四十話 信秀の死
天文二十一年の二月も終わる頃、紗季は信秀へ初めて文を書いた。
会って話す相手へ紙を送るのは、少し気恥ずかしい。父上と書いたところで、その下へ何を続けるか迷い、筆先を硯の縁へ戻した。
十八になった今も、こちらの暮らしで分からぬことはある。けれど、嫁いだばかりの頃のように、紙を前にしているだけで槙が何を書くのかと尋ねてくることはなくなった。
隣では、お梅がほどいた紐を巻いている。十七になった彼女の手には、指先を動かしながら紗季の話を聞けるほどの余裕があった。
「何をお書きになるのでございますか」
「まだ、父上までしか」
見せると、お梅は紙よりもこちらの顔を見た。
「末森へ、お持ちするのでしょう」
「政秀殿に、お渡しできる時にとお願いしようと思って」
信秀の床を訪ねる日が決まらなかった。
紗季が来るなら起きていようとするので、先に具合を確かめたいと土田御前から伝えられていた。こちらは寝ていてくださっても構わないのに、そう言えば、先方が気を遣わずに済むわけでもない。
文なら、体の楽な時に読んでもらえる。
そう思いついた時はよい考えに感じたが、具合を尋ねる言葉ばかり並べると、早くよくなれと急かすような紙になる。
紗季は一枚目を脇へ寄せた。
『こちらの庭にも、木の芽が目につくようになりました』
その朝、戸を開けた時に見たことを書く。
市がこの前、自分の名の字を知りたがったことも添えた。まだきれいに書けるわけではなく、紗季の書いたものの隣に長い線を幾つも引いて、同じだと言い張ったのである。
病のことに触れずに書ける話は、思ったよりもあった。
『暖かい日に、またお目にかかりとうございます』
結びを書き、帰蝶と名を添える。
未来を知っているつもりの自分が、何を願っているのだろう。
筆を置いてから、そんな考えが浮かんだ。
信長の父が病で亡くなることは、本で知っていた。けれど、知っているのはその短い記述だけで、どのようにすれば助けられるかを学んだわけではない。こちらで顔を合わせるようになってからも、亡くなる人として会いたくはなかった。
暖かくなれば、また膳を共にできる。
それを願うことまで、やめる理由はないはずだった。
紗季は文を畳み、佐和を通じて政秀へ預けた。返事は要らないと、言い添えてもらった。
*
三月三日の朝、那古野へ来た使いの男は、奥へ通されるのを待たなかった。
廊下の向こうで信長を呼ぶ声がし、その声が止むより早く、紗季の部屋にも人の動く気配が届く。
槙が戸口へ出た。
話を聞いて戻るまで、紗季は膝の上の小袖を畳めずにいた。片袖だけ折った形が、妙に目についた。
「末森の父上が、急にお悪くなられたそうにございます」
自分も参る、と言う前に立っていた。
帯へ手を掛けると、槙がこちらへ寄る。急いで結ぼうとする指を止め、ほどくところから順を戻してくれた。
廊下へ出た時には、信長の姿はもう奥になかった。
「三郎様は」
「先に、お発ちになられます」
佐和が答え、紗季の供の支度もさせていると伝える。
追いつかねば、と思った。
しかし、走って庭へ出たところで、馬に乗ってゆく信長と同じには進めない。紗季は戻りかけた足を止め、お梅へ、槙と一緒に来てと頼んだ。佐和には那古野へ残ってもらう。
「向こうで何か要るものが出たら、こちらへお知らせいたします。ですから、今は、お支度を」
佐和にそう言われ、余分な包みを持とうとしていた手を離した。
何か持ってゆけば役に立つ気がしただけで、その中身を考えてはいなかった。
*
末森で、土田御前は夫の手を握っていた。
朝、まだ声のあった頃には、その手を握り続けてはいなかった。水を替え、布を受け取り、医師のために場所を空けた。その都度、すぐに戻れると思って離した手である。
いまは、放す理由を一つも作りたくなかった。
信秀の目は閉じている。枕元で医師が体を寄せると、土田御前は夫の顔から視線を動かさず、何を言われるのか待った。
