四十五話 平手政秀の死
庭の葉影が廊下から消えても、信長は来なかった。
紗季は膝の上で重ねた手をほどき、机の紙へ目をやる。
『明日の夕刻、参る。槙は隣に控えておれ。』
昨日、この字を読んでから、何度も言うことを考えた。顔を見れば腹が立つかもしれない。声が出なくなるかもしれない。それでも、自分から会いたいと書いたのだ。
隣の間で衣擦れがした。
「姫様。表へ、もう一度伺いましょうか」
「まだ、何の知らせもないのね」
「はい」
槙は、それ以上を付け足さなかった。
紗季は庭へ顔を向ける。夕方まで開けていた板戸の向こうで、木の幹が一本ずつ見えなくなっていく。待っていれば来ると思いたかった時間は、もう過ぎていた。
「いらっしゃれないなら、そう仰せになればいいのに」
小さく言ったつもりが、声の終わりだけ強くなる。
槙が部屋の境へ膝を進めた。
「お食事を、お運びしても」
「ええ。皆も、先に食べて」
そう答えてから、紙をつかんだ。畳むはずの指に力が入り、信長の字の脇へ斜めの折れ目がつく。
「来ると、ご自分でお書きになったのよ」
槙を責めたいのではない。分かっているのに、黙っていられなかった。
「私が待つと、分かっていらっしゃるのに」
部屋を整えてくれた槙も、お梅も待っていた。一人で怒って済むことにさえしてくれない。
紗季は紙を机へ置き直した。
「もう、今日は待たない。戸を閉めてください」
槙が立った。戸が溝を擦る音を聞きながら、紗季は顔を背ける。泣き出すより先に、腹が立っていた。会わずに済ませた夫が、こちらの勇気までなかったことにしたようで、それが何より悔しい。
運ばれてきた膳の前へ移っても、空けておいた座が視界に残った。
*
同じ夜、那古野の表寄りの部屋で、信長は読み終えた書付を裏返した。
取次ぎの男は帰らずにいた。
「ほかに、何じゃ」
「奥より、お約束のことで」
筆を置いた音が、自分でも大きく聞こえた。
行けばよい。ここから立って、廊下を渡ればよいだけだった。夕刻には一度、立ちかけてもいる。
妻は隣に槙を置くという。何かあれば人を呼べる場所でなければ、自分とは話せぬのだ。そのことを承知して返事を書いたくせに、時が近づくと、その座へ行って頭を下げる自分の姿ばかり浮かんだ。
誰にも見られず、二人だけならば。
そう考えるたび、ではなぜ濃は人を置くのかと、別の声が返ってくる。
「今夜は行かぬ」
男の額が下がった。
「そのように、お伝えして」
「よい」
遮った後の静けさで、自分が何を止めたかを知る。
男が去ろうとした時、信長は呼び止めた。
「奥の用は、今までどおり通せ。佐和を使いへ呼ぶなとの申し付けも、変わらぬ」
「承知いたしました」
命じれば、その用は動く。
信長は裏返した紙をまた表へ返した。すでに読み終えている。次にすることも決めてある。それでもしばらく、同じ行を目で追った。
*
五月の雨が続く頃、紗季は縫い上がった佐和の小袖を、本人へ渡した。
佐和は袖へ腕を通し、手首を動かしてみる。あの日からかばっていた手を、今は自分で膝へ下ろせる。それでも重い水桶まで以前と同じように任せる気にはなれず、紗季は本人と槙の話を聞きながら、用を少しずつ戻していた。
「すえさんの借り物は、返せたそうね」
「洗い上げて、先日。貸した者も、ようやく受け取りました」
佐和の声に笑いが混じる。返そうとすると、また雨になるから持っておけと言われたのだという。
紗季も笑った。二反全部が一度に衣へ変わったわけではない。残りの布と持ち帰った仕事を槙が確かめ、来る日の違う縫い手たちへ渡す。その間に、納め手へ銭を渡し終えた知らせも、表から槙を通じて届いた。
ようやく一つ終わると、ほかの用が見えてくる。
夏の衣に使う糸の色を前に、およねが首を傾げた。
「こちらを全部、同じ色になさいますか」
「揃っていた方が、分けやすいかと思ったのだけれど」
「同じにいたしますと、洗った後、誰の物か迷うことも」
