四十一話 夫婦喧嘩
末森を発つ朝、市は紗季の袖を離さなかった。
廊下には、那古野へ戻す荷が寄せられている。槙が包みの紐を確かめる横で、おとせは市の履物をそろえかけ、また手を止めた。
「帰蝶も、行くの」
「はい。でも、また参ります」
「いつ」
紗季は返事をためらった。
暖かくなったら、と父にも書いた。あの文は、読まれぬまま荷の中へ戻っている。市へ答える日も、思いついたまま口にしてよいものか。小さな指は、こちらの答えを待つ間も袖をつかんでいる。
市の前へ膝をつき、袖をつかんだ手に触れる。
「来る日が決まりましたら、母上へお知らせいたします。お市様にも、伝えていただくように」
「市にも、文を」
「では、お市様のお名前も書きます。母上と一緒に、ご覧くださいませ」
市はその約束を考えているように、紗季の顔を見ていた。やがて手を開き、すぐに土田御前の衣をつかみ直す。
母は子の髪を撫でた。
「そなたも、少し休みなさい」
紗季は頷いたが、母に同じことを言い返す言葉は出なかった。休めと言われて休めるなら、昨日までの母があのような顔をしているはずもない。
「那古野へおいでになる折は、私のところへも」
それだけ頼むと、母は、ええ、と答えた。
門を出てから振り返った時にも、市は母の衣を握っていた。
*
那古野へ戻ると、佐和が廊下に膝をついて待っていた。
紗季の顔を見て何か尋ねかけ、代わりに荷を置く場所を示す。その手際を見て、ようやく帰ってきたのだと思えた。
部屋の庭向きの戸は、半分だけ開いている。出立した朝に折りかけていた小袖は、きれいに畳まれ、脇の箱へ収められていた。
紗季は荷の中から、小見へ書いた文を取り出した。
「母上へ。次に美濃へ向かう使いへ、お願いできますか」
佐和は両手で受ける。
「お知らせの使いは、もう発ったと承っておりますが」
「はい。これは、私から書きたかったのです」
佐和は、そうでしたか、と外書きを確かめ、使いへ渡したら知らせると答えた。
槙が衣の包みを開ける。昨夜一つに包んだ父への二通は、そのまま小箱へ移してもらった。
二通を包む紙の端が、蓋へ挟まりそうになる。そこだけ自分で押し入れ、父へ宛てた二人分の言葉を箱に収めた。
箱の蓋が閉じるところを見届けてから、紗季は帯を緩めた。
小見への文を使いへ託したと佐和が告げに来たのは、翌日の昼だった。
紗季は礼を言い、どの道をゆくのか、今日のうちにどの辺りまで進むのかと尋ねかける。
そこで、口を閉じた。
遠くへ運ぶ人の足まで、ここから確かめ続けることはできない。読んでほしいという気持ちが強いほど、何度も人を呼んでしまいそうになる。
「お返事が参りましたら、お持ちいたします」
佐和の声に、紗季は頷いた。
今度は、返事を待つ時間を、この家で過ごすことになる。
*
三月の下旬、館で働く者の小袖を縫う女が、紗季の部屋へ伺いを立てに来た。
佐和に連れられて戸口へ座った女は、畳んだ小袖を膝へ載せている。袖口には古い継ぎがあり、そこからさらに糸をほどいた跡が見えた。
「お預かりした繕い物は、こちらで終わりにございます。新しく仕立てる方は、いつから取り掛かればよろしゅうございましょう」
紗季が佐和を見ると、彼女は女の隣へ膝をついた。
「麻布が、まだ納まりませぬ」
「二反、来るはずだったでしょう」
「熱田で仕入れた分を回すと申しておりましたが、先に銭を頂きたいと」
納めてから払うという取り決めだった。表では、先に出すとは返事ができぬという。佐和が確かめてきたのは、そこまでだった。
女は小袖の端をそろえ直した。
「御家のご用が先と思い、ほかの縫い物をお断りしておりました。まだ日が決まらぬようでしたら、そちらをお受けしても……」
言い終えぬうちに、佐和が、もう一度伺ってまいります、と腰を浮かせる。
紗季はそれを止めた。
この人は布を急げと責めに来たのではない。明日、自分の針をどこで使えばよいかを、決めたいのである。
