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文蝶 〜文が紡ぐ戦国のんびり生活〜  作者: 藤原 智
尾張

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五十三話 

 朝の水を替えに来た佐和へ、紗季は硯を出してほしいと頼んだ。

 昨夜、寄せた戸はまだ開いている。庭へ下りた日が敷居を越え、机の片側まで伸びていた。信長が表へ戻った後、紗季はしばらく何もせず座っていたが、水差しを置く音を聞いて顔を上げた。

 父と兄へ、まだ何も書いていない。

 夏の暑さを案じる挨拶なら書ける。けれど、家督を継いだ兄へ何と告げるかで、昨日までは手が止まっていた。


「お祝いの文を、美濃へ。父上と兄上に、それぞれ書きたいの」


 佐和が硯の蓋を外した。


「お宛てになる所は、鷺山と稲葉山でございますね」


 同じ家へ二通出すつもりでいた紗季は、その言葉を聞いてから頷いた。

 父の所へ届けば兄も読める。そう思っていたが、もう二人は、同じ所で暮らしているわけではない。


「ええ。別々に届けていただきたいわ」


 佐和は紙を二枚、離して置いた。

 紗季は先に兄への紙を引き寄せる。

 以前、父へ書いた文のことが胸に浮かんだ。兄が国を継ぐのは心配だと書いた手で、今、祝いを書く。それは兄に対して、不実ではないか。

 筆の穂先へ墨を含ませ、硯の縁で少し落とす。

 兄が生きて、美濃にいてくれるのは嬉しい。そのことまで、嘘にはならない。


 兄上様。

 このたびの御家督、謹んでお祝い申し上げます。


 書き始めると、声を掛けてもらった日の顔が思い出せた。自分が帰蝶としてここにいてよいのか迷っていた頃、兄はそれを知らずに、妹として話してくれた。

 優しい人だと思った。その人へ、優しいから心配だと、直接は言わずに父へ書いた。

 紗季は筆を置いた。

 墨の乾かない字を見つめてから、また取る。


 近江の姉上様から頂戴した香を、今も大切に使っております。

 こちらの暮らしにも慣れたつもりで、教わることが尽きません。

 お忙しいことと存じますが、御身をおいといくださいませ。

 お目に掛かれる日を、楽しみにしております。


 兄が読みたくないことまで書き連ねたのではないかと読み返し、最後へ帰蝶と名を置いた。

 父への紙には、新しいお住まいで困ることはないか、暑さの折に無理をしないでほしいと記す。家督の願いを、もう一度書くことはしなかった。

 あの文を、父がどう受け取ったかは分からない。返事がないまま、決まったことだけが知らせとして届いた。

 兄へ任せて、二人が穏やかに暮らせるのなら、それがよい。

 紗季は二枚を並べ、墨が乾くのを待った。


     *


 美濃の川沿いの道で、孫四郎は足元の泥を踏み直した。

 喜平次が草履の先についた土を、草へ擦りつけている。二人の前には、普請へ人を出す二つの家から来た男が、一人ずつ控えていた。

 兄の使いが話を決めた後だという。

 孫四郎は、そのことをここへ着いてから聞いた。


「日を分けると承っております。先にこちら、次に向こうと」


 年嵩の男が言い、隣へ顔を向ける。もう一人も頷いた。

 父からは、両方の言い分を聞いてこいと命じられていた。決め直せとは言われていない。だが、ここで聞いただけで帰れば、何をしに行ったと叱られるのではないか。

 喜平次が道の崩れた所へ近づいた。


「向こうが済むまで、こちらは待つのか」

「ここを先に通せるようにいたします。あちらの田の用が終わるまでに、人を替えて」


 男が指したのは、道の端に並べた木だった。必要な物は、もう一部運ばれている。

 孫四郎は、父へ持ち帰る言葉を探した。


「出せる者が、ほかにおるか。それも聞いておきたい」


 二人の男が目を合わせた。


「それは、鷺山様からのお申し付けでございましょうか」


 答えに詰まると、喜平次が振り返った。

 父に言われて来た。それは間違いない。けれど、出せる者がいれば余分に出せという命令を、自分は預かっていなかった。


「まず、聞くようにとの仰せじゃ」


 孫四郎が答えると、年嵩の男は腰を低くした。


「では、帰って確かめてまいります。稲葉山へ申し上げた人数と違いますゆえ」


 その日のうちに始まるはずだった仕事は、人数を尋ね直す間、待たれることになった。

 孫四郎は木の脇へ寄り、声を落として弟へ言った。


「余計なことを聞いたか」

「父上の御用で来たのであろう」


 喜平次の返事は、思ったより強かった。

 そうだ、と言えば済む。だが孫四郎は、乾きかけていた泥へもう一度、足跡が重なるのを見ていた。


     *


 稲葉山で新九郎が妹の文を受け取ったのは、その話が戻ってきた翌日だった。

 織田方の使いから取り次いだ者を下がらせ、紙を広げる。細い字を目で追ううち、近江へ礼を伝えなければと思った。

 香を送った妻は、妹がどう使ったか気にしていた。

 最後まで読み、新九郎は膝へ紙を置いた。机の上には、道普請の人数を書いた別の紙がある。

 出す日を決めた家から、もう一度確かめたいと申し出があった。

 父の使いが来たので、と。

 新九郎は妹の文を持ち直した。お目に掛かれる日を楽しみにしている、とある。その言葉へ答えるのに、普請の話を続けて書くわけにはいかなかった。

 近江の方が戸口へ来た。


「帰蝶殿からでございますか」


 新九郎は顔を上げ、文を差し出した。


「そなたの香を使うておるそうじゃ」


 妻は両手で受け取り、その場へ座る。読む間、袖の端を片手で押さえていた。やがて口元が緩む。


