四十三話
夫の信長に打たれた左頬は、一晩たっても腫れていた。
朝、槙が板戸の外で名を告げると、紗季は、その後ろに別の足音がしないか耳を澄ませた。昨夜の返書は、まだ机に広げてある。
灯りを片付けた机には、庭からの白い光が差している。夜には黒く見えた墨の濃淡が、今は一字ずつ分かった。自分の署名の下へ足された短い言葉に、もう一度目を通す。
今日は行かぬ。
昨日の「今日」は、過ぎてしまった。
「姫様。お入りしても」
「ええ」
槙は戸を細く開け、湯の入った器を持って入ってきた。後ろに誰もいないと確かめた自分を、紗季は少し嫌になる。昨日は断れた。だからといって、朝になれば怖さまでなくなるわけではなかった。
お梅は隣の間で休んでいる。起こさなくてよいと昨夜頼んだのに、もう衣の擦れる音が聞こえていた。
「縫い手のことで、お知らせが参っております」
小袖を仕立てる女たちへは、昨日、布が届くまでは館へ戻らなくてよいと伝えてもらっていた。槙は器を置き、その使いから聞いた話を伝える。
昨日、留守の家へ言い置いた縫い手が戻り、家人から話を聞いたという。朝に使いの女が確かめに寄ると、本人は、館へすぐ戻らずに済むなら、預かった繕いを先に仕上げたいと答えた。
「では、その方にも伝わったのね」
「はい。ただ、こちらへ参れる日は、まだ申せぬとのことです」
四人の名の控えを引き寄せる。印のある名の脇へ、槙に、本人が聞いたと書き添えてもらった。ようやく四人とも、と言いかけて口を閉じる。四人が同じ日を空けられるようになったのではない。
「先の繕いを済ませてくださいと、伝えて。こちらのために途中で置かなくていいから」
槙が頷いてから、隣の間へ目を向けた。
お梅が戸口に手をついている。
「聞こえました。私が、申し伝えてまいりましょうか」
「使いの方へ頼むわ。お梅は、顔を洗っておいで」
唇を動かすたび、彼女は片側だけで話しているように見えた。紗季はそこから目を逸らさず、けれど具合を尋ねる言葉を重ねるのはやめた。昨夜から同じことを何度も聞かれて、笑う顔を作らせたくはない。
「母上に昨日のお礼を申し上げに行くの。一緒に行けそう?」
「はい。私からも、お礼を」
戸口から手を離したお梅を見て、紗季は、引き止める言葉を飲み込んだ。休ませると決めたからといって、彼女が自分で行きたい所まで決めてよいのか、分からなくなった。
*
那古野の門脇で、清十郎は荷を運ぶ男が差し出した書付を、横に控える取次ぎ役へ渡した。
麻布の二反ではない。別の包みだった。
昨日は医師を迎えるため、奥へ出入りする者が増えていた。濃姫の具合が悪いらしいという話は耳に入ったが、誰も清十郎へ詳しい事情を伝えてはいない。尋ねる相手を選び損ねれば、あの方の部屋のことが、ここで男たちの話の種になる。
取次ぎ役が書付と荷の数を合わせる間、清十郎は門の外へ顔を向けた。
「篠原。こっちへ」
呼ばれ、男の担いだ包みの下へ肩を入れる。門から倉までの引渡しなら、一歩ごとに見張りを付けられずに動けるようになった。それでも、腰に刀はない。荷を下ろした後、そのまま奥へ様子を見に行くこともできなかった。
倉の前には、先に届いた荷が寄せてある。入口を空けるため、清十郎は担いでいた物を右の壁際へ置き直した。
「ここへ積むな。明日の朝、先に出す物がある」
倉を預かる男が指す所へ移す。
明日の朝なら、今は空いているのにと思った。しかし、荷の陰になった床には、外へ持ち出す縄がすでに揃えてあった。あとで動かせばよい、と置いた一つが、明朝の仕事を増やす。
荷を運んできた男が、門へ戻る途中で言った。
「今日は戻ってよいのか。まだ返事があるのか」
清十郎には決められない。
返事を聞くため先へ歩き出すと、男もついてきた。待つ所を示さずに行けば、こうして一緒に動くしかないのだと気づく。
