五十一話 藤吉郎
香炉を持ち上げかけて、紗季は手を止めた。
灰の中へ埋めた炭の熱が、掌まで届いている。槙なら、袖が近いと指を添えてくれただろう。紗季は自分で袖口を引き、机の向こうへ香炉を戻した。
お梅と槙を送ってから、部屋の広さは変わらない。違うのは、物を置いた後だった。
これでよいかと顔を上げても、頷いてくれる人はいない。
佐和は別の用で下がっている。呼べば来てもらえる。それでも、同じ香りを甘いとも苦いとも言い合った時の声は、呼んで戻せるものではなかった。
あの時は、お梅もここにいた。
今日も生きて、美濃で朝を迎えている。そのことを思うたび、助かったという気持ちと、ここにはいないという事実が、別々に胸へ来る。
紗季は机の端へ紙を寄せた。
お絹の家へ届ける文は、まだ書けていない。取次ぎを頼むにしても、何を書けばよいのか。こちらは変わりありません、と書くためには、二人のいない暮らしを、変わりないものとして受け止めなければならない気がした。
筆を取らず、代わりに小袖を膝へ引き寄せる。襟裏にあった緩みは、佐和が繕わせてくれていた。
細かな針目を指でなぞった。
自分のために働く手は、今もここにある。いなくなった二人のことを考えているからといって、その手を見ずにいてよいわけではない。
帰ってきた佐和へ、紗季は衣を見せた。
「直してもらったのね。ありがとう。縫ってくれた方にも、そう伝えて」
佐和が襟を確かめてから頷く。
「承りました。お召しになる前に、もう一度、ほかも見ておきましょう」
「一緒に見てもいい?」
佐和はわずかに手を止め、紗季の前へ衣を広げ直した。
机の上では、香木が静かに温まっている。
紗季は香炉を遠ざけ、二人で小袖の端を持った。
*
稲葉山で利政が娘の文を受け取った時、外側の「帰蝶より」という小さな字に、まず目を留めた。
織田方の使いから取り次いだ者を下がらせ、紙を開く。
読み進めるにつれ、文を押さえる指が動かなくなった。
新九郎ではなく、孫四郎か喜平次を。
娘が、そのようなことを言い出すとは思っていなかった。婿の意向かとも考えたが、文には三郎の言葉として書かれた箇所がない。兄を案じる気持ちと、国衆に押されることを恐れる言葉が、不器用なほど近くに置かれている。
優しいから、国を任せるのが心配だという。
利政は紙を膝へ置いた。
優しさだけで治められる国ではない。それは娘の言う通りだった。だが、強く押さえれば従うばかりの者たちでもない。自分が奪い、まとめてきた間に、何人が何を飲み込んだかを、新九郎は違う所から見ている。
父を頼る者と、息子へ近づく者。その顔ぶれを思い浮かべ、利政はもう一度、娘の文を取った。
今すぐ答えを返せば、娘はそれを約束として待つかもしれぬ。
かといって、聞き流して捨てるには、身内の名が重い。
文を畳み、手元の箱へ納めた。新九郎を呼ぶ使いは出さなかった。
その日のうちに作兵衛を呼び、先に託しておいた返書のことを確かめる。
「まだ、ここにございます」
「帰蝶へ返せ。次の尾張への用に合わせよ」
作兵衛は懐の紙を確かめた。正徳寺の後、娘から父へ届き、父が余白へ言葉を書いた、その一通である。
新しく届いた文を納めた箱には、利政の手が置かれている。
作兵衛は箱へ顔を向けず、預かっていた紙だけを取り出して見せた。
「こちらを、お返しいたします」
「うむ」
利政は頷いたが、まだ箱から手を離さなかった。
*
春のうちに尾張へ来た作兵衛から、返書は表の取次ぎと佐和を経て紗季の手へ戻った。
父へ書いた自分の字の余白に、父の字がある。
紗季はそこを読み、机の上で紙を伸ばした。父が、自分の暮らしを読んでくれた。その嬉しさの後に、別に送った家督の文へは、まだ答えがないのだと気づく。
せめて、よく考えてもらえれば。
そう思って文を箱へ収めた時には、父が返事を選べずにいる顔までは想像できなかった。
庭の葉が濃くなり、開けた戸から蝉の声が入るようになっても、香炉は机の向こうにあった。
夏には炭の熱を持て余し、秋には戸を寄せて香りを確かめた。花を切る水も、衣を替える支度も、その時々に佐和と相談する。二人が何も言わず先に済ませてくれていた用を、今度は自分で頼む言葉にしていった。
そうして年を越えた天文二十三年の早春、紗季は細い梅の枝を器へ挿していた。
枝先を少し傾けると、まだ固い蕾が机の方を向く。花の開く所を見たいから、この向きでよいと思った。
香木を置いた薄板を確かめ、袖を膝へ戻す。
「藤吉郎! そっちへ置くな、こちらだ!」
庭の向こうから声がした。
紗季は枝を持ったまま顔を上げる。
藤吉郎。
聞き間違いかと思い、戸口へ身を寄せた。荷を運ぶ足音の間に、若い男の返事が混じる。
「はい、ただいま!」
未来の太閤殿下、きたー!
