四十六話 正徳寺の対面 支度
「父上と、お会いになるのですか」
紗季は膝を進めかけ、敷物の端で止まった。
夕方の那古野で、信長は持ってきた文を机へ置いた。美濃の父、斎藤利政から、富田の正徳寺で会いたいとの申し入れがあったという。
天文二十二年の春は、庭の梅に残っていた花を散らし、新しい葉を開かせていた。
「用が整い次第、参る」
「私も、ご一緒に」
言いかけて、夫の顔を見る。
「そなたの里帰りではないぞ」
信長は文の端を押さえ、こちらへ向けた。
紗季は目を落とす。父が婿をどう見ているか、文面にはない。娘が息災であることへの短い言葉の後は、家同士の対面の話になっていた。
嫁ぐ時には、二人の間を自分が行き来するのだと思った。けれど、この会見へ自分もついていき、言葉を足して差し上げるわけにはいかない。
「お会いになって、何をお話しになりますか」
「会う前から、全て決めて参るのか」
信長は少し首を傾けた。
父の顔が浮かぶ。人の話を聞いている時、笑ったまま目だけ動くことがある。言葉に詰まれば、そこを待ってくださるとは限らない。
「父上は、よく御覧になる方です」
「それは、俺も同じじゃ」
紗季は顔を上げた。
父の前へ夫を差し出すような気持ちでいたことに、今さら気づく。夫もまた、美濃の利政を見にいくのだ。
文を返すと、信長は丁寧に畳んだ。
「お支度は」
「供と道中の用は、こちらで進める」
「お召し物のことです」
信長は、わずかに顎を引いて自分の衿元を見た。
今日も、きちんと閉じているとは言い難い。紗季はそちらを見てから、夫の目へ戻った。
「そのような格好で、お会いになるおつもりではございませんね」
一瞬、信長が黙る。
言葉を足すより先に、紗季は膝の上の手を開いた。身なりをめぐって怒鳴り合った日の声が戻り、次の言葉を選び直す。
「失礼があっては、と案じております」
信長は、自分の衿を引き合わせるでもなく、座り直した。
「ある物を、まず見よ。それでも足りぬ物があれば申せ」
「私が、見てもよろしゅうございますか」
「着る物を聞いておるのは、そなたであろう」
紗季は頷いた。
信長が立つと、隣に控えていた槙へ声を掛け、衣を預かる者に伝えるよう命じる。こちらの名を使って勝手に箱を開けさせる必要はなかった。
その声を聞いた途端、紗季の頭の中では、衣の色と袴と髪が、まだ見ぬ会見の座へ一度に並び始めた。
*
翌朝、庭へ向いた一間には、衣を納めた箱が二つ運ばれてきた。
板戸を開け、敷物の端を寄せると、箱の置き場はできたが、人の座る場所が減った。紗季は机を動かそうとして、槙にまず紙を片づけるよう言われる。
文箱を棚へ戻し、筆を横へよけ、ようやく蓋が開いた。
長く閉じていた箱から、木と畳んだ布の匂いが立つ。
「こちらが肩衣。こちらは、合わせてお召しになった袴でございます」
衣を持ってきた男が、箱の縁へ手を添えて説明した。
紗季は一つずつ、槙に広げてもらう。槙が肩の所を持って起こすと、前が左右に開き、その間から槙の小袖が見えた。腕を覆う袖はなく、肩から前へ垂れた布を、お梅が下から支える。思い描いていた裃の形とは違っていた。芝居や映像で見た姿を、そのままここへ持ってくるわけにはいかない。
お梅が布の端を少し持ち上げると、庭から入った光が衣を横切った。
「これは、少し明るすぎるかしら」
「お顔へ当ててみなければ、何とも」
槙の返事に、紗季は衣から手を離した。
そうだった。着る本人は、まだここにいない。
「では、こちらを残して、その下の物も」
次を広げる。初めの一枚が悪かったとは思えなくなる。二枚を見比べるため脇へ置こうとすると、さっき片づけた机が邪魔になった。
紗季が抱え直した布の端を、お梅が受け止める。
「姫様。こちらへ重ねますと、どちらが上だったか分からなくなります」
「ええと……今、持っている方を右へ」
「右には、袴がございます」
紗季は部屋の真ん中で立ち止まった。
槙が笑いをこらえるように目を伏せ、男は箱の蓋を壁際へ立てかけた。
「広げるのは、二つまでとなさいませ」
槙に言われ、紗季はようやく腰を下ろした。