「こちらでお待ちくだされ。返事を確かめて戻ります」
軒下を示した時、奥側から佐和に付いて働く女が来た。清十郎も顔を知っている者だった。
女は門脇の取次ぎ役へ、濃姫の用で昨日回った家のことを報告する。清十郎は少し離れて待った。聞きたい名が出るたび近づいてしまいそうになる自分を、荷を受け渡す時より持て余す。
取次ぎ役の返事が済むのを見計らって、ようやく声を掛けた。
「濃姫様は、お加減を崩されたのですか」
女は清十郎の顔を見て、答える前に、周囲へ目をやった。
「今日はお休みになります。お梅も、佐和も。こちらの用は、私どもへお申し付けになると」
三人。
思わず、その先を聞きそうになったが、女はすでに、まだ待っている荷の男へ向き直っている。清十郎は口を閉じた。
「では、お用があれば、持ち場におりますと」
「お伝えします」
彼女を送り出してから、清十郎は荷の男の返事を取り次いだ。帰ってよいと知らされると、男はほっとして門を出る。
清十郎はその背中を見送り、また自分の位置へ戻った。奥へ行けないことより、今、行くべきかどうかも分からぬのがもどかしい。
何かあれば呼んでほしい。そう願うのは、自分が役に立ちたいからでもある。休んでいる人に、こちらを呼ぶ用をわざわざ作らせるわけにはいかなかった。
*
土田御前のいる部屋では、供の者が、帰りに使う包みを一つずつ畳み直していた。
窓に近い所へ座った母は、紗季とお梅を見るなり、二人のための敷物を寄せさせた。紗季が礼を述べる間、お梅は膝の上で指を重ねている。
「母上には、ご面倒をお掛けしました」
「今日は、帰る支度をしております。市の顔も、見てやりたいので」
紗季は頷いた。
昨日、母がもう少し残ると言ってくれた時、いつまでいてくれるのかは考えなかった。あちらにも、待っている子がいる。
「お市様は、お変わりございませんか」
「そなたの文を開いて、おとせに読ませたそうです。自分でも返すと申して、紙を欲しがったとか」
紗季は思わず笑い、口の端を押さえた。
母も笑いかけたが、その手に気づくと、湯の器を少し近くへ置いてくれる。痛むかとは尋ねなかった。
「三郎には、帰る前に話してまいります。そなたは今日、会いたいですか」
昨日と同じ問いなのに、今度は答えがすぐ出なかった。
会いたくないと言い続ければ、この先もずっと会えなくなるのではないか。自分からもうよいと言わなければ、何も動かないのではないか。
母が敷物の端を直し、待っている。
「今日は、まだ」
そこまで言ってから、紗季は続けた。
「でも、布の返事は伺います。昨日、文で申せと仰せでしたから」
「ええ」
「お会いする日も、私からお伝えします」
母は、そこで初めて頷いた。
「それを、三郎へ伝えてよろしいですね」
「お願いいたします」
母をいつまでも二人の間に置いておくつもりはない。そう言いたかったのに、実際にはまた頼んでいた。紗季は礼をしながら、自分の言葉で伝える紙を、部屋へ戻ったら書こうと思う。
お梅も礼を述べた。
土田御前は、その途中で詫びの言葉へ移りかけた彼女を、片手を上げてとどめる。
「医師に、まだ診てもらうのでしょう。今日はその用を先にしなさい」
お梅の頭がゆっくり上がる。
紗季は、隣の彼女が息を吐くのを聞いた。
*
息子の机の前へ座った土田御前は、まず、市が返事を書くために紙を欲しがっていると話した。
三郎は、あれは何を書くつもりじゃと言い、筆を置く。母には市の書く顔が思い浮かんだが、この机へ置ける返書はまだない。
「濃は、何と」
「今日はまだ会えぬと。会う日は自分から知らせるそうです」
息子の目が細くなる。
土田御前は、そこで言葉を足して取りなすのをやめた。帰蝶がいつなら会えるか、自分にも分からない。
「布のことは、伺うと申しておりました」
「納め手の返事を待っておる」
