三十八話 お市
翌朝、佐和に頼むと、庭の手入れで切る枝なら見せてもらえることになった。
紗季はお梅と縁へ出て、運ばれてきた枝から、蕾の固い山吹を選んだ。まだ花のないところが気になったものの、葉のほどけた細枝を添えれば、机から見ても寂しくはない。
器は、しまってあった小さな壺を借りる。
水差しに使うには口が狭く、長く出番がなかったものだと佐和は言った。紗季は洗ってもらった壺を壁際へ置き、戸口から眺めた後、机に戻ってもう一度見た。
お藤への文には、まだ咲いていない枝を選んだことも書き足す。
ようやく帰蝶と署名し、佐和に預ける時、書き始めた日からずいぶん経ったのだと思った。初めの一行より字が少し小さくなってしまったが、書き直さずに畳んだ。
三月に入ると、昼の間は庭へ向いた戸を開けておく日が増えた。
山吹の蕾がほころび、その枝を替える頃、土田御前から、市を連れて訪ねたいという知らせが来た。
「お市様も、こちらへいらっしゃるのですか」
紗季が尋ねると、佐和は、末森からお連れになると答えた。
信長の妹。
その名を、本の中で知った時より、今の方が遠く感じる。どんな顔で笑い、どんな声で母を呼ぶのか、何一つ知らない。
槙に、まだ小さいのだと教えられ、紗季は部屋を見回した。
「手の届くものは、少し寄せておこうか」
文箱を壁際へ移そうとすると、お梅が、かえってそちらの方が階から近いと指した。
自分が座るところから考える癖は、なかなか抜けない。紗季は箱を棚の方へ運んでもらい、机の前を空けた。
*
市は、土田御前の後ろから、女に手を引かれて入ってきた。
淡い紅の小袖は袖が少し長く、手を出すために折り返してある。廊下の継ぎ目へ足を下ろすたび、先を行く母と、後ろにいる女とを交互に見る。
紗季が声を掛ける前に、市の足が止まった。
知らない者が、知らない部屋の真ん中にいる。
そう思われたのかもしれない。紗季は立ったまま迎えるのをやめ、母が座るのに合わせて畳へ膝をついた。
「ようこそ、いらっしゃいました」
まず土田御前へ挨拶し、市へは少し声を柔らかくする。
「帰蝶にございます」
市は返事をせず、母の袖の端をつかんだ。
「お市。こちらへおいで」
呼ばれても、土田御前の脇から半歩ほどしか離れない。紗季は、それ以上近づいてもらおうとせず、自分の扇を畳の上へ置いた。
市の目が、その動きを追う。
今度は、扇を見ている市の顔を、紗季が見てしまった。頬の丸みも、髪の生え際も、思い浮かべていた歴史の人物とは結びつかない。袖を離せない指が小さかった。
「こちらは、おとせ。市に付き添っております」
土田御前に紹介された女が、戸口に近い板敷きで礼をする。
おとせは市が母の膝へ寄るのを見届けてから、持ってきた包みを脇へ置いた。開いた口から、替えの衣と、丸く縫い合わせた布の玉が見える。
「その玉、お市様の?」
紗季が聞くと、おとせは頷き、取り出して市へ見せた。
市は初めて、母の袖から手を離す。
布玉を抱え込んでしまい、紗季には渡してくれなかったが、来た時より少しだけ前へ出てきた。
「三郎は、後ほどこちらへ参るそうですね」
土田御前の問いに、紗季は頷いた。
「はい。表での御用が済みましたら、と」
佐和が湯を運んできた。土田御前の右へ膝をつき、器を置く。市は湯気に手を出しかけ、おとせにそっと止められた。
紗季は自分の器を取り上げ、机の向こうへ移す。
近くにいる子を気にしながら、人と話をするのは初めてだった。目を離してはいけないと思うほど、母への返事が遅れる。
「そなたのところにも、春が来ましたね」
母は壁際の花を見ている。
