五十二話 家督相続
翌朝、那古野の表へ呼ばれた藤吉郎は、座敷の敷居を越えずに膝をついた。
脇の板敷きに、麻布の包みが二つ置かれている。昨日、自分が持った荷より小さい。二つとも背負えそうだと目を走らせたところで、三郎の声がした。
「城下へ届ける用がある。二軒じゃ。昼には、どちらも裁ち始める」
藤吉郎は顔を上げた。
いきなり役に立つと言い切れば、目の前の荷を貰えるかもしれない。しかし、出てから行き先を探し歩いては、足が速くても間に合わぬ。
「届け先を、お聞かせくだされ」
信長が顎を動かすと、包みの脇にいた男が二軒の名と場所を告げた。一軒目は知っている。二軒目の家の名には覚えがなかった。
「そこは、曲がり角の井戸より、手前でございますか」
「先じゃ。細い道へ入って二軒目。受け取るのは、そこの女房だ」
男はそれぞれの包みを指し、畳まれた布を開いて数を確かめさせた。大きい方に二反、小さい方に一反。家の名を記した紙も、取り違えぬよう縄へ挟んである。
藤吉郎はその紙と布を見比べ、もう一度、二軒の名を口にした。
「行けるか」
「承ります」
答えると、信長は片膝に置いていた手を離した。
「受け取る者が違えば、置いてくるな。話が合わねば、ここへ戻れ」
「はい」
「濃から、そなたを使ってみよと言われた。昨日、荷を水から避けたそうじゃな」
藤吉郎は、縄を掴む前の手を止めた。
やはり、あの声からここへつながったのか。
名を覚えてもらえた嬉しさが先に立ちかける。その前で、信長がこちらの返事を待っていた。
「あれは、そちらの方にも、持っていただきました」
昨日の受取りをしていた年長の男へ顔を向ける。
「一人では、下を擦ったかもしれませぬ」
「ならば、今日は一人で持てるか」
藤吉郎は小さい包みを一度持ち上げ、脇へ下ろした。縄を足して大きい方と背に負えば、両手を塞がずに歩ける。
「縄を、もう一本お借りいたしたく」
信長は男へ頷き、次の用を告げる者の方へ身体を向けた。
藤吉郎は包みを結び合わせた。褒められた続きを待っている暇はなかった。
*
一軒目の縫い手は、戸口へ出てくると先に包みの名を見た。
藤吉郎が膝から荷を下ろし、縄を解く間も、女は戸の片側を押さえている。奥の板の上には、裁つ前の布を広げる場所が空けられていた。
「二反でございます。那古野から参りました」
「こちらで確かめますから、少し待って」
急いでいる、と言いそうになり、藤吉郎は結び直すはずの縄を膝へ置いた。
渡して走り出した後で数が違うと言われても、困るのはこちらだ。女が布を戻すまで待ち、受け取ったという返事を聞いてから立つ。
次の家へ向かう頃には、背の荷が半分以下になっていた。
井戸を過ぎ、細い道へ入る。軒を低く張り出した家が並び、煮炊きの煙が道を横切って流れていた。二軒目の前で名を呼ぶと、戸の隙間から若い女が顔を出した。
「母は、すぐ戻ります。置いていってくだされば」
藤吉郎は、下ろしかけた包みを抱え直した。
「どちらへ行かれました」
「そこの家へ。糸を返しに」
女が道の奥を指す。
待つべきか、戻るべきか。すぐという言葉を信じて待つ間に、昼を過ぎるかもしれぬ。だが、那古野まで戻れば、その分だけ遅くなる。
包みを置けば、それで自分の用は済むようにも思えた。娘に渡したと答えれば、聞いた方も咎めはしないのではないか。
「お母御がお戻りになってから、お渡しします」
藤吉郎は戸口の端へ寄った。
若い女の眉が動く。
「私も、ここの者です」
「失礼をいたした。お渡しする方を、決めて出されております」
女を疑っていると言えば角が立つ。かといって、殿の名を出して戸の内へ押し通ることもできなかった。
「ここで待つのが御迷惑なら、少し離れておりまする。布は、私が持っておきますので」
娘は返事をせず、いったん戸を寄せた。
藤吉郎は道の向こうへ目をやる。井戸の辺りに人がいるが、母親の顔を知らない。行って探す間に入れ違っては、さらに遅れる。
戸の内で、何かを置く音がした。
「呼んでまいります。ここで、お待ちを」
