四十九話 一人想ふ
義姉の近江の方から届いた箱は、お梅の両手に収まるほどの大きさだった。
那古野の紗季の部屋で、槙が結び紐をほどいている。蓋を取ると、柔らかな布に包まれた香炉と、小さな包みが現れた。香炉は淡く青みを帯び、丸い腹を三本の短い脚で支えている。紗季がそっと撫でた縁には、指の腹が吸いつくような滑らかさがあった。
「私に、これを?」
「はい。近江の方様から、姫様へと承っております」
兄の妻の顔を思い浮かべながら、紗季は膝の上で香炉を回した。
美濃を離れてから、義姉と向かい合って話すことはできなくなった。それでも、自分の暮らす部屋に似合う物を、遠くで選んでくれた人がいる。
どこへ置こうかと見回すと、窓に近い机が目に入る。そこなら、文を書きながら楽しめそうだった。
「槙、使い方を教えてくれる?」
「では、火の支度をいたしましょう。お梅、盆をこちらへ」
お梅が持ってきた盆を、槙は机の脇へ据えた。香炉を預かり、中へ灰を入れて、火箸でほぐしていく。小さな炭を灰で覆い、熱の通る所を整える手つきに迷いがない。
紗季は袖を押さえ、少し身を乗り出した。
槙が薄い板を据えた後、包みから取り出したのは、ほんの小さな木片であった。
「それだけなの?」
「まずは、これほどで」
香木が置かれても、紗季の待っていたような煙は上がらなかった。
槙は急がず、香炉を両手で持って、紗季の方へ寄せる。
「顔を近づけすぎませぬよう。ゆっくり、お聞きください」
「聞く、というのね」
「ええ」
差し出された香炉を受け取ると、底を支える掌に、ほのかな温かさが伝わった。鼻で強く吸い込まず、息を入れる。
初めは乾いた木の匂いだと思った。その奥から甘みが現れ、もう一度確かめようとする頃には、わずかな苦さが残る。何の匂いに似ているのか考えるほど、最初の印象から離れていった。
「……何だか、うまく言えないわ」
「すぐに言葉になさらずとも、よろしゅうございます」
槙は紗季の手元を見て、少しだけ持ち方を直した。香炉を傾けぬよう指を添え、紗季が自分で支えられると分かると、手を離す。
「お梅も」
差し出すと、お梅は先に槙を見た。
槙が頷いてから、両手を伸ばしてくる。その慎重な顔に紗季は笑いかけたが、お梅が目を伏せて香りを聞き始めると、黙って待った。
「甘いようでございますね」
香炉を返しながら、お梅が言う。
「私は、少し苦いとも思ったの」
「では、もう一度……」
言いかけて、お梅は口をつぐんだ。紗季がもう一度渡すと、今度は初めほど身構えずに受け取る。
同じ香りを、二人が違う言葉で受け取っている。それを言い直さなくてよい時間が、紗季には嬉しかった。
「義姉上にも、お礼を書かなくては」
香炉を机の向こうへ置き、紗季は紙を出した。
窓から風が通るため、槙が片方の板戸を少し寄せる。部屋は暗くならず、机の上を走っていた光だけが細くなった。
「今日は、少し、一人で書いてみるわ」
「かしこまりました。火の残る間は、袖をお寄せになりませぬよう」
槙は使い終えた道具をまとめ、お梅が箱を部屋の隅へ運んだ。礼をして下がる二人を見送り、紗季は硯へ水を落とす。
戸の向こうの足音が遠ざかると、香炉をもう一度見た。
義姉へ何と書こう。
ただ嬉しかったと伝えるにも、つい、もう少し整った言葉を探してしまう。
*
紗季は墨を磨りながら、正徳寺から帰った信長の声を思い出していた。
父は息災。兄も同じだと伝えてほしい、と。
それを聞いた時には、ほかのことを考えず喜べた。父へも文を出し、今は返事を待っている。
けれど、二人が変わりなく暮らしていると聞けば聞くほど、その先にあるはずの出来事が、胸の隅から離れなくなる。
父と兄は、戦う。
長良川で、父は死ぬ。
知っているのは、それくらいだった。
いつだったか。何年だったか。
墨を磨る手を止め、紗季は目を閉じる。教科書のどこに載っていたかを辿ろうとしても、別の合戦や人の名前が重なるばかりで、欲しい数字が出てこない。