机には、納め手に関する書付が広げてある。
息子は、人の口から聞いた値や約束を、そのまま信じてはいないのだろう。問い返す時の目が、父に似てきたと感じることもある。だが父に似た手際で用を進められることと、家の者がその顔を見て安心することは、同じではなかった。
「三郎。皆がそなたへ、ものを申せるようになさい」
「母上まで、用なら文にせよと仰せか」
「いいえ。文を持てぬ者もおりましょう」
息子は返さなかった。
これ以上続ければ、今はどちらも同じ所を巡る。土田御前は膝へ置いた手を引き、立つ支度をした。
「末森へ戻ります。市が待っておりますので」
戸口まで来てから、帰って確かめる用を一つ思い出す。
市のことだけではない。末森に残る息子も、父の死後、何を誰へ尋ねればよいか迷っているだろう。三郎へ言えば済むと思っていたことが、そう簡単には済まなくなっている。
戻ったら、信勝の話も聞いてやろう。
その思いを口にはせず、母は息子の部屋を出た。
*
昼を過ぎて、信長から布の返事が来た。
槙が運んだ紙へ、紗季はすぐ手を伸ばさず、まず机の前を空けてもらう。お梅は隣で、湯の器を自分の側へ引いた。
紙には、二反とも明日納めること、先払いにはしないことが記されていた。納め手の返事を確かめたうえでの知らせであるという。
さらに一行、仕立てを急ぐ者の分から手をつけよとある。
明日、布が来る。
ほっとしてから、紗季はもう一度読む。今すぐ四人を集めよ、とは書いていなかった。
「槙。昨日の控えを」
四人の名と小さな印を見ながら、本人たちに尋ねたいことを考えた。布を見なければ分からないことは残る。けれど、誰がいつ来られるかなら、先に聞ける。
「佐和にも聞いて。今は、どなたの小袖を先に仕立てる必要があるかしら。着替えの少ない方からにしたいの」
お梅が顔を上げる。
「私なら、まだございます」
「お梅の分を後にするって、決めたのではないわ」
紗季は言ってから、語気を緩めた。
「持っている物を、ちゃんと聞いて決めたいの。私が見ていないところもあるから」
槙は控えを取り、佐和のいる方へ向かった。
紗季は新しい紙を広げる。布の返事を承知したこと、来られる日を確かめて順を決めること。それだけならすぐ書けるはずなのに、最後に置く言葉で筆が止まった。
今日は、と書きかけて、昨日の返書を見る。
母が帰った後の廊下は、今より静かになるだろう。その時、信長が来ても、会えないと答えられるだろうか。
紗季は筆を持ち直し、面会の日は自分から申し上げると書いた。
*
佐和は、槙が差し出す控えを左手で押さえた。
右腕を休ませていても、誰が何を持っているかなら話せる。洗った小袖が乾くまで替えを借りている女のことを伝え、ほかにも確かめたい者の名を挙げると、槙が書き添えた。
「では、これを濃姫様へ」
礼をして送り出せば、また一人になる。
佐和は、立ちかけた槙を呼び止めた。
「三郎様へは、どなたが参られますか」
「次のお文は、私がお持ちします」
昨日から繰り返し、休むようにと言われている。それでも、次の使いを誰が務めるかを聞くまで落ち着かなかった。腕が痛むことは、医師にも、濃姫にも話せる。だが、痛みが引いた後も三郎の前へ行くのが恐ろしいなどと、どう申し上げればよいのだろう。
濃姫には会わぬと言うことが許された。自分は、その返事を運ぶ側にいる。
槙は立たず、控えを膝へ戻した。
「佐和殿。ほかにも、お伝えすることが」
代わりに言ってもらえば済む気もした。けれど、腕が痛むので休みたいとだけ伝われば、その先はまた自分が行くことになる。
「濃姫様に、少し、お目にかかれますか」
*
紗季が書き上げた紙を乾かしていると、槙が佐和を伴って戻ってきた。
小袖のことは、座ったままで話してくれればよい。そう言って敷物を勧めると、佐和は礼をしたが、すぐには控えの話を始めなかった。