娘が出てきて、藤吉郎の脇を抜けた。
礼を言うと、顔を半分だけこちらへ向ける。
「母は、昼までに届くかと、朝から気にしておりました」
その言葉を聞き、藤吉郎は布を抱え直した。
待つということが、相手を困らせているのか、約束を守ることになるのか。荷を背負って出た時には、こんな所で迷うとは思っていなかった。
ほどなく娘と戻ってきた女房は、歩きながらこちらへ詫びた。
「留守をさせました。すぐ、見ます」
包みを開く手は速い。布を引き出して端を確かめると、奥へ運ぶ娘へ、道具を寄せるよう言った。
女房が受取りを告げて頭を下げる。藤吉郎も頭を下げ、縄を畳んだ。
まだ昼前だった。
*
同じ朝、紗季は佐和に、庭の受取りをしていた男へ詫びを伝えてほしいと頼んだ。
昨夜、信長が来たことだけで、昨日の後始末まで終わったような気になりかけていた。机の上の文を畳む前に、自分で頼んだことを済ませたかった。
「乾かすお手間まで掛けたことを。私が手筈を変えたので、運ぶ方が勝手にしたことではないと、もう一度」
佐和は言葉を確かめてから下がった。
戻ってきた時には、空いた衣箱を一つ抱えている。別の用も済ませてきたのだろう。紗季は、箱を置き終えるまで待って声を掛けた。
「どうでした」
「承ったと、お返事がございました。麻布は乾き、今日使う分に差し支えはないとのことでございます」
「そう。よかった」
息をついてから、紗季は佐和を見た。まだ何かを伝えようとしている顔だった。
「ほかには?」
「次に御用を替える時は、先に聞いていただきたいと」
紗季は膝の上で手を合わせた。
詫びを受け取ることと、また同じようにしてよいことは違う。昨日は途中で止めてしまった言葉を、今日は最後まで聞けた。
「ええ。そうします」
昼を過ぎてから、信長の使いが佐和を通じ、藤吉郎の届け物は二軒とも済んだと知らせてきた。
夕方には、信長自身が部屋へ顔を出す。紗季が茶の椀を置く場所を空けると、夫は座りながら言った。
「二軒目で、娘に渡さず待ったそうじゃ」
「間に合いましたか」
「間に合った。戻ってきて、自分でその話をした。後で受取先へ聞かせたが、違いはなかった」
自分で見届けなかった時間が、夫の言葉で少しずつ形になる。
藤吉郎は、いつでも迷わず先へ進む人なのだと思っていた。今日の彼は、戸口で待ち、知らない相手へ断りの言葉を探したのかもしれない。
「次も、同じような用からですか」
「まずはな。今日の返事で、城中の荷を任せられるわけではない」
信長は椀を取り、紗季の机へ目をやった。
「そなたの文は、まだそこか」
「今朝、畳みました。自分の書いたことを忘れないように」
夫は一度だけ頷いた。
その晩、紗季は藤吉郎へ礼を言う文を書こうとして、やめた。仕事を果たした彼へ、まるで自分の願いを叶えてもらったように礼を言うのは違う気がした。
白い紙は箱へ戻す。
代わりに佐和へ、次に彼の働きを見かけても、用を止めて呼ばないようにすると話した。
*
その春、小折の生駒の屋敷で、吉乃は客へ出す椀を盆の上へ並べていた。
表には、織田三郎が来ている。
庭に面した部屋では、家の者と話す声が続いていた。吉乃がその戸口まで来た時、廊下の先を通った下男が、慌てて身を引く。膝をつくには両手の荷が邪魔だった。
「そのまま通れ」
部屋の中から声が飛んだ。
男が頭を下げて通り過ぎる。その背へ一度目をやり、吉乃は盆を持ち直した。
入ると、三郎はもう話を先へ進めていた。相手が手元の紙を探す間だけ、庭へ目を向けている。
「失礼いたします」
吉乃は近い者から椀を置き、三郎の前では膝を送り直した。畳の縁に袖が掛からぬよう押さえると、本人がこちらを見る。
「吉乃であったな」
「はい」
名を覚えているとは思わず、返事が少し遅れた。
前に顔を合わせた折も、ほんの短い挨拶しかしていない。だが、そのことを口にすれば、覚えていた相手へ余計な愛想を言うことになる。
下がろうとした時、三郎が庭の隅を指した。
「あれは、何を敷くつもりじゃ」