祈る声は、部屋の端で低く続いていた。
それを聞きながら、夫の息だけを聞き分けようとする。次の息が来るまで、ずいぶん待たされる。
「殿」
返事はなかった。
もう一度呼んだ時、医師の手がこちらのそばへ来た。握っている手を無理に外そうとはせず、そっと待っている。
その待ち方で、分かってしまった。
「まだ、温かいではありませぬか」
誰に向かって言ったのか、自分でも分からない。
医師は頭を下げた。部屋の端で衣擦れの音がし、女が一人、声を漏らした。
土田御前は夫の手を両手の中へ収めたまま、動けなかった。
寒いと言わせてくれぬ、と笑った人だった。こちらが重ねた衣を邪魔にして、いらぬと押し戻したこともある。今度も手を引かれるのを待ってしまう。
戸口で、勘十郎の声がした。
「母上」
呼ばれて顔を上げると、息子は入る場所を失ったように立っていた。
父を見て、母を見て、それでも足が進まない。土田御前が手を少し動かすと、やっと膝をついて寄ってきた。
「兄上は、まだ」
そう尋ねた声も、途中で小さくなる。
土田御前は頷いた。
早く来てほしい。けれど、来れば見せることになる。息子を待つ気持ちと、この人を誰にも渡したくない思いの間で、握る手に力が入った。
勘十郎が父の名を呼んだ時、土田御前は初めて目を閉じた。
*
紗季が末森の館へ入った時には、戸の前に人が増えていた。
道を空けてくれる者がいる。反対に、紗季の顔を見たまま何も言えず、頭だけ下げる者もいた。
槙に背を支えられて進むと、いつもは取り次がれるところを、そのまま奥へ通される。
信長は、部屋の入口寄りにいた。
紗季が入ってきたことには気づいたはずなのに、顔を向けない。庭へ続く閉じた戸を見たまま、片膝に手を置いていた。
「父上は」
聞こえた自分の声が、妙に高かった。
信長の手が膝から離れ、少しだけ奥を示す。
その向こうで、土田御前が座っていた。信長の弟の勘十郎も、母の傍らに膝をついている。
「帰蝶。こちらへ」
母の声は、普通に話す時と同じように聞こえた。だから紗季は、まだ話しかけてもよいのだと思いそうになる。
信秀は横になり、顔が見えるように衣を整えられていた。
口元へ目がゆく。
前に見た時より、穏やかな顔だとは思えなかった。苦しそうではなくなったということと、安らかだと自分が感じられることとは違う。
紗季は頭を下げた。
「父上」
呼ぶのは一度にしたかった。返事がないのを、何度も確かめたくなかった。
それなのに、顔を上げると、もう一度言いたくなる。
父上。参りました。
いつもなら、寒かったか、暑かったかと聞いてくれる。こちらが挨拶を終える前に、三郎はどうしたと息子の方へ話が移ることもあった。
紗季は、その続きが来るのを待ってしまった。
土田御前の手が、信秀の指を撫でている。紗季も触れてよいか尋ねようとし、母が頷いてくれたので、そっと手を添えた。
生きている人の手と、触れた途端に違いが分かるわけではなかった。
それが、かえって辛い。
この手を持ち上げて、こちらへ何か渡してくれることは、もうないのだと考えた時、肩が一度だけ震えた。
「間に合わず、申し訳ございませぬ」
口をついて出た言葉を、土田御前が首を振って止めた。
「そなたのせいではありません」
紗季は母を見た。
目の縁が赤い。その声で自分を慰めさせていることが申し訳なく、何か言おうとしても、違う言葉が見つからなかった。
隣の間で、市が泣いていた。
*
市は、おとせに抱かれるのを嫌がっていた。
数えで六つになった子は、抱かれれば父の部屋へ行けないと分かっている。おとせの袖を押し、下ろして、と同じ言葉を繰り返した。
紗季が来ると、ようやく顔を向けた。
「父上、起きないの」
尋ねる声に、まだ、起こし方を知りたい気持ちが残っている。
