五十話 お梅の追放
お梅が文を書き終えたのは、香を聞いた翌朝だった。
那古野の侍女たちが使う小さな部屋で、膝の前へ紙を置いている。戸口から見れば、母へ便りを書いているように見えただろう。けれど、そこに母の名はなかった。
長柄の槍には、三間半という物がある。
運び手が廊下の曲がり角で難儀していた。先を立てれば軒へ当たり、寝かせれば後ろの柱につかえる。二人が声を掛け合い、柄を斜めに抜いてゆく間、お梅は水桶を抱えて待った。その折に聞いた長さを、忘れぬうちに覚えておいた。
その下には、三郎に従って出入りする家臣の名を並べた。見掛けた者の名と、ほかの者から聞いた名がある。急に呼べば二百ほどは寄る、という運び手の話には、聞き及んだことだと書き添える。
城の中にいる者を全て数えたわけではない。村々から何人集まるのかも知らなかった。
分からぬ所へ、分からぬと記す。
そうすれば、知ったことだけを知らせる務めで済む気がした。
筆を置きかけ、まだ何か書き足せぬかと紙を見直す。濃姫は息災である、と入れれば、この文にも姫の暮らしを知らせる便りの形が残る。
だが、その言葉の後ろへ槍と兵の話を置くのは、姫の名を借りるようで書けなかった。
お梅は何も足さず、紙を折った。
利政から命じられた務めを、自分の一存でやめてよいはずがない。美濃の殿が、何を知っておきたいのかを決める。自分は、そのためにここへ来た者でもある。
それを姫へ言えぬまま、幾つもの季節を過ごしてしまった。
美濃の館で母への便りを頼んだ時は、里へ帰る見知った者に声を掛ければ、その者が預かってくれた。返事があれば、また同じ顔が届けてくれる。
那古野でも、そうした人のつながりに頼ることはできた。だが、奥から出す文には、誰の用で、誰へ渡す物かを表へ申し送る手順がある。今朝の紙を、その手順に乗せるつもりはなかった。
母への便りとは違う。それを知りながら、受け取る手が同じなら渡せると考えている。
昨日の香炉を持つ手を思い出す。
甘いと言えば、苦いとも思ったと返してくれた。自分が何を感じたかを、そのまま口にできた時間だった。
今、この紙を渡したことも、同じように話せるだろうか。
お梅は折った文を袖へ入れ、畳の上の墨の跡を拭いた。
*
紗季の部屋では、槙が小さな短刀を敷布の上へ置いたところだった。
先に外出の支度を改めた折、槙が佐和を通して表へ頼んでいた物が、今朝届いたのだという。飾りの少ない鞘を、紗季は両手で受け取った。
「これも、持つのね」
「お支度の一つとして、お手元へ。こちら側に」
槙が衣の重なりを確かめる。紗季は渡された短刀を収め、昨夜から持っている小さな紙に触れぬよう、指を引いた。
年を書いた紙は、数字を内側に折ったままである。見せる相手は、ここにはいない。
机には、それとは別に、父へ書いた文が置いてあった。
新九郎兄上へ家督を譲る前に、考えていただきたいこと。
朝の光で読み直しても、自分の言葉が軽くなることはなかった。それでも、折らずに置いておけば、いつまでも出せなくなりそうだった。
紗季は紙を畳み、外側に父の名を記す。
槙は中を読もうとせず、畳んだ角が揃うよう、敷布を少し退けた。
佐和が戸口へ来る。
「表へ、便をお尋ねいたしますか」
「ええ。父上へ、これを。預ける相手が決まったら、知らせてもらえる?」
「承りました」
佐和は折り目を開かず、外側の宛名へ目を落とした。
「稲葉山の利政様へ、姫様からのお文と申し送ります。お預けした者の名も、戻してもらいましょう」
「父上のお手元へ、直接にと。それも、お願い」