思いが頭の中で跳ねた。
どんな顔をしているのだろう。まだ誰も太閤などと呼ばない人が、今、すぐ外にいる。
枝を器へ戻し、紗季は立ち上がった。
香炉から離れていることだけ確かめ、廊下へ飛び出す。
「濃姫様、走るなど、はしたないですわ」
向こうから来た女が、慌てて盆を胸へ寄せた。
「ごめんなさい、通ります!」
角では一度足を止めた。前の人が避け終わるのを待つ間も、庭の声が気になる。
戸の開いている所へ出ると、庭の入口に荷車が一台止まっていた。車と軒の間に、縄を掛けた荷が二つある。その脇で若い男が片膝をつき、濡れた包みの端を持ち上げていた。
「藤吉郎、聞いておるのか」
「聞いております。ここへ下ろせば、底まで濡れまする」
男が顎で示した先には、軒から落ちた水が溜まっていた。
荷を受け取る者が手を振る。
「場所を選んでおるうちに、次が詰まる」
「では、こちらを空けます。お手を一つ、貸してくだされ」
藤吉郎は返事を待たずに荷を押さえ、空いている板の方へ顔を向けた。叱っていた男も、荷が傾くと片端を持つ。二人で移した所へ、門の方から次の荷が近づいてきた。
紗季は縁から手を上げた。
「やっほー!」
庭の男たちが、揃って顔を上げた。
しまった、と思ったのは、その後だった。
藤吉郎は紗季の衣を見て、隣の男の動きを見た。すぐに荷から手を離し、土へ膝をつく。
「濃姫様にございます」
年長の男が告げる。
「存じ上げず、失礼をいたしました」
「いいの。私が急に声を掛けたから。あなたが、藤吉郎?」
「はい」
上がった顔は、思っていたよりずっと若かった。目の動きが速い。こちらを見ている間も、後ろの荷へ気を配っているらしく、運び手が詰まると肩がわずかに動いた。
教科書の絵の顔を、目の前の人へ重ねようとしていた自分に気づく。
この人は今、荷を濡らさず、叱る相手にも働いてもらおうとしていた。
「ごめんなさい。用の途中だったわね」
紗季は一歩下がり、荷車のそばへ目を向けた。綱を持って待つ男が二人いる。こちらを見たまま動かないのは、自分が立っているせいだろうか。
「あちらの方にも、手を貸していただいたら? 皆で運べば、早く済むでしょう」
年長の男が、荷車へ顔を向けた。
「あの者どもは、車を……」
「少しだけ、こちらを先に。重そうだから」
男の言葉が止まった。
紗季は、手を貸してもらえれば皆も楽になると思っていた。だが、二人が綱を置いて寄ってくると、軒下の狭い所へ身体が重なる。藤吉郎が、持ち上げる前に一人を後ろへ下がらせた。
門の方で声がした。
「車を出してくだされ。通れませぬ」
新しい荷を担いだ二人が、入口で立ち止まっている。空いた車を先へ抜かなければ、その荷は乾いた板の所まで入れなかった。
年長の男が手を上げた時、運び手の一人が肩を入れ直した。
「いったん、置くぞ」
下ろした荷の角へ、浅く溜まった水が触れた。包みの色が、下から濃く変わってゆく。
紗季は声を出しかけ、何を言えばよいのか分からずに止まった。
こちらへ呼んだ二人が、年長の男を見る。その男は、紗季を見ている。
自分の一言を、取り消してよいか待っているのか。
「先に、車を返す手筈でございました」
今度は最後まで聞いた。
「通り道を空けてから、次を入れます。荷を下ろす場は、そちらの板だけで」
紗季は、濡れてゆく包みを見た。
手が多ければよいと思った。自分に見えていた荷のために、その先で動く人を止めた。
「私が、呼んでしまったのね」
二人のうち一人が頭を下げかける。
「あなた方が、勝手に御用を替えたのではないわ。私がこちらを先にと言いました」
謝って済むことかどうかも、今の紗季には分からない。ただ、誰の言葉で動いたかまで曖昧にしてはいけなかった。