「私のことも、三郎様へお伝えいただけますか」
「腕の具合を?」
「いえ」
佐和の左手が、膝の上で右の袖を押さえた。
「今は、お目にかかるのが、恐ろしいと」
紗季は、乾かしていた紙へ目を落とした。
本日も、まだお目にかかれません。
自分の言葉として書いた一行だった。お梅と佐和を休ませることも、自分が決めて伝えた。それで皆の気持ちも届いているように思っていたのかもしれない。
「……分かったわ。そう思っている者がいると、お伝えする」
「私が申したと、お書きください」
思わず佐和を見た。
彼女は目を伏せたまま続ける。
「濃姫様が、私を案じて仰せくださったことには、なさらずに」
紗季の指が、紙の縁を押さえた。
名を伏せれば守れると思った。夫婦の間のことにしておけば、佐和へ問いが向くのを避けられる。だが、その書き方では、信長はまた、自分だけが会いたくないと言っているのだと読むだろう。
だからといって、彼女の名を差し出して、後で何も起こらぬと約束もできなかった。
「三郎様が、佐和に直接お尋ねになったら」
佐和の肩が動いた。
それでも、帰りますとは言わない。
「呼ばれれば、行かねばと思ってしまいます。今も」
紗季は筆を取ったが、まだ墨をつけなかった。
会わなくてよい、とここで言うだけならできる。昨日も母がそう言ってくれた。しかし、母は帰る。自分がいない所で佐和が呼ばれたら、こちらの約束だけで止められるだろうか。
「そのことも、私から伺っていい?」
「はい」
「返事は、佐和にも伝えるわ。私が受け取って、それで終わりにはしない」
佐和が頭を下げるのを待って、紗季は紙を手前へ引き寄せた。
書き添える場所は残っている。面会を断る言葉を消す必要もなかった。
『布のこと、承りました。仕立ては、縫い手の都合と、着る者の持ち物を確かめて順を決めます。
本日も、まだお目にかかれません。会える時は、私から申し上げます。
佐和も、今はお目にかかるのが恐ろしいと申しております。本人の願いにて、名を記してお伝えします。佐和を使いに出さずとも、奥の用をお通しいただけますか。
帰蝶』
最後まで読み上げてから、佐和に、これでよいかと尋ねた。
返事までの間、筆を置かずに待つ。佐和が頷くと、ようやく筆を硯の脇へ戻した。
「槙、お願い」
渡す時、紙を持つ手に力が入った。
信長の返事が怖い。自分の面会を断るだけだった時よりも、怖い。
槙が両手で受け取り、袖へ収める。その姿を見送りながら、紗季は、名を消しておけばよかったと後で思うような返事が来ませんように、と願った。
*
信長は、槙が運んだ紙の最後で目を止めた。
濃にまた断られたことより、そこに佐和の名がある方が気になった。
「佐和が、こう申したのか」
「はい。御自分の名を記してほしいと、濃姫様へ願われました。私もその場におりました」
机の向こうで、槙は膝を揃えている。
こちらが何も言わぬうちから、返事を間違えまいと身構えているように見えた。その姿が気に障りかけ、信長は口を開くのをやめた。
皆が、ものを申せるように。
母はそう言った。今、こうして申してきたではないか。それを聞き返している自分の声も、相手は窺っている。
佐和は昨日も、腕を押さえて文を運んできた。渡す手が使え、返事も言えたので、用は通るものと思っていた。そのたび顔を見せるのが恐ろしかったのか。
濃の指図で言わせたのではないかという疑いが、一度は浮かぶ。だが、名を伏せて妻の言い分にしてもよいところを、わざわざ佐和の願いと書いてある。
「よい、と――」
言いかけて、信長は机の筆に目をやった。
よい、と言えば、布の差配を指すのか、面会のことか、この女がまた問い返すことになる。佐和へ戻るまでに、誰かの言いよう次第で意味が変わる。
紙の空いた所へ筆を置いた。
