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文蝶 〜文が紡ぐ戦国のんびり生活〜  作者: 藤原 智
尾張

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五十六話 長良川

 清須の評定の座で、信長は道三の使者を前に、開いた文を置いた。

 弘治二年、四月。庭の若葉を揺らす風が入っても、男は額を上げようとしない。膝から下の着物には、道の埃が白くついている。


「御助勢を、何とぞお願い申し上げます」


 信長は、道三のいる方角へ目をやった。

 舅は、冬の間に山県の山中へ退いている。今は再び兵を動かし、息子と向き合おうとしていた。

 ここで助けねば、次にこちらを頼る者は何を思うか。引き受けるからには、人数を出したというだけで済ませることもできぬ。


「舅殿に申せ。信長も参る」


 使者の肩が下がった。頭を下げ直す間にも、戻る道を急ぎたいのだろう、片膝がわずかに動く。

 信長はその男を帰し、取次ぎの者に見送らせた。廊下の足音が遠ざかると、左右の家臣へ向き直る。


「陣触れを出せ。支度のできた者から集めよ。舟も要る。人ばかり先へ寄せて、川端で詰まらせるな」


 返事をして立つ者、渡しの手配を確かめる者に、座が分かれた。

 信長が次の指図を与えていると、廊下から取次ぎの声がする。お濃が、会いたいと来ているという。

 通せと答え、残る家臣を待たせた。

 入ってきた妻は、こちらの顔を見てから、脇に置いた美濃の文へ目を移した。座の端で膝をつき、両手を畳へ置く。


「どうか、父上も兄上もお救いください」


 誰も言葉を挟まなかった。

 信長は、伏せた妻の頭を見た。どちらかを失うかもしれぬと知っているから、両方を頼んでいる。その願いを受けてから出陣すれば、この場の者には、誰と戦えと命じたことになる。