紗季は並べた糸を見た。学校では持ち物へ名を書いた。ここで同じことをしようと考えるより先に、およねは衿の内側を示していた。
「糸を変えて、少し縫い置けば。こちらで分かるように」
「それなら、着る方にも見ていただきたいわ」
自分だけが気の利く方法を知っているわけではない。その小さな印を誰が見分けるかまで考えて、初めて役に立つ。
紗季が佐和へ相談しかけた時、廊下で槙が立ち止まった。
平手政秀の来訪を告げる声がした。
政秀は奥へいきなり踏み込まず、取次ぎを経て、紗季の返事を待っていた。庭向きの部屋へ迎えると、雨を避けてきた衣の裾に濃い染みがある。
「お足元の悪い中を」
「殿へ用がございましてな。帰りに、お目通りが叶えばと」
槙が間に置いた敷物へ座り、政秀は袖の内から小さな紙包みを出した。美濃からの品ではない。表へ来た商人が持っていた糸を、見本に分けさせたのだという。
「奥でもお使いかと存じましたが、もう揃っておいででしたか」
「いえ。こちらは、まだ見ておりません」
開けると、思った色と少し違った。およねに見てもらおうと口にしかけて、紗季は顔を上げる。
「これは、こちらで買うとお返事をした品ではございませんね」
政秀の眉が動いた。
「無論。気に召さねば、それまでのこと」
「では、そうお伝えください。来てもらう時も、何をいくつ買うかは、見てからにいたします」
品を見せてもらっただけで、買う約束をしたように伝われば困る。こちらの一言で、町の者が仕入れを増やしてしまうこともある。
政秀は、包みへ目を落としてから頷いた。
「仰せのとおりに」
用が済んでも、すぐには立たない。
紗季は、政秀が次に何を言うかを待った。夫婦のことを尋ねられたなら、どう答えるだろう。傷はもう、人目に分かる色ではない。それだけで、元に戻ったとは言いたくなかった。
「三郎様とは、お話しになれましたか」
曖昧な笑顔を作るのをやめた。
「約した日に、お越しになりませんでした」
政秀の指が膝の上で止まる。
「その後は」
「奥の用へは、お返事をくださいます」
言わなかった分まで伝わったのか、政秀はしばらく口を開かなかった。
「私からも、申し上げましょう」
「平手様」
紗季は呼び止めた。
「私を呼びつければ済むというお話には、なさらないでください」
政秀の顔を見たまま続ける。
「私も、会わずにいたいわけではないのです」
声が思ったより弱くなり、唇を結ぶ。強く言い直す必要はないと、今度は自分へ言い聞かせた。
政秀は深く頭を下げるでもなく、こちらを見て、確かに承ったと答えた。
*
政秀は那古野を出る前に、もう一度、信長のもとへ戻った。
先ほどまで開かれていた荷の控えは片づき、主は立ったまま、男へ明朝の用を命じている。誰をどこへ走らせるか、途中で何を聞かせるか。その指図に迷いはなかった。
男が退出すると、信長が政秀を見た。
「帰ったのではなかったか」
「濃姫様へ、お目通りして参りました」
それだけで、主の顔から話す気配が消える。
政秀には、若い頃の主の顔も、その父の顔も浮かんだ。父君ならば、と言えば、信長はますます聞かなくなるだろう。先代の言葉を持ち出せば何でも通せるという振る舞いは、ほかの者にもさせたくなかった。
「約束なされたのであれば、次はお守りくだされ」
「奥の用は、滞らせておらぬ」
「用の話だけではございますまい」
信長は棚から一通を取り、政秀の前へ置いた。
「これを明日までに確かめよ。返事をせぬ者がおる」
文を受け取らずにいれば、諫めるため主の用を拒んだことになる。受け取れば、また話を切らせることになる。
政秀は紙へ手を伸ばした。
「確かめまする。それとは別に、今申し上げたことを、お聞きくだされ」
主は答えなかった。
紙の折り目を押さえながら、政秀は立つ。用を果たすたび、まだ自分の言葉は届くと思いたくなる。今日は届かなかったということも、分けて覚えておかねばならなかった。
外へ出ると、雨はやんでいた。供の者が差しかけた物を下ろし、足元へ目をやる。