これまで女たちの衣を仕立てる時には、着る人が何をして働くかを聞いてきた。夫の物になると、本人へ尋ねる前から、立派に見える一枚を選び出そうとしている。
「三郎様は、ほかにも御用意を」
尋ねると、男は、殿のお手元にある物もございますと答えた。
自分が見れば全て分かる、という話ではなかった。
紗季は紙を一枚出し、衣を置いた順を書きかけて、筆を止める。
「美濃の父とお会いになる時の物は、お決まりでしょうか。いくつか拝見いたしました。お時間のよろしい折に、こちらでも合わせて御覧いただきとうございます」
声にしてから、短く書き直した。
『御対面の日のお召し物につき、拝見した中から二つを残しております。どちらを用いるか、お顔に合わせて伺いとうございます。お時間をお知らせくださいませ。
帰蝶』
槙へ渡す前に、右へ置いた衣と左の衣をもう一度見る。二つまでと決めたばかりなのに、箱へ戻された一枚が気に掛かった。
今さら三つと書き直すのはやめた。
*
信長は表の部屋で、槙から受け取った文を開いた。
二つを残している。
その二つが何か分からぬまま、妻は顔へ合わせたいと書いている。昨日の、心配で仕方がないという目つきが浮かんだ。
「もう、並べておるのか」
「はい。お許しのあった箱を、今朝」
槙は、妻がどれほど部屋を狭くしたかまでは言わなかった。
信長は紙へ目を戻す。好きに整えさせておけばよい、と考えかけた。だが、それで着ぬと答えれば、あの二つを選ぶまでの手間も人も、また動かすことになる。
筆を取り、同じ紙へ返事を書いた。
『明日の昼過ぎに見る。長袴はこちらにある。ほかの袴を繕わせるには及ばぬ。』
乾くのを待つ間、別の箱を持ってくるよう命じた。
妻に身なりを決められるのは、愉快なことばかりではない。舅に侮られたくないというより、父に叱られにいく子を送り出すような顔で見られるのが気に入らなかった。
それでも、自分の用意を一言も知らせず、当日だけ着て見せれば済む相手ではない。
「この紙を戻せ。長袴の箱は、こちらで開ける。今、奥へ運ばせるな」
槙が承知して立つ。
机の脇へ置かれた箱へ、信長は手を伸ばした。
*
「長袴が、おありなのですね」
返書を読んだ紗季は、先に広げた袴を見た。
こちらの裾を直してもらおうかと、もう考えていたのである。まだ縫い手へ頼まずにいてよかった。
信長の字を読み終えると、佐和へ紙を見せ、用いる袴は別にあると伝えた。佐和を表へ走らせる頼みではない。奥で手を入れる必要のある物を、確かめてもらうためだった。
佐和は肩衣の脇を裏返した。
「こちらは、少し糸が緩んでおります。今なら、およねに見てもらえましょう」
「全部、縫い直すほどでは」
「ほどいて確かめる前には、申し上げられません」
紗季は頷いた。期限が近いからと、見てもいない仕事を小さな用にして頼むわけにはいかない。
およねへは、来られるかを先に尋ねてもらった。その日のうちに、明朝なら少し寄れるとの返事がある。
衣はすぐ畳まず、日が傾くまで風へ当てた。
廊下で、小袖を抱えたすえが通りかかった。
白い糸が一筋、衿の内側に見える。借り糸は、あの雨の日だけの工夫で終わってはいなかった。
紗季が目をやると、すえは足を止めた。
「お借りしていた分を、返すところでございます」
「ええ。お待たせしては悪いわね」
それ以上、誰の物かを聞かなかった。すえは軽く頭を下げ、貸してくれた相手の方へ歩いていく。
紗季はその背から、畳みかけた夫の衣へ視線を戻した。
*
翌朝のおよねは、肩衣の脇へ細い指を入れ、表からは見えなかった糸の緩みを引き出した。
「布は傷んでおりません。ここを留め直せば」
紗季は息をついた。
「今日のうちに、お願いできますか」
「こちらだけでしたら。ほかにもございますか」
もう一枚を見せかけ、紗季は手を止めた。およねは、少し寄れると言ったのである。目の前へ増やしてしまえば、断りづらいかもしれない。
「今日は、こちらだけを。もう一枚は、まず私どもで確かめます」
およねは返事をし、衣を膝へ広げた。