美濃を信長が取るのも、その後だ。稲葉山が岐阜になる。そこへ至る間に何が起こるのか、自分はどれほど知っていたのだろう。
父子の戦いの前に、何を止めればよいのか。
そこまで考えた途端、磨りかけの墨を持つ指が冷たくなった。
好きな武将の逸話なら話せた。どの人がどの合戦で勝ったのかを知り、気に入った生き方を友達へ語ったこともある。それなのに、父が死なずに済むかもしれない問いには、答えを一つも持っていない。
紗季は墨を置き、義姉への文にするつもりだった紙を脇へ退けた。
別の一枚を手前へ引き、筆に墨を含ませる。
1560
横に、桶狭間と書いた。
これは、覚えている。今川義元が討たれる戦いで、信長の名が大きく広まる。
少し離れた所へ、もう一つの年を書きつけた。
1582
筆先が止まる。
本能寺という三文字を続けるには、最初の年より長くかかった。
信長が死ぬ年。
二十九年先まで、あの人は生きる。今すぐのことではないと思おうとしても、紙の上に置いた数字は、先へ進めば必ずぶつかる物のように見えた。
今は天文二十二年。こちらへ来てから覚え直した年の数え方を、西暦へ置き換えると一五五三年になる。
桶狭間まで七年。
父の死は、それより前のはずだ。
七年もないのかと思い、紗季は紙の空いた所を見つめた。そこへ父の名前を書こうとして、筆を浮かせたままになる。
利政。
父上。
胸の中で呼ぶと、初めに浮かんだのは、稲葉山で向かい合った顔だった。
なぜ、自分は、あの人を失うのがこんなに怖いのだろう。
自分を助けてくれたから。行く所のなかった自分へ、居場所をくれたから。それだけを並べれば、恩を返したいという話にもできる。
だが、息災だと聞いて、あれほど嬉しかった気持ちは、その言葉では収まらなかった。
父上に叱られたと思えば、腹も立つ。文を読んで笑ってほしいと願う。尾張でうまくできたことを、少し誇って知らせたくなる。
もう、自分の中に、父を待つ場所ができている。
紗季は机へ左手を置き、指先についた墨を見た。
現代の父を亡くしたのは五歳の時で、それからは母と二人だった。
父のことを忘れたつもりはない。けれど、声を思い出そうとすると、顔を思い出す時より難しい。写真を見れば分かる表情と、自分で覚えている表情の境目も、年を重ねるうちに曖昧になっていた。
誰かを父と呼びたかったのだろうか。
父に褒められることも、叱られることも、もう一度ほしかったのかもしれない。
そう考えてから、紗季は小さく首を振る。
それなら誰でもよかった、とは思えなかった。自分の文を読み、こちらの言葉を待ってくれた利政だから、今はあの顔を思い浮かべている。
美濃で暮らしたのは、一年ほどにすぎない。それまで母と過ごした日々より、ずっと短い。
それでも、呼び慣れた父上という言葉を、今さら心から外すことはできなかった。
兄上も同じだ。
病の後で以前のことを覚えていない妹を、兄は責めなかった。知っていて当然だと言い立てず、紗季が返せる言葉を待ってくれた。その優しさを思えば、父へ刃を向ける人の顔がどうしても重ならない。
あの兄と、あの父が、殺し合う。
そんなことになる前に、何とかできないだろうか。
紗季は筆を硯の脇へ寝かせた。
今は、まだ二人とも生きている。
信長は二人に会い、話をし、帰ってきた。その時の声も伝えてくれた。今起きていることは、自分の覚えている戦いだけではない。誰もが、明日の用を考えながら暮らしている。
だったら、戦わずに済む道だって、どこかにあるのではないか。
歴史だからと、来る日を待っているほかに何もできないのだろうか。
父と兄が戦わなければ、父はあの川で死なない。
それは、歴史が変わるということになる。
そこまで思って、紗季は息を止めた。
歴史を変えられたら。
元の時代へ、戻れるかもしれない。
何を根拠にそう結びつけたのか、自分でも分からなかった。こちらへ落ちてきた理由すら知らない。あの日の足元に何が起きたのかも、どこへ行けば帰れるのかも、ずっと分からないままだ。