誰のために運ぶ文かは伝える。それでも、中に書いた言葉まで、ここで読み上げる必要はない。佐和が机へ戻した紙に、紗季は小さく「帰蝶より」と書き添えた。
佐和は墨の光が消えるのを待って紙を受け直し、懐へ納めた。
紗季はその手が離れるまで、紙の角を見ていた。届けたいと願って書いたのだから、今度は、運ぶ者へ任せなければならない。
佐和が去ると、槙も衣の用を済ませるため下がった。
机の白い所が、ひどく広く見えた。
*
お梅が美濃からの使いを見つけたのは、表の用を終えた者が、帰りの荷を確かめる脇庭だった。
表の座敷の脇から門へ抜ける土の道に、板塀が張り出している。荷を置いた男の姿は、奥へ続く廊下からは半分しか見えない。使いの者がこれより奥へ通されることはなく、お梅の方が廊下を下りて近づいた。
紐を締め直している男の傍らへ寄る。何度か文を預けた相手で、こちらが名を呼ぶより先に顔を上げた。
お梅は、周囲に聞かせる話がある時のようには近づかなかった。
袖へ指を入れ、折った紙を抜く。
男が手を伸ばした。
「それを、こちらへ」
背後からの声で、お梅の腕が止まった。
振り向く前に、手首を押さえられる。紙を持つ指だけが強く閉じたが、脇から来たもう一人の男が、その手元を見ていた。
「離せ。御前へ持ってゆく」
誰の前か、聞く必要はなかった。
使いの男も、荷から離されている。
お梅は紙を引き戻そうとして、二人の目を見た。今、破れば、何もなくなるだろうか。そんな考えが浮かんだ時には、文はもう指から抜き取られていた。
帰りの荷へ差してあった細い枝が、地面へ落ちる。
それを拾う者はいなかった。
*
槙が戸を開けた音に、紗季は顔を上げた。
返事を待ってから入る人が、敷居で膝をつくのも忘れている。
「姫様。お梅が、お捕まりになりました」
「捕まった?」
「美濃の者へ、文を渡そうとしたところを。三郎様の御前へ……今、庭に」
紗季は立ち上がった。
父へ文を出した話だと思いかけたが、佐和へ預けたのは自分である。お梅へは渡していない。
別の紙だ。
以前、渡している所を見た、あれと同じなのか。
「どちらの庭?」
槙が指すより先に戸口へ向かい、紗季は足を速めた。槙が後ろから部屋の場所を告げる。
廊下の角で、運ばれてきた盆を避けた。声を掛けられた気もしたが、振り返れない。
奥の部屋を離れ、表へつながる板敷きへ出ると、槙の足音がはっきり返ってきた。戸口にいた男がこちらを見て身を退く。
「濃姫様、お足元を」
言われて初めて、敷居の手前で足を上げた。人が身を退くと、庭が見えた。自分の前には道が空く。その先にいるお梅は、紗季が縁へ近づいても、立ち上がらなかった。
庭へ面した座敷は、戸を大きく開けてあった。
奥に信長が座り、片側に家臣が二人控えている。縁の下の土には、お梅が膝をついていた。両手は前で縛られ、顔がいつもより白い。
縁へ上がるための石が、その横に一つある。お梅の膝は石から離れた所へ揃えられ、衣の裾が乾いた土を噛んでいた。紗季は縁の端まで進んだ。手を伸ばせば肩へ触れられる近さなのに、お梅との間の高さが、急に気になった。
「お梅」
呼ぶと、顔が上がった。
紗季を見たお梅が、すぐに頭を下げる。その仕草が、今は来ないでくれと頼むように見えた。
紗季は縁へ膝をついた。お梅のすぐ上だった。
「何があったのですか」
信長が、手にしていた文をこちらへ向けた。
「この者が、これを持っておった」
押し出された紙を受け取る。
槍の柄の長さ。家臣の名。その後ろには、呼べば集まる人数の見込みが書いてあった。見たことと、聞いたことを分けようとした跡まで、読み取れる。