「もう一度、濡れる前に参ろう」
明日までに返事を取らねばならない。政秀は紙を濡らさぬよう袖へ収め、待たせていた者たちと門へ向かった。
*
夏の末、末森の土田御前は、戻ってきた寺向けの布の控えを、勘十郎から受け取った。
春に預け先を確かめさせた品である。先に納めた分と重ならぬよう数え直し、残りも寺へ届けさせたと、息子は言った。
「お預けしていた者には、受け取った先の名も聞かせております」
土田御前は、紙だけで済ませず、戻った者にも会うように言った。勘十郎が承知すると、脇で待つ男が別の相談を口にした。
那古野へ届けた話の返事を、こちらで待たせてもらいたいという。
「何の用です」
尋ねる母より先に、勘十郎が顔を上げた。
「母上。兄上へすでに申し上げた用ならば、まず、どなたへ託したか聞かねばなりませぬ」
男は一度言葉を止め、名を答えた。
那古野で却下された頼みを、こちらで通そうとしているのかもしれない。土田御前にも、それくらいは分かる。それでも、目の前で人の話を聞き、道筋を確かめる息子を、頼もしく思わずにはいられなかった。
「では、その者から返事を取りなさい」
男を下がらせた後、土田御前は息子を引き留めた。
「そなたなら、あのように人を待たせはせぬでしょうね」
勘十郎は控えを畳んだ。
「私にはまだ、兄上の用の全ては分かりませぬ」
慎んだ答えを聞いて、かえって言いたくなる。
「分からぬままに騒ぐ者より、そなたはよく聞く」
庭では市が、おとせへ何かを見せていた。細い枝を拾ってきたらしい。母を呼ぶ声へ、土田御前は返事をする。
あの子が大きくなるまで、誰がこの家を保つのか。
三郎が町でどんな姿をしていたか、訪ねてくる者は、言わずともよいことまで話していった。息子を見もしない者の言葉へ、いちいち頷くまいと決めている。それなのに、勘十郎の整った衿元を見ると、こちらの子ならばという思いが、また戻ってきた。
*
九月、那古野の町へ糸を見に出たお梅は、槙と並んで店の軒下に立っていた。
日を決めて奥から出てきた用であり、帰りにも取次ぎへ知らせることになっている。風に乗って、焼けた物の匂いが流れてきた。槙が品を包ませている間、お梅は往来へ目を向ける。
先に気づいたのは、道を行く男たちだった。声が下がり、道の端へ寄る。
開いた衿に、腰へ無造作に付けた物。信長は供の若者へ何かを言いながら、歩いてきた。人々の視線を気にするでもなく、途中で足を止め、荷を下ろした男へ問いかける。
若者の一人が笑った。信長も口の端を上げる。
「また、あの御姿で」
店の奥で誰かが囁き、別の声が、しっと制した。
お梅は顔を引いた。姫様がご覧になれば、また何か仰せになるだろうか。
春から、夫婦が揃って座るところを見ていない。用の返事は来る。品も届く。だが、信長が姫の部屋へ来る足音はしなかった。
「お梅。これも持てますか」
槙の声へ振り向いた。渡された包みは軽い。
お梅は両手で受け取り、槙と一緒に帰った。
その晩、自分の寝所で紙を出しても、すぐには書けなかった。
美濃の殿から命じられている。姫の様子、尾張の様子を知らせるため、文を託してきた。以前は、息災でおられる、母御前のもとへ行かれたと書けばよかった。
今、何を書けばよいのだろう。
お梅は筆先を紙へ下ろした。
『三郎様、町へお出ましの折、衿を広く開き、腰に種々の物をお付けになり候。供の若き衆と御歩きになり、人々は道を避け候。大うつけとの囁きも、なお聞こえ候。姫様は息災にて、奥の衣の仕立てなど御差配なされ候。』
書いた後で、姫は本当に息災なのかと思う。
口の傷は塞がった。自分も普通に食べている。だが、それだけを知らせれば、春のことはなかったように見える。
筆を持ち直し、しばらく紙の空きを見つめた。
姫が夫へ何を言ったか、自分がどう蹴られたか。それを書けば、美濃の殿はどうなさるだろう。姫のためになると思い切れるほど、お梅は殿の御心を知らない。