紗季は針の進む手元から、戸口へ顔を向ける。昼過ぎに来るという信長へ何を合わせ、どちらを先に見せるか。考えるほどに、昨日は箱へ戻した方がよかった気がしてくる。
「槙。初めに戻した、あの色の物は」
「二つまで、ではございませんでしたか」
およねの指が、ほんの少し止まった。
紗季は咳払いをして、肩衣へ向き直る。
「……今の二つで、お願いいたします」
針がまた動いた。
昼の膳を下げる頃、表から、信長の用が少し延びるとの知らせが来た。
こちらへ来る前に聞く話が一つ増えたので、終わり次第参るという。
紗季は、針箱を片づけるおよねの横で返事をした。
「承りました。お知らせくださって、ありがとうございますと」
使いの男が下がる。
庭の光はまだ高い。紗季は座り直し、初めの一枚を膝へ置いて待った。
*
信長が来ると、紗季は立つ途中で、畳んだ衣の包みに裾を引っ掛けた。
足を戻した拍子に、お梅の置いた帯の端が膝から落ちる。拾おうとする前に、お梅が取り、槙が箱を少し引いた。
夫は戸口で部屋を見回した。
「俺は、どこへ座る」
紗季は自分の座を指し、そこにも衣があると気づいて抱え上げた。
「こちらへ、どうぞ」
信長は、用意してきた箱を供の男から受け取らせ、隣の間へ置かせた。男を下がらせてから、槙へ蓋を開けるよう言う。
紗季はそちらを見たくなったが、先に残した二枚を夫の前へ広げた。
「こちらと、こちらで迷っております」
「そなたは、どちらじゃ」
「こちらの方が、お顔が明るく見えるかと。ただ、こちらは落ち着いて見えますし、父上の前では」
そこまで言って、二枚を入れ替えた。
信長は、今しがた脇を留め直した方へ手を置く。
「これでよい」
「もう一方を当ててからでも」
「そちらは首の辺りが浮く。動けば、なお浮く」
紗季は衣を持ち上げた。槙が後ろへ回り、肩へ掛けるのを手伝う。
信長が腕を動かすと、紗季にはさほど違わぬように見えた衿の辺りが、確かに変わった。布が顔へ寄り、片側だけ折れ目が崩れる。
「……本当ですね」
外して別の一枚を合わせる。信長は自分で前を整え、座って膝へ手を置いた。
それだけで、紗季は口を閉じた。
いつもの髪のままである。下に着ている物も普段のまま、帯の辺りもまだ整っていない。それでも、肩から落ちる布と、動かずにこちらを見る顔が、一緒になった途端、さっきまで箱の前で迷っていた自分だけが、ひどく落ち着きなく思えた。
「どうじゃ」
「そちらが、よろしいと思います」
信長が頷く。
隣の箱から長袴が出されると、紗季は膝を引いて場所を空けた。槙が腰紐の付いた所を手前へ置き、左右に分かれた袴の脚を広げる。折り重なった裾をお梅がさらに延ばすと、隣の包みに届き、紗季は慌てて包みを退けた。深い色の布が、空いた畳の上をなお先へ延びていく。
「長い……」
声が漏れ、お梅が顔を伏せた。
紗季は慌てて口を閉じる。長袴という名を知らなかったのではない。衣を運び、畳み、実際に座る場所まで考えて見たことがなかった。
「三郎様は、これで歩けるのですか」
信長が、ゆっくり妻を見た。
「俺が着る物じゃぞ」
「はい。それは、承知しております」
お梅の肩がわずかに動き、紗季はそちらを見なかった。
顔が熱い。夫に恥をかかせぬようにと考えていた自分が、長袴を前に一番余計なことを言っている。
信長は衣から手を離し、長袴の折り目を確かめた。
「裾を詰めるなよ」
「いたしません」
今度は、はっきり答えた。
*
信長は肩衣を外しながら、妻が二枚を見比べていた顔を思い返した。
舅に会うのは自分である。濃が一緒に座り、言葉を代わってくれるわけではない。それでも、こちらが何を着るかへ、これだけの手間を掛ける。
自分が何も知らずに美濃へ行くと思われているようで、面白くない気持ちは残っていた。
だが、たった一枚を見せて、これは着ぬと言えば済ませられるのは、自分の方だけだ。濃には、また選び直す時間が要る。
「父上の前で、俺がしくじると思うか」
紗季が、畳みかけていた手を止めた。
「いいえ」
「では、なぜそう案ずる」
妻はすぐには答えなかった。
廊下から風が入り、広げた袴の端が動く。お梅がそっと押さえた。