紗季はおとせの隣へ座った。何と答えるか考えるうちに、市が先に手を伸ばす。
「母上も、出てこない」
「母上は、父上のお側にいらっしゃいます」
「市も」
おとせが、もう少し、と言いかけた。
その声を聞くと、市の顔が歪む。待っていればよいことになるのか、今日は誰も、いつまでと言ってくれない。
紗季は小さな手を受けた。
「父上は、もう、お目をお開けになりません」
言い終わった後の市の顔を見るのが怖かった。
市は、なぜ、と尋ねた。紗季がすぐ答えられないと、つかんだ指を引く。
「お病気が、よくならなかったのです」
「お薬は」
紗季は、市の手を握り直した。
そうだね、と思った。自分も何か、まだしていないことがあるような気がしている。
「お薬も、お飲みになりました。けれど、治らなかったの」
市は声を上げて泣いた。
紗季が抱き寄せると、嫌がらずに衣へ顔を押しつけたが、泣き止むことはなかった。おとせが背を支え、乱れた襟を直す。
慰める言葉を探すより、この子の頭が重いことを、腕の内側で確かめていたかった。
紗季も泣いた。
市の目に涙を落とさないよう顔を少し逸らしたところへ、お梅が布を差し出してくれる。受け取ろうとした手が空かず、お梅はそのまま紗季の頬を押さえた。
泣いているうちにも、市は時おり、父の部屋へ顔を向けた。
紗季には、父の葬儀の日に母の手を握っていた記憶がある。五つの自分を案じて、大人は誰も詳しいことを聞かせなかった。後になって尋ねても、泣いていたからね、と言われるばかりだった。
市も今日のことを、誰かから教えてもらうだけになるのだろうか。
「おとせ。お市様を、父上のところへお連れしたいのです」
おとせは戸を見た。
「ですが、今は、お方様が」
「母上に、私からお願いしてまいります」
紗季は市の手を離し、お梅にそばへ残ってもらった。土田御前のいる部屋で膝をつき、市が父を呼んでいると伝える。
「お騒がせするかもしれませぬ。けれど、お別れを申し上げたいと」
母は、しばらく信秀の顔を見ていた。
断られれば、それ以上は頼めない。紗季が膝の上で手を重ね直すと、母は戸の方へ顔を向けた。
「市を、連れてきてください」
戻ってそう告げた時、市は自分で立った。
おとせに足元を見てもらい、紗季と手をつないで父のそばへゆく。市はすぐには触らず、母の膝へ寄ってから、父の袖を引いた。
「父上。市です」
土田御前が、小さな背へ手を添えた。
市は返事を待ち、それから、自分の名を書いたことを話し始めた。先日より線を長くした、帰蝶が見た、と途中で紗季の方へ振り向く。
紗季は頷いた。
上手だったかどうかを、今、言い直すことではない。
父の袖を握ったまま、市はまた泣いた。母が抱き寄せるまで、紗季はその手を離さずにいた。
*
午後、政秀は紗季を廊下の端へ呼んだ。
お梅をそばに残したまま、二人が座れるだけの場所へ膝をつく。表では使いを出す声がし、奥からは、僧を案内する足音が近づいていた。
政秀が差し出したのは、紗季の文だった。
畳んだ形も、外へ記した父上の字も、そのまま残っている。
「お目にかける折を、得られませなんだ」
紗季は受け取った。
返事は要らないと言った。返ってきてほしいと思わなかったのは、返書のことだった。
自分の書いた紙が戻るとは、考えていなかった。
現代で母へ送った短い連絡なら、画面の端の『既読』という二文字を探した。返事がなくても、読んだことは分かった。
ここでは、紙を預けた先を、自分の目で追えない。
「お預けした時から、ずっと」
「お休みの折を妨げぬようにと……。申し訳ございませぬ」
政秀が深く頭を下げる。
その白髪のある頭を見ていると、自分の言い方が、この人を責める問いになったことに気づいた。
「いいえ。父上のお具合を見てと、お願いしましたから」
そう伝えても、政秀はすぐには顔を上げなかった。
こちらが許すと言えば済むのではないのだろう。紗季にも、あと一日早く書いていれば、という考えは残っている。