続きを書かず、乾いたところから畳んだ。
姫の暮らしを守ったつもりで、隠しただけかもしれない。その思いは、紙と一緒には畳めなかった。
*
数日後、紗季は渡り廊下の端で、お梅の手から小さな紙が離れるのを見た。
受け取った男は、美濃から来た使者だった。表での用を終え、帰る前に、奥の荷を受け取る場所へ寄っていたのである。お梅の母へ届ける品かと思ったが、包みはない。
以前にも、似た光景を見た。
男の袖へ紙が収まると、お梅は頭を下げた。紗季は柱の陰へ隠れはしなかったのに、二人はこちらを見なかった。
その場では声を掛けず、戻ってきたお梅へ、部屋で尋ねた。
「さっき、美濃の方へ、何か渡していたでしょう」
お梅は糸の包みを棚へ置き、振り返った。
「何のことでしょう」
「門へ戻る途中の方に。紙のような物を」
お梅の手が棚から離れる。
「人違いでは、ございませんか」
紗季はすぐには答えられなかった。
間違ってはいない。毎日、同じ部屋で顔を見ている。少し離れた所にいたからといって、お梅をほかの者と見違えはしない。
「……そう」
その一言で終えた自分にも、驚いた。
母への私信なら、そう言えばよいのに。何か、言いたくないことがあるのだろうか。
問い直せば、今の言葉を嘘だと決めて迫ることになる。お梅はまっすぐ立っていた。口元の傷を見た時とは違う気まずさが、二人の間に残る。
紗季は机の方へ戻った。
「糸を、見せてくれる?」
お梅が包みを持ってくる。
それからは、誰に何を渡したのかと、尋ねなかった。
*
美濃の利政がその文を開いたのは、秋の雨が稲葉山を濡らす日だった。
尾張から戻った使者は、ほかの用を申し上げた後、命じられたとおり人を離した所で紙を差し出した。利政は受け取り、退出を許してから読む。
町を歩く婿の姿が、短い文面から浮かんだ。
帰蝶は、あれに何と言っているのか。
娘から来る文には、日々の暮らしがある。誰と会い、何に手を焼いたか。だからといって、その字の間に婿の姿まで見えるわけではない。お梅に知らせさせている理由は、そこにあった。
紙を読み返していると、外で作兵衛の到着が告げられた。
利政は文を畳み、手元の箱へ入れてから通させる。
「申し付けた先は」
「尋ねて参りました。こちらに控えてございます」
作兵衛は持ってきた書付を差し出す。利政が目を通す間、余計なことは言わなかった。
「尾張のことは、何か聞いたか」
問われてから、作兵衛は顔を上げる。
「姫様には、衣の仕立てをお進めとのこと。戻った者が申しておりました」
「婿のことじゃ」
「町の噂ならば、いくつかは」
確かなこととして申し上げる話ではない、と続く。
利政は、作兵衛の置いた紙へ目を戻した。この男は娘が何者か知っている。それでも、こちらが告げぬことまで知っているわけではない。
「よい。まず、この用を聞こう」
箱の蓋へ手を置かず、作兵衛の報告を促した。
*
冬に入ると、那古野の朝の板廊下は、足の裏から冷えた。
清十郎は倉前で、濡れた縄を軒下へ移していた。門から倉までの用なら、今は一歩ごとに人を付けられない。それより先へ出る時は違う。腰には相変わらず刀がなく、外へ一人で出る許しもなかった。
孫四郎が門の方から歩いてくる。足取りが速い。誰かへ言い返す言葉を飲み込んできた時の顔だった。
「町の者まで、殿を笑う」
清十郎は縄を掛け直し、続きを待った。
「お前なら、腹が立たぬか」
「立つことはある」
「ならば」
「ここで俺に言った後、どうする」
孫四郎は口を閉じた。清十郎も、叱る言葉を重ねなかった。自分の怒りが正しいと思い、その先を見ずに刀へ手を掛けた昔を、他人への説教にして済ませられはしない。
倉の男が二人を呼んだ。孫四郎は振り向き、何を運ぶのかと尋ねる。
清十郎が横へ並ぶと、小さく舌打ちが聞こえた。それでも、若者の手は腰へ行かなかった。
荷を渡す場所で、奥から出てきたお梅に会った。