自分の暮らしや母の息災を知らせる文ではない。
紗季は紙から目を上げた。
「美濃へ、これを?」
「以前より、ここのことを渡しておった」
信長の声は低かった。
「気づいておられたのですか」
「誰に渡すか、何を渡すか。見定めるまで、置いておいた」
お梅の肩が小さく動いた。
知られていないと思っていたのは、お梅だけだったのだろうか。自分も、問い返さずにおけば、そのまま日々を過ごせると思っていた。
紙の上に、よく知る字がある。
お梅が書いた。
そう分かることが、何よりつらかった。
「機密を流すは、死罪ぞ」
紗季は、信長を見た。
死罪。
言葉の意味を知っているのに、お梅の顔と一緒には受け取れなかった。少し前まで香炉を渡し合っていた手が、土の上で縛られている。
この人は、それを殺すと言っている。
紗季は口元を上げた。作った笑みは頬へ届かず、息だけが妙な音になって漏れた。
「何がおかしい」
紗季は咳払いをした。
きちんと声を出さなければならない。泣いて頼むより先に、言わなければならないことがある。
「その文は、私が書いたものです」
家臣の一人が、顔を上げた。
信長の目は動かなかった。
「お梅には、美濃から使者が来れば渡すようにと、私が申しつけました」
「濃」
「私も、死罪でしょうか」
自分の声が、思いのほか遠く聞こえる。
書いた字が違う。見れば分かる。それでも、文を渡すよう命じた責任まで、自分の所へ引き寄せられないだろうか。
信長の膝の上で、指が握られた。
「おのれは、いつも!」
怒声が庭へ響いた。
紗季は顔を背けずにいたが、紙を持つ手は震えている。
「嘘を申せ! 庇えば、お梅を殺さぬと思っているのであろう。通用せぬぞ!」
「では」
「今回のことは、死罪じゃ」
言い切られ、続く言葉を失った。
お梅が小さく息を吸う。その音を聞いた途端、紗季は、帰れない所へ一人で押し出されようとしている友達の背を思った。
父を救おうとして、今朝、文を託したばかりだった。
目の前の一人を、助けられないのか。
「お梅が死ねば、私も死にます」
言うと、槙が名を呼びかけた。
紗季は文を縁へ置き、懐へ手を入れた。朝、受け取った短刀を取り出し、鞘から抜いて自分の膝元へ置く。鞘も、その脇へ添えた。
板に触れた音は小さかった。
家臣が腰を浮かせる。信長が片手を上げ、その動きを止めた。
刃の光を見た時、紗季は初めて、自分の言葉に身体が追いついてくるのを感じた。
怖い。
手を伸ばして鞘へ戻したい。その願いがあるのに、ここでお梅だけを置いて引くこともできなかった。
「どうせ死ぬならば、私からお斬りください」
顔を上げ、信長を見つめた。
夫は何も言わない。先ほどの怒鳴り声より、その沈黙の方が、紗季の息を苦しくした。
「私が、書いたものでございます!」
お梅の声がした。
「姫様は、関係ありま……」
「お梅」
紗季は庭へ顔を向けた。
「貴女が死ねば、必ず私も後を追います」
お梅が身を起こしかけたが、縛られた手を地面へつき、うまく動けない。
「それだけは……姫様、それだけは、おやめくださいませ」
声が崩れた。
頭を下げ、地に伏せようとする。紗季は抱き起こすために手を伸ばしかけ、自分の膝元にある物を思い出して止まった。
信長へ向き直る。
庭を渡る風で、縁に置いた文の端が浮いた。紗季は紙を脇へ寄せ、両手を膝の上へ戻す。
信長はその手と、お梅の背を見た。
「……たわけ!」
膝を打つ音に、お梅が顔を上げた。
「お梅は、家中に置けぬ。よいな!」
紗季は、すぐには答えられなかった。
