人をか」
「はっ」
利政は立ちかけた。足が畳の縁を踏み、脇の家臣が手を差し出す。その手を払った。
「見舞いに参ったのであろう」
使いは答えない。
「病と申したではないか。顔を見せよと、呼んだのであろう」
言えば言うほど、自分に分かる話から離れていく。
二人に用を任せた。足りぬ所は教えてやった。新九郎にも、まだ言うべきことがあった。それを、なぜ。
脇の家臣が、新九郎様へお尋ねを、と口を開いた。
利政は振り向いた。
「尋ねて、何と答える」
家臣の声が止まる。
使いはもう答えを持ってきている。新九郎が命じたと、二人を討ったと。
利政は使いの向こうへ目をやった。孫四郎が報告する時には、あの辺りへ座る。喜平次はその脇に膝を揃え、兄の言葉が足りぬと思うと顔を上げた。
「二人を、返せ」
使いの背が低くなる。
利政はその男を見ず、入口の方を向いていた。
二人が入れば座れるだけの場所が、まだ空いている。
誰も、そこへは進まなかった。




