三十九話
翌朝、小見へ宛てた文を畳む前に、紗季は端の猫をもう一度見た。
昨夜は犬だと言われたが、乾いてみれば、少しは猫に近づいた気もする。描き足そうと筆へ伸ばした手を引っ込め、そのまま佐和に託した。
「お藤への文も、同じ便でお願いいたします」
「はい。お預かりしたものと一緒に、お取次ぎいたします」
朝の用が落ち着く頃、佐和が戻ってきた。二通とも美濃へ帰る使者へ渡し、その一行はもう門を出たという。
返事を待つものが、また増えた。
紗季は机の上から余った紙を片づけ、庭へ向いた戸を開けた。山吹の花の向こうで、お梅が日に当てていた敷物を返している。名を呼ぶと、こちらへ顔を向け、今参りますと答えた。
そうした朝が幾つも重なり、花の色が庭から消えた後には、葉の濃い夏が来た。
*
天文十八年、六月。
十五になっていた紗季は、末森へ着くなり、襟元へ入った汗を拭きたくなった。
坂を上がる間は風もあったのに、館へ入ると、雨を含んだ山の熱が衣の内へ籠もる。先に上がった槙が手拭いを差し出してくれなければ、つい袖で拭うところだった。
「お顔も、お拭きくださいませ」
「そんなに、ひどい?」
「お暑かったのでございましょう」
それ以上言わないところが、かえって気になる。紗季は頬を押さえ直し、庭の方から呼ぶ土田御前の声に返事をした。
この日は信秀から、二人で膳を共にせよと招かれていた。那古野を出る時は一緒だった信長が、着いてすぐ表の方へ呼ばれ、紗季だけ先に奥へ通されたのである。
土田御前の膝のそばには、市がいた。
紗季を見ると立ち上がったが、まだ、駆けてくるほどには近づいてくれない。手にした布玉を持ち替え、母の顔を確かめてから、二歩ほど出てくる。
「お市様。お変わりなく」
しゃがんで声を掛けると、市は自分の頬を指した。
「ねこ」
覚えていたのだ。
紗季が喜んで頷くより先に、土田御前が笑った。
「そなたを見ると、あの絵の話になります」
「今度は、もう少し上手に描きます」
「市は、今の猫がよいようですよ」
おとせが布玉を受け取り、市の後ろへ控える。紗季は子の前へ座りたかったが、隣の間から信秀のよく通る声がして、急いで姿勢を直した。
「帰蝶は来たか。暑いところを呼びつけたな」
戸を開け放した部屋で、信秀は扇を動かしていた。
春に会った時と同じく、座った膝の幅が広い。袖から出た腕にも厚みがあり、扇で胸元へ風を送るたび、衣の前がゆったりと動く。
紗季が挨拶すると、信秀はその顔を見て、三郎はまだかと尋ねた。
「表で、お話が長くなっておられるようでございます」
「ならば、先に食おう。魚が冷める」
土田御前が、せめて膳の揃うまで、と留める。信秀は扇を閉じ、分かっておると答えたものの、焼ける匂いにはもう鼻を向けていた。
庭へ近い方へ紗季の席が用意され、その右に信長の分が空けてある。槙は戸口寄りに下がり、お梅は運ばれてきた膳を受け取る女へ場所を譲った。
焼いた鮎の皮に、塩が白く残っている。
小鉢の茄子は形を留めていたが、箸を当てれば崩れそうなほど柔らかい。紗季がそれを見ていると、廊下を歩く足音が近づいた。
「父上は、もう召し上がっておられるかと」
「そなたの母に止められたわ」
信長は笑わず、自分の席へ着いた。汗ばんでいたらしく、袖を捲りかけ、母に見られて戻す。その動きがおかしくて、紗季は膳へ顔を向けた。
食べ始めると、信秀の箸は早かった。
鮎の身を外し、茄子を取り、合間にこちらへ問いを投げる。那古野の夜はよく眠れるか、小見からは何と書いてきたか。紗季が答えている間にも、飯の山が少しずつ低くなる。
「小さい子を抱く時は、腕だけで支えようとするなと。お市様のことを文に書きましたので」
「抱く者の方が、先に疲れたか」
「はい。おとせにも、助けてもらいました」
信秀は市を見た。母の隣に小さな膳を置かれた市は、自分の器よりも父の魚に気を取られている。