「今日は、お帰りなさい。明日からのことは、こちらで確かめます」
女の目が佐和へ動いた。そこで佐和も頷いて、ようやく安堵したように、小袖を前へ置く。
紗季は布を引き寄せ、直った袖口へ触れた。継ぎ目に指を掛けずに済むほど、縫い目は平らになっている。
「これで、着る者も動きやすくなるでしょう。ありがとう」
女は深く頭を下げたが、こちらが袖口から手を離すまでは立とうとしなかった。
見送ってから、紗季は佐和に、同じように待つ者の数を尋ねた。
「この者を入れて、四人にございます」
「ほかの三人にも、今日は帰ってよいと。明日のことを、今のまま待たせないようにしたいの」
佐和は承知した。しかし、布のことは自分がもっと早く催促すべきだったと詫びる。
「何度も、聞きに行ったのでしょう」
「ですが、こちらで待つ者に、待てと申したのは私ですから」
紗季は返事に詰まった。
知らぬことを、知らぬと答えるだけでは済まない場所がある。佐和の一言で女たちが来て、用が進まず、その分の時間が失われる。表の返事がない、と伝えるだけでは、女たちの次の用は決まらない。
机へ向かい、紙を一枚取った。
『小袖を仕立てる麻布二反、いつ届きましょうか。針を持つ者四人、ほかの用を断って待っております』
帰蝶と名を添え、佐和へ渡す。
「三郎様へ、お取次ぎをお願いして。私から、返事を頂きたいと」
佐和は紙を受けたところで、一度だけ紗季の顔を見た。
自分の名を出したからといって、すぐ返事が来るとは限らない。それでも、佐和が一人で何度も戸口を往復する前に、自分にもできることがあるはずだった。
*
翌朝、庭の土は、日が差すにつれて明るい色に乾いていった。
紗季は稽古に使う木刀を拭き、槙へ渡した。振っている間は肩の重さがほどけるのに、手を止めると、今日はどの部屋へ顔を出すべきか、誰に何を頼まれていたかが戻ってくる。
十八になっても、こちらの年長者から見れば、まだ若い嫁である。それでも、濃姫様、と呼ばれると、知らぬことまで知った顔で答えそうになる。今朝も一つ、槙に確かめてから返事をし直した用があった。
「お梅。何か、言いかけたでしょう」
縁に寄せた敷物へ座ると、お梅は、水を入れた器を置いた手を引っ込めた。
「いえ。お稽古の後に申し上げるようなことでは」
「今でなければ、いつならよいの」
急かす言い方になったので、紗季は器から手を離した。
「ごめんなさい。こちらが気になっただけ。話しにくいこと?」
お梅は庭を見、それから槙のいる戸口へ目をやった。
「一昨日、佐和殿と町へ出た折、三郎様をお見かけいたしました」
紗季は顔を上げた。
信長は朝から姿のない日がある。帰ってきた後には、人を呼び、書付を見、また出てゆく。父の死後も、部屋に閉じこもるようにはならなかった。
「どなたかと、ご一緒だった?」
「若いお方が、お二人ほど。お名前までは存じませぬ。三郎様は、お袖を片方脱いでおいでで、腰には袋を幾つもお付けになって……」
その姿なら、紗季にも見覚えがある。
庭を横切る時は、袖が邪魔になるのか片腕を抜いていた。供へ体を寄せて笑う声が、奥の部屋まで聞こえたこともある。三年の間に見慣れたはずの姿を、お梅はなぜ、言いよどむのだろう。
「それで?」
「町の者が、うつけ、と」
お梅の声が、そこで小さくなった。
槙は木刀を片づけ終えていたが、まだ戸を閉めずにいる。
「お梅が、その人の口から聞いたの」
「はい。私どもの後ろで。お父上がお亡くなりになっても、まだあのお姿かと。あの方の代になったら、どうなるのかとも」
「三郎様には、聞こえていた?」
「それは、分かりませぬ。少し離れておいででしたから」
紗季は庭へ目を向けた。
うつけという言葉が信長につきまとうことは、こちらへ来る前から知っていた。そう呼ばれながら、やがて人を従える男であることも。
だが、その先を知っていれば、今、口をつぐんでいてよいのだろうか。
父の葬儀から戻る母の顔が浮かんだ。その後に、昨日、小袖を抱えて座っていた女の手元が続く。