「会っていただく前に、見るのをおやめになったら、嫌なのです」
信長は眉を動かした。
「父上にも、三郎様にも。相手はこういう者だと、それだけでお決めになってしまわれたら」
妻の目が、自分の衿元へ落ちる。
信長も、先に目に入った物から人を量る。衣のよい男が、その通りに役へ立つとは限らぬことも知っている。それでも初めに何を見るかは、後の言葉を変える。
「舅の方が、俺を見ぬまま済ませるなら、それまでじゃ」
「私は、それでは困ります」
返事が、今度は早かった。
妻は自分で驚いたように唇を結び、少ししてから言い足す。
「父上のことも、三郎様のことも、大切ですから」
信長は外した肩衣を膝へ置いた。
よく出来た衣に仕立てて、双方を同じ座へ並べようというのか。その通りに座る男ばかりではないことを、濃は嫌というほど知っているはずだった。
それでも、やめられぬのだろう。
「これは着る」
選んだ一枚を示した。
「長袴も、持って参る。腰の物は、俺が用意する」
紗季は顔を上げ、ようやく頷いた。
槙が長袴を畳み始めると、紗季も裾を持ち上げ、左右のひだが重なるのを待った。折れ目に沿って長い布を手前へ返していく。座の前を塞いでいた袴が元の箱の幅に収まると、二人でそっと中へ下ろした。
*
紗季はその晩、土田御前へ文を書いた。
信長と利政の対面が決まったことは、表からも末森へ知らせるという。こちらは、母として息子を送り出す義母へ、自分から伝えたい言葉だった。
会見の衣を整えています、と書き、そこで筆を止める。
安心してくださいと言い切ってよいのだろうか。父の前でどう振る舞うかまで、自分が約束はできない。
『御対面の日のお召し物は、三郎様にも御覧いただき、支度を進めております。御出立の折、お見送りにお越しいただけましたら、私も心強く存じます。
帰蝶』
書き終え、お梅へ乾かす間を見てもらった。槙に託す前、もう一度、出立の折という所を読む。
土田御前が来てくださっても、衣を選び直していただく用ではない。母の顔を見て発つことが、夫にとって何になるかは分からない。それでも、知らぬうちに息子が行ってしまったと、後から聞いてほしくはなかった。
*
末森の土田御前は、那古野から来た文を膝へ置いた。
利政との会見の話は、先に使いから聞いている。若い息子が亡夫に代わって美濃と向き合う。それを思うと、三郎は何を着るのかより先に、何を口にするのかが気に掛かった。
帰蝶は支度を進めていると書いている。
自分も那古野へ行けば、つい、こうせよ、ああせよと言いたくなるだろう。先に気づけば、それで息子を助けられると思ってしまう。そうして三郎が顔を背けるのを、また見るのかもしれない。
土田御前は文を開き直した。
嫁は、選んでほしいとは書いていない。見送ってほしいと頼んでいる。
「返事を持たせます。少し、待つように」
使いへ伝えさせ、筆を取った。
『出立に合わせ、那古野へ参ります。そなたも支度に追われ、食事を疎かにせぬよう。』
同じ紙の空きへ書いた後、署名を添える。
行ったからといって、三郎が素直に頭を下げるわけではない。帰蝶の頼みを受けることと、息子の振る舞いをよしとすることは、別だった。
墨が乾くと、返書を使いへ戻した。
*
返書が那古野へ着いた頃、清十郎は門から倉前まで、空の衣箱を運んでいた。
表で使う包みを整えるため、外から届けさせた物である。受け取った数を確かめ、蓋のずれぬよう抱え直すと、孫四郎が脇へ来た。
「奥へ持っていくのか」
「倉前で渡す」
答えると、孫四郎は箱の角へ手を添えた。
この若者も供の支度の手伝いに追われているらしい。腰へ手をやる暇も惜しいとばかり、次の用を気にしながら歩いていた。
「美濃の殿は、そんなに恐ろしい方か」
清十郎は箱から顔を上げる。
「なぜ、俺に聞く」
「お前は、美濃から来たであろう」
そう見られることを、今さら思い出した。
知っていることならある。口にすべきでないこともある。その二つを並べ、聞かれた方へ全て出すわけにはいかなかった。
「問われたことには、考えて答えた方がよい」