「そのように都合の良い話があるわけなかろう」

「しかし……」

「お濃。そちも今や武門の者ぞ。覚悟するがよい」


 妻は顔を上げた。

 まだ言いたいことがあるのは分かった。けれど、動きかけた唇からは声が出ない。


「織田家は、舅殿と同盟を結んでおる。わかるな」


 頷くまで、信長は待った。

 小さく頭が動く。それを見届け、立ち上がった。


「お濃、具足をもて」


 *


 紗季は支度の部屋へ入ると、小姓が広げた具足の脇に座った。

 胴を起こす者の向こうで、信長が袖を整えている。佐和は女房から受け取った布を畳み直し、紗季の手の届く所へ置いた。

 具足を持てと言われて立った時から、次に何をすればよいかだけを考えていた。小姓に示された紐を取り、捻れをほどく。指に掛かった組紐は、見た目より硬い。

 冬、作兵衛が清須へ戻ってきた時にも、紗季は同じように、次の言葉を待っていた。

 父が清十郎を留めたこと。戻す日は、まだ言えぬということ。


「清十郎様は、何と」

「御陣に加えていただきたいと、願われました」


 作兵衛は、紗季に言わせたことではないと、清十郎自身が申し上げた、と続けた。

 なぜ残ったのかと責める相手は、そこにいない。父に戻せと頼む文を書こうとして、筆を止めた。清十郎が自分の意思で残ったのなら、父へ頼んで連れ戻すことになる。

 父子が話し合ったという報せを待つうちに年が改まり、こうしてまた、美濃からの使いを迎えている。

 あの二通は、どちらにも届いた。それなのに、父も兄も、清十郎も、自分の願いだけでは動かなかった。


「そこを、こちらへ」


 小姓に言われ、紗季は紐を渡した。

 信長の背へ回った男が、胴の合わさる所を確かめる。紗季はもう一方の紐を受け、結ぼうとして止まった。

 きつく結べば苦しくはないか。緩ければ、戦っている間に解けるのではないか。

 先ほどまでは、ともに助けてほしいと頼むことができた。今は目の前の一つを、どう結べばよいか分からない。


「緩めるな」


 信長が言った。

 紗季は顔を上げた。夫はこちらを振り返らず、結び終わるのを待っている。

 小姓が脇から、ここを押さえて、と低く教えた。紗季は従い、紐を引いた。結び目を確かめた男が手を離す。


「できました」


 信長が肩を動かした。重なった板が、短く擦れ合う。

 この音を聞く距離に、父もいるのだろうか。兄も、誰かに具足を着けてもらっているのだろうか。

 紗季は手を膝へ戻し、こちらを向いた夫へ、顔を上げた。


「御無事で、お戻りくださいませ」


 それだけは、誰を裏切る願いにもならない。


「留守を頼む」


 夫が部屋を出ると、小姓たちも後へ続いた。庭から馬を寄せる声がする。

 紗季は立ち上がり、佐和と廊下へ出た。

 門へ向かう者の背で、結んだばかりの紐の端が揺れる。姿が見えなくなるまで、目を離せなかった。


 *


 四月十八日、清十郎は道三の兵とともに、鶴山へ上った。

 山道を折れるたび、胴の下の着物が汗を吸う。前の者が止まれば自分も止まり、後ろから来る者のために道の端へ寄る。

 肩へ食い込む紐を直すと、冬にそれを締めてくれた男の声を思い出した。

 借りた胴は初め、脇が空き過ぎていた。合わせた布の厚みを変え、紐の長さを詰め、槍を持って腕を上げさせられた。


「形が合えばよいのではない。動いてみよ」


 そう言った家臣は、今も少し前を歩いている。

 清十郎は旗本の近くで、命令を前の列へ運ぶ役を与えられていた。用がなければ列へ入り、穴が空けば埋める。刀を帯びたからといって、好きに戦えるわけではない。

 鷺山を退いた夜のことも、忘れられない。灯を持つ家臣が奥の箱を示し、これも運ぶかと道三へ尋ねた。


「古いものはそのままにせよ。今は米を先に出せ」


 道三が先へ行くと、清十郎も米袋を担ぎ、川を越えてなお先へと、家臣に促された。背後の雲を照らす井ノ口の火から、目を背けるのは難しい。荷を下ろす時も、誰もがそちらを向いた。