斬らないのだと分かるまで、一呼吸を要した。次に息を吸った時には、胸の奥まで空気が入らず、咳き込みそうになる。
「お梅は、美濃へ……」
口にした所で、後ろに控える槙の衣が目に入った。
美濃から、自分と一緒に来た人が、もう一人いる。
槙を同じように庭へ座らせる日が来たら、自分はまた、何も知らなかったと言うのだろうか。
今度は止められないかもしれない。
「いえ。槙も、美濃に返します」
後ろで衣擦れが止んだ。
信長の目が槙へ移り、紗季へ戻る。
「それを、そなたが申すか」
「はい」
残ってほしいという言葉も、同じ所にあった。
紗季は、それを口にしなかった。
信長は膝元の刃をもう一度見てから、立ち上がる。
「そのように致せ」
家臣の一人が脇へ置かれた文を取り上げ、二人とも夫の後へ続いた。廊下へ足音が移り、遠ざかっていく。
紗季は夫のいた所を見たまま、しばらく動けなかった。
庭の土に落ちる、お梅の息遣いだけが聞こえる。
槙が、そばへ来た。
「姫様。こちらは、私が」
短刀を鞘へ戻し、自分の手元へ引き取る。紗季は刃が見えなくなってから、ようやく膝を崩した。
縁の下へ手を差し伸べ、お梅の肩に触れる。
お梅は、こちらを見なかった。
「お別れですね」
紗季は二人へ笑いかけた。
口の形を作るだけで、頬が引きつる。けれど、自分が泣いてしまえば、二人とも、行けなくなる顔をするだろう。
少しでも、安心してほしかった。
「姫様……」
お梅が顔を上げた。
紗季は、その涙を拭くための物を持っていないことに気づいた。
「まず、この手を。ほどいてもらいましょう」
自分にできる次の用を口にして、ようやく、息を継げた。
*
お梅が戻された部屋の外には、見張りの者がいた。
縄は解かれたが、袖の下へ手を引いても、手首の感覚が消えない。見慣れた戸と柱が、今は、勝手に出てはならぬ場所の境になっていた。
槙は、佐和と今後の支度を確かめに出ている。
紗季が水を差し出した。
「少し、飲める?」
お梅は椀を受け取ったが、口をつける前に畳へ置いた。
「申し訳ございませぬ」
頭を下げた。
何に対する詫びか、一つずつ言おうとすると、最初の言葉すら出てこない。
美濃から来た男へ紙を渡したこと。問い掛けられた時に、知らぬふりをしたこと。姫をあの座へ走らせたこと。
最後には、姫の口から、死ぬという言葉を言わせた。
「父上に、頼まれたことなの?」
問われ、お梅は畳についた指を揃えた。
利政の名を出せば、自分が命じられただけの者だと訴えることになる。それでも、姫にまた何も答えなければ、同じ嘘を重ねる。
「嫁ぐ前に、利政様より。こちらの御様子を、お知らせするようにと」
「そう」
それだけの返事だった。
お梅は顔を上げられない。父を慕う姫へ、その父が自分を通じて何を求めていたかを告げている。
「初めから、今日のようなことを?」
「初めの文は、姫様のお暮らしなどを。……それだけでは、なくなりました」
聞き知った物を紙へ足したのは、自分の手だ。
命じられたからといって、姫に隠してよかったかどうかは、別のことだった。
「私が渡していたことを、お気づきでございましたね」
「見たことはあったわ」
紗季の声は静かだった。
「何を書いていたかは、今日まで知らなかった」
お梅は、ようやく顔を上げた。
知っていたから守ってくれたのではない。何を隠していたか、あの場で初めて読まされた人が、自分のために残ってくれた。
「なぜ、あのようなことを」
言いかけると、姫は目を伏せた。
「怖かったわ。今も、手がうまく動かない」
膝に置かれた指が、衣の同じ所をつまんでいる。
