四十四話
包みの紐を解くと、白茶けた麻布の端が現れた。
清十郎は門脇の台へ片手を添え、倉を預かる男が布を確かめるのを待つ。二反とも、来た。昨日は届くはずの物だったものが、今朝は目の前にある。
荷を運んだ男は、清十郎ではなく、その後ろの取次ぎ役を見ていた。
「こちらで、よろしいので」
受け取る相手が頷くまで、包みに掛けた手を離さない。清十郎にも覚えのある待ち方だった。持ち場へ戻ってから足りぬと言われれば、また来なければならない。
倉の男が布の端を戻し、二つを別々に数える。取次ぎ役が書付へ目を通し、ようやく男に帰ってよいと告げた。
「篠原。奥へ渡す分だ。ここでほかの荷に混ぜるなよ」
「承知した」
清十郎が一つを持ち上げたところへ、前田孫四郎が来た。
去年、名を交わした時より、着物の肩が窮屈そうに見える。こちらへ歩きながら、腰の物が台へ当たらぬよう押さえる手つきには、まだ余分な力が入っていた。
「それを運ぶのか」
「奥の者へ渡す。孫四郎殿にも、同じ用が?」
「倉へ来いと言われた」
背後から来た男に、残る一つを持てと命じられる。
孫四郎はすぐ手を出した。包みを抱え直す時、緩んだ端が台を擦り、白茶の布が覗く。
「土へ落とすな」
倉の男が言った。
孫四郎の顔が上がる。まだ落としてもおらぬ、と言いたげに唇が動いたが、声にはならなかった。布の端を包みへ戻す手を見てから、清十郎は先へ歩き出した。
門と倉の間なら、後ろに見張りの足音は付いてこない。その先は、今も勝手には行けぬ場所だった。
倉前の軒下で足を止めると、孫四郎が横へ並んだ。
「ここで待つのか」
「ここで渡す約束だ」
呼ぶと、奥から荷を受けに来ていた女が、廊下の方から歩み寄った。取次ぎ役も追いつき、届いた二反をこちらへ渡すと申し送る。
清十郎は先に包みを下ろした。
女が数を確かめ、もう一つへ手を伸ばす。その時、孫四郎が急に問うた。
「汚れは、ないな」
女の手が止まる。
清十郎も孫四郎を見た。問いは女へ向いていたが、孫四郎の目は、自分の運んだ包みの端から離れなかった。
「先ほど、ここが少し開いた。中を、確かめてくれ」
女は包みを緩めた。清十郎は布へ手を出さず、風で包みがめくれぬよう、その端だけを押さえる。
汚れていないと分かるまで、孫四郎は待っていた。
*
孫四郎は倉へ戻る途中、清十郎より半歩先を歩いた。
土へ落とすな、と言われたことが、まだ腹に残っている。落としてなどいない。あの男は初めから、自分ならしくじると思って声を掛けたのではないか。
だが、もし汚れが付いていたら、先ほど聞かずに渡していたら。
後で呼び戻され、誰が運んだと問われる方が嫌だった。
「大げさに確かめさせたな」
自分から口にしてしまい、孫四郎は清十郎を振り返った。
「布は、受け取ってもらえた」
清十郎はそれだけ答える。
用心深いとも、臆したとも言わなかった。孫四郎は返す言葉を用意できず、前へ向き直る。
倉の入口で、取次ぎ役が二人へ、次に動かす荷を示した。
孫四郎は今度、持ち上げる前に行き先を聞いた。
*
奥の一間へ運ばれた麻布を、紗季は槙と一緒に見た。
庭へ向いた戸を開け、敷物の上へ包みを置く。外の光にかざすと、畳まれていた所とそうでない所で、布の色が違って見えた。
槙は端から順に広げていく。紗季も手を貸しかけたが、痛む方の手をかばって布を寄せ損ね、途中で任せた。
「届いたのね」
口にすると、それまで何度も使った言葉と違って聞こえる。
来るかもしれぬ物のために誰かを待たせる用は、ようやく終わった。これからは、この布を誰がどう使うかを決める。
佐和は戸口に近い敷物へ座り、持ってきた紙を左手で差し出した。
「お返しいたします」
昨日の、自分の文だった。帰蝶という署名の下に、信長の字が続いている。
紗季は受け取っても、読み直さなかった。
「持っていてくれて、ありがとう」
佐和は小さく頭を下げ、すぐ布の方へ目を向けた。紗季も紙を文箱へ収め、槙が広げた端を見た。