父がいなくなった後の家を、皆が見ている。取決めの相手も、ここへ働きに来る者も、これから誰の言葉を頼みにすればよいのか、確かめようとしているのだろう。
信長は銭や荷の扱いをよく知っている。布の代の払い方を、紗季が教えるような相手ではない。それでも、何も知らぬまま待つ女たちへ、誰かが答えを返さねばならなかった。
信長の名を告げれば表の者は頭を下げる。だが、その名を聞いた先で笑う者がいるとすれば、佐和やあの女に何を約束できるのだろう。
「お伝えせぬ方が、よろしゅうございましたか」
お梅に聞かれ、紗季は首を振った。
「聞いたからには、聞かなかったことにはできないでしょう」
そう答えると、お梅は畳に置いた手を握った。
紗季は、その手へ自分の手を重ねたくなったが、やめた。伝えてくれた相手を安心させるためだけの返事は、まだできない。
「三郎様に、私から伺います。お梅が悪いのではないから」
*
二日後、土田御前が那古野へ来た。
信秀が寺へ納めると決めていた布について、家に残る分と、すでに渡した分を確かめる用があるという。政秀からの取次ぎで信長と会うことになり、母は、その前後に紗季のところへ寄ると知らせてくれた。
市は末森に残っていた。おとせと待つ子のために、紗季は約束どおり、名を大きく書いた短い文を母へ託す。
『お市様へ。またお目にかかりとうございます。帰蝶』
読めるところを母に読んでもらい、自分の名だけでも探してもらえればよかった。
土田御前は紙を開き、お市という名を指先で示す。
「これなら、自分のものだと分かりましょう」
笑った母の口元を見て、紗季も少し息を緩めた。
ほどなく信長が来た。
佐和が先に戸口へ膝をつき、その後ろから入ってきた男の襟を、紗季は見てしまった。
片方が深く開き、上に重ねた衣は腰で留めている。裾には乾いた土がつき、幾つか下げた袋が歩くたびに触れ合った。
母に会うため、どこからか急いで戻ったのだろう。そう思うと、いきなり身なりを注意することもできない。
信長は土田御前の前へ座った。
「遅うなりました」
母は頷き、持ってきた書付を広げる。紗季は庭側へ席をずらし、二人が話す間、お梅に湯を替えてもらった。
布の長さや渡す相手の名が続いた。
信長は、母が挙げた数と書付の数を二度確かめた。
「それは、まだ末森に」
「ええ。仕分けをした者も、あちらにおります」
「ならば、こちらへ運ばず、その者に寺へ持たせればよい。那古野へ寄せれば、また人手が要る」
母はすぐには頷かず、どの束か分かる印を付けてからでなければ、預けた分と混じると答えた。
お梅が硯と筆を運び、母が言った束の結び方を、槙が紙の端へ書き添える。
紗季はその間に、湯の空いた器を脇へ寄せた。
同じ布でも、束を知る者と、運ぶ者と、届いた先で数える者は別々だ。母は家から家へそれを送り出し、信長は余分な往復を省こうとする。どちらか一方の話だけでは、この荷は出てゆかない。
母が別の控えを確かめるため、隣の間へ移った。槙が紙を持って付き添い、佐和は廊下の戸口に控える。
信長は膝を崩し、紗季へ顔を向けた。
「お濃。何じゃ」
ずっと顔に出ていたらしい。
紗季はお梅の置いた器を脇へ寄せた。庭へ開く戸は背の後ろ、廊下へ出る口は右手にある。隣の間との境は、槙が戻れるよう細く開けられていた。
「お伺いしたいことがございます」
「申せ」
「先日、お文を差し上げた麻布は、いつ頃、納まりましょうか」
信長は紗季の顔を見た。
「先に銭を払えという、あの二反か」
「はい。仕立てをする者が、まだ待っております」
「先に払う約束ではない。一人に許せば、ほかの者も納める前に銭を欲しがる。父上の代の取決めを、一つずつ変えて参れと申すか」
声が硬くなった。
紗季は、払えばよいとは言えず、膝の上で手を重ねた。
「銭をお出しくださいと申しているのではございませぬ。いつまで待つのかだけでも、あの者たちに」