「元の手筈で、進めていただけますか。どなたが何をするかは、あなたから伝えてください」
年長の男が一礼し、二人へ声を掛けた。
車が動き出すと、その跡を通って人が入ってくる。藤吉郎も荷へ向き直った。
紗季は、もっと奥のことまで知ったつもりで口を挟むのをやめ、濡れた角が板へ上げられるまで見ていた。
「今のことは、私からも三郎様に伝えます」
年長の男へ告げ、後ろへ退いた。
縁に立つ紗季の隣へ、先ほど廊下で会った女が来た。盆はもう持っていない。香炉のある部屋の方を見てから、紗季へ尋ねる。
「火は、いかがなさいました」
「机へ置いて、袖も離してきたわ」
「それでも、お留守にはなさらないでくださいませ」
紗季は頷いた。
名を聞いた嬉しさに、自分がどんな顔で走ったか、今になって分かってくる。皆に手を貸してもらうつもりだった言葉へ、あの男は、よいか悪いかを答えられなかった。
「戻ります。驚かせて、ごめんなさい」
戻る廊下では、歩いた。
香炉は倒れていなかった。梅の枝も、先ほどの向きで器に収まっている。
紗季はその前へ座り、庭の男の言葉を思い返した。
お手を一つ、貸してくだされ。
叱られているだけの人ではなかった。
*
藤吉郎は荷を運び終えると、後から入ってきた包みの底へ手を当てた。
布の端が湿っている。乾いた所へ替えても、中まで無事だったことにはならぬ。受け取る者へ見せなければ、どこから濡れていたか、後では分からなくなる。
「こちら、開けて確かめていただけますか」
頼むと、年長の男が顔を向けた。藤吉郎を見る目には、先ほどまでの叱る勢いが戻っていない。
「お前も、濃姫様にお目を掛けられたな」
藤吉郎は笑いかけて、口を閉じた。
ここで嬉しそうにすれば、あの方がいなくなった後も、その名を使って頼むことになる。相手が何も言わず受け取ってくれれば、自分には都合がよい。だが、布の傷みまで消えるわけではなかった。
「まだ、何も。この端を一緒に見ておいてくだされば、どこを乾かせばよいかも分かります」
仕事を失うのは困る。濡れた物を黙って渡した者の名がつけば、次から何を運んでも先に疑われるだろう。今ここで中を見てもらう手間だけは、省けなかった。
縄を解く手伝いをしながら、藤吉郎は縁の方へ目をやった。
奥の方は、ずいぶん変わった声の掛け方をなさる。
笑われたのか、呼ばれたのか。顔を見た限りでは、こちらを見つけたことを喜んでいるようだった。
なぜ自分を、とは思う。
だが、それを確かめに奥へ近づける身ではない。ここで覚えてもらうなら、まず任された物を、無事な形で渡すことだった。
中は麻布だった。端には水が回っていたが、畳まれた奥までは濡れていない。男に見てもらい、乾かす分を脇へ分けてから、藤吉郎は新しい包みを取りに走った。
*
その日の夕方、紗季は信長へ、短い文を書いた。
藤吉郎という者に、荷を受け渡す用を一度任せていただけませんか。
そこまで書いて、筆を止める。
名を知っていたから見に行った。それは本当だった。けれど、その名だけで何もかもできると決めてしまえば、目の前の若い人を見ないまま、先の姿を押しつけることになる。
紗季は、見たことだけを次の行へ書いた。
水の溜まる所を避け、叱る相手へ手伝いを頼んで、最初の荷を移したこと。
そこで筆が止まる。
荷の流れを止めずに、と続けようとしていた。あの後、流れを止めたのは自分だ。藤吉郎を見つけた嬉しさだけを残せば、今日の庭は、違う形で夫へ届く。
紗季は行を改めた。
自分が荷車の者を呼び、先の手筈を変えさせたため、次の荷を待たせて濡らしたことも書く。最後の字を乾かす間は、庭へ駆け出す時より長く感じた。