 山県の山中で冬を越すうち、具足を着けて歩くことには慣れた。だが、その姿で帰蝶の前へ戻ることを考えると、まだうまく言葉が見つからない。

 今、鶴山の下では、川が幾筋も光っている。

 その向こうへ、敵が集まる。

 道三は遠くを眺め、入ってくる報告へ一つずつ答えている。清十郎が傍へ呼ばれた時には、もう、どの列へ何を伝えるかが決まっていた。


「聞き違えるな。向こうへ着いたら、繰り返して申せ」

「はっ」


 清十郎は口上を復唱し、斜面を下った。

 敵方にも、同じように走る者がいるのだろう。その先で命令を待つのは、以前なら同じ家の用で顔を合わせた者かもしれない。

 山を下りてきた風が、旗をこちらへ押し倒す。

 清十郎は槍を持ち替え、呼ばれた列へ走った。


 *


 二十日の朝、長良川の北岸で、清十郎は槍の柄を土へ突き立てた。

 道三は鶴山を下り、兵を川端へ進めている。中の渡しの向こうで、敵の先鋒が動き始めた。

 水へ入った列の足が見えなくなる。浅い所を探すのか、先頭の者が横へずれると、後ろも同じ方へ寄った。


「竹腰の手じゃ」


 前から声が伝わってくる。

 清十郎は隣の者と間を詰めた。敵は渡り切ってから整列するつもりではないらしい。岸へ上がった者から、そのまま道三の旗へ向かってくる。

 矢が一本、頭の上を越えた。

 誰かが身を伏せ、後ろの男が、その肩を起こす。


「下を向くな。槍を揃えよ」


 清十郎は穂先の高さを直した。

 川を離れた敵の脚から水が散る。足元を取られた一人を、後ろの者が押し越した。その勢いのまま、槍と槍がぶつかる。

 柄が大きくたわんだ。

 清十郎は踏み直し、突き出された穂先を横へ払った。相手の顔を見る余裕はない。次にどこから来るかを探す間に、左隣の者が一歩出過ぎる。


「戻れ」


 声を掛けた時には、自分も前へ引かれかけていた。

 後ろから別の槍が伸び、敵の足が止まる。清十郎は隣の男の袖を掴み、列へ戻した。

 土を蹴る音と怒鳴り声が重なり、命令の声を拾いにくい。前に出た者が戻るのを待って間を開け、また閉じる。

 何度そうしたか、分からなくなった頃、敵の列が川の方へ下がり始めた。


「竹腰、討ち取ったぞ」


 味方の声が上がる。

 清十郎も追いそうになったが、肩へ手が掛かった。


「離れるな。次が来る」


 言われて川を見る。

 渡りの向こうで、まだ動いていない旗があった。先ほど退いた者の間を縫い、今度は幾つもの列が水へ入ってくる。

 こちらで勝鬨を上げている間にも、川面を埋めるように人が増えた。

 清十郎は槍の柄を握り直した。指の付け根が擦れ、皮がめくれている。

 道三の方へ走った者が戻り、列を動かせと告げた。

 次の者へ伝えるため、清十郎は後ろを抜ける。ところが、着いた先では、すでに敵が岸へ上がっていた。

 横を向いていた味方が、慌てて穂先を揃える。

 そこへ、人が押し寄せた。

 一人を相手にしているつもりが、脇から別の柄が入る。清十郎は槍を引こうとした。味方の柄と絡み、思うように動かない。

 前の男が倒れ、空いた所へ敵が踏み込んだ。

 清十郎は柄を押し上げて受けた。乾いた音とともに木が裂け、穂先が横へ落ちる。

 左腕へ熱いものが走った。

 何をされたかを見るより早く、肘から下へ力が伝わらなくなる。小手より上、袖の内側を刃が通ったらしかった。

 折れた槍を離し、右手で刀を抜く。

 清須で、勝手に抜くなと命じられた刀だった。

 その命令を思い出している自分がおかしかった。今、抜かなければ斬られる。

 迫った刃を受け流すと、誰かの背が間へ入る。味方か敵か、旗印を見るまで分からない。


「戻せ、列を戻せ」


 清十郎は声を張った。

 その声を聞いて下がった者が、別の味方へぶつかる。退くための場所が、もう狭い。

 左腕を胴へ押しつけると、袖の内側が濡れた。塞ごうとしても、脇を締めるだけで痛みが走る。

 前を行く家臣がこちらを見た。冬に具足を合わせてくれた男だった。


「殿の元へ。こちらが持たぬと申せ」


 清十郎は頷いた。

 走り出してから振り返ると、男の背はもう、押し合う者たちの中に隠れていた。

 旗を目当てに戻る。途中で倒れた者を避け、膝をついた者に腕を掴まれる。その手を引き上げようとして、左腕が使えないことを思い知った。

 別の男へ頼み、また走る。

 道三の陣へ着いた時、呼吸が喉へ引っ掛かった。膝をつき、前の列が崩れていることを、途切れながら申し上げる。

 道三は清十郎の腕を見てから、まだ立っている旗へ目を向けた。

 周りの者へ、退く道を開けと命じる声が聞こえた。


 *


 河原の陣で、道三は、戻った清十郎を陣幕の陰へ座らせた。

 外では、退けという声に、まだ戦えると怒鳴り返す者がいる。幕の端を支える杭が蹴られ、布が大きく膨らんだ。

 道三は残る者を外へ遣り、清十郎の傷を見た。袖から滲んだ血が、胴の脇まで伝っている。


「押さえておれ」


 傍にあった布を渡す。清十郎は刀を膝の脇へ置き、右手で左腕を締めた。

 道三は懐へ触れた。

 冬に届いた娘の文を、そこへ入れてある。繰り返し開いた紙の角は、もう揃わない。