「それは、どこの殿にも同じではないか」
孫四郎の声へ、清十郎はわずかに笑った。
「そうだな」
それ以上は言わず、箱を軒下へ下ろす。奥の女が受け取りに来るまで、二人で数を確かめた。
自分はこの箱を渡して、ここに残る。
清十郎は空になった手を見た後、次の荷へ向かった。
*
お梅は、選ばれた肩衣を包む前に、もう一度、脇の縫い目を見た。
糸の緩みは留め直され、表から見ても、そこへ針が入ったとは分からない。紗季は帯と袴の紐のことを確かめに、隣の間へ行っている。
父上と三郎様は、何をお話しになるのだろう。
美濃へ出した秋の文には、町を歩く殿の姿を書いた。衿を開き、腰へ物を付け、若者と笑っていた姿である。
目の前の衣を着た姿は、あの文にはない。
お梅は衣の端を揃えた。自分が見て書いたことは、嘘ではなかった。けれど、あれを読んだ殿が、三郎様をどんな人だと思うかまでは、書いた時に考えきれていなかった。
今からもう一通、と考え、包みへ掛けた指を止める。
何を伝えるのか。新しい衣を着ると姫が言っていた、と知らせるために、また裏で人を待つのか。
「お梅。まだ、包まないでおいて」
戻ってきた紗季へ顔を上げた。
「持っていく物を、三郎様ともう一度確かめたいの」
「はい」
お梅は紐を膝へ戻した。
姫は自分の顔を見て、何も尋ねなかった。何を渡していたのかと聞かれたあの日から、そうだった。
隠している物があるせいで、今頼まれた支度まで、疎かにしたくはない。
折った布の角を戻し、包む時に皺が寄らぬよう、敷き直した。
*
出立を前にした夕方、紗季は、持っていく物の控えを信長へ見せた。
肩衣、長袴、帯、足袋。誰がどの箱を預かるかは、表の者と槙が確かめている。紗季が全部を抱えて門まで運ぶ必要はない。
それでも、紙へない物が一つ見つかるたび、また衣の脇へ戻ってしまった。
「髪は、いかがなさいますか」
「その日に結わせる」
「いつものままで」
聞きかけて、信長の目を見た。
夫は、こちらが次に何を言うかを待っている。
「……お顔が、よく見えるように」
紗季が言い直すと、信長は紙へ目を戻した。
「道中の用と、対面の用を、一つに詰めるな」
控えの上を指が動く。
「濡れれば、全部出さねばならぬ。使う時に取り出せるよう、分けよ」
紗季は槙を見る。槙が頷き、紙へ印を添えた。
信長は、こちらの支度が見た目だけで終わらぬよう、運ぶ間のことも考えている。衣が似合うかどうかで迷っている間に、夫の方は、すでに会見へ向かう道を見ていた。
「ほかには」
問われ、紗季は控えの空きを見た。
利政へ伝えてほしい言葉なら、いくらでもあった。顔を見たい。新九郎は元気か。美濃の庭は、今どんな様子だろう。
だが、それをこの紙へ全部書きつければ、夫の対面へ自分の里帰りまで背負わせてしまう。
「父上に、お変わりございませんかと。まず、それだけ」
信長は頷き、紙を返した。
「そなたが、それだけで済むか」
「後で、増えるかもしれません」
「今のうちに、考えておけ」
立つ前に、信長は隣の間へ目をやった。衣の包みが口を開け、まだ畳まれていない紐が、その脇へ置かれている。
「濃。もう一枚、箱を開けるなよ」
紗季は顔を上げた。
槙を見ても、お梅を見ても、二人は何も言わない。
「開けません」
少し遅れて答えると、信長は笑って部屋を出た。
その笑い声が廊下を遠ざかる間、紗季は控えを持ったまま、しばらく座っていた。
自分が選び、夫が着ると言った衣は、そこにある。
初めは父に何と言われるかが心配で、次には夫が何を着るかばかり気になった。どちらへも、こうしてほしいという言葉が増える。
控えを机へ置き、紗季は庭の方へ向いた。
信長が、供の男へ何かを命じながら歩いている。肩衣を外した後の、いつもの姿だった。風に動く裾が柱の向こうへ消え、男が後を追う。
紗季は立ち上がりかけた。
不意に、その動きが止まる。
「姫様?」
お梅に呼ばれても、すぐには答えなかった。
もう一度、膝へ腰を下ろす。畳んだ衣の端へ指を添え、やがて顔を上げた。
その口元に、悪戯を思いついた娘のような笑みが、そっと浮かんだ。