お梅は自分の手を見た。この手で、姫をそこまで追い詰めたのだ。
「もう、あのようなことは、なさらないでくださいませ」
「……ええ」
短い返事が落ちる。
姫は続けて、許すとも、何もかも忘れるとも言わなかった。お梅も、そう言ってもらおうとは思えない。
椀を取り、少しだけ水を飲んだ。
喉を通った冷たさで、まだ生きている身体を、ひどくはっきり感じた。
*
信長は表側の部屋へ戻ると、押さえた文を机へ置かせた。
美濃の使いは、別の場所で問いを受けている。誰の用で来たか、ほかに何を預かっているか。お梅を帰すと決めたことで、その確かめまで済んだわけではない。
家臣が戸口に控えた。
「女二人の出立は、いかが取り計らいまする」
「荷を改め、送る者をつけよ。美濃へ着くまで、勝手に離れさせるな」
命じると、男は頭を下げた。
奥から預かる文は、宛先と差出人を申し送り、運んだ者の名を戻させる。中を開かずに取り次ぐなら、せめて、どの手を通ったかは分からねばならぬ。
それを飛び越えた紙を押さえ、今度は、受け取ろうとした男の先に誰がいるかを確かめている。折って袖へ入れてしまえば、里の便りも兵の書付も外からは分からぬ。手渡す所を見ただけでは済ませられなかった。
軍勢をどう寄せるかを知られれば、寄せる前に備えられる。聞き違いの数であっても、こちらが何を動かしているかを探る足場にはなる。
舅に見せた物と、奥から黙って持ち出させた物を、同じにしてよいはずがない。
濃も、文を見れば、それくらい分かっただろう。
分かった上で、膝元へ刃を置いた。
妻の顔を思い出すと、怒りと一緒に、あの場で足を踏み出せなかった己の身体まで戻ってくる。
斬られたくない顔をしていた。
それでも、下がらなかった。
あの者の命だけを取れば済むと、もう一度言い切ることはできなかった。
「乱暴に扱わせるな」
男が顔を上げた。
「帰すと申した。途中で死なれても、用が違う」
「はっ」
返事を聞き、信長は机へ向いた。
妻へ、今、会いに行けば、どんな言葉が出るか分からぬ。許したと受け取らせるのも違う。守ろうとした者を失わせずに済んだことと、主の決め事へ命を差し出して迫ったことは、同じ話ではない。
紙を開き、書かれた名を上から確かめた。
*
槙はその日のうちに、自分の荷と姫の物を分けた。
何年も、姫の明日の支度を先に考えてきた。朝に着せる物、外へ出る折の包み、使いへ渡す紙。自分の荷を先に畳むと、手が順序を間違えたように感じる。
佐和が部屋へ入り、二人を送る者が決まったと告げた。出立まで数日はあるが、勝手な外出はできぬという。
短刀を、槙は佐和へ渡した。
「姫様のお手元から、私が預かりました。今は、こちらで」
佐和は鞘を見て、槙を見た。
尋ねたいことはあっただろうが、受け取って衣の上へ置く。
「お預かりいたします」
槙は礼をした。
今朝、渡した物を、同じ日のうちに別の者へ預けている。自分がいつもそばにいればよい、という考えでは、もう姫の支度はできない。
紗季が入ってきたのは、佐和が戻った後だった。
「槙まで帰すことにして、ごめんなさい」
槙は畳みかけていた小袖を脇へ置いた。
「私が残るのは、御迷惑でございますか」
口にしてから、己のために答えを求めてしまったと思った。
紗季は首を振る。
「残っていてほしいわ」
返事は早かった。
槙が顔を上げると、姫は袖口を握ったまま、そこへ立っていた。
「でも、槙まで、ああなったら。私は……」
その先は言われなかった。
お梅と同じ命を受けたかどうかを、今、姫が問いただしているのではない。自分の近くに置いたために、また誰かを庭へ座らせる日が来るのを恐れているのだろう。