「佐和が差配すればよい。そなたまで口を出さずとも」
戸口の佐和が、わずかに顔を伏せた。
「佐和は、もう何度も表へ伺っております」
「こちらも返事を取らせておる。待てと申せ」
誰に、いつまで。
それを聞けずに下がってきた佐和が、目の前にいる。
紗季は信長から目を逸らさず、言葉を探した。
「私にも、申し上げさせてください。奥の者が何を案じ、何を待っているか。三郎様がお留守の折、ここへ残るのは、私たちでございます」
お梅を連れて、美濃から来た。槙もそばに残ってくれた。佐和はこの家を知り、分からぬ用を何度でも確かめてくれる。
その人たちへ、ただ主人の帰りを待てと言い続ける嫁にはなりたくなかった。文を書く手がある。話を聞く耳も、信長へものを申す口もある。
「あの者たちの話は、私が伺います。私から三郎様へ、お伝えしたいのです」
「文にあったことは見た。返事を急かすな」
信長は書付へ手を伸ばしかけた。
ここで話を終えられたら、明日もまた、佐和が返事を聞きにゆく。
「父上の代の取決めが、揺らいでいるのでしょう。でしたら、町でのお姿も、お改めになってはいかがですか」
伸びかけた手が止まった。
「姿と、何の関わりがある」
「お言葉を信じて待つ者の前で、笑われるようなお振る舞いは」
「誰に何を聞いた」
「うつけと、申す者がおります」
「今になって、初めて聞いたか」
信長が笑った。
楽しんでいる声ではない。こちらの心配まで、町の者の口と一緒に笑われたようで、紗季は顔を上げた。
「父上から家を継がれたお方が、笑ってお済ませになれることですか」
「口を慎め」
「母上も、政秀殿も、皆が案じております」
「母や政秀の言葉を借りねば、物も申せぬのか」
紗季は唇を閉じた。
母が昨日まで何を言い、どこまで信長と話したかを、自分は知らない。心配しているに違いないという思いで、二人の名を出した。
自分の言葉に、二人の名を添える必要はあったのだろうか。けれど、今さらそこを引き取れば、この話ごとやめさせられてしまいそうだ。
「では、私が申し上げます。あのように人に笑われて、よいのですか」
「笑いたい者には、笑わせておけ」
「三郎様だけが笑われるのではありませぬ」
信長の指が、膝に置かれたまま止まった。
紗季は父のいない末森を思った。母の衣から手を離せなかった市も、縫い物を受けてよいかと伺った女も、この家の返事を待っている。
皆が信長の胸の内を知って待ってくれるはずはない。自分でさえ、父へ書いた一行を預けてもらうまでは、何を思っているのか分からなかったのだから。
「父上が残された家を、お守りになるお方でしょう。あのようなお姿で町を歩かれるのは、織田家の恥です」
声が終わった後、庭で鳥の鳴く音がした。
信長は、まだ動かなかった。
「今、何と申した?」
「恥だと言いました」
信長が紗季を睨みつける。
紗季も頭を下げずに睨み返した。ここで目を逸らせば、聞こえなかったことにしてくれるのを待つようで、それだけはしたくなかった。
「恥だと! お主に何が分かる!」
信長が立つ。
紗季も膝を引き、立ち上がっていた。
「分かりません! その様な格好で、まるで輩のように」
「輩だと!」
右手が上がったところまでは見えた。
左頬に衝撃が走り、紗季は右へ倒れた。畳についた手が体を支え切れず、肩が敷物の外へ落ちる。
「姫様!」
お梅の声だった。
「三郎様!」
佐和が戸口から踏み込む。
紗季は、差し伸べられたお梅の手を取らずに起きた。
左の耳の奥に音が残り、佐和の声が遠く聞こえた。口元を手の甲で拭うと、赤いものがつく。
血だと分かった。
分かっただけで、足は止まらなかった。
紗季は無言で、信長の頬を打った。
手のひらに硬い感触が返る。信長の顔が横へ動き、こちらへ向き直った瞬間、もう一度、同じ頬を張られた。
今度は倒れなかった。足を開いてこらえ、信長の衣をつかみかける。
「おやめくださいませ!」