父上、と呼ぶ声は、まだはっきりしない。それでも信秀はすぐに顔を寄せた。
「これが欲しいか」
身を少し取ろうとしたところで、おとせが骨を、と小さく申し上げた。
信秀は箸を止める。手元へ引き戻してよくほぐし、別の器へ載せてから渡した。市が食べるのを待つ顔は、広い肩の上にあるからか、余計に優しく見えた。
紗季は、自分の父が食事の時に何をしていたか、思い出そうとした。
五つの時には、もういなくなっていた。写真の中の笑顔なら覚えているのに、魚の骨を取ってもらった記憶はない。母が何度もしてくれたことだから、父もしたはずだと思うだけで、姿までは浮かばなかった。
「帰蝶は、苦いところは食わぬか」
呼ばれて顔を上げる。信秀が自分の鮎を見ていた。
紗季の箸は、腹の手前で止まっている。
「少し、苦手でございます」
「三郎も、小さい頃は避けておった」
「今は食います」
信長が答えると、土田御前は、それもこの頃になってからでしょうと添えた。
紗季は口へ運びかけた飯を、笑わずに飲み込むのに苦労した。信長が横を向く。
「そなたは食わずともよい。妙な顔をされる方が、飯に障る」
「まだ、何も申しておりませぬ」
「顔が申しておる」
信秀が声を立てたので、市までつられて笑った。
初めの挨拶の時よりも、紗季の座るところが、この部屋の中に馴染んでいるように思えた。二杯目を頼むと、信秀はよい顔で頷き、先に自分の椀も渡した。
*
天文十九年の冬、お梅は灯りを自分の手元へ寄せた。
十五歳になり、文字を追うことにも、書くことにも、以前ほど時間は掛からなくなっている。母のお絹へ出す文なら、初めの挨拶で何度も筆を止めることはない。
しかし、今、膝の前に置いているのは、母への紙ではなかった。
脇の間では、槙が明日の衣を確かめている。こちらを隔てる戸は閉まっていたが、お梅は物音のたびに筆を置きたくなった。
利政に命じられたことを、忘れた日はない。
尾張で見聞きしたことを知らせよ。
あの時は、帰蝶様をお守りする務めと、同じところへ続く命だと思おうとした。美濃にいる父君が、娘の嫁ぎ先を案じるのは当たり前のことだとも。
ここへ来てからは、その理屈だけで紙を埋められなくなった。
末森の御母上に招かれた日。三郎様と並んで食べた日。お市様が言えるようになった言葉を、一緒に笑った日。その一つ一つに、自分もいた。
誰が誰を訪ねたかと書けば、人の出入りを知らせることになる。仲良くなったと書いても、帰蝶様から親しく話していただいたことを、別の相手へ渡すことには変わりがない。
先日、三郎様は末森へ戻る荷に、頼まれていた薪を合わせて運ばせた。お梅は膳を下げる時にその指示を聞いている。そんなことまで書けば、どちらへ荷が動くかを教える文になる。
お梅は筆先を揃えた。
『濃姫様は、末森の御母上より度々お招きを受けられ候』
そこから先を考え、三郎様と争われたことはない、と書きかける。
自分が見ていないところまで、そうとは言えない。紙を替え、末森への往来と、姫が息災であること、先日の薪の運びを短く記した。兵の数や蔵の内は知らないと添える時には、知らぬことで少し楽になる自分がいた。
帰蝶様が悪く思われることは、何も書いていない。
そう確かめても、筆を片づける手は急いた。
翌日、美濃からの使者が那古野を訪れた。
表の取次ぎを経て用を済ませ、帰り支度に移った頃、お梅は表の庭へ下りる脇の戸の近くで、その者を呼び止めた。荷を見に行く人の足はあったが、二人の声に耳を向ける者はいない。
「美濃の殿へ、お渡し願います」
袖から出した小さな文を、相手はすぐに受け取った。
何が書かれているかは尋ねない。そのことが、かえって恐ろしい。お梅は、渡した後の空いた指を重ね、使者が表へ戻るまで顔を上げなかった。
*
その受け渡しを、紗季は廊下の曲がり角から見ていた。