 父上にも、兄上にも、生きていていただきたい。

 そう書かれていた。

 新九郎からは、自らの言葉を聞けぬままになった。聞かせる側にばかり立っていた自分へ、息子が何を言えたのか。今、問い直しても、川の向こうまで声は届かない。

 幕の外で、馬が甲高く嘶いた。


「殿。まだ、お退きになれます」


 清十郎が言う。

 道三は、男が右手で刀を拾おうとするのを見た。


「そなたが退け」

「御供いたします」

「その腕で、何を支える」


 男は口を閉じた。それでも、置いた足を動かそうとしない。

 ここに残れば、この者まで失う。

 帰蝶が使いに選んでよこした男を、自分は戦う者に戻した。その男へ、もう一度、帰れと命じねばならなかった。

 道三は近くへ身を寄せた。外の声に紛れるほど低く、耳元へ告げる。


「落ち延びて、紗季を頼む」


 清十郎の目が動いた。

 帰蝶ではなく、あの娘自身の名で頼めるのは、この者だからだった。


「殿」

「生きて帰ると申したな。今こそ、そのように致せ」


 道三は男の肩を押した。

 別れの言葉を足せば、まだ何かを頼みたくなる。娘へ返す文を、書いておけばよかった。

 幕の外へ声を掛け、清十郎を裏へ出せと命じる。

 男が立ち上がるのを待たず、道三は短刀を抜いた。

 清十郎が、その手へ伸びようとする。


「ならぬ」


 制した声の後で、道三は自らの腹へ刃を突き立てた。

 膝元の土が近づく。支えようとする手を感じたが、誰のものか、もう顔を確かめられなかった。

 娘の文は、懐にある。

 そこへ手を戻そうとして、腕が動かぬことを知った。


 *


 大良へ進んだ信長は、戻ってきた者を馬上から見下ろした。

 その男の報せより先に、道三の方へ向かっていた兵の動きが変わったと、別の使いが告げている。


「山城殿、討死との由にございます」


 信長は聞き返した。

 男は同じ言葉を繰り返す。どこで聞いたか、誰が確かめたかを問ううち、河原から来る敵の報せが入った。

 義龍の兵が、今度はこちらへ向かっている。

 信長は馬を返した。

 大良から兵を進めた先、および河原では、味方の足軽が敵を押し留めていた。下がってきた手負いを、二人が肩へ掛けて運んでくる。

 その脇を、まだ前へ出ようとする者が通る。


「引け。大良へ戻す」


 伝えに走った男を目で追い、信長は川の方を見た。

 助ける相手が、もういない。

 ここでさらに進めば、連れてきた者を、戻れぬ川向こうへ置くことになる。

 舅の死を聞いた時より、退けと命じる今の方が、腹の底に堪えた。

 大良へ戻ると、渡す者の順を変えさせた。手負いを先に、荷を負う者と牛馬を続ける。川端へ集まったまま動かぬ者には、舟を待つ場所を分けて与えた。

 馬が乗るのを嫌がり、男が手綱を引く。後ろの者が押そうとしたので、信長は怒鳴った。


「詰めるな。落とせば、皆止まるぞ」


 引く手を緩めさせ、馬が一歩出るのを待つ。その間にも、対岸へ着いた舟が向きを変えた。

 自分のためには、一艘だけ残すよう命じた。


「殿も、お先に」

「わしが渡れば、残る者はどうする」


 信長は川端へ立った。

 お濃の結んだ紐が、胴の脇へ当たっている。帰れと言われたのではない。無事に戻れと、頼まれた。

 その願いに、今ここで応えるには、まずこの者たちを渡さねばならぬ。

 向こうの道から、敵の騎馬が現れた。近づき過ぎる前に、鉄砲を持つ者を前へ出す。


「まだじゃ。引きつけよ」


 先を走る馬の脚が、川端の低みへ入った。


「放て」


 轟きの後、煙が横へ流れた。

 馬が向きを変え、後ろの者も足を止める。信長は最後の者を舟へ乗せ、自分も縁を越えた。

 離れ際、舟底が岸を擦った。櫂を押した男の腕へ、筋が浮く。

 水が間へ入り、土の岸が少しずつ遠ざかる。

 信長は舟縁を掴み、渡り切るまで、元いた岸を見ていた。


 *


 清十郎は、川の音が遠くなるまで、畑の畦を伝って逃げた。

 陣を出る時、道三を呼んでも返事はなかった。支えた体から力が抜け、外の男に肩を引かれなければ、その場を離れられなかっただろう。

 振り返るな、と言われた。

 それでも一度だけ見た陣幕は、片側が落ちて、道三の姿を隠していた。

 今は、右手で左腕を押さえている。締めた布は濡れ、押す場所を変えるたびに痛みが走った。

 道を逃げる者の列には入らなかった。人が増えれば、追う者もそこへ来る。

 山裾へ寄り、木の間に座った時には、日の向きが変わっていた。

 刀は鞘へ戻し、まだ腰にある。

 借りたものを返さねばならぬと考え、そんなことより血を止めよと、自分へ言い聞かせた。

 右手と歯で布の端を引き直す。頭が下がると、そのまま横になりたくなる。

 眠るな。

 そう思って顔を上げた時、作兵衛に聞いた家を思い出した。

 美濃へ向かう道中、お梅の母が暮らす所を尋ねている。帰りに、お梅の消息を聞ければと思ったからだった。

 沢沿いの道を上り、低い橋を越えた先。

 作兵衛は、城の中ではないぞ、と言い、曲がる所を二度説明した。

 今、そこまで行けるか。