戻ってきた槙が、信長の腕へ両手を回した。佐和も反対側から胴へ取りつき、紗季との間を塞ごうとする。
お梅はその脇を抜け、信長の右脚へしがみついた。
「三郎様、どうか、もう」
低いところから聞こえる声が震えていた。
信長が腕を振ると、槙の肩が大きく引かれる。佐和は足を滑らせながらも離さず、背で紗季を押し返した。
「三郎!」
隣の間で、土田御前の声が上がった。
「手を下ろしなさい!」
境の戸が開く。けれど、その声で信長の体が止まることはなかった。
「ええい! 放せ!」
信長が右脚を強く引いた。
しがみついていたお梅の腕がほどけ、低くなっていた顔の前へ足が出る。蹴られたお梅が、声も出さずに後ろへ崩れた。
口元に当たった。
紗季の目には、そこだけがはっきり見えた。
「お梅!!!」
お梅の手が畳を探した。
自分の口からも血が出ていることなど、もう頭になかった。
「よくもお梅を!」
佐和の肩がずれた隙間へ踏み込み、紗季はもう一度、信長を平手で打った。
信長の襟が目の前にあった。そこへつかみかかろうとした腕に、お梅がしがみつく。
「姫様。こちらへ。お願い、こちらへ」
声が、うまく形になっていなかった。
お梅は立ち切れぬまま紗季の腰へ腕を回し、廊下の口へ引こうとする。槙が信長の前へ体を入れ、佐和は紗季の脇へ戻ってきた。
誰かに袖を引かれても、紗季は信長から目を離さなかった。
男も黙って、こちらを睨んでいる。
触れ合うほど近かった二人の間に、槙一人分の距離ができた。信長の胸が上下する。紗季の呼吸も、自分のものとは思えぬほど大きく聞こえた。
土田御前が廊下側へ回り、お梅の背を支えた。
「帰蝶。こちらへ」
母の声は聞こえた。けれど、返事をすれば目の前の男から先に目を逸らすことになる。
紗季は顎を上げたまま、動かなかった。
「もうよい!」
信長が吐き捨て、槙の脇を抜けて廊下へ出た。
どたどたと鳴る足音が、部屋の前を遠ざかってゆく。誰もその後を追わなかった。
紗季は、空いた戸口を睨んでいた。
次に何を言うつもりだったかは、もう分からない。それでも、今戻ってくれば、まだ何かをぶつけずにはいられなかった。
腰に回っていた腕が、少し下がった。
紗季はようやく、しがみついている相手へ目を向ける。
お梅の下唇に血がにじみ、顎へ細く流れていた。
「お梅、血が」
お梅は顔を上げた。
「姫様こそ、血が」
「私のことはいい。お梅の怪我を」
誰に頼んだのか、自分でも分からなかった。
お梅を座らせようとして膝を曲げると、今度はその手に支えられる。紗季は初めて、自分の足も震えていると気づいた。
「二人とも、座りなさい。佐和、水と布を」
土田御前が言った。
佐和は戸口へ出て、廊下にいた女へ医師を呼ぶよう頼む。自分は隣の間へ回り、水の器を持って戻った。槙が出した布を母が受け、その一枚をお梅の口へ当てる。
紗季は、そこへ手を伸ばしかけた。
「帰蝶。お梅は私が見ます」
母の言葉に、手が止まる。
代わりに槙が、紗季の顎の下へ布を添えた。触れられた途端、口の内側が痛み、紗季は顔を背けたくなった。
「少しだけ、こちらへ」
槙は叱らず、膝を寄せて紗季の顔をのぞき込んだ。
さっきまで信長の腕を押さえていた手で、今は紗季の顎を支えている。この人も怖かったはずだ。声を掛けようとして、うまく息が継げなかった。
紗季は顔を戻した。
布が唇の端へ触れる。赤く濡れたところを折り返そうとした槙の指が、思うように動かなかった。
「槙」
「ここにおります」
呼んだだけで、その返事が来た。
お梅は母に布を持ってもらうのを遠慮し、自分で受け取ろうとしている。紗季はそちらへ身を寄せたかったが、槙の膝が前にあり、動けなかった。
「しばらく、そのまま。お梅も、こちらを見て」
土田御前が低く言う。
お梅は従いかけ、なおも紗季の方へ目を向けた。
「姫様は、お倒れになりましたから」
唇を動かすたび、言葉の端が不明瞭になる。
「分かっています。帰蝶には槙がついています」