その一日を、今から誰にも返してもらえない。
政秀が顔を上げた時、紗季は文を懐へ入れた。
「母上に、休んでいただけるでしょうか」
「お休みいただけるよう、お声をお掛けいたします」
今できることを聞くと、政秀の声が少しだけ、いつもの声へ戻った。
立って去る後ろ姿を見送り、紗季は懐の紙を衣越しに押さえた。
*
葬儀を翌日に控えた夕方、末森で借りた部屋の前を、支度をする者が何度も通った。
紗季は戸口へ立つたび、廊下の向こうに信長の姿を探した。声を掛ける間もなく、男たちに囲まれて別の部屋へ入ってしまう。
あの葬儀の話を、紗季は知っていた。
茶筅に結った髪、袴を着けぬ姿。父の仏前へ投げつける抹香。まだ教室にいた頃、信長がうつけと呼ばれた例として読んだことがある。
けれど、その話の中に、土田御前の膝に置いた手はなかった。父の袖をつかんで泣く市も、文を返しながら頭を下げた政秀もいない。
知っている場面が来るのを、座って待っていたくなかった。
机へ戻り、紗季は筆を取った。
葬儀では礼を失わぬように。父上を悲しませるようなことは。
頭に浮かんだ文句を、書く前に止める。
母が、いつもきちんとできているからといって、悲しくないわけではない。信長が何も言わないから、言うことがないとも限らない。
まだ何もしていない人を、知っている話に合わせて責めようとしていた。
紗季は、書き出す言葉を選び直した。
『父上へ、申し残されたことはございませぬか』
そこで筆が止まる。あまりに差し出がましい問いだった。
けれど、父へ渡せなかった自分の文が、懐にある。
『私は、書いておけば読んでいただけるものと思っておりました。けれど、かないませなんだ。人前で申せぬことがございましたら、お文でも。私にお見せになるには及びませぬ』
書き終えても、これで何を変えられるのかは分からなかった。
せめて、何も言えぬまま父の前へ立つのでなければ。
紗季は帰蝶と添え、畳んだ紙を槙へ渡した。
「三郎様へ、お取次ぎを頼んでほしいの。お手元に渡ったかだけは、確かめてきて」
槙は、こちらの顔を見てから承知した。
戻ってきたのは灯りを入れる頃だった。信長は文を受け取り、その場で開いて読んだという。
「お返事は、ございませなんだ」
紗季は頷き、空いた机の上へ手を置いた。
読んではくれた。
それ以上のことは、今は、こちらにも分からない。
*
葬儀の日、万松寺には、紗季が思っていたよりも多くの僧がいた。
読経する声が前の列から後ろの列へ重なり、息を継ぐ場所さえ、聞いている自分には分からない。香の煙は堂の高いところへ薄く溜まり、開いた戸から差す光に流れが見えた。
土田御前と紗季の席は、堂内の脇に寄せてある。
母の後ろに控える女が、袖の端を直した。紗季のそばには槙が座り、お梅は戸口寄りへ下がっている。市はおとせに付き添われ、母の姿が見えるところにいた。
父を弔うための場なのに、父はいない。
当たり前のことが、並んだ人の顔を見るたびに分からなくなった。
紗季は前を向いた。
信秀の位牌が据えられた仏前まで、人の間を抜ける道がある。その道の向こうで、男が一人、廊下の方を見た。
やがて、信長が現れた。
袴を着けていなかった。
結い上げた髪は茶筅のように上へ立ち、腰の長い柄の刀には縄が巻かれている。こちらの席からでも、周りの男たちとの違いがはっきり見えた。
思い出した話と、同じ姿だった。
紗季は膝の上で手を握る。来ると知っていたはずなのに、実際に見れば息が浅くなった。
後ろに続く政秀の顔は硬い。
紗季は信長の目を見ようとしたが、横顔しか見えなかった。彼は脇へ顔を向けず、仏前へ進んでゆく。
一人の僧が、わずかに身を引いた。
信長の手が香へ伸びる。
指先でつまむのではなく、掴んだ。
次の瞬間、腕が動き、抹香が仏前へ投げかけられた。
