四十二話 戸口の向こう
信長に打たれた左頬は、怒鳴り返していた時よりも、静かになった今の方が熱かった。
お梅の指が離れ、代わりに医師の手が紗季の顎の下へ添えられる。庭に向いた明かり障子は開けてあり、傾きかけた春の日が、敷物の縁まで届いていた。槙が膝をずらし、紗季の顔へ落ちていた影をどける。
「少し、口を」
言われたとおりに開くと、唇の端が引きつった。
どちらへ倒れたか、頭は打たなかったか。問いが転んだ時のことへ移るなり、お梅が身を乗り出す。
「姫様は、右へ――」
「お梅。私が話すから」
彼女の手は、まだ紗季を支えられるところにある。
右へ倒れ、手をついてから肩が落ちたことを、紗季は順に答えた。槙にも、見ていたところを話してもらう。平気だと言いかけたが、掌を返すとひりついたので、そこも隠さず伝える。
廊下の板が鳴った。
顔を上げた拍子に、医師の指から顎が外れる。半ば開いた板戸へ目をやると、佐和が片手を柱へ添えていた。信長ではない。それを確かめてから、紗季は口を閉じた。
「お文は、三郎様のお手へ。その場でお読みになりました」
縫い手には自分から伝えると書いた紙が、届いた。
紗季は頷き、医師へ顔を戻す。佐和は返事を待つように、戸口で膝をついた。
「四人へ知らせる用も、頼みたいのだけれど」
「はい。人をやる前に、こちらへ戻りました」
土田御前が、佐和の右腕を見た。
「では、その前に、こちらを見ていただきなさい」
佐和は左手で袖を押さえたまま、紗季へ目を向ける。
早く知らせたい。明日になれば、また一日、あの女たちを待たせる。そう思っていた紗季も、佐和が腕を庇って座り直すのを見て、言葉をのみ込んだ。
「私からも、お願い。腕を見ていただいてから、誰に託すか決めましょう」
佐和はようやく袖から手を離す。
医師に腕を取られる間、口元のほくろが歪むほど唇を結んでいた。先ほど、後で確かめると約した。後と言いさえすれば、その時が来るわけではなかった。
槙は医師の言葉を繰り返して確かめ、また具合を見てもらう手筈を整えた。
お梅は休ませる。紗季も、今日の稽古へ戻るつもりはない。佐和の診察が済むのを待って、土田御前が立つ。
「少し、三郎のところへ参ります」
紗季は膝の衣をつかんだ。
連れて戻るのだろうか。母を間に置き、先ほどの言い分をもう一度聞かなければならないのだろうか。
お梅の顔を見てから信長を打った時には、怖いとは思わなかった。今は、あの足音が近づいてくることを考えただけで、戸口から目を離せなくなる。
「帰蝶。私が、あの子に聞かねばならぬことがあります」
母は、早く仲直りをしなさいとは言わなかった。
槙に部屋を頼んで廊下へ出る。裾の擦れる音が遠ざかるまで、紗季の指は衣を離さなかった。
*
表寄りの部屋の前で、土田御前は取次ぎの男を待たせた。
奥からここへ来る間に、荷を抱えた男とすれ違い、別の戸口では書付を持つ者が膝をついていた。館の用は止まっていない。息子もまた、奥で起きたことだけを考えて座っているわけではないのだろう。
だからこそ、後でよいと思わせてはならなかった。
入れとの声に、男が板戸へ手を掛ける。木の擦れる低い音の向こうで、信長が机から顔を上げた。こちらへ向いた頬は赤い。
「お濃は」
「医師に見てもらいました。お梅も、佐和も」
三人の名を告げ、入口に近い敷物へ座る。
信長は母の背後を見た。そこに帰蝶がいないことを、今、確かめたようにも見えた。
「帰蝶と、何を話しておりました」
「布のことから、町での姿へ。しまいには家の恥と」
「それで、打ったのですね」
「言葉が過ぎる」
息子の声が硬くなる。
あの場で交わされた言葉を、土田御前は全て聞いてはいない。母や政秀の名を持ち出したことがあるなら、それも帰蝶から聞こうと思う。だが、それを先に尋ねれば、今、目の前の息子へ聞くべきことがまた後へ回る。
「その言葉を取り消させるために、お梅を蹴ったのですか」
「放さぬ故に」
「止めようとしていたのでしょう。私も、手を下ろせと申しました」
信長は机の端へ手を置いた。
「母上。これは、わしと濃の――」