以前、口元をかばっていた頃より、声がはっきりしている。清十郎はそれを聞いてから、包みを下ろした。
「姫様は、お変わりなく」
「はい。今は、お市様へのお文を」
お梅はそこで言葉を切り、品を数え直した。
何かほかにあるのかと尋ねたかった。だが、女の言葉を自分に都合よくほどこうとするのも、違うと思う。姫がどこで何を待っているのか、自分が一番知っているとは、もう言えなかった。
「冷える。戻る時は、足元を」
それだけ言うと、お梅は一度顔を上げた。
「篠原様も」
女が荷を持って廊下へ戻る。清十郎は孫四郎と倉へ向かった。案じるだけでは果たせぬ用が、まだ目の前にあった。
*
十二月の那古野で、政秀は、信長の前へ二つの書付を並べた。
一つは那古野で受けた頼み、もう一つは、末森へも同じ話を持っていった者の申し立てだった。
「返事を取りに参りますと、勘十郎様のお耳にも入れたと申しまする」
信長は先に出した返事を読み、次の紙へ目を移す。
「母に言えば、通ると思うたか」
「両方へ頼めると思わせては、これからも続きまする」
「ならば、先の返事を持たせよ。変えぬ」
政秀は承知した。正すべき筋を主は分かっている。だが、母へ何と伝えるかを尋ねると、信長の顔つきが変わった。
「そなたから申せ」
「殿からも、一言なりと」
「用は済んだ」
夏から秋へ、こうした打ち切られ方が増えている。
政秀は二つの紙を重ねなかった。那古野で決めたことと、末森で聞いたことは、同じにしてはならない。間に立つ自分がそう扱えば、また別の話になって届くだろう。
「私がお伝えいたします。ただ、母御前にも、殿のお考えを直接お聞きいただく折が要りましょう」
信長は返事をせず、庭へ向き直った。
父のいなくなった家を、若い主が保つ。長く仕えた自分たちも、それぞれに家を持ち、子を持ち、明日の立場を案じている。皆が織田のためと言い、その先で望むものは少しずつ違っていた。
その間を走り、言葉を足し、時には削った。助けているのか、主が自分で向き合う機会を奪っているのか。政秀は帰りの廊下で立ち止まり、手にした二通を持ち直した。
「平手様」
廊下の先で、紗季が槙と立っていた。
迎春の支度に使う品を見てきた帰りだという。政秀は道を空けようとしたが、紗季の方が脇へ寄った。
「お帰りですか」
「末森へ、参ります」
「今日、これから」
薄い冬の日は、もう傾き始めている。
政秀が頷くと、紗季は槙へ目をやった。
「温かい物を、お持ちして。お待ちいただいてもよいかしら」
ここで一度腰を下ろせるならば、と政秀は答えた。
紗季は歩き出さず、少し離れて待っている。
「私に、まだ何か」
「いいえ。ただ、お忙しいのだと思って」
慰めるための顔ではなかった。そのまま受け取ればよいのに、政秀は危うく、これしきは何でもないと答えかける。
「忙しゅうございます」
口にすると、紗季が小さく頷いた。
「では今だけ、座っていらしてください」
政秀は、案内された端の間へ入った。槙が運んだ器を受け取るまで、二つの紙は、膝の脇へ置いておいた。
*
年が改まり、天文二十二年となった。
紗季には十九になる年、お梅には十八になる年である。美濃で暮らし始めた頃、お梅を一つ下の女の子だと思った自分を、ふと思い出した。今は、その一つ違いより、何を言わずにいるかの方が気に掛かることがある。
正月の那古野へ、市からの文が届いた。
土田御前の添え書きと別に、小さな紙が一枚ある。線は揃わず、墨の濃い所で文字が太っていた。おとせに手を添えてもらった箇所もあると、添え書きに記されている。
「お市様も、数えで七つでいらっしゃいますね」
槙が紙を覗き込んだ。
花をまた見たいと、たどたどしい字で書いてある。春に届くはずだった返事が今になって来たのか、新年に書き直したのか。それは記されていない。
紗季は、紙の端を押さえて読んだ。
「お返事を、今日のうちに書くわ」
書けるようになった文字を褒め、暖かくなったら花を見ようと返す。何かを待たせたままにしないことなら、自分にもできる。