槙は、残るという願いを、もう一度言うことができなかった。
帰る場所のある自分たちを遠ざけて、ここにいるのは、この娘なのだ。
「では、残す物を、一緒にお確かめくださいませ」
脇へ寄り、姫の座る所を空けた。
畳んだ小袖を開き、槙は襟の内側の縫い目へ指を添えた。糸の緩んだ所を、表から針目を見せずに繕ってもらう。その一枚を佐和へ渡す物の上へ重ねると、姫も脇の衣を広げ、袖の内側を自分で確かめた。
佐和へ伝える衣のこと、使いを頼む時に確かめる相手。槙がいつも先に見ていた用を、一つずつ挙げる。
姫は途中から、自分の言葉で佐和へ頼むことを言い直すようになった。
大切な包みを収めた箱は、帰国の荷へ入れない。槙がそれに手を置くと、紗季は頷いた。
「これは、ここに」
「はい。これまでどおり、姫様のお手元に」
中を開ける用はなかった。
槙は箱から手を離し、空いた自分の掌を膝へ戻した。
もう少し何か教えておけば、ここへ残る理由になる。そんな考えが一瞬浮かび、恥ずかしくなった。
姫が一人でできる用を増やすことが、今、自分に残された務めだった。
*
出立の朝、紗季は那古野の門の内で二人を待った。
佐和が衣と包みを確かめ、お梅と槙が廊下から出てくる。送りにつく男二人は、改めの済んだ荷を持っていた。
日帰りの里下がりとは違う。
お梅の袖には、仕事をしながらすぐ戻ってくる時の、身軽さがなかった。
数日の間に、同じ部屋で食べることはできた。言葉も交わせた。それなのに、話しておきたいことを思いつくのは、いつも別れの時刻が近づいてからになる。
「母御の所へ、送っていただけるのね」
お梅が頷いた。
「はい。槙様は、まず館へ帰着をお届けになると」
槙の具体的な務めが、その先も同じになるかは、まだ分からない。お梅にも、尾張でしていた仕事が、そのまま待っているわけではなかった。
それでも、行き先を口にできることに、紗季は少し救われた。
「お絹さんに、よろしく伝えて」
母の名を聞いたお梅が、唇を結んだ。
顔を伏せて礼をし、そのまま、なかなか上げようとしない。
「お梅」
紗季は近づき、相手が自分を見てから言った。
「ちゃんと、御飯を食べてね」
ほかに言おうと思っていた言葉より、それが先に出た。
お梅の顔が歪む。
「姫様こそ」
「ええ」
頷くと、お梅は一度、息を飲み直した。
「私に、文を下さいますか」
紗季は、すぐには答えなかった。
気軽に渡せる便を探し、誰かの袖へ託してしまうことが、今は怖い。お梅も、それを分かった顔で待っていた。
「こちらの取次ぎを通して、届けられるように尋ねるわ」
それ以上の約束はしなかった。
お梅は、小さく頷く。
紗季が手を伸ばすと、今度は、縛られていない手が返ってきた。握ってから、放す時だけが難しい。
槙は、紗季の襟元へ手を伸ばしかけた。
直すほどの乱れはない。紗季が見下ろすと、槙の手も途中で止まった。
「どうか、お身体を」
「槙もね」
男が出立の時刻を告げた。
紗季は二人から一歩離れた。門の外へ続いて見送りたいと思ったが、送る男たちの立つ所を越えれば、二人はまた足を止めるだろう。
お梅が何度も振り返る。
紗季は、その度に小さく手を上げた。
最後の角へ二人が消えてからも、しばらく門の内に立っていた。
「先ほど、表から知らせがございました」
佐和が、静かに告げる。
「父上へのお文は、こちらから出す使いに託して、送りましたとのことです」
紗季は振り返った。