庭へ開いた戸の向こうに、お梅の袖と、使者の手がある。小さな紙が移ったのは見えたものの、柱に隠れる相手の顔までは分からない。先ほど佐和が、美濃からお使いが来たと話していたので、その一人だろうと思った。
呼ぼうとしていた声が、口の中へ戻る。
お絹への文なら、こちらの便と共に出してもよいのに。
そう考えてから、自分を通さずに出したい文があっても、不思議ではないと思い直した。
十六歳になった紗季にも、母にだけ話したいことはいくらでもある。学校の帰り道で友達に言わなかったこと。部活では笑って済ませ、家へ帰ってからようやく泣けたこと。お梅がここで働く身であるからといって、母へ書くことまで一緒にしなくてよい。
紗季はそのまま奥へ戻った。
しばらくして、お梅が部屋へ来る。襟の合わせから入る風を防ごうとしたのか、片手で胸元を押さえていた。
「お呼びでございましたか」
「この衣、紐が抜けかけているの。槙のところから、針を借りてきてもらえる?」
お梅はすぐには衣へ目を向けず、紗季を見た。
聞き直そうかと思った時、ようやく、はいと返事をする。
「お絹は、お変わりない?」
何気なく尋ねたつもりだった。
お梅の指が胸元から離れたので、寒いのではなかったのかもしれないと気づく。
「先の便では、変わりなく過ごしていると」
「そう。今度は、あちらの冬の支度も教えていただこうかな。こちらは、戸を閉めても足が冷えるでしょう」
紗季は膝へ衣を広げた。紐の付け根を見つけ、ここ、と指す。
お梅はやっとそばへ座り、表へ縫い目を出さぬように留め直せると答えた。
渡した文のことを聞くには、その時にはもう、何かを疑って尋ねるような気がした。紗季は問いを足さず、お梅が持ってきた針箱の蓋を受け取った。
*
翌、天文二十年の九月。
那古野の門脇で、二十二になった清十郎は、政秀の話を立ったまま聞いていた。
乾いた風に土埃が上がり、開いた書付の端が揺れる。政秀は片手でそれを押さえた。
「門から倉までの荷の引渡しには、これより、一々付き添いをつけぬ。三郎様も承知しておられる」
清十郎は、すぐに礼を言えなかった。
毎日通る狭い範囲である。それでも、誰かの手を空けてもらってからでなければ動けないことと、自分の用として引き受けられることの間には、大きな違いがあった。
「門の外へは、これまでどおりだ。奥への出入りも変わらぬ。刀を差すことも、まだ許さぬ」
「心得ております」
答えながら、腰にあるはずのない重さを意識した。
もう何年も手を伸ばしていないのに、なくなったものを忘れたわけではない。だが、ここで先に刀のことを願えば、今、任されたものを聞いていなかったことになる。
清十郎は、荷の受け方で気をつけていたことを二つだけ申し上げた。濡れた包みは受け取る前に中を確かめること。行き先が違う荷を、近いからと他の荷に重ねさせないこと。
政秀は聞き終え、若い者にも伝えておけ、と言った。
ほどなく、廊下の方で足音が止まった。
細身の若者が一人、布に包んだものを脇へ抱えている。肩を強く張っていたが、門の内を覗く目は落ち着かなかった。
「末森へ回すという、これを」
包みを置きかけ、もう一度抱え直す。
清十郎がどこで受け取ったか尋ねると、若者は、言われたところは覚えておる、と強い声を出した。その後で、まだ何も責められていないことに気づいたらしく、口を結ぶ。
手伝いの男が少し笑った。
若者の顔がそちらへ向き、空いた手が腰へ寄る。清十郎は包みを受けるために両手を出し、お名を伺っても、と声を掛けた。
「前田孫四郎利家」
名乗る声だけは、今度ははっきりしていた。
信長のそばへ新しく出るようになった者である。背はすらりと高いが、衣の下の体つきにはまだ少年の細さが残る。清十郎が置き場を空ける間、孫四郎は先ほど笑った男を見ないようにしていた。