紗季が選んだ最初の枝はすでに下げ、今は咲き始めた山吹が一枝だけある。花が多い方へ傾けると壺が倒れやすく、槙に見てもらって短くしたものだった。
「まだ、置き場所を迷います。机からも、戸口からも、見たいと思いまして」
「市からは、何が見えるでしょう」
そう言われ、紗季は小さな客の方を向いた。
市は、壺よりも手前の敷物を見ている。端の小さな皺へ布玉を当て、押しても転がらないのを、もう一度押す。
お梅が敷物の端を直そうとしかけたので、紗季は、待って、と小さく声を掛けた。
市がやっと皺の向こうへ玉を押し出す。少し先まで転がると、今度は自分で手を伸ばした。
「取れましたね」
声を掛けられ、市は玉を取り上げたまま、紗季を見る。
笑ってもらえるかと思っていたのに、その顔は真剣だった。まだ、見知らぬ相手に自分の玉を取られないか、確かめているようでもある。
紗季は両手を膝へ戻し、母の話へ耳を向けた。
*
信長が来たのは、土田御前が二度目の湯を断った頃だった。
戸口で、市がいるのかと言い、その声を聞いた市が顔を上げる。
さっきまで母から離れなかった子が、玉を落とし、立ち上がった。
「兄が来ると、こちらは用がなくなります」
土田御前が言う間に、市は二歩進んで立ち止まった。信長が廊下から上がるところへ、おとせが先に出て、裾を踏まぬよう体を寄せる。
信長はそれを待ち、市の前へしゃがんだ。
「何をしておった」
市は答える代わりに、彼の袖を引く。
声は出したが、紗季には言葉が分からなかった。信長にも分からなかったらしく、母へ目を向ける。
「あちらの玉で遊んでおりましたよ」
言われて玉を拾い上げると、市はすぐに両手を出した。
「落としたのは、そなたであろう」
返してもらった玉を、今度は信長の膝へ押しつける。
信長は一度だけ転がしてやった。市は追いかけ、拾うとまた持ってくる。二度目を待つ顔には、さっきまでの警戒がない。
紗季は母の横から、それを見ていた。
刀を使う手も、物を運ばせる時に人を指す手も、玉を投げず、手前で転がすことができる。そう分かるだけで、思っていたよりも長く目を留めてしまう。
信長が顔を上げると、紗季は先に市の方を見た。
「お濃。何もされなんだか」
「まだ、お話もしていただけませぬ」
「口を利かぬのは、気に入らぬからとは限らぬ」
その言い方が、自分のことにも聞こえた。
何か返そうとした時、市が玉を追って、紗季の膝へ手をつく。見知らぬ人の衣だったことに途中で気づいたように、顔が上を向いた。
紗季は動かず、市が体を戻すのを待つ。
「お玉は、こちらです」
手の届くところへ寄せると、市は取り上げ、今度は紗季の前へ置いた。
「私も、よろしいの?」
尋ねても答えはない。ただ、じっと玉を見ている。
紗季は信長がしたように、手前へ転がした。市の足へ当たって止まる。
初めて、笑う声が聞こえた。
*
昼の膳を下げた後、表へ戻ろうとする息子を、土田御前が、少し話があると呼び止めた。
市は食べた煮芋の味が気に入ったのか、空いた器をもう一度覗いている。おとせが手を拭く間にも、目は器から離れない。
「お濃、しばらく相手をしておれ」
信長に言われ、紗季は母とおとせを見た。
「私だけでは、まだ、抱き方もよく分かりませぬ」
口にした後で、家の用を任されたのに断ったと思われただろうかと気になった。
しかし母は、おとせはこちらに残すと答えた。
「市を一人で預かれと申しているのではありません。眠くなれば、その者が見ます」
信長は先に立ったが、階へ向かう前におとせへ振り向いた。
「庭の方へ出すなよ」
おとせが承知したのを聞き、紗季も頷く。