「お梅を蹴った時には、もう二人だけのことではありません」
息子の口が閉じた。
声を強めれば、言い返す声も大きくなる。その陰へお梅の顔を押しやりたくなくて、土田御前は、机へ寄ろうとした膝を戻した。
「佐和も腕を痛めております。帰蝶は倒れたからと、お梅は自分の口より、そちらを案じておりました」
外を通る者の足音が、戸の前で一度止まり、また離れていく。
息子はその方へ顔を向けなかった。
「……お梅は、何と」
「そなたへの言伝は、預かっておりません」
恨んでいるとも、詫びたとも、言っていないことを付け足すつもりはない。土田御前は、膝の上に手を重ね、息子が次を口にするのを待った。
「今から、行く」
信長が立つ。
土田御前も身を起こしたが、道を譲るためではなかった。戸口へ向けた息子の足が止まる。
「先に、私が会えるか聞いてまいります。会えぬと申したら、今日は入らぬこと」
「母上」
「もう一つ、約してもらいます」
息子が母を見る。
「帰蝶が会わぬと答えても、奥の用は、これまでどおり取り次がせなさい。あの子の文を持つ者を、追い返さぬこと」
「用を止めよなど、申しておらぬ」
「ええ。ですが、帰蝶が会わぬと知った後も、佐和はまたそなたの前へ来られるでしょうか」
信長の目が机へ落ちる。
土田御前の目にも、腕を押さえながら、三郎本人へ渡したと告げた佐和の姿が残っていた。
「今日、そなたが戸を開ければ、あの者たちは、また立って迎えようとします。座っておれと命じる前に、立つ者がいるのです」
言いながら、自分も長くそれを当たり前にしていたことが思われた。具合を尋ねるより先に、済んだ用を尋ねたことが、幾度あっただろう。
信長は戸口から足を引いた。敷物の端が踵に引かれ、細くめくれる。
「用は、用じゃ」
それだけ言って、机の前へ座り直した。
土田御前は、まだ動かなかった。
「帰蝶へ、そう伝えてよいのですね」
「よい。濃が今日は会わぬと申しても、布の差配をやめさせはせぬ」
ようやく母も膝を引き、頭を下げる。
帰蝶を連れてくるとは約さずに、戸口を出た。
*
夕方、佐和は用を頼める女に来てもらい、紗季の前で知らせる文句を確かめた。
自分で町へ出るのはやめている。槙が机を少し寄せ、右腕を大きく動かさずに済むところへ紙を広げた。
「布が届くまで、ほかの仕事を受けてよい。届いたら、こちらから知らせる。その時に、来られる日を伺う。これで、よろしゅうございますか」
「はい。二日後、必ず来てほしいという知らせにはしないで」
四人とも、この館だけの縫い物をする者ではないと、佐和が教えてくれる。
家で預かった繕いを済ませる者もあれば、町の家へ上がって針を持つ者もいる。館の新しい小袖は、布が届いてから丈や数を確かめ、誰に何を頼むかを決める。布が届いたらすぐに来られるよう、佐和が声を掛けていた。
「一人が先にほかの仕立てを受ければ、こちらへ来る日は遅くなりましょう」
「その時に、できるものから順を決めましょう」
紗季は、槙が佐和から聞き取って記した四人の名を見た。
同じ日に四人を呼び戻すつもりでいたら、また向こうの用を断らせる。こちらの二日の期限が、そのまま女たちの二日後の都合にはならない。
使いを頼まれた女が、控えの一人を指した。
「こちらの者は、今日は熱田へ出ると聞きました。加藤の御家へ出入りする商人の家に、前から預かっていた繕いを届けるそうです」
紗季は、布の返事がある紙へ目をやった。届かぬ二反も、熱田で仕入れたものだと聞いている。
「布の用で熱田へ行く人がいるなら、その人についでに託せないかしら」
佐和は、すぐには頷かなかった。
「布のお使いは、三郎様のお名で、納め手に返事を求める方にございます。その方が縫い手までお捜しになれば、館からのお召しと思われましょう」
「戻れという用ではないのに」
「はい。加藤の御家の商いは、大殿様も守ってこられました。あちらへ出入りする者には、あちらで済ませねばならぬ用もございます。こちらから人を求めるとなれば、その用にも話が及びかねませぬ」
早く知らせるつもりで、仕事を置いて帰ってこさせたら。その後で違うのだと伝えても、置いてきた用は済まない。