紗季には、小さな音が聞こえた気がした。
実際に香の散る音だったのか、近くの誰かが息をのんだのかは分からない。ただ、母の指が、膝の上の衣を強く押さえたところは見えた。
信長は、そのまま向きを変える。
父に何かを言い残すことも、こちらへ一礼することもなく、入ってきた方へ戻った。
紗季は目で追い、立ち上がりかけた膝へ力を入れた。
ここで追えば、自分まで母を置いて出ることになる。
「濃姫様」
槙の声に、紗季は座り直した。
文を読んでくれたのに。
そう思った自分に、紗季は戸惑った。紙を一枚渡せば、この腕を止められると思っていたのだろうか。何を言おうとしても、その声まで母へ聞かせることになる。
母の顔を見ることもできず、仏前へ目を戻す。
勘十郎が進み出た。
折り目の整った肩衣と袴を着け、静かに頭を下げる。焼香する手元も、立ち上がって下がる足も乱れない。
その所作が、今はひどく目についた。
近くの男たちが、互いに目を動かす。
誰かが口にした言葉は、僧の声に紛れて聞き取れなかったが、その視線が信長の去った方へ向いていることは分かった。
紗季は母の手元を見た。
衣をつかんでいた指は、もう開いている。母は背を伸ばし、息子の下がる方へ、小さく頷いていた。
*
勘十郎の後ろで、柴田権六勝家は、組んだ両手を動かさずにいた。
指の関節が白くなるほど力を入れても、目にしたものは変わらない。
信秀の前で、あれをするか。
肩を掴み、引き戻して座らせることなら、できぬとは思わなかった。武器を振るう者に向かってゆく時の方が、足はよほど迷わず出る。
だが、今ここで立てば、父の弔いの場で兄弟の供が争うことになる。
黙っていれば、認めたように見えるのか。
いや、誰が己に、今すぐ認めるか否か決めよと迫っている。
そう考えている間に、三郎は堂を出ていた。
勝家は勘十郎の背を見る。
あの若い背が、今日はやけに頼りなく見えた。所作を間違えずに務めようとするほど、その細さが目につく。主君でありながら、父を失った息子でもあるのだと、分からぬわけではない。
勝家は、せめて人々の口をこちらの席へ寄せぬよう、顔を上げた。
隣で何か囁きかけた男が、目を逸らす。
今できたのは、それだけだった。
*
堂を離れても、信長の鼻には香の匂いが残っていた。
手を開く。指の間に入り込んだ粉が、爪の際に残っている。
こんなことをするために来たのではなかった。
父の名を目にした時、声を出すより先に手が動いた。そこへ置かれた名だけが父で、自分はその前へ頭を下げれば済む。そうした手順へ体を収めるのが、どうにもできなかった。
生きている父の前なら、何をしても、声が返ってきた。
怒鳴られたことも、鼻で笑われたこともある。返事をせずに出てゆけば、次に会った時に言い直させられた。
今日は何も返らなかった。あの日、馬を急がせても、父の最後の声を聞くことはできなかった。
それを知っていながら、あのように手を動かした自分まで、信長には腹立たしかった。
袂に、昨夜届けられた文がある。
父へ申し残したことはないか、と書いてあった。
ある。あるに決まっている。
何から言えばよいのか分からぬだけだ。母にも弟にも見られるところで、父の立派さを並べてみせる言葉など、今は一つも出てこない。
あの娘は、見せずともよいと書いた。
誰にも見せぬものを、何のために書く。
すぐに捨てようと思ったのに、文は袂に残っていた。
庭の端へ顔を向ける。
後ろを見れば、人がいる。殿、と呼ぶ者も、こちらの顔を窺って口を閉じる者もいる。何を見ているのかと怒鳴りたくなり、その声を出せば、また人を黙らせるだけだと分かる。
信長は手の粉を払い、歩き出した。
誰かに分かるように言い直す言葉は、まだ持てなかった。
*
葬儀の後、紗季は末森で土田御前の着替えを手伝った。