「包みの数は、これ一つでよろしいか」
「一つだ」
「では、一つ、お預かりする」
やっと手を離した。布に深く指の跡がついている。
清十郎にも、初めの用を終えるまで息が詰まるような気持ちは分かる。ただ、あの手が人を打つために上がらなかったことには、思いのほか安堵した。
去り際、孫四郎はもう一度こちらを向いた。
「名は、何と」
「篠原清十郎と申す」
若者は頷いて戻っていった。
清十郎は受け取った包みを持ち、倉の方へ歩き出した。後ろに足音が続かないことが気になり、曲がり角で一度だけ振り返る。政秀はもう、別の者の話を聞いていた。
*
同じ日の昼下がり、紗季は、佐和とお梅を伴って廊下を戻る途中で、その孫四郎に行き合った。
十七歳になり、衣の裾を気にして足元ばかり見ていた頃より、歩く時に周りを見る余裕はできている。それでも、若者が急に膝をついたので、思わず足を止めた。
「濃姫様」
佐和から、新しく出仕した前田の孫四郎だと聞かされる。
紗季は目の前の顔を見た。
前田利家。
知っている名を心の中で重ねても、後の姿までは、まだこの若い頬に結びつかない。こちらを見る目には勢いがあるのに、挨拶の間、畳についた指へ力を入れている。
「お勤めの途中を、止めてしまいましたね」
「いえ。もう、用は済みまして」
そこまで言うと、次の言葉が続かなくなった。
紗季にも、初めて信秀の前へ出た時、何を聞かれるのかと待っていた記憶がある。いきなり何かを尋ねず、通れるよう体を寄せた。
「では、また」
若者は頭を下げ、今度は裾を踏まぬよう、ゆっくり立った。
その後ろ姿を見送りながら、お梅が、随分と背のお高いお方ですねと言う。
「私より、年は下なのでしょうね」
口にして、紗季は少し驚いた。
この時代へ来た頃は、会う人が皆、自分より大人に見えた。いつの間にか、こちらの前で返事に困る年下の者がいる。
紗季の袖へ、お梅の袖が触れた。十六になったお梅とは、歩調も自然に合うようになっている。以前のように小走りで追いついては半歩後ろへ下がることも、今は少ない。
「私も、初めはあのようでしたか」
「もっと、話してくれなかった」
紗季が答えると、お梅は、それは仕方がございませぬ、と困った顔で笑った。
初めて会った日の二人には、まだ、今日のように並んで歩く時間がなかった。
*
その年の十二月、末森への支度は、二年前の夏に招かれた時とは違っていた。
信秀が床に伏す日が増えたという知らせは、秋の終わりから届いている。よくなったと聞いて安堵した数日後、今日の対面は延ばすとの連絡が入る。紗季のところへ回ってくるのは、そうした用の変更だった。
この朝も、出立を待つ間に、信長は政秀と小間で話をしていた。
紗季は槙に襟元を整えてもらい、お梅には、替えの足袋を取り出しやすく包んでもらう。初めて訪ねた時には、何を着てゆけば失礼にならないかで頭がいっぱいだった。今は、自分たちが着いて、母上の用を増やさずに済むかが気に掛かる。
「佐和。こちらを空けている間のことは、昨日お話ししたとおりに。急ぐお使いが来たら、待たせず表へ知らせてください」
佐和は頷き、濃姫様もお冷えになりませぬよう、と答えた。
その声を後ろに聞いて、紗季は立った。政秀も一行へ加わり、いつもより少し遅い出立となった。
末森の坂道には、前日の雨が残っていた。
館の中はよく掃かれていたが、庭へ向いた戸は閉じてある。春には風が抜けていた廊下を曲がると、火鉢の灰を直す細い音がした。
迎えた土田御前の袖に、白い糸くずが一つついている。
紗季が気づいても取ると言い出せないうちに、母は、今は起きていると告げた。
「長くお話しなさらぬように。食事の間だけ、そばにいて差し上げてください」
信長が頷く。
いつもなら母の言葉の終わりを待たずに歩く人が、その日は最後まで聞いていた。