運んだばかりの板が、泥の残る所へ並べられている。
「雨の後、荷を置けぬのでございます。乾くまで待てば、運ぶ者を待たせますから」
「置ける所を、先に作るか」
吉乃は頷いた。
それは自分一人で考えたことではなかった。働く者が何度も土を踏み固めようとしていたので、家の者へ、板を回せないかと頼んだだけだ。
「運ぶ者から、そうしてほしいと申されました」
三郎が、わずかに口元を緩めた。
「それは聞いてやれ。余った板と申して、腐った物を回すなよ」
家の者が笑って答え、話はまた紙へ戻った。
吉乃は盆を胸へ寄せて下がる。
名を呼ばれた時よりも、最後の一言の方が心に残った。使う者に任せれば済むようでいて、その足元まで見る人なのか。
しかし、廊下を曲がると、次の膳を気にする女が待っていた。
「何を笑っているの」
吉乃は口元を引き締めた。
「お椀は、お出ししました。次を、こちらへ」
自分の頬に手を当てる暇はなく、渡された盆を受ける。人に言われるほど顔が動いていたことが、恥ずかしかった。
部屋の方から、三郎の笑い声が聞こえた。
吉乃は盆を持ったまま、一度だけそちらを振り返った。
*
夏の美濃では、利政が新九郎へ家督を譲った。
鷺山で新しい住まいの紙や道具を納める時、利政は、娘の文を入れた箱を自分の手元へ置かせた。
隠居したからといって、国のことを聞かずに暮らせるものではない。稲葉山へ上がる者がこちらへも顔を出し、息子へ出した話を父にもしていく。初めは挨拶であったはずが、利政が一つ問えば、相手は二つ先の訴えまで口にした。
ある日、新九郎が持参したのは、二人の国衆の間で割れた普請の人足の話だった。
川沿いの道を直す用に、どちらが何人出すかで折り合わないという。
「道を使う村へも聞き、日を分けて出させます」
新九郎が答える。
利政は文を膝へ置いた。
「決めて申しつければよい。向こうの望みを待っておっては、次は隣も同じことを申す」
「田の用が重なっております。今、無理に出させれば、こちらが欲しい日に人が来ませぬ」
息子の声は静かだった。
利政は、その静かさが気に入らない。こちらの言葉が届かなかったのか、届いた上で譲らないのか、顔から読み取りにくかった。
「出さぬ者を、そのままにするのか」
「出させます。誰がいつ出るかを、決めて戻させます」
新九郎は父の膝の文を見たが、取り戻そうとは手を出さない。
その遠慮まで、利政には頼りなさに見えかけた。娘の書いた、兄は優しいという言葉が頭へ浮かぶ。
強く出るべき所を、取り違えておるのではないか。
「孫四郎を、わしから話を聞く役に出そう。喜平次にも、あちらの言い分を聞かせる」
言ってから、新九郎の視線が上がったことに気づいた。
「それは、私の出す者と、別にでございますか」
「二人にも、覚えさせねばならぬ」
利政は文を返した。
息子は両手で受け取り、聞き入れたとも、断ったとも言わずに頭を下げる。
退出した後、利政は箱を開いた。
帰蝶から届いた紙を広げる。去年の春には、これを書いた娘の案じ方が幼く思えた。今は、国衆へ押される兄を恐れた言葉が、目の前の返答へ重なる。
孫四郎や喜平次なら、同じ話へどう答えるか。
そこまで考え、利政は文を折りかけた手を止めた。
家督を譲ったのは自分である。優しいと書かれたからではなく、跡を継ぐ息子として新九郎を選んだ。
廊下に人の気配がした。
「入れ」
顔を出した家臣へ、利政は文を見せず、箱へ収めた。
「先ほどの話、孫四郎にも聞かせよ。新九郎のやり方では、国衆がつけ上がる」
家臣が一礼する。
その顔が少しこわばったことを、利政は、早く用を済ませようとしているためだと思った。
*
鷺山を出た新九郎は、供の者が追いつくまで、門の外で足を止めていた。
先ほど、父の前で言わなかったことが、今になって幾つも言葉になる。
人足を多く出せば忠義が厚いという話ではない。田の用を潰して道を直し、その道を通す米が減れば、来年困るのはこちらである。
だが、父の言葉に逆らい、二人を出すなと言えば、弟たちに仕事を覚えさせるのを嫌がったことになる。