槙と、母に付き添う女が衣を受ける。紗季には背の紐を直す場所がよく分からず、手を出しかけて下げることになったが、母が、自分の前へ座っていてくれればよい、と言ってくれた。
ようやく座ると、土田御前は膝の上へ手を置き、しばらく何も言わなかった。
閉じた戸の向こうで、市がおとせへ何かを頼んでいる。
葬儀の間、思うように話せなかった子が、いまは同じ話を繰り返しているらしかった。
「市のこと、見てくれたのですね」
土田御前が尋ねた。
「おとせが、よくしておりました。私は、少し」
「あの子が、そなたを呼びます」
紗季は膝を見た。
初めは布玉を転がしても、近づいてもらえなかった。それが、今では母が来られぬ時、代わりに呼ぶ名になっている。
嬉しいと思えるはずのことが、今日は、胸の苦しさにつながった。
母がそばにいられぬ理由を、二人とも知っている。
「帰蝶」
紗季が顔を上げると、土田御前は、言うかどうか迷うように唇を閉じた。
「三郎のしたことは……」
そこで声が止まる。
紗季は、私も分かりません、と言いかけた。だが、それを聞きたいのではないのかもしれない。
母は息を継ぎ、言葉を変えた。
「今は、そなたまで、全てを引き受けようとせぬように」
肩に力が入っていたことに、初めて気づいた。
妻なのだから。美濃から来て、この家の娘として父上と呼んだのだから。あの場で何か言えなかった自分が、後からでも何とかせねばならない。
誰に言われたわけでもなく、そう思いかけていた。
「三郎様に、父上へ何かお言葉をと、文を差し上げました。でも……」
あの姿を止めたくて書いたことまでは、言えなかった。
土田御前は、伏せかけた紗季の顔を見た。
「そなたの文を、そなたの思うように受け取るかどうかは、三郎のすることです」
紗季は唇を噛んだ。
読んだと聞いた時、もう少し違う葬儀になるかもしれないと思った。その期待まで、母に背負わせるところだった。
「けれど、母上に」
「私にも、息子に言わねばならぬことがあります」
静かな声だった。
信長を庇ったのでも、その場の出来事をなかったことにしたのでもない。紗季が答えられずにいると、母は、今夜もこちらで休むようにと言った。
差し出された手に触れたところで、こらえていたものがまた込み上げる。
「また、父上と、お話しできると」
続きを言えなかった。
土田御前は、自分もそうだとは言わず、紗季の手を握っていた。
*
その夕方、末森の表寄りの一室で、政秀は信長へ書付を差し出した。
葬儀の話ではない。信秀が病に伏してから延ばされていた返事と、すでに決められながら相手に伝わっていない用があった。
今すぐでなくともよいものを分けたつもりでも、紙を重ねれば薄くはならない。
信長は受け取り、上の一枚を広げた。
「これは、父上が、先に」
そこまで口にして止める。
政秀は、何を続けるつもりだったのか知りたかった。先に何と決めたか。先に誰へ言ったか。以前なら、分からぬところだけ父へ尋ねれば済んだ話もある。
問いの先が、今日は部屋の中にない。
信長は紙を繰り、一人を呼ぶよう命じた。
「こちらの返事を待っておる者を、先に。父上と何を取り決めたか、聞く」
「承りました」
政秀は立ち、戸口で一度だけ振り返った。
堂での振る舞いを、ただ父を失った故として済ませる気にはなれない。弔いに集まった者は、三郎の辛さだけを見て帰るのではない。その先を任せられるか、弟とどちらへ顔を向けるかまで考える。
申し上げねばならぬ。
しかし今、別の用を待たせ、何から叱れば届くのか、政秀にも見定められなかった。
戸口を出ると、呼ぶはずの男がすぐ近くにいた。こちらへ何か言いかけ、部屋の内を見て黙る。
「三郎様が、お聞きになる」
政秀が伝えると、男は小さく息をのみ、衣の膝を払ってから入っていった。
*
紗季は、その夜、末森で紙を出した。