けれど、元へ戻るための道が、初めて、手を伸ばせる所にあるような気がした。
父を助けることなら、自分にも考えられる。
それができたら。
紙の白い所に、小さな染みができた。
紗季は天井を見上げかけ、頬を伝う物に気づく。机の上には、もう一滴落ちていた。
「……お母さん」
声にした途端、喉の奥が詰まった。
泣くつもりで呼んだのではない。帰れるかもしれないと思った、その先に、母がいた。
会いたい。
今すぐ、会いたい。
どんな言葉を最初に言うかさえ考えられず、ただ、母のいる所へ帰りたかった。
紗季は紙を避けるように腕を折り、その上へ額を伏せた。
「会いたい……会いたいよ、お母さん」
目を閉じても、涙は止まらなかった。
遠足から戻らない娘を、母はどれほど待ったのだろう。
こちらで十九になる年を迎えても、母の知っている自分は、十四歳のままかもしれない。向こうでも同じだけ日が過ぎているのかさえ、紗季には分からなかった。
ずっと捜しているのかもしれない。
もう諦めるよう、誰かに言われたかもしれない。
考えようとするほど、知らない母の年月が膨らんでいく。自分は生きていると、一言だけでも届けたかった。毎日のように紙へ言葉を書いているのに、たった一人へ、その一言を運ぶ術がない。
「お母さんの……お味噌汁、飲みたい」
鼻をすすり、うまく言えなかった言葉を、もう一度口にする。
「ちくわの入った、お味噌汁が……飲みたいよ」
思い出したのは、湯気の向こうに浮かぶ、切ったちくわだった。汁を吸った白い所を噛むと、少し甘い。急いで食べれば熱くて、椀を持ったまま息を吹きかけた。
帰れたら、作ってほしい。
食べながら、何でも話す。尾張で食べている物も、美濃にいた時のことも、字を書けるようになったことも。
母が、何を言っているのと困った顔をしてもいい。全部信じてもらえなくても、目の前にいてくれれば、それでいい。
腕へ押し当てた顔を、紗季は上げられなかった。
誰も呼ばず、姿勢を変えようともせずに泣いた。
廊下の遠い所で、板の鳴る音がした。立ち止まらずに過ぎていく足音を聞きながら、息だけを抑える。やがて、肩を揺らす力もなくなって、腕の間で涙が落ちるのに任せた。
香りは、まだ部屋にあった。
目を閉じたまま、それが薄くなるのを感じていた。
*
顔を上げると、頬に衣の折れ目が当たっていた。
窓の細い光は、硯の向こうへ移っている。どれほどそうしていたのか分からず、紗季はしばらく机の縁を見つめた。
手拭いで目元を押さえる。涙を吸わせてから鼻をかみ、ようやく紙へ目を戻した。
二つの年の下に、丸い染みが残っている。
指で触れても、それが消えることはなかった。
紗季はその一枚を乾いた所へ寄せた。父へ差し出す紙と重ならぬように、墨が乾いているのを確かめ、数字を内側へ折って懐へ収めた。
これは、人に見せる物ではない。
父へ書くべきことを、考えなくては。
紗季は新しい紙を手前へ引き直した。
父を助けたい。
兄を、父を殺した人にしたくない。
そして、自分も帰りたい。その願いまで胸から追い払うことはできず、紗季は涙の残った目で白い紙を見た。
ただ、仲良くしてくださいと書くのでは、子供の願いにしかならないだろう。父も兄も、それぞれに美濃の用を抱えている。遠くの娘が、事情も聞かずに口を挟んでよいのかというためらいはあった。
だが、何も知らないから何も言えぬと決めたら、父が死ぬと知っていることまで、役に立たなくなる。
父と兄の間で、何が起こるのだろう。
家の当主になるのは兄上だ。
そこから先を考えようとして、紗季は筆の軸を回した。
父が今のように決め、兄がそれを助けているうちは、二人が争う姿を想像できない。けれど、兄が当主となり、父と違うことを決めねばならなくなったら。
国衆という人々が、兄へ別の頼みを持ち込むこともあるはずだ。
織田家へ来てからも、誰の願いを先に聞くか、誰の所へ返事を戻すかで、人の顔が変わるのを見てきた。同じ用のつもりでも、通す相手を違えれば、それだけでは済まないことがある。