部屋の中で、信秀は起きていた。
背後に屏風を立て、畳んだ夜具へ体を預けている。病の人だと思って入ったはずなのに、頬が痩せたことより、手首の細さが先に目に入った。
扇を持って胸を仰いでいた腕と、同じ腕には見えなかった。
「よう参ったな。帰蝶、寒かったであろう」
声を聞き、紗季はようやく座る場所を見た。信長の隣、火鉢から少し離れたところへ膝をつく。
「父上こそ、お寒くはございませぬか」
「この者らが、寒いと言わせてくれぬ」
信秀は土田御前を見た。母は笑みを返したが、膝の衣を直す手は止めない。
市は隣の間にいると聞いた。数えで五つになり、こちらが何かをしてほしいと言えば聞いてくれるようになっている。病の父の前で静かにすることも、今日はおとせとの約束になっているらしい。
戸の隙間から小さな顔が覗き、紗季を見ると、すぐに引っ込んだ。
「市も、お話ししたいのでは」
紗季が言いかけると、信秀は、後で呼ぼうと答えた。
すぐに呼ばぬのは、食べ終えてからにするためか。それとも、相手をする力を残しておきたいからだろうか。
紗季は勝手に決めつけぬよう、自分の膳へ目を移した。
信秀の飯は、皆よりも小さな器に盛られていた。
汁のほかに、柔らかく煮た蕪と、身を細かくほぐした魚がある。給仕の女が一品ずつ置く間、母が手元の位置を少しずつ直した。信秀が肘を大きく動かさず取れるようにしているのだと、見ているうちに分かった。
箸を持つ手は、震えてはいない。
だから食べられると思ったのに、信秀は一口の後、器を置いてしまった。
隣で信長が、もう召し上がらぬのですかと尋ねた。母がそちらを見て、何も言わず膝の衣を直すと、信長も口を閉じる。
箸先は蕪へ向いている。食べる気はあるのだろう。けれど、そのまま、信長へ表の用を尋ねる声になった。
「今日、会うはずの者は」
「待たせてございます」
「待たせてばかりでは、帰ってしまうぞ」
信長は、父の顔を見た。
「父上のお返事がなければ動けぬと、申すので」
「何を求めておる」
話は、年明けの人足をいつ出せるかというものだった。
細かい日数になると、紗季には分からない。それでも、信長が人数だけでは答えず、先に済ませねばならぬ用を挙げるのを聞いていた。空いている日を同じように数えていても、何を先へ置くかで、返事が変わる。
信秀は一度だけ聞き返し、その先で目を閉じた。
紗季は器へ伸ばしかけた手を止める。
眠ってしまったのではない。唇が小さく動き、何かを確かめているようだった。
「そなたは、どう返すつもりじゃ」
信長が答える。
父は、すぐには頷かなかった。長い間を置いた後、最後の一日だけ変えよ、と言った。
政秀が戸口の側で聞いていた。信長がそちらを見ると、承りましたと頭を下げ、その話を持って席を外す。
信秀は、そこでようやく蕪へ箸を入れた。
割るのに力は要らないほど、よく煮えている。紗季は自分のものを口へ運んだが、味を確かめる前に、父の箸が上がる方を見てしまった。
母に一口でも多く食べてほしいと願ったことなら、現代でもある。風邪をひいた夜、紗季の夕飯だけ作り、自分はいらないと言う母の前で、半分に割ったおにぎりを勧めた。
今は、勧めてよいかも分からない。
父上、もう少し。そう言って、食べられぬことを責める声になったら嫌だった。
「帰蝶。そちらの菜は、固うはないか」
先に聞かれて、紗季は顔を上げた。
「柔らかくて、おいしゅうございます」
「ならば、よい。三郎のところでは、どうじゃ」
「よくしてもらっております。佐和が、私の食べられるものを覚えてくれました」
信秀の顔に、少し笑みが戻る。
自分の食べる量より、こちらが食べているかの方が気になるらしい。そのことに気づくと、紗季は自分の器を手に取れた。
「夏の鮎は、まだ苦手か」
「苦いところは、まだ」
「あれを残したから、三郎が大きな顔をしたのであろう」