『佐和の申すこと、聞いた。使いは参れる者を出せ。佐和を呼び出しはせぬ。お濃の知らせを待つ。』
書き終えてからも、すぐには紙を渡さなかった。
この一言を戻せば、濃は会う日を早めるだろうか。そう考えた自分が、まだ返事を待つ相手へ何かを求めていることに気づく。
信長は筆を置き、戸口の男を呼んだ。
「佐和を使いにと、こちらから呼ぶな。奥の用は、ほかの者が持って参っても通せ」
男が承知したのを聞いてから、布のことも言い添える。
「明日、布が着いたら取り違えず渡せ。奥の者を何度も走らせるな」
槙は黙って待っていた。
謝るなら今かもしれぬ。けれど、何と申せば、佐和にも濃にも届くのか、その言葉は出てこなかった。
墨の乾いた紙を差し出すと、槙は頭を下げて受け取った。喜んでも、ほっとした顔も見せず、退出していく。
信長は呼び止めなかった。
*
夕方の門脇で、清十郎は、翌朝届く麻布の受け渡しについて聞いた。
二反。奥へ渡す用だという。
取次ぎ役が、別の荷と混ぜぬよう、倉の男にも伝えたと話す。清十郎は倉の入口を思い浮かべ、置く場所を確かめた。明日の自分に任される用が、ようやく一つ形になる。
「濃姫様から、お返事がありました」
先ほどの女が、門を出る前に足を止めた。
「持ち場にいてくださると伺い、承知したと。お用があれば、取次ぎを通して頼むそうです」
清十郎は礼を述べた。
具合はどうかと、また尋ねたくなる。だが女は、今日は使いを代わって務めている人だった。こちらのために何度も奥へ戻らせるわけにはいかない。
「頼まれた用は、それだけですか」
そう聞くと、女は頷いた。
清十郎も頷き返し、彼女の帰る道を空けた。
*
奥の部屋で、紗季は、戻った紙を佐和の前に広げていた。
槙は信長が書くところを見届け、戸口の男にも命じたと報告した。口頭の伝言を自分で書き直したものではない。紗季の署名の下に、信長自身の字がある。
「読んでも、いい?」
佐和が頷く。
紗季は、佐和の名から一字ずつ声にした。自分を待つという言葉まで読み終えると、部屋には庭木の葉が擦れる音が聞こえた。
これで佐和が安心して笑うと思っていたわけではない。それでも何か言わなくてはと、口を開きかける。
「今夜だけ、この紙をお預かりしても」
佐和が、紙から目を離さずに言った。
紗季は文箱へ向けかけた手を止める。
返ってきた文は、自分の手元へ収めるものと思っていた。だが、この紙には、佐和が頼んだことへの返事も載っている。
「ええ。持っていて」
槙が紙を畳み、佐和の左手へ渡す。
その手がしばらく動かずにいるのを、紗季は見ていた。呼ばれぬという一行があっても、戸の向こうの人間が別人になったわけではない。すぐに信じるよう勧めることも、自分にはできなかった。
「明日のことは、布を見てから聞くわ。佐和の分も、ほかの方の分も」
「はい」
槙に伴われて佐和が部屋を出ると、お梅が、机に残った紙を紗季の方へ寄せた。
布の納め日を知らせる文と、四人の名の控え。まだ誰の小袖から縫うかは決まっていない。けれど、先に預かった仕事を終えてよいことも、こちらへ戻らずに済むことも、四人本人へ伝わった。
紗季は布の文を文箱へ収め、控えを机に残す。
「母上は、もうお着きになったでしょうか」
お梅の問いに、紗季は庭の暗さを見た。
「着いたら、お市様が離してくださらないかもしれないね」
お梅は口元を押さえながら笑った。
母の部屋の方で、人が動く音はもうしない。今日は会わぬとまた書いた。明日どうするかは、まだ決められない。それでも、今夜は続きを書く紙を出さず、筆をしまってもらった。
廊下を来る足音が、戸の前で止まる。
紗季が顔を上げるより先に、夕食の支度ができたと声がした。
「どうぞ」
お梅は立ち上がらず、二人の前へ器を置ける場所を空けた。
紗季も机の前から少し下がり、入ってくる膳を待った。