「お元気そうで、何よりです」

「うむ」


 近江が紙を返す時、机の別の文へ目を落とした。


「お返事は、お急ぎにならずとも」


 仕事を見て気遣ってくれたのだろう。新九郎は頷きかけ、手元の帰蝶の名へ視線を戻した。


「いや。書く」


 返事を待っている者へまで、自分の都合で黙っていたくなかった。

 妹の文の余白に、届いたことと、祝いへの礼を書く。近江も香のことを喜んでいると添えた後、新九郎は少し考えた。

 父の所へばかり便りを出さず、こちらへも書いてほしい。

 そう記しかけた言葉を、筆先で止める。

 妹が父へどれほど書いているか、自分は知らない。


 こちらへも、時折、暮らしを知らせよ。


 それだけを書いた。


     *


 鷺山で利政は、孫四郎と喜平次から道の話を聞いた。

 二人とも、帰ってきてから衣を替えている。膝を揃えて座る姿を見て、利政は、もっと前から外へ出して用を覚えさせればよかったかと思った。


「田の用が済めば、まだ出せる者がおると申しておりました」


 孫四郎が答えた。


「初めから、それを聞けばよい」


 利政は脇に控える家臣へ顔を向ける。


「新九郎は、譲らずともよい所まで譲る。相手の申すままにしておれば、国はまとまらぬ」


 孫四郎の手が膝の上で動いた。


「ただ、兄上の決めた日を、待たせてしまいました」

「確かめる間くらい、待てばよい」


 答えると、息子は口を閉じた。

 喜平次も、続けて何かを言いかけたようだったが、兄の方を見て黙る。

 利政は二人へ、次の用もこちらへ聞きに来るよう告げた。

 下がった後、家臣が一歩、膝を進める。


「稲葉山へも、お知らせしておきましょうか」

「それは致せ」


 利政は机の端の文を取った。帰蝶から鷺山へ届いた近況である。新しい住まいを案じた言葉を読むと、娘がここを訪ねてくるような気がした。

 去年の文では、国を治めるには強くあるべきだと案じていた。

 娘にまで、それを心配させておる。

 家臣がまだ下がらずにいるので、利政は顔を上げた。


「何じゃ」

「どちらのお申し付けを、先に承ればよろしゅうございましょう」


 問いの意味が、一拍遅れて届いた。

 自分と新九郎の命令のことか。


「同じ家の用じゃ。違う話のように申すな」


 家臣は頭を下げた。

 利政は文を机へ戻す。自分が黙れば、気になることまで放っておかねばならぬのか。家督を譲ることが、息子へ何も言わぬことになるとは思っていなかった。


     *


 秋風の入り始めた那古野で、紗季は兄から戻った紙を広げた。

 自分の書いた祝いの下に、兄の字がある。佐和が表から受けてきた時、外側に稲葉山からの返書だと申し送りがあったという。

 父の所へ出した別の文には、まだ返事がない。

 紗季は兄の返事をもう一度読んだ。

 暮らしを知らせよ。

 何を書けば兄が笑ってくれるだろう。

 先日、衣を畳む時に、佐和と袖の端を引き合ってしまったことを思い出す。自分で畳めると言ったのに、二人でやった方がかえって難しくなった。最後は片方を任せて、紗季は衣箱を押さえていた。

 そんな話でも、よいのだろうか。

 筆を取ろうとしたところへ、信長が来た。


「兄御からか」

「はい。お忙しいのに、お返事をくださいました」


 夫は読むかと手を出さず、戸の脇へ座った。

 紗季は紙を畳み、兄の字が擦れないよう箱の上へ置く。


「父上も、新しいお住まいで落ち着かれたのでしょうね」

「どうであろうな。家を継がせても、用まで全て手放すとは限らぬ」


 紗季は夫を見る。


「兄上がお困りになるでしょうか」

「わしは、今の美濃の用をここで見ておるわけではない」


 信長は庭の方へ顔を向けた。


「ただ、命じる者が二人おれば、聞く者は先を選ぶ。選んだ方へ、話も寄る」


 兄の文へ、紗季は目を落とした。

 知らせには、困っているとも、父と意見が違うとも書かれていない。兄を案じるあまり、ないものまで読もうとしているのかもしれなかった。


「次の文で、御様子を伺ってみます」


 信長が頷く。

 紗季は新しい紙を引き寄せたが、すぐには墨をつけなかった。祝いを読んでくれた礼から書こうと思った。


     *


 同じ秋、稲葉山の新九郎の前では、家臣が言葉を選んでいた。

 鷺山からの用を承った者が、こちらで決める前に、孫四郎の所へ伺いたいと言う。


「父上が、そう命じられたのか」

「いえ。ただ、先の普請では、孫四郎様方が改めてお聞きになりましたゆえ」


 新九郎は文を置いた。

 弟が取り戻そうとしているとは限らない。父の用を果たしているだけかもしれぬ。そう考えようとするたび、自分の命令を待たず、鷺山へ顔を向ける者が増えていた。


「わしが決めた後で、また伺うのか」


 家臣が伏せた顔を、すぐには上げなかった。

 新九郎はその沈黙を見ているうち、問い返す気を失った。


「もうよい。下がれ」


 一人になると、帰蝶へ返した文を思い出した。妹は祝いをくれた。兄として、家を継いだ者として。

 父も同じつもりで譲ったのだろうか。

 それとも、まだ決め直せると思っているのか。

 新九郎は手元の紙へ目を戻した。

 廊下で人が立ち止まり、用を告げる声がした。いつもならすぐ入れと答える。その返事を待つ間にも、相手は、ここで聞いてよい話かと考えているのだろうか。


「入れ」


 声に力を込めてから、新九郎は膝の文を、正面へ置き直した。

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