市は、母が立ち上がったところから目で追っていた。二人の姿が戸口を出ると、おとせの手を振りほどこうとする。
「かあ」
さっき信長を見た時とは、声が違う。
おとせが抱こうとすると、膝を突っ張った。紗季は布玉を見せかけ、やめる。そこへ目が向く気配もない。
「すぐ、お戻りになりますよ」
声を掛けても、市には、そのすぐがいつか分からない。
紗季はおとせへ、母の行った戸口が見えるところへ座ってもよいか尋ねた。
抱き上げられた市はまだ身をよじっていたが、二人で板敷きへ寄ると、少し声が小さくなった。母が消えた角を指す。
「あちらですね。帰っていらっしゃるのを、ここで待ちましょう」
おとせは市を膝へ載せ、衣を直した。紗季もその隣へ座る。手を出せば抱けるというものでもなく、今は、自分が隣にいることを嫌がられないだけでよかった。
お梅は湯の器と膳を奥へ寄せ、槙は庭へ向いた戸を一枚閉めた。
市が泣き止むと、さっきまで気にならなかった外の物音が聞こえてくる。遠くで人が呼び合い、何かを担いだ足が廊下の向こうを通っていった。
紗季は、母の代わりになる言葉を探すのをやめ、布玉を自分の膝へ置いた。
*
表寄りの小間で、信長は母の前へ座り直した。
用は、末森へ戻る荷と、手伝いを一人よこしてほしいという頼みだった。急ぎではないと言われると、いつまでなら待てるかを確かめる。空いた者を出せば済む話ではなく、こちらにも朝夕の持ち場がある。
母が日を答えた後、少し間が空いた。
「帰蝶は、聞けるようになりましたね」
「何を」
「一人では困る、と」
信長は、脇の書付へ手を伸ばしかけて止めた。
抱き方も分からぬと言った声は、まだ耳に残っている。市と遊ぶのは嫌だとは言わず、誰が残るのかを目で探していた。
「分からぬなら、聞けばよい」
「そう言われても、聞けぬことはあります」
母の声に咎める響きはなかった。だから、言い返す言葉も出しにくい。
あの娘は、時おり、自分が返事をするまで動かない。かと思えば、答えを待たずに何か言い返す時もある。どこまでが遠慮で、どこからが気性なのか、信長にはまだ見えなかった。
嫁いできた夜には、もっと分からぬことを聞かされた。
帰蝶ではないという娘が、今日は自分の妹の相手を引き受けた。告げられた話をどう受け取るかと、目の前でその娘が何をするかとは、別に見ておくしかない。
「市は、すぐに戻ると申しても待たぬ」
信長が言うと、母は少し笑った。
「そなたも、待てぬ子でした」
「今も子の話でございますか」
「そなたが始めたのでしょう」
信長は、戻るための供は先に支度させておく、と用へ話を戻した。
母は頷き、では帰蝶のところへ戻りましょうと言って立つ。信長は書付を取ってから、後を追った。
*
市が紗季の膝へ移ったのは、泣き止んでしばらくしてからだった。
おとせの片腕へ体を預けたまま、紗季の膝にある布玉を取ろうとして、そのまま腰を下ろす。こちらへ来るつもりで来たわけではないらしい。
紗季は動けなくなった。
膝が重い。小袖越しにも温かく、少し身じろぎするたび、転がっていかぬか気になる。
「こちらの腕を、添えていただけますか」
おとせに教わり、市の脇へ手を回した。
抱き寄せようとするより先に、向こうから背中を預けてくる。重みの掛かる場所が変わると、片腕だけで支え続けるのは難しかった。
「おとせ。右を、少し」
頼むと、おとせはすぐに市の体を支えた。紗季は腕を入れ直す。
お梅は机から紙を取り分けていた。今朝、佐和が手習いに使えると持ってきてくれた、裏の空いている書付である。
「何か、お描きになりますか」
紙を置かれると、市がそちらへ手を出した。