布の到着は、槙から表の取次ぎへ知らせてもらった。納め手への支払いまで済んだかどうかは、この部屋へ届いた知らせにはない。
四人の縫い手へは、もう布を待ってもらう必要がない。それぞれの都合を聞く使いが出ると、紗季は佐和の控えへ目を落とした。
「昨日、おっしゃっていた、着替えを借りている方は」
「すえでございます。呼びましょうか」
「今、用の途中でなければ」
呼びに行くのは、そばにいた別の女へ頼んだ。
待つ間に、お梅が畳んだ古い小袖を持ってくる。自分の物ではなく、寸法を確かめるため、佐和が先に用意させていたものだった。
紗季は、擦り切れかけた袖口を指で開いた。
すぐそばで使われていた物なのに、こんなふうになっていたとは知らなかった。
*
すえは、濃姫に呼ばれたと聞いて、手を拭いた布をもう一度見た。
濡れたままの手で、何かに触れたのだろうか。運んだ器に汚れが残っていたのか。朝の用を順に思い返しても、叱られる理由は見つからない。
呼びに来た女は、小袖のことで聞きたいのだと言った。
それでかえって、足が遅くなる。
借りた衣を早く返せと、誰かが申し出たのかもしれなかった。
戸口で膝をつくと、濃姫は広げた古い小袖から手を離した。
「すえさんの物は、こちらで合っている?」
「はい」
「替えは、今、借りていると聞いたの」
すえは敷物の端を見た。
「洗ったものが乾くまででございます。いつも、借りているのでは」
急いで言ってから、なおさら言い訳めいたと気づく。衣を貸してくれる女を責めるように聞こえていなければよいが。
濃姫はしばらく黙り、古い小袖をすえの前へ寄せた。
「新しく仕立てる順を、決めたいの。借りた物をいつ返せるかも、気になるでしょう」
すえは顔を上げた。
自分のために布を使ってよいのだろうか。佐和も槙も、部屋にいる。すぐ、お願いしますとは言えなかった。
「私より、先にお召しになる方が」
「ほかの方にも伺ってから決めます。すえさんの具合は、すえさんに聞かせてほしいの」
声は静かだった。急いで同じ答えを繰り返す必要はないらしい。
すえは、膝へ置いた自分の袖を見た。借りた物だから、汚さぬよう、いつもより短くからげて働いている。洗って返す日を延ばすたび、貸してくれた女は笑って、構わぬと言ってくれた。
その笑いへ甘えるのも、もう心苦しい。
「……ございましたら、助かります」
ようやく、それだけ申し上げた。
*
その日の午後、医師にもう一度具合を見てもらった後も、紗季は稽古には出なかった。
お梅と佐和もそれぞれ診てもらい、運ぶ用はほかの者へ頼む。二人を休ませるための差配が、いつの間にか槙一人へ積み上がらぬよう、頼む相手も確かめた。
縫い手からの返事は、その間に揃い始めた。
四人のうち二人は、すぐには来られない。一人は三日後の朝ならよく、もう一人は明後日の昼から半日ほどなら空くという。
明後日に来られるのは、最初に新しい仕立てのことを尋ねた女だった。
紗季は控えに添えられた名を見た。よね、とある。
「およねさんには、半日でどこまでお願いできるか、布を見て教えていただきたいと」
槙が言葉を書き留める。
以前なら、四人とも来られぬと聞いたところで困っていたかもしれない。今は、一人が来る時間に、何を揃えておけばよいかを考えられる。
すえの小袖を脇へ置き、ほかの者の衣も佐和と確かめた。すえの一着を先にすることへ異を唱える者はなかったが、だからといって、自分たちの替えが十分にあるとは限らない。
紗季は、次に必要な者の名も控えへ残してもらった。
*
末森では、土田御前が、机に置かれた布の控えを見直していた。
前夜、那古野から帰ると、市は眠る間際まで膝を離れなかった。返書の話を聞いても、明日書くと言い、そのまま袖をつかんで寝てしまう。
今朝はおとせと庭へ出ている。板戸を開けた部屋へ、時折、幼い声が届いた。
「母上。お呼びと伺いました」
勘十郎が戸口で礼をした。