新九郎は掌の汗を衣へ押し当てた。
「孫四郎様方がお聞きくだされば、早くまとまりましょう」
供の男が言った。
励まそうとしているのだろう。新九郎は男を叱らず、歩き出した。
父の使いが行けば、国衆は、まずそちらへ顔を向ける。
自分が日取りを決めても、その後で父へ伺いに来いと言われれば、もう一度、話をし直すのだ。
譲られたはずのものが、自分の手の中にない。
そう思ったことを、まだ口にはしなかった。
*
その年、紗季は二十歳になった。
美濃から家督の継承を知らせる使いが来た後も、那古野の庭では蝉が鳴いていた。父が隠居し、兄が家を継いだ。知らせには争いのことなどなく、紗季は、ひとまず二人とも息災でいるのだと受け取った。
前に出した文を思い出さないわけではない。だが、自分の願った通りでないからといって、今の兄の祝いまで言えなくなるのは違うと思った。
父と兄のための言葉は、まだ紙へ移さず、胸の中で何度か選び直した。
庭の入口で、清十郎が荷の取次ぎをしていた。
刀のない腰も、門を越えずに受け取る姿も、見慣れてしまっている。それを当然と思ってよいのかは、今も分からない。
佐和と廊下を渡る途中、紗季は足を止めた。
「清十郎。今日は、暑いですね」
こちらを向いた顔に、懐かしい安心があった。
美濃で初めて頼れる人だと思った時は、会うための言葉を探した。今は、働く彼を長く引き止めずに、それでも元気でいるか確かめたくなる。
「姫様も、日向へ長くお立ちになりませぬよう」
「ええ。そちらも、お水を忘れずに」
返事を聞いて歩き出してから、紗季は少し笑った。
家族に言われる小言のようだった。かつての恋を、勘違いだったと思ったのではない。会った後、いつまでも胸の中へ声を隠しておきたかった日があったことも、覚えている。
けれど今日、振り返らずに廊下を曲がれた。
帰る部屋には、昨日、佐和を通じて信長から届いた文がある。明日の訪れは夕刻より遅くなる、と自筆で短く知らせてきたものだった。読んだ後、紗季は机へ置いていた。
待つかどうかを、自分で決められる。
紗季は、その紙を取った。
*
夜になって信長が来た時、紗季は机の紙を箱へ納めたところだった。
香炉には火を入れていない。昼間の熱を逃がそうと戸を開けていたが、佐和が二人分の水を置いて下がると、庭の暗さが急に近くなる。
「眠らずにおったか」
「お話がしたくて」
信長は戸を寄せ、紗季の向かいへ座った。
いつもの距離だった。その距離のまま、今夜の言葉を言ってよいか、紗季は夫の手元を見た。
去年、お梅を助けた庭で、この人を恐ろしいと思った。恐ろしい人だから自分の心には触れさせないと、あの時は決めることもできたはずだ。
それでも、用を頼んで返ってきた言葉や、来られぬ日に届いた紙は残っている。荷を濡らした日のことを聞いた時にも、怒鳴られて終わるだろうと身構えた自分へ、何を見たのかと問い返してきた。
それらを一つずつ、都合のよい所だけ選んでいたのではないか。考え始めると、いつまでも答えは出ない。
ただ、今、隣へ行きたかった。
「三郎様」
呼ぶと、信長が顔を上げる。
「今夜は、こちらにいていただけますか」
声にした後で、膝の上の指が強く組まれていることに気づいた。
信長はすぐに近づかなかった。
「何か、言われたか」
「いいえ」
紗季は指をほどいた。
「私が、そうしたいのです」
夫の目を見て言い直す。
信長はその顔を見てから、小さく息を吐いた。
「あの夜、待つと申した」
「覚えています」
「今も同じじゃ」
紗季は頷き、夫の隣へ膝を進めた。
遠くで戸を閉める音がした。庭の虫の声が、その後を埋める。座り直す時に触れた袖を、紗季は離さなかった。
「今夜は、待たなくてよいのです」
信長の手が、膝に置いた紗季の手に重なった。
その手を握り返すと、夫はもう一度、こちらの顔を確かめる。紗季は目を逸らさず、頷いた。
やがて信長が寝衣の襟元へ手を掛け、紗季の肩から静かに脱がせた。