紗季は、紙へ伸ばしかけた指を戻した。
「では、熱田まで捜しには行かないで。縫い手の家へ、言い置いてもらえる?」
「家の者なら、帰りを待っておりましょう」
使いの女が答えた。
「布が届くまで、こちらへ戻る必要はないと。それを、忘れずに」
使いの女は頷き、残る三人の住む辺りを順に挙げた。
佐和が道順を補う。留守なら誰へ言い置くかも、一軒ずつ違っていた。紗季には、その家の場所も、家人の顔も分からない。槙が四人のうち一人の名の脇へ、小さく印を添える。
「お返事は、無理に今日でなくても。けれど、誰に伝わったかは知らせてください」
控えを見ながら、紗季は念を押した。
女は、家人に言い置いた分は、そのように申し上げますと答えて下がった。
佐和が、机の紙を畳もうとして右手を止める。槙が代わりに折り目を合わせ、紗季はその紙を預かった。女たちの名と、まだ分からない日を記した控えが、返ってきた信長の文の脇へ置かれる。
土田御前が戻ったのは、その後だった。
母の背後の廊下へ、紗季は先に目をやる。誰も続いてこない。それでも、母が廊下に膝をつく間、言われることを聞く姿勢だけは崩せなかった。
「三郎が、こちらへ来たいと申しております。今、会えますか」
お梅が身を起こした。
紗季も立とうとして、掌を敷物へ置く。痛みより先に、お梅の腫れた唇が目に入った。
また、この子が間へ入る。
「嫌です」
思ったより大きな声が出た。
母が黙り、お梅の動きも止まる。言い方を直そうとして息を吸ったが、喉が狭く、次の声がすぐには続かなかった。
会いたくない。けれど、会わぬと言って、先ほど頼むと答えた用まで取り上げられたら。佐和が今度こそ表へ行けなくなったら。
自分が怖いと思うことと、人を待たせたくないと思うことが、一つの返事を求めて押し合っている。
「今日は、まだ、お目にかかれません」
言い直すと、母は頷いた。
「では、そう伝えます。縫い手の用は、そなたが続けなさい」
紗季は顔を上げる。
「三郎には約させました。会う、会わぬと、奥からの取次ぎは別にすると」
母は部屋へ入ってきて、戸口から離れたところへ座った。
会わなければ何も言えないのだと、いつの間にか紗季は思っていた。返事を持った佐和を待つ間も、母の帰りを待つ間も、信長の機嫌を損ねれば紙の道まで閉じるように感じていた。
「母上」
紗季は机を振り返った。
先ほどから紙はそこにある。自分の字で役目を引き受けたのに、今度は母が何と伝えてくれるかばかり考えていた。
「文を、お持ちいただけますか」
母は、何を書くのかとは尋ねずに頷く。
槙が硯を寄せた。筆を取ると、お梅が先に立とうとしたので、紗季は首を横に振る。
「ここで待っていて。今日は、お梅に頼む文ではないの」
墨を含ませた筆を、しばらく紙の上に浮かせる。
恥と申したのは、と書けば、またあの言い争いを始めてしまいそうだった。けれど何もなかったように、布のことだけ書くのも違う。
紗季は最初の一行を置いた。
『本日はお目にかかれません。』
書き終えてから、それが夫の顔を見ずに伝える拒絶なのだと、あらためて分かる。筆を持つ指へ力が入った。墨の薄くなった穂先を硯へ戻し、次を続ける。
『お梅と佐和は、休ませます。布の用は、引き続き私がお引き受けいたします。
帰蝶』
すぐには紙から目を離せなかった。
母が受け取るために手を出しても、まだ墨が乾いておりません、と待ってもらう。書き直すなら、今だった。
しばらくして紗季は筆を置き、紙を母の方へ向けた。
「これを、お渡しください」
*
母が持って戻った紙を、信長は机へ広げた。
最初の一行を二度読む。
来るな、と書いてある。
あれほど向かってきた女が、今度はこちらへ背を向けるのか。そう思った途端、母が告げた、立って迎えるという言葉が重なった。
戸を開ければ、濃は顔を上げるだろう。お梅も立つ。佐和は痛めた腕を隠すかもしれぬ。その顔を見て、先に口を開かせることならできる。
信長は紙から手を離し、膝へ戻した。
「……今日は、行かぬ」
母が頷く。済んだことにはせず、ただ、聞いたという顔だった。