母が答えてくれた。
紗季は、自分でも大丈夫と言おうとして、言えなかった。頬は熱く、歯に当たるところがじんじんする。大丈夫だと聞かせるために口を動かせば、お梅も同じように答えるだろう。
佐和が、汚れた布を置くための器を二人の間へ寄せた。
膝の上で何度も裾を直している。さっき信長へ取りついた時に乱れた襟は、自分では気づかないままだった。
「佐和も、どこか」
「私は、よろしゅうございます」
答えるのが早すぎた。
紗季が黙っていると、佐和は自分の右腕を見、それから、口元を少し歪める。
「引かれただけにございます。後で確かめます」
槙が頷いたので、佐和もそれ以上は言い張らなかった。
部屋には、さっきまで出ていなかった小さな音が戻ってきた。布を水へ浸す音と、器が畳へ置かれる音。その間にも、紗季の耳は廊下の足音を拾おうとする。
また戻ってくるだろうか。
そう考えた時、自分が信長を待っているのか、戻らぬよう願っているのか、分からなくなった。
「母上」
土田御前が顔を向ける。
「私が、あのように、申し上げたから」
言葉を続けようとすると、お梅が首を振った。
母は布を取り替えてから、紗季を見た。
「何を言い争ったかは、後で聞きます」
声に、先ほどとは違う硬さがあった。
「ですが、そなたがあの子を怒らせたから、お梅が蹴られてよいとは、私は思いません」
紗季は膝へ目を落とした。
母の前で、恥だと言ったことまで正しかったと訴えたかったわけではない。今、言い方を取り消せば、お梅が痛い思いをしなかったところへ戻れるなら、そうしたかった。
けれど、戻せない。
それを誰かに、どうにかしてほしかったのかもしれなかった。
「医師が来るまで、私もここにおります」
母が言うと、お梅が、ありがとうございます、と小さく頭を下げた。
紗季は顔を上げた。
「お梅を、お叱りにならないでください」
「叱りません」
間を置かぬ返事だった。
それを聞いて、初めてお梅の肩が下がった。
*
隣の間へ布を取りに出た時、土田御前は、広げたままの書付に目を止めた。
夫が決めた布のことを、まだ話し終えていない。
三郎が、これはこちらから持たせると言った箇所へ、目がゆく。つい先ほどまで、あの息子は、どこに何があり、誰に頼めば荷が届くかを、よく分かって話していた。
その口で怒鳴り、嫁を打った。
別々の息子のすることではない。
土田御前は、畳に落ちた紙を拾った。
争いの声がした時、立つ前に、手に持っていたものを置こうとした。そのわずかな間を、いま考えてしまう。
もっと早く戸を開けていれば。
自分が間に立てば、少なくとも侍女を蹴るところまでは。
考えかけて、紙を持つ手が止まった。
帰蝶には、あの子を怒らせたからではないと言ったばかりである。母がそばにいなければ手を上げる、それで済ませてはならなかった。
向こうの部屋で、槙が水を替えてほしいと言った。
誰の用か確かめるまでもなく、土田御前は新しい布を手に戻る。
帰蝶が先にこちらを見た。その目に、自分が三郎の母であることを意識している遠慮がある。
息子に何を言うつもりか、すぐに答えを聞かせて安心させることはできない。だが、その顔から目を背けたくはなかった。
「それは、こちらへ置いて」
汚れた布を持ち続けている帰蝶へ言い、空いた器を近づける。
帰蝶はようやく、手を開いた。
*
信長は、表へ近い部屋で足を止めた。
戸の前にいた男が、脇へ退く。何か申し上げようとしていたらしいが、信長の顔を見ると、畳んだ書付を持ち直した。
「後にせよ」
男は頭を下げ、離れてゆく。
信長は部屋へ入り、座る前に戸を閉めた。
頬の内側が、舌に触れると痛かった。あの娘は一度打たれても、引き下がらなかった。こちらを見上げた顔が、そのまま目の前に戻る。
恥。
誰の家のことを言っている。
父の後へ座っただけで、父が動かしてきた者たちが、残らず同じ顔を向けるわけではない。返事を待たせれば、以前なら待った相手も、別の者へ口をききにゆく。