書き終えた文は佐和へ託した。
その夜、信長が部屋へ来た時、紙は夫の手にあった。
「見ておったのか」
「はい」
「荷を濡らしたことも、これで聞いた」
信長は文の末を指で押さえた。
紗季は膝を揃える。
「私が、あちらも手伝っていただけば早いと思って。先に車を出すのだと、最後まで聞きませんでした」
「濡れた分は、受け取る者が分けておる。今夜、しまう前に乾かす手間が増えた」
そこまでは知らなかった。
荷が板へ上がったのを見て、紗季は引き返している。その後も、誰かが濡れた物の始末をしていた。
「明日、詫びを伝えてもらいます」
「それは致せ」
信長は紙の上へ視線を戻した。
「この男は、荷を一つ動かした。それで、ほかの者へ指図する役まで任せよと申すか」
「いいえ。運ぶ用を、一つ……」
「そなたが名を呼べば、皆がその男を見る。褒めれば、その先も気を遣うであろう。男の働きと、周りがそなたへ遠慮してしたことを、見分けたか」
藤吉郎の顔が浮かぶ。
急に呼び掛けられ、戸惑っていたように見えた顔。後ろの荷を気にしていた肩の動きは見た。その肩へ、自分は何を掛けようとしているのか。
「そこまでは、分かりません」
信長は、すぐには返さなかった。
紙の端を机に揃え、梅の枝の下へ置く。
「明日、城下へ出す麻布が二包みある。今日の物とは別じゃ。届ける先は二軒。昼には裁ち始める手筈になっておる」
「その用を、藤吉郎に?」
「任せるとして、遅れたらどうなる」
紗季は、先に答えを出そうとして口を閉じた。
二包みなら運べる。そう考えるのは、庭で人手を足せばよいと思った時と同じだった。
布を広げる場所があり、裁つ道具が置かれ、待つ人がいる。
「縫う方が、その時刻を空けて待ちます。別の仕事を断っているかもしれません」
「違う家へ渡せば、取り戻して終わりでは済まぬ。受取の数も、こちらの数と合わねばならぬぞ」
紗季が見た働きを、明日のどの用に使えるか。信長は、そのことを尋ねている。
これを一度果たせば、次の用へ呼ばれるかもしれない。果たせなければ、頼んだ者の顔だけで、また任せてくれとは言えなかった。
「品と数を確かめる方は、そのままにして、届ける役を試していただけませんか。受け取る方が違ったり、話が合わなかったりすれば、勝手に済ませず、戻って伺うように」
「そなたがついてゆくか」
「いえ」
口にしてから、見届けたい気持ちが遅れてきた。
自分がそばで頷けば、また誰かが返事を変えるかもしれない。藤吉郎へ渡してほしいのは、何でもできると褒めてもらう場ではなかった。
「御用のことは、その持ち場の方からお伝えください。私は、途中で別の用を言いつけません」
「損じたら」
「どこで何があったか、本人にも、受け取る方にもお聞きください。私が頼んだことだけで、済ませないでくださいませ」
庭で命を差し出した日の話を、夫が口にしたわけではない。それでも、紗季は自分の言葉を、今度は最後まで言えたかと考えた。
信長が文から指を離す。
「明日、呼んで聞く。行けると申すなら、その二包みを持たせよう」
紗季は顔を上げた。
礼を言う前に、信長が膝を立てる。
「頼んだそなたにも、結果は聞かせる」
「はい」
夫は戸口へ向かい、そこで一度振り返った。
「廊下を走るな。そなたを避けて、荷を持った者が転ぶ」
「気をつけます」
足音が表へ遠ざかっていった。
紗季は机の文を取り上げる。褒めた言葉の下に、自分の差配で荷を濡らしたという一行がある。
その二つが、一枚の紙に残っていた。
明日、用を引き受けるかを答えるのは、藤吉郎である。
紗季は自分の失敗を書いた行も隠さずに、文を机へ置いた。