「そのお返事を、預かりましょうか」
信長は筆を取った。
濃の字の下に空きがある。布の差配を返した時にも、余白へ書いた。あの時は、何をさせるかを決めればよかった。
穂先を置きかけ、いったん上げる。頬の内側が痛んだ。
『今日は行かぬ。二人は休ませよ。用は文で申せ。』
書き足して母の側へ寄せると、戸口にいた取次ぎの男を呼んだ。
「濃からの用は、これまでどおり入れよ。会わぬと言われたからと、そちのところで止めるな」
男は頭を下げた。
その返事を聞いてから、信長は母へ向き直る。
「医師は、また参るのか」
「槙が、手筈を整えております」
何時だとは、続けて聞かなかった。
母は紙の墨が乾くのを待って畳み、立ち上がる。今度はその後ろへついていかず、信長は机の前に残った。
*
母が戻った頃には、部屋に灯りが入っていた。
紙を開く紗季の手元で、灯心の炎が細く揺れる。自分の署名の下に、見慣れ始めた強い字があった。
『今日は行かぬ。二人は休ませよ。用は文で申せ。』
詫びる言葉はない。
もう会わずに済むとも、明日は平気だとも思えなかった。消したくなった最初の一行も、そのままあちらで読まれている。今日は来ないと、信長自身の字で書いてあった。
紗季は二度読んで、布の返事がある紙の脇へ置いた。
「お梅。横になっていていいからね」
お梅は紙を覗こうとせず、紗季の顔を見ている。こちらが頷くと、ようやく重ねた衣へ肩を預けた。
母はもう少し那古野へ残ると言い、待たせていた供の一人を先に末森へ返すことにした。市とおとせの様子を確かめるよう頼み、預かっていた市への文も、その者へ託す。
「帰蝶からの紙だと、忘れずに」
言い添える母の声を聞き、紗季は市の指を思い出す。父へ名乗るため、自分の手を握っていた小さな指。あの子のところへ着くまでには、また、人の足で運んでもらう時間がかかる。
薄い粥が運ばれてきた。
お梅は身を起こし、自分の器までこちらへ置かれると戸口を振り返る。下がって食べるつもりだったのだろう。
「今日は、ここで。一緒に食べよう」
紗季が言うと、彼女は母を見た。
「先に、少し召し上がりなさい」
促されて器を受け取り、ひと匙を口へ近づけたところで止める。
「熱い?」
小さく頷くので、紗季も自分の匙を戻した。冷めるのを待つ間、廊下で佐和の声がする。
使いの女が戻ったらしい。四人のうち三人へは直接伝え、一人の留守宅では家の者へ言い置いたという。その一人へ届いたかは、明日また確かめてもらうと、佐和が頼んでいた。
紗季は、机の控えに残した名を思い浮かべる。今夜、四人とも承知したことにせずに済む。明日、確かめる用が一つ残った。
「姫様」
お梅が器を置いた。
「私が町の話を申し上げたからと、お思いではございませぬか」
紗季は、匙を持つ手を止める。
彼女が話したのは、町で見た姿と、そこで聞いた声だった。それを聞いた自分が、父の家を継ぐ人なのにと思い、信長へ何と言うかを選んだ。
「思っていない。聞いた後で、私が何を言うか決めたの」
お梅は返事をせず、こちらを見ている。
もう気にしないでと言えば、気にしている顔を隠そうとするかもしれない。紗季は匙を置き、彼女が口を開くのを少し待った。
「けれど、また、お腹立ちになったら」
そこまで言って、お梅は唇を閉じる。
腹を立てないとは約せなかった。今も、信長の足を思い出せば、指に力が入る。
「私も、すぐ三郎様のところへ行かずに、一度考えるようにする。だから、どう言えばいいか、その時は一緒に考えてほしい」
お梅の目が、机の方へ動いた。
紗季もそちらを見る。返事のある二枚の紙が、控えの脇に並んでいる。
しばらくして、お梅が頷いた。
母は二人の話へ口を挟まず、廊下へ向いた膝を少しずらして、給仕の者を通す。
「お梅。そろそろ、どう?」
彼女は匙を持ち上げ、今度は少しだけ口へ含んだ。
紗季もそれにならう。口元へ運ぶ途中、戸口の板が鳴ったが、今度はすぐ顔を上げずにいられた。母へ湯を運ぶ者の裾が、敷居の向こうを通っていく。
少し冷めた粥の表面へ匙を入れると、内側から、まだ細く湯気が上がった。