別の用で美濃へ向かう、織田方の使いが引き受けたという。佐和は、表から聞いた運び手の名も告げた。あの日の朝に佐和が受け、表へ渡し、宛先を確かめた文が、ようやく道へ出たのだ。
お梅を捕らえた時の紙とは違う。
誰へ届けたいかを告げて、運んでもらう文。
「ありがとう」
答えてから、紗季は門の向こうを見た。
父には、考えてもらいたいことがある。
今日、送り出した二人には、まず、無事に帰ってほしかった。
*
美濃へ戻る道で、お梅は、前を行く槙の裾を見失わぬように歩いた。
送りの男が一人先へ立ち、もう一人は後ろについている。歩みを緩めると、後ろの足音も緩んだ。逃げるつもりなどないと振り返って言いたくなり、誰もそう問い掛けてはいないことを思って、また前を向く。
渡し場には、荷を背負った者が幾人か待っていた。岸から出した板の先で舟が揺れ、船頭が、水を切る竿を立てている。
「そちらも、乗るなら今だ」
お梅は返事をしかけた。だが、先にいた男が人数を答え、渡しの銭を渡す。自分と槙の分もその手から払われるのを見て、お梅は袖へ入れかけた手を戻した。
板へ片足を掛けると、湿った木が履物の下で撓んだ。槙が先に舟へ下り、袖を差し出す。お梅はそれをつかみ、荷を抱えたまま腰を落とした。
舟縁の外を、岸の杭がゆっくり後ろへ動いてゆく。
荷の下で舟板が軋み、よその者の話し声が水音にまじった。
行きには、帰蝶の供をして国を出た。戻る今は、誰をどこへ送るかを男が答え、船頭も、その男へ降りる場所を告げている。
対岸へ着けば、母のいる方へ道が続く。それを喜んでよいのか、顔を上げて母を見られるのか。答えの出ぬまま、お梅は水面から目を離した。
槙が荷の口を開け、包んだ食べ物を示した。
「向こうへ着いたら、少し休ませていただきましょう」
先の男が、岸辺の木陰を指した。お梅は頷き、姫の最後の言葉を思い出す。
ちゃんと、御飯を食べてね。
包みを受け取り、今は袖へ収めた。
その後、お梅が母の家の前に立った時、履物の紐へ道の土が入り込んでいた。
美濃へ入り、槙とは、館へ向かう道で別れた。送りの者の一人が、今は少し後ろで待っている。
戸口の敷居を、お梅は見下ろした。
昔は、この高さを考えずに越えていた。今日は、母がこちらを見つける前に、一言目を決めておきたかった。
仕事の布が擦れる音が、中から聞こえる。
「母様」
呼ぶと、音が止まった。
戸の内側から、お絹が顔を出す。初めは、声だけを確かめるような目をしていた。
「お梅?」
母の手には、まだ糸が掛かっている。
お梅は荷の紐を握り直した。
「……お役を、解かれました」
母の顔が変わった。
その先を言わなければならないのに、姫の膝元の刃が浮かぶ。自分の帰ってきた理由を、何から話せば、あの人へ迷惑を掛けずに済むのか分からなかった。
「姫様は、御無事です。お変わりなく、お過ごしで」
急いで言うと、お絹は一度頷いた。
戸外で待つ男へ頭を下げ、娘を送り届けたという説明を聞く。送りの男を見送ると、母はお梅へ向き直った。
「そなたに、怪我は」
お梅は首を振った。
母が、その顔をもう一度見る。
「なら、まず、お入り」
土間の横の板敷きには、仕事の布と箱があった。奥の敷物も、母が座っていた所だけ少し窪んでいる。
お梅は敷居を越え、荷を下ろした。
ついてきてくれた母へ、何か言おうとして、口を開く。
姫は今、自分のいなくなった部屋で、何をしているだろう。
その思いが胸へ来て、決めておいた言葉が消えた。
「お帰り」
お絹が言った。
お梅は頷いたが、返事ができない。
母の衣へ額が触れた時、初めて、遠くから持ち帰った荷の紐を放した。