机の文箱には、四月の面会を約した紙が、今も収まっていた。あの晩、折れ目を伸ばしてしまったものだ。
夫は、ともに暮らす館の中にいる。
それなのに、会えないまま年が変わった。
返事を書き終えても、紗季は筆を置けなかった。
政秀が死をもって信長を諫めたという話を、昔、読んだことがある。誰が何を思って死んだかまで、本にある言葉で分かるはずはない。いつだったのかも、細かな月日になると曖昧だった。
この前、温かい物を飲んでいった人の姿は、その一行とは重ならない。
未来の話を知らせる文は書けない。かといって、元気そうに見えたと、それだけで筆を置きたくもなかった。
別の小さな紙を出す。
『先日は、お立ち寄りくださりありがとうございました。寒さの折、御身をおいたわりくださいませ。次に那古野へお越しの折には、少しでもお休みいただけましたら、うれしく存じます。
帰蝶』
頼み事も、夫へ取りなしてほしいという言葉も書かなかった。
槙へ渡す時、これだけでは何にもならないのではないかと思った。それでも、用がなければ来てはいけないような文には、したくなかった。
*
志賀の自邸で、政秀は届いた文を二度読んだ。
持ってきた者に、返事を少し待てと伝えさせる。書き始めるまでに、ほかの者から呼ばれ、手元の用を答え、ようやく筆を取った。
『御心遣い、かたじけなく存じ候。年明けの用済み候わば、参上仕りたく候。』
また用の後にすると書いている。
政秀は紙を見つめた。濃姫は、用があるから来いとは言っていない。だが、何も持たずに那古野へ行き、主と会うのとは別に座る自分を、まだ思い描けなかった。
返書を畳む前に、脇へ一行足す。
『このたびは、温かきもののために。』
年寄りの戯れと思われるかもしれぬ。
それでも、その一行は消さず、使いへ渡した。
門を出ていく足音が遠ざかる。政秀は次の書付を引き寄せたが、端へ指を置いたまま、しばらく開かなかった。
*
その返書を受け取ってから、まだ長くはたたぬ、寒い朝だった。
那古野の表で人の走る音がした時、紗季は火のそばで紙を乾かしていた。
足音は一度途切れ、また別の者が廊下を急ぐ。いつもの到着の知らせにしては、声が低い。
槙が戻ってきた顔を見て、紗季は紙を置いた。
「何があったの」
槙は部屋へ入り、戸口から離れて膝をついた。
「平手様が、お亡くなりになりました」
指に付いた墨が、乾いていく。
「……いつ」
「志賀から、今、知らせが」
問いと答えが、うまく重ならない。紗季は、机へ手を伸ばした。そこに置いてあるはずだと思ったが、返書は文箱へ収めていた。
「お病で」
聞く前から、槙の顔に違うとあった。
「御自害と、承りました」
紗季は立とうとして、膝へ手を置いた。
温かい物を飲みに来ると、あの人は書いた。用が済んだら。年明けの用が終わったら。
自分は、それを読んで笑ったのだ。
「三郎様は」
「お知らせを受けておいでです」
槙の声が、今度は耳へ入った。
紗季は文箱を開けず、その蓋へ手を添えた。続きを確かめる紙は、まだここにある。それでも人は、もう来ない。
*
信長は表の一間で、志賀から来た男を立たせた。
座っている相手の言葉では、意味が変わるのではないかと思った。立たせて聞き直せば、誰か別の者の話になるのではないか。
「平手が、何と」
男は、同じことを申し上げた。
自害。
政秀が。
「いつまでそこにおる。人を遣れ」
脇へ控えていた者が顔を上げる。
「すでに、志賀へ」
「足りぬと言うておる!」
言われた男が、急いで立つ。何人行かせればよいのかと問う者はいなかった。それが余計に腹立たしい。
「平手の家の者は。誰が見た。どこまで確かめた」
答えを聞くたび、政秀が死んだという話だけが、確かになっていく。
信長は最後まで聞かずに立った。部屋の端まで歩いて戻ると、皆が下を向いていた。
「死んで、何になる」
誰も答えなかった。
「言うことがあるなら、来て申せばよかろうが」