着る物を改めれば、それで荷が動くのか。
町へ出たのは、遊びのためではなかった。
雨で傷んだ道を荷車が避け、遠回りしていると聞いた。運ぶ者に確かめれば、どこで車を止め、どの荷を人の背へ移したかが分かる。同じ熱田から来る荷でも、遅れた理由が一つとは限らない。
津島や熱田の商人と、父の代からの付き合いがあっても、荷主も運ぶ者も、こちらの都合だけで足を速めるわけではなかった。
整った衣で門に座って、上がってきた書付だけを見ている気はない。
それを、あの娘は聞かなかった。
そう思うと、また言い返したくなる。だが、布を待つ者のことを話しかけた時、自分も、佐和に任せよと退けた。
だからといって、家の恥とは何事だ。
考えが同じところへ戻り、信長は膝へ手を置いた。
指を開くと、手のひらに赤い筋が薄く残っていた。
自分のものか、帰蝶のものか、すぐには分からなかった。
足へ絡んだ腕を振りほどいた時、お梅の顔が低いところにあった。放せと言ったのに放さぬからだと、口の内で言ってみる。
それでも、蹴られて倒れる顔は消えなかった。
帰蝶の声より先に、その子の声が思い出される。
三郎様、どうか、もう。
あれは己へ向けて頼んだ声だった。
廊下を急ぐ足音がした。
信長が戸を引くと、奥から来た女が立ち止まる。
「どこへ参る」
「お医師を、お迎えに」
女は目を伏せた。誰に頼まれたか聞かれるのを待つように、両手を前でそろえる。
信長は、その手を見ていた。
こちらの返事がなければ、この女は動けない。
「早う行け」
女が頭を下げて去るまで、信長は戸を持ったまま立っていた。
母のいる部屋へ戻る道は分かっている。何を言われるかも、分からぬわけではない。
それでも、帰蝶へあの言葉を取り消せと言う以外の声が、まだ出てこなかった。
戸を閉めかけ、信長は近くに控えていた者を呼んだ。
「先ほどの男を。用を聞く」
戻ってきた男は、さっきより深く頭を下げ、持っていた書付を差し出した。
「麻布のことでございます。なおも先に銭を願いたいと」
「なぜ、先でなければならぬ」
「熱田での仕入れに銭がかかり、ほかの納め先から、まだ代が入らぬと申しております」
父がいなくなったから、こちらを軽く見ている。そう取って叱れば、この男も、はいと頭を下げるだろう。だが、それだけで相手の銭が手元へ戻るものではない。
「先に払えば、ほかの者も同じようにと申し出ましょう。それゆえ、改めてお伺いを」
男の声が細くなる。
勝手に許して責められるより、返事を待つ方を選んだのだろう。その間、奥で待つ者にも、同じことをさせている。
信長は書付の下に重なっている紙を引き寄せた。帰蝶の文である。
麻布二反の下に、針を持つ者四人とある。届く日を知らせてほしいと書いてある。自分はそれを読んで、先払いの銭のことだけを答えた。
「この四人には、何と伝えた」
「それは、佐和が差配しておりますので」
自分も、同じことを言った。
信長は黙って、帰蝶の文を開き切った。短い文の下に、まだ紙が残っている。
「二日のうちに、先の約束で納められるか聞け。かなわぬなら、この注文は取りやめ、別を当たる。無理に買うとは言うな」
男が頭を下げる。
信長は硯を寄せ、筆へ墨を含ませた。
『二日を限りとする。納まらねば別を当たる。縫い手はそなたが差配せよ』
書いてから、紙を畳み直した。
「これは、奥へ」
「佐和へ、申し渡します」
「濃から来た文じゃ。濃へ戻せ」
男は一度顔を上げ、それから、両手で紙を受け取った。
信長は見送らず、筆を置いた。妻の顔を見て話すことはできずとも、あの文の問いをなかったことにはできなかった。
*
紗季は、お梅と並んで座る場所を変えてもらった。
廊下の戸が正面にあると、誰かの影が差すたび顔を上げてしまう。庭側へ背を預け、戸が横に見えるところなら、いくらか落ち着けそうだった。
佐和が敷物をずらし、槙が衣の裾を直す。
お梅は、まだ紗季の方へ体を向けたままでいた。