座るように言うと、敷物の端を踏まずに膝を進める。息子のそうした所作を、土田御前は昔から好んでいた。こちらが言葉にする前に、何を気にしているかを察してくれることもある。
だが今日は、察して頷かせるだけでは済ませたくなかった。
「父上が寺へ納めると仰せだった布のことです。那古野で確かめてきました」
発送済みの分と、まだ手元にある分。自分でも一度は見た控えを、息子の前へ向け直す。
「こちらに残る分を、そなたにも見ておいてほしいのです」
「兄上へ、お届けするために」
「まずは、こちらで数を確かめておくために」
勘十郎は紙へ目を落とした。
土田御前は、那古野の奥で使う二反とは別の用だと、ここでも心の内で区別した。あの嫁が何をしているか、息子が何を言い返すか、その間に入る数日だった。帰ってきても、夫の残した用は待っている。
勘十郎が、書付の一か所を指した。
「この分は、預け先に残っているのでございますか。それとも、こちらへ戻すので」
分からぬ所を曖昧にせず聞く。その問いを、ただ頼もしいと受け取ってしまいたくなる。
那古野の息子も、物の数や人の手を考えられぬわけではない。帰りの荷を使えば人を二度走らせずに済むと、その場で決めたのは三郎だった。
それを承知していても、そばに置いて話したいのは、今、目の前に座る息子である。
「預けた者へ、聞いておくれ。戻す必要があるかも、その後で」
「承知いたしました」
勘十郎はすぐには紙を畳まなかった。
「那古野へ伺う用がほかにもあれば、一緒に申し伝えます」
帰蝶の顔が浮かぶ。
あの傷を、この息子へ話してしまえば、自分の胸のつかえはいくらか下りるだろう。だが嫁の痛みを、兄と弟を比べる言葉にしたくはなかった。
土田御前は首を振った。
「今は、ありません。それより、こちらへ来た相談は、そなたも聞いておくれ。何でも先に那古野へ回さずに」
勘十郎が顔を上げる。
「私が、お答えしてもよいのでございますか」
「そなたが答えられることなら。三郎へ届けるべき用は、届ければよいでしょう」
それだけのことを、これまで、はっきり頼んだことはあっただろうか。
息子が深く礼をする。土田御前は、渡した紙をそのまま持って行かせた。
*
二日後の昼、およねは、約束どおり那古野へ来た。
奥へ通される前に名を告げ、持っていた包みを膝へ置いて待つ。表の男が取り次ぐ先は、佐和ではなく、槙だった。
その違いを、紗季は後で聞いた。
部屋へ入ったおよねが布を広げると、少しずつ場所を空け、手元へ光が届くように座り直す。
「よねでございます。先日は、日をお尋ねするばかりで」
「来てくださって、ありがとうございます。今日は、夕方まででしたね」
およねは顔を上げた。帰る時を、こちらから口にしたのが意外だったらしい。
「はい。続きは、家へ持ち帰ってもよろしければ」
「何をお持ちになるか、後で槙と確かめてください」
およねがすえの小袖を見る。裏返し、直された箇所を指で追ってから、脇の佐和へ尋ねた。
「こちらを先に。佐和殿の分は、その後でよろしゅうございますか」
佐和が紗季を見た。
「ええ。その順で」
答えると、およねはすぐに布へ向き直った。
なぜ身近に仕える佐和より先なのかと、問い返してはこない。頼まれた順に作るのが彼女の仕事であり、順を決めて伝えるのは、こちらの務めだった。
それでも、すえの袖が短くからげられているのを見ると、立つように呼び、手を伸ばしてもらう。
「水仕事の時は、どの辺まで袖が濡れますか」
すえは紗季へ答える時より早く、自分の袖を指した。
およねはその指を見て、布の置き方を変える。
紗季は、口を挟みかけてやめた。自分が聞き取り、全て言い直してやらなければ用が進まぬわけではない。
鋏が布へ入った。
すえがわずかに身を乗り出し、切り離される一枚を見ている。紗季も、同じ手元を見た。
書付にあった二反が、誰かの着る物になっていく。
*
四月に入って三日目、最初の一着が仕上がった。