泊まるために用意された部屋は那古野より狭く、灯りの届くところへ机を寄せると、槙が荷を開ける場所と近くなった。お梅は土田御前の侍女から借りた敷物を延ばし、戸の隙間に衣が挟まらぬよう確かめている。
信長はまだ、表の用から戻っていなかった。
美濃へは政秀が使いを出したと聞いている。紗季の文を急いで届けねば知らせが届かぬ、というわけではない。
それでも、小見に書きたかった。
最初の行へ、何を書けばよいかは分かっている。
『こちらの父上が、三月三日にお亡くなりになりました』
一度書くと、次の行へ移れなくなった。
小見には、具合が悪いことをすでに伝えてある。けれど、自分が最期に間に合わなかったことを、どこまで書けばよいのだろう。詳しく書けば母を案じさせる。元気にしておりますと続けることも、今日はできなかった。
紗季は筆を置き、懐から戻ってきた文を出した。
父へ書いた方を開く。
庭の木の芽と、市の字の話。その後に、またお目にかかりたいとある。
今から読む人がいないだけで、書いた時の自分の願いは、紙の中で少しも変わっていなかった。
そばへ来たお梅が、何も尋ねず、倒れかけた紙の端を押さえてくれた。
「そちらの文も、お送りになりますか」
紗季は考え、首を振った。
「これは、私が持っている」
お梅は頷き、手を離した。
紗季は父への文を畳み直す。それを机の脇へ置いてから、小見への続きへ筆を取った。
『今日は、こちらの母上のお側におりました』
何を言えたかではなく、一緒にいたことを書く。
市が父を呼んだこと。土田御前が自分の手を握ってくれたこと。うまく慰めることはできなかったと書いた時、初めて、気持ちを隠して母へ元気な文を送ることばかり考えなくてよいのだと思えた。
帰蝶と署名し、佐和へ預けられるよう、ほかの紙と分けておく。
戸の向こうで、お濃、と声がした。
槙が先に膝をつき、お梅は湯を用意するため隣の間へ出る。信長は部屋の狭さを見て、戸口に近いところへ座った。
紗季は、机の上の紙を重ねた。
何を話せばよいのか。母上のことか、あの場のことか。
問いを選ぶより先に、信長が小さく畳んだ文を差し出した。
「預かれ」
紗季が受け取っても、すぐには手を離さなかった。紙の両端を、二人で持つ形になる。
前夜に自分が渡したものより、紙は小さい。
「読んでも、ようございますか」
信長は頷き、ようやく指を離した。
開くと、書き出しの字だけ、墨が濃かった。
『父上。帰蝶には飯を食わせておる』
紗季は、そこから先を探した。
書いてあるのは、それだけである。名も日もなく、紙の下は白い。
「暮れに、父上に言われたことじゃ」
信長は机の端を見ていた。
「そなたにも、よう食わせよと」
あの日、母と市のいる部屋にいた紗季は、その言葉を聞いていなかった。
父の前で気の利いた返事のできる人が、今は、自分の書いた一行から目を逸らしている。
「まだ、申すことはある」
信長はそれだけ言った。
紗季は、一行だけでよいのだと励ましかけて、やめた。それで十分かどうかを、自分が決めてよいはずもない。
「お預かりいたします」
答えると、信長は頷いた。表でもう一人会わねばならぬと言って立ち、紗季が見送る前に戸を出てゆく。
足音が遠ざかってから、紗季はもう一度文を開いた。
知っていた葬儀は、そのとおりに進んだ。
けれど、あの手がこの一行を書くことまで、紗季は知らなかった。
母が膝の衣を押さえた指の強さも、まだ目に残っている。どちらか一つを忘れて、夫を分かったつもりにはなれない。
戻ってきたお梅が、二通の紙を見て足を止めた。
「おしまいになるものでございますか」
紗季は、自分が父へ書いた文を取り、その隣へ信長の一行を置いた。
「包む紙を、一枚だけ」
お梅から新しい紙を受け取り、二通を一緒に収める。
小見へ送る方とは分けて槙に預け、衣を入れた旅の包みへしまってもらった。
指を離す前に、上からそっと押さえた。二人分の文でも、包みは薄いままだった。