いつもそうしたではないか。
また来たのかと言っても、政秀は膝を進めた。用は済んだと言っても、それとは別だと申し上げる。腹が立つほど、終わった話を終わらせなかった。
信長は、男たちを下がらせた。残ろうとした者にも、出ていけと命じる。
廊下の音が消えると、火の燃えるかすかな音だけが残った。
机へ置かれている控えに、政秀の書き足した箇所がある。あとで本人へ聞けばよいと思って、印を付けた所だった。
「爺」
返事はなかった。
信長は紙を持ち上げ、また下ろす。なぜこんな所へ、字だけ残していく。
「誰が、死ねと申した」
言い終える前に息が詰まった。もう一度言おうとして、声が続かない。
命じる相手がいなかった。戻れと言っても、来いと言っても、今度は来ない。なぜ自分がそれを受け入れねばならぬ。
床へ膝をついた時、指が机の端をつかみ損ねた。
*
紗季が表へ近い廊下まで来ると、部屋の前にいた男が頭を下げた。
「今は、お一人になさるようにと」
紗季は足を止めた。
また、会わぬと言われるのだろうか。それなら戻るべきだという気持ちと、今だけは確かめたいという気持ちがぶつかった。
「帰蝶が参ったと、お伝えください。お返事は、ここで待ちます」
男が中へ声を掛けた。
すぐには答えがない。紗季は廊下へ膝をつき、冷えた板に裾を整える。槙が少し後ろへ座った。
やがて、低い声がした。
「……入れ」
紗季は槙を見た。槙は頷き、廊下へ残る。
部屋の戸を開けた途端、信長が顔を背けた。机の脇に座り、紙を一枚、手にしている。濡れた頬を見た時、紗季は入口からすぐには進めなかった。
「あれは、俺に申したかったのか」
何を、と尋ねることはできなかった。
「死ねば、俺が」
信長はそこで言葉を切る。握った紙が鳴った。
「分かると、思うたか」
紗季は、少しずつ近づき、手を伸ばせば届く所へ座った。
政秀の心は分からない。死んだ理由を、今ここで一つの答えにして差し出せば、夫はそれを一生抱えるのかもしれなかった。
「私には、分かりません」
信長の肩が動く。
「ただ、また来ていただきたかった」
それだけは、自分の言葉で言えた。
「来ると、お文をくださったのです。温かい物を、飲みに」
信長がこちらを見た。
怒鳴られるのではないかと思った。自分にだけ届いた文を話して、夫の持たぬ約束を見せてしまった。そう気づいても、今は言葉を戻せない。
だが、信長は紙へ目を落とした。
「俺には、いつも、用を持って来た」
短く笑おうとして、笑えなかった。
「こちらが、用を渡した」
紙を置く手が、途中で止まる。紗季は、その下へ手を差し出した。奪い取らずに待つと、信長がようやく指を離す。
折れた紙を机へ置き、紗季はもう一度そばへ座った。
触れてよいか迷った末、袖の上から腕へ手を添える。信長は振り払わなかった。
「爺は」
続きは声にならなかった。顔を伏せた夫の背が、押さえきれず揺れる。
紗季も下を向いた。何か言うたび、二人の知らない政秀の最後を、勝手に作ってしまいそうだった。
廊下で人が動く音がして、槙が低く応じた。部屋の戸は開かない。
信長の腕へ置いた手を、そのままにしていた。
やがて、信長が息を整えようと、深く顔を上げた。
「お濃」
紗季は返事をした。
「そなたを、打った」
自分の手が、わずかに強張る。
「お梅を蹴り、止めた者まで傷つけた。あの時、言うべきであった。俺が悪かったと」
信長は妻の顔を見た。目を逸らさずに言おうとしていることが、紗季にも分かった。
「参ると書きながら、行かなかった。そなたが待っていることも、承知しておった」
紗季の胸に、閉めた戸の音が戻ってくる。
「その後も、避けた。……すまぬ」
初めて、聞いた。
聞きたかった言葉なのに、聞けばすぐ笑えるわけではなかった。四月から、何度もこの場面を考え、そのたび相手の答えまで自分で作ってきた。そのどれとも違う声で、信長は詫びていた。
「私は、怒っておりました」
信長が頷く。