およねが持ち帰った分を仕上げて戻し、別の縫い手が来た日には、次の仕立ても始まっている。まだ四人が揃ったことはない。それでも、一着ずつ、必要な者へ渡せる形になっていた。
紗季は、すえが新しい小袖へ手を通すところを、庭に面した一間で見た。
肩を直そうとした槙へ、およねが、一度本人に動いてもらいましょうと声を掛ける。すえは恐る恐る両手を上げ、膝の前へ下ろした。
「いかがですか」
「動けます」
紗季は笑った。似合うかと聞いたつもりだったのに、先に返ってきたのは、その答えだった。
すえも、少し遅れて笑う。
「借りていた物を、洗って返せます」
自分へ礼を述べる前に、彼女はそう言った。
よかった、と紗季は頷く。新しい一着の先に、自分の知らぬ二人のやり取りがある。布を分けて終わる用ではなかった。
着替え直したすえが、畳んだ小袖を受け取って退出すると、およねも包みを整えた。次に来られる日を槙と確かめ、残る仕事の分を持って帰る。
戸口まで見送ったお梅が、庭へ顔を向けた。
「もう、すっかり葉になりましたね」
紗季もそちらを見た。枝の隙間を通っていた光が、今は葉に遮られ、廊下へ細かな影を落としている。
三月のうちに消えなかった頬の色も、鏡を覗くたび変わっていた。口を動かす時の痛みは薄れ、お梅も、もう片側だけで話してはいない。佐和には、まだ重い物を持つ用を頼んでいなかった。
日がたてば、何もかも元へ戻るのだろうか。
紗季は、机へ戻って文箱を開けた。
信長の字を、何日ぶりかに読む。
お濃の知らせを待つ。
「槙。明日の夕刻、三郎様に、お時間がおありか伺いたいの」
槙は、包みの紐を巻いていた手を止めた。
「お文を、お持ちいたしましょうか」
「ええ」
紗季は紙を出した。
会わずに済むうちに、頬の傷は薄くなる。今、信長が部屋へ来れば、立って迎えられるかもしれない。だからといって、あの日のことまで済んだ顔で話せるとは思わなかった。
何を言われるか、こちらが途中で黙ってしまうか、それはまだ分からない。
用の返事だけでは話せぬことを、今度は自分の口で伝えたかった。
『明日の夕刻、お話ししとうございます。お時間はいかがでしょうか。槙は隣の間に控えさせます。
帰蝶』
書き終えて、お梅を見る。
「お梅は、いつもの部屋にいて。何かあれば、槙に頼むから」
お梅は返事の前に一度、紙へ目をやった。
「はい。お待ちしております」
紗季は、乾いた文を槙へ渡した。
*
信長は表寄りの部屋で、槙の持ってきた文を開いた。
布の始末の知らせかと思い、一行目で読み直す。
明日の夕刻。
思いのほか、長く待たされた気がした。自分の出した期限なら、二日でも遅いと考えることがある。その自分が、いつ返ってくるとも知れぬ知らせを待っていた。
「明日の夕刻か」
声にしてから、もう一度紙を読む。今日ならば、今ならばと、予定のない今夜のことを考えていた。最後の一文へ目が戻る。
槙を隣へ控えさせる。濃は、会うと言っても、以前のように二人で話すつもりではない。
向かいで待つ槙へ、今から行くと言えば、またこの女を往復させることになる。会えるかどうかを妻に尋ねさせ、その答えを待つところから、やり直しになるだけだった。
信長は机へ紙を置き、筆を取った。
『明日の夕刻、参る。槙は隣に控えておれ。』
同じ紙の空きへ書き、乾くのを待つ。
「これを戻せ」
槙は紙を受け取ると、いつもの礼をした。
信長は、濃が何を話すつもりなのかとは問わなかった。
*
返書を受け取った紗季は、信長の字の下へ自分の筆を置きかけ、やめた。
承りましたと、今また返す用はない。明日、この部屋で話せばよい。
槙へ、隣の間の支度を頼み、お梅と夕食の方へ向き直る。
廊下の向こうを、すえが小袖の包みを抱えて通った。朝から働いている時とは違う、少し急いだ足取りだった。
紗季はその背を見送った。
明日の夕刻までに、話す言葉を考えておこう。夫の返事を想像して書き直すのではなく、自分が何を伝えたいのかを。
机の上では、二人の字のある紙が、まだ畳まれずにいた。