兄は、相手が言い終えるのを待ってくれる。
自分は、それに助けられた。だが、父に退けられていた願いを、兄なら聞いてくれると思う者もいるのではないか。
兄の優しさに、つけ込まれたら。
その時、父が怒り、兄はもう自分が当主だと言い返したら。
紗季は筆を置いた。
それは、自分の考えた道筋にすぎない。美濃の国衆と兄が、今どんな話をしているか、ひとつも知らなかった。
聞いてから書くべきなのだろう。
兄にも、尋ねるべきかもしれない。
けれど、なぜ父と争うのですかと、まだ起きていないことを問う文は書けない。問い方を探しているうちに、その年が来てしまうのも怖かった。
父が手を引かずに済む形を、先に考えてもらえないだろうか。
家督を兄に渡さず、孫四郎か喜平次の、どちらかにする。
父がその人を教え、国をまとめる力を残してくれれば、兄も父へ逆らう立場に追い込まれずに済むのではないか。
思いついたことを紙へ書き出しかけ、紗季は、兄の名前の所で止まった。
自分には、優しくしてくれた人だ。
その人へ当主の座を渡さぬよう、父に頼もうとしている。
胸に引っかかるものを、簡単に振り払うことはできなかった。近江の方の香炉へ目を向けると、なおさら、言葉を選び直したくなる。
兄には、家を継ぐ願いもあるだろう。
自分が口を出したと知ったら、どう思うだろうか。
それでも、生きていてほしい。
父と向かい合い、刃を持たずに言葉を返せる所にいてほしかった。兄を嫌ってする願いではないと、いつか自分の口で伝えられるなら、伝えたい。
紗季は筆を持ち直した。
父が美濃を一つにしておく力を、今、なくしてほしくない。誰かが兄を担ぎ上げ、父と分けてしまう前に、別の継がせ方を考えてほしい。
その考えなら、未来のことを一つも書かずに届けられる。
最初に書いたのは、父の息災を喜ぶ言葉だった。
やがて、家督という二字を置く。
書いてしまうと、筆先だけが先へ行こうとする。紗季は一度止め、兄に向ける呼び方を、新九郎兄上とした。
美濃の孫四郎の名も、喜平次の名も、声に出さず心の中で確かめる。どちらかを知り尽くして選べるわけではない。二人のどちらに任せるかは、父に見定めてもらうほかなかった。
紙が半ばまで埋まると、目元の熱さが少し引いてきた。
筆を洗う前に、初めから読む。
思い切ったことを書いた。父が笑って済ませるか、叱るかも分からない。兄から聞いたわけでもない話を、勝手に先へ進めているという怖さも残る。
それでも、書き直して願いそのものを消すことはしなかった。
部屋に一人で座ったまま、父へ向けて、もう一度、紙の上の言葉を辿った。
『父上
三郎様より、父上も新九郎兄上もお変わりなくお過ごしと伺い、嬉しく存じます。
今日は、父上に一つ、御考えいただきたいことがあり、筆を取りました。
美濃の御家督のことでございます。
新九郎兄上へお譲りになる前に、孫四郎殿、喜平次殿のいずれかにお継がせになることも、御思案いただけませぬでしょうか。
兄上は、私にも、いつもお優しくしてくださいました。人の言葉をよくお聞きになる方と存じております。それゆえ、国衆が兄上の御情けを頼み、父上には申し上げられぬ願いを重ねることもあるのではないかと、案じております。
兄上がその間にお立ちになり、父上との御心が隔たることを、私は何より恐れております。
今の美濃には、父上が国衆を抑え、一つにおまとめになる御力が、なお必要かと存じます。孫四郎殿か喜平次殿を父上がお導きになり、御家の行く末をお定めになる道も、ございませぬでしょうか。
どちらがふさわしいかは、父上によく御覧いただきたく存じます。
美濃を離れて暮らす私が、差し出がましいことを申し上げます。これは誰に勧められたことでもなく、私一人で考えた願いでございます。
兄上を疎んじて申し上げるのではございませぬ。父上にも兄上にも、いつまでもお元気でいていただきたいのです。
どうか、お二人の御心が離れることのないよう、今一度、御家督のことをお考えくださいませ。
帰蝶』