信長は、しておりませぬ、と答えた。
土田御前が目を伏せて笑い、紗季も笑った。大きな声を出さないようにしたせいで、かえって笑いが収まりにくい。
信秀が覚えていてくれたのが嬉しかった。
食べられないところを、次に訪ねるまで覚えている。こちらが忘れていたことも、父と母がいる部屋の中には、まだ残っていた。
*
食後、土田御前は隣の間で、市の袖を直した。
いつの間にか手首が出るようになり、縫い上げを解くことを考えていた衣である。子は長く座っているのに飽き、紐の先を指へ巻いていた。
「父上のところへ行ったら、大きな声を出さぬようにね」
「さむいから?」
「お疲れになっているからです」
市はしばらく考え、小さな声ならよいのかと尋ねた。
土田御前は頷く。
小さい子にも理由を尋ねられる。こちらは、疲れている、としか答えたくないのに。
夫がいつからこれほど痩せたのか、一日を選ぶことはできなかった。食べ残すことが増え、衣を重ねても肩が小さく見えるようになり、会う者を減らす日が続く。昨日までできていたことが、今日もできるとは限らない。その変わり方に慣れたくなくて、つい、前には、と口にしかける。
先ほど、三郎が父へ返事をしていた。
あの声は頼もしかった。と同時に、夫が最後の一日を直すまで答えが決まらなかったことへ、土田御前は安堵してもいた。
まだ、この人に尋ねられる。
息子に任せてほしいと思う気持ちと、夫が任せきってしまわぬことへの安堵が、一つの膳の前で行き来した。
「母上」
戸口で帰蝶が呼んでいる。
土田御前は袖から手を離した。帰蝶は、市の足元を見てから、こちらへ顔を向ける。
「お帰りの支度まで、お市様とおりましょうか。父上のお側へ、母上が」
夫の世話に疲れているなどと、嫁に思われるのは嫌だった。弱音を吐けば、この家に来たことまで不安にさせるような気もする。
だから、助かった、と言うだけのことが遅れた。
帰蝶は返事を待つ間、市へ声を掛けずにいる。こちらが断りたい時のために、待っているのだろう。
「では、少しだけ」
そう答え、市の手を離した。
*
信長は、父の部屋に残っていた。
膳は下げられ、火鉢の炭が一つ崩れた。戸の向こうで市が何かを尋ね、その問いへ、お濃が言葉を選びながら答えている。
聞き取れるほど大きな声ではない。その途切れ方だけが耳へ残る。
父は横になっていた。眠っていると思い、信長が腰を上げかけると、目がこちらを向いた。
「あの者は、まだおるか」
表で返事を待っていた者のことだと分かった。
「政秀が返しました。年明けのことも、それで」
「そうか」
そこまで話すと、父はまた目を閉じた。
信長は、さっきの一日を変える理由なら分かっていた。父が相手と前に決めたことがあり、それを知らずに返せば、また話が戻る。次からは、自分が先に確かめておけばよい。
用の上なら、そう考えられる。
だが、父が箸を置いた時には、何を言えばよいか分からなかった。
もう食べぬのかと言って、母に目で制された。食べられぬなら残せと言えば、父は意地になって口へ運ぶかもしれない。子供の頃から大きく見えていた手を、ただ眺めているのも嫌だった。
その手が、掛けた衣の縁を探った。
信長は膝を寄せ、手の届くところへ布を引き上げる。父の指がそれをつかむのを見てから、自分の手を離した。
「三郎」
「はい」
「帰蝶にも、よう食わせよ」
信長は返事をしようとして、少し遅れた。
自分は父が何口食べたかばかり気にしていたのに、父の心配は、那古野の膳にまで及んでいる。分かっておりますとだけ答えるのも、違うような気がした。
「よう食べております。父上の前で、取り繕っておるのではございませぬ」
父の口元が、わずかに緩んだ。
信長は座り直し、火鉢から顔へ来る熱を避ける。母が戻るまでの間、父が目を閉じても、もう立とうとはしなかった。