「そちらだと、母上が見にくいでしょう」
紗季が言うと、ようやく少し膝を動かした。
血を拭った口元は、さっきより腫れて見える。自分が殴られた頬のことは、内側からの熱さで分かるだけなのに、お梅の傷は目に入るたび、また驚いてしまった。
信長の頬を打った時には、もう、家督のことなど考えていなかった。
お梅から離れろと。それ以上触るなと。言葉になれば、そういうことだったのだろう。
お梅の腕が回ってこなければ、さらに信長へ向かっていたかもしれない。佐和も槙も、体を間に入れてくれた。
腰へしがみついた重さが、今も残っている。あの人たちのために何ができるかと信長へ問うた自分が、いまはお梅に支えられて座っていた。
「痛かったでしょう」
尋ねてから、答えにくいことを聞いたと思った。
痛くないと言われたら、自分はそれを聞いて、どうするつもりなのか。
お梅は、布を持つ手を口から少し離した。
「びっくり、いたしました」
それだけ言って、目を伏せる。
紗季は頷いた。お梅は布へ目を落とし、赤くなったところを内側へ折ろうとしている。その折り目が何度もずれる。さっき起きたことを、まだ言葉にしきれないように見えた。
「私も」
口にすると、左頬が引きつった。
お梅はすぐに顔を上げる。そちらが案じる顔になる前に、紗季は、もう何も言わずにいようと思った。
医師が来たと、廊下で声がした。
佐和が戸を開け、土田御前が二人のそばを空ける。入ってきた男は敷物の前で膝をつき、まず手近にいた紗季へ顔を向けたが、紗季はお梅の方を示した。
母も頷いてくれた。
お梅は紗季を見た後、医師へ向き直った。
紗季は膝の上に手を置き、そのまま待った。どのように傷ついたかを尋ねられ、お梅が言葉に詰まると、母が、自分から話すと告げる。
初めからここにいて、全てを見ていた人ではない。それでも、曖昧に済ませず、見たところから話し始めてくれた。
お梅の指が、敷物の上で少しずつ縮こまってゆく。
紗季はそちらへ手を出し、差し出しただけで止めた。
お梅は目を落とし、やがて、自分からその手を握った。
医師がお梅の顔へ身を寄せている間に、佐和が廊下へ呼ばれた。
紗季はすぐ顔を上げたが、戸の向こうに信長はいなかった。表から来た男が、畳んだ紙を佐和へ渡している。
戻ってきた佐和は、すぐには差し出さず、母の方を見た。
「三郎様から、先の布のことで」
紗季は、お梅の手をそっと膝へ戻し、紙を受けた。
開くと、自分の字があった。
麻布二反。針を持つ者四人。その下に、別の太さの字が続いている。
『二日を限りとする。納まらねば別を当たる。縫い手はそなたが差配せよ』
紗季は、最後の行へ目を留めた。
頬は、相変わらず熱い。隣でお梅が口を開けようとするたび、布を持つ指に力が入る。
返事が来たことと、さっきのことを許せるかどうかは、今、自分の中で一緒にはできなかった。
それでも、この返事がなければ、明日、縫い手たちはまた那古野へ来てしまう。
「佐和。あの四人へ、二日の間は、ほかの縫い物を受けてよいと伝えてください。布が納まったら、こちらから知らせます」
声を出すと口元が痛んだ。ひと息置いてから、続ける。
「届いた日に皆が来られるとは限らないでしょう。いつ来られるかを聞いてから、仕立ての順を決めたいの」
「承りました」
佐和が答えた時には、先ほどまでのように、まず表へ確かめようとする目をしなかった。
紗季は机から新しい紙を取ってもらい、筆を持った。手のひらがひりつき、いつもより力を抜いて軸を支える。
『縫い手には、私から申し伝えます。帰蝶』
書いて、佐和へ渡した。
「三郎様へ。お取次ぎをお願い」
佐和は受け取り、廊下へ出ていった。
紗季は医師のそばへ膝を寄せ直す。お梅が顔を動かすと、母が、まだこちらを向いて、と声を掛けた。
もう一度、手を差し出した。
お梅は筆の跡のついた指へ目を落とし、痛くないところを探すように、紗季の手をそっと包んだ。