 清十郎は立ち上がろうとして、胴が木へ擦れるのを感じた。これを着けたままでは、息をするたび脇が痛む。

 紐を解く。左を外そうとして右手が届かず、背を丸めて何度もやり直した。

 木の根元へ胴を置き、小手も外す。返すものを、もう一つ増やしてしまった。

 それでも、体は軽くなった。

 立つと目の前が暗くなり、しばらく木へ手をついて待つ。

 水の音を探し、道へ下りた。

 狭い橋の手前で、後ろから人の声がした。清十郎は藪へ入り、声が消えるまで動かなかった。

 橋を渡る頃には、夕方の風が沢から上ってくる。

 教えられた曲がり角を越えると、家の屋根が見えた。

 どの家かを確かめるために止まったつもりが、足が次へ出ない。戸口の手前まで来てから、ようやく、声を出さねばならぬと思った。


「……誰ぞ」


 呼んだ声は、自分にしか聞こえぬほど小さかった。

 右手で戸を叩く。音がしたことを確かめ、もう一度、叩いた。


 *


 お絹の家で、お梅は、戸を叩く音に手を止めた。

 朝から、道を通る者がいつもより多い。川で戦があると知らせた男は、親しい者を捜すなら、今日は出るなと言った。

 母は戸口を見てから、火の側に置いていた水を持ち上げた。


「お梅。まだ開けるでない」


 お梅は閂へ手を掛け、止まった。

 兵を入れれば、後から何人来るか分からない。母と二人で、追い返すことなどできなかった。

 けれど、もう一度叩かれた音は、初めより弱い。


「どなたです」


 返事を待った。

 戸の外で、何かがずれる音がする。


「お絹殿の……」


 お梅は、その声へ顔を寄せた。

 忘れた声ではない。だが、尾張で聞いた時とあまりに違っていて、名を呼ぶのが怖かった。


「清十郎様?」


 母が、水を置いた。

 お梅は閂を外す。戸を少し引くと、外から人の重みが掛かった。

 慌てて開け、倒れかけた体を受ける。

 支えた袖が濡れた。顔を見て、今度こそ誰かを知る。


「清十郎様。どうして、こんな……」


 男はお梅を見た。

 口を開き、声が出るまでに間があった。


「お梅か」

「はい。お梅でございます」


 もう一度言うと、清十郎の右手から力が抜けた。

 お梅はその腕を肩へ掛ける。母が反対側から腰を支え、傷へ触れるな、もう少し引き寄せよ、と指図した。

 二人で敷居を越えさせ、土間の脇へ敷いた物の上へ座らせる。

 近くで見る血は、袖を濡らしているだけではない。締めた布の下から、まだ滲み続けていた。


「きれいな布を。水も、こちらへ」


 母に言われて立とうとした時、清十郎の手が動いた。

 引き留めるのかと思い、お梅は身を寄せる。


「殿が」


 道三様のことだろうか。

 お梅は息を止めた。

 清十郎は先を言えず、目を伏せる。肩を支えていた母が、今は聞くでない、と言った。

 お梅は頷き、布を取りに行った。

 美濃へ返された時、もう姫様の傍へは戻れないのだと、荷をほどけぬ夜があった。尾張から持ち帰り、しまっていた布を、今はためらわず広げる。

 戻ると、清十郎はまだ、こちらを見ていた。

 どこかへ行こうとして立てぬ人を見るようで、お梅は急いで膝をついた。


「ここにおります。母も、わたくしも」


 母へ布を渡し、傷を押さえる手を添える。

 清十郎の顔が歪んだ。謝ろうとすると、男は小さく首を振った。

 戸は開いたままになっている。

 お梅は母と手を替わり、外を確かめてから閉めた。閂を掛ける音が、今度は家の中へ響いた。

 振り返ると、母が清十郎の腰から刀を外し、寝かせる場所の脇へ置いている。

 お梅はその側へ戻った。

 清十郎がこちらを認めるたび、頷いて応えた。


 *


 信長を送り出して幾日か後、紗季は帰還の知らせを受けた。日が落ちかけた頃だった。

 佐和と部屋を出て、庭へ入ってくる者の顔を見る。支え合って歩く二人、荷を受け取る者へ何かを訴える男。その向こうで馬が止まり、信長が降りた。

 夫の具足には、乾いた泥がついている。

 出陣の日、小姓に教わって結んだ紐の端も、土の色に変わっていた。

 紗季は、近づく信長へ頭を下げる。


「お帰りなさいませ」


 声は出た。

 その先を尋ねると、待っていたものが終わってしまう。そう思いながら、顔を上げずにはいられなかった。

 信長は紗季の前で止まった。後ろから来た小姓を、片手で脇へ下がらせる。


「父上は」


 夫の目を見た。

 川の向こうで何があったか、紗季は見ていない。清十郎がどこにいるかも、まだ知らない。

 覚悟せよと言われた時、頷いた。それで覚悟のできるものなら、こんなふうに返事を待たなくても済んだだろう。

 信長はしばらく口を閉じていた。


「舅殿は、討死なされた」


 紗季は、夫の胸元へ目を落とした。

 泥の乾いた板の合わせ目に、細かな土が残っている。ここを結んで送り出した時には、父はまだ生きていた。

 何かを言おうとして、唇だけが動いた。

 信長の声が、近くでした。


「お濃。間に合わなんだ。……すまぬ」

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