「今も、あの夜を思えば、腹が立ちます。来られぬと、一言だけでも、くだされば」
「そうじゃ」
「お梅たちのことは、私が代わってお許しすることではございません」
ここで言わなければ、今日夫が泣いたことのために、自分まで何もなかった顔をしてしまう。政秀の死を、その言い訳にはしたくなかった。
「分かっておる。あの者たちへも、俺から申す」
紗季は手を引こうとし、途中でやめた。
「今日、ここにおりますのは、平手様を亡くされた三郎様を、お一人にしたくないからです」
それ以上、うまく言えなかった。
信長は、腕に添えられた手を見た。その上から握って引き寄せることはせず、机の脇へ自分の手を置く。
「……おれ」
紗季は頷いた。
傍らの火が小さくなり、槙へ声を掛けて足してもらうまで、二人は同じ部屋にいた。
*
二日後、お梅は槙に呼ばれ、佐和とともに庭向きの一間へ入った。
信長は奥の座におり、紗季がその横から少し離れて座っている。入口に近い場所を示されても、お梅はすぐには膝を進められなかった。
あの時、足へしがみついたのは自分だ。
そのことをもう一度問われるのだろうか。信長は何を言うのか。佐和の袖が脇へ触れたが、顔を見合わせる余裕はない。
「お梅」
名を呼ばれ、頭を下げた。
「止めに入ったそなたを、蹴った。俺の非じゃ。すまなかった」
目を上げるまで、少し間が空いた。
殿が詫びた。それをどう受け取ればよいのか、教わってはいない。よいのだと申し上げるのも、姫の前で嘘になる気がした。
「……承りました」
声は、それだけ出た。
信長は佐和にも向き直り、制止する手を振りほどき、傷つけたことを詫びた。槙にも、止める声を聞かなかったことを告げる。佐和は長く頭を下げ、顔を上げてから言った。
「表への使いは、今しばらく、ほかの者にお願いいたしとうございます」
お梅は横を見た。佐和の手首は、もう普段の用をしている。それでも怖さは残っていたのだ。
「そのようにせよ」
信長の答えは短かった。
部屋を出る時、お梅は一度、紗季を振り返った。姫は笑って大丈夫だと言わせる顔をしていなかった。ただこちらを見て、頷く。
廊下へ出ると、足の裏が冷えた。
自分の部屋へ戻ってから、お梅は袖の内に手を入れた。今日は紙など持っていない。それなのに秋の文が、そこに残っているようだった。
*
政秀を弔う間も、那古野へ届く用は絶えなかった。
紗季は温かい物を飲みに来るという返書を、文箱の中で、夫の面会の返事とは別に収めた。来なかった約束と、もう来られぬ約束を、同じ気持ちでは開けられない。
信長との間にも、すぐに以前のような夜が戻ったわけではなかった。
用を伝える文へ、短い返事が来る。顔を合わせても、言葉が途切れることがある。それでも一度、話を切って立ちかけた信長が、戸口で足を止めた。
「続きは、明日の夕刻ではどうじゃ」
紗季はすぐには頷かなかった。
「お越しになれぬ時は、お知らせを」
「知らせる」
その翌夕、庭の影が消える前に、信長の足音がした。
槙は隣へ控えていた。紗季は座ったまま、その足音が戸の前で止まり、名を呼ぶのを聞く。
話したのは、奥から出した品の用だった。長い話ではない。帰った後、お梅に何を仰せだったのかと聞かれても、特別なことは答えられなかった。
ただ、今夜は、待ち続けずに済んだ。
庭で梅が開くと、紗季は一枝を選んだ。枝先を詰める手を止め、器へ当ててみる。立て直した花の向こうに、閉じたままの文箱が見えた。
平手様にも、見ていただきたかった。
その思いを、誰かへ急いで言葉にせず、枝の向きをもう少し変えた。
*
春の光が庭へ差す日、信長のもとへ美濃の使者が通された。
広げた文を読む間、使者は敷物の向こうで待っている。娘の暮らしを尋ねるだけの文ではなかった。
信長は読み終えた紙をすぐには畳まず、そばに空いている座へ目をやった。
爺ならば、何と申すか。
考えかけてから、自分で返す言葉を探した。
美濃から、舅との会見の話が来た。