おとせに市の体を支えてもらいながら、紗季は筆を遠ざけ、猫を描いてみせる。丸い顔に耳を二つ、目と、ひげ。体をつける途中で、市が紙の端を叩いた。
「ねこ」
「そう、猫。分かりました?」
嬉しくなって顔を覗くと、市は紙より紗季の手を見ていた。自分でも何かしたいのか、指を開いて近づけてくる。
小さな手を避けようと紙を引いた、その時、紗季の袖口が机の角へ掛かった。
筆を置くのが一瞬遅れる。
落とすまいとして引き寄せた穂先が、左袖へ触れた。
「あっ」
市の手は汚れていない。墨がついたのは、自分の衣の方だった。
おとせが息をのむ。お梅は布を取りに立ち、槙はまず市を離しましょうと声を掛けた。
「市様を、こちらへ」
おとせが抱き取ると、膝の上が急に軽くなった。紗季は袖を広げ、黒い線の長さを見る。
拭けばすぐ消えるような汚れではない。
それでも、市の顔へ墨が飛ばなくてよかったと思い、先にその手を確かめた。
「指には、ついていませんね」
おとせが頷く。
「申し訳ございませぬ。私が、もっと早う」
「違います。私が、抱いたまま筆を持ったので」
自分の声が少し強かった。紗季は言い直そうとして、おとせの顔を見た。
こちらの説明を聞くより前に、叱られるのを待っているように見える。
「お市様は、まだ描いていらっしゃらないの。私が汚しました。だから、まず、この筆を片づけてもらえますか」
お梅が硯と筆を奥へ運ぶ。
市は、消えた猫の方へ手を伸ばした。紗季は墨の乾いた上の方だけを持ち、見せてやった。
「こちらは、なくなりませんよ」
戸口に、人の気配がした。
母の声がする前に、市がそちらへ向き直る。おとせの腕の中から身を乗り出すので、紗季も紙を置き、立ち上がる場所を空けた。
「待たせましたね」
土田御前は市を見て、それから紗季の袖へ目を留めた。
紗季は先に、私が墨をつけました、と伝える。
「抱いたまま、描こうといたしまして」
「洗うものは、後で確かめましょう。今は、市をこちらへ」
おとせが市を母へ渡す。市はやっと探していた袖をつかみ、頬を押しつけた。
紗季は黒くなった自分の袖を押さえ、膝へ視線を落とす。少し前までそこに座っていたのに、母へ戻る顔は、こちらへ向けたものとは違う。
寂しいと思ってから、まだ会ったばかりなのにと、自分で可笑しくなった。
遅れて入ってきた信長は、机に残る紙を見た。
「何じゃ、これは」
「猫でございます」
信長は紙を持ち上げ、横へ向ける。
「耳が四つあるぞ」
「下は、前足です」
説明を聞いても、信長の顔は変わらない。
紗季が紙を取り返そうと手を出すと、市も、猫、と声を上げた。
「その子には、分かっていただけました」
「今聞いたからであろう」
お梅が後ろを向いた。今度は、笑っているとすぐに分かる。
信長は紗季の袖を指した。
「それも、猫の仕業か」
「私の仕業でございます」
真面目に答えた途端、母まで笑った。
紗季はもう一度袖を見た。洗っても残るかもしれない墨の線が、この日いちばん長く覚えているものになりそうだった。
*
帰り支度の間、おとせは隣の間で市の替え衣を畳み直した。
使わずに済んだ衣より、紗季の袖の方が気に掛かる。
小さな子が何をするか、長くそばにいれば分かることもある。それでも、手が伸びるたびに先回りはできない。先に止めておけばと考えるのは、いつも、何かが起きた後になる。
今日の新しい奥方は、自分が汚したと言った。
市を庇うために、こちらの落ち度を黙って置いてくれたのだろうか。それとも、本当に自分が筆を持ったことしか責めていないのか。
まだ、分からない。
だが、抱き直したい時に右を支えてほしいと頼んだ声は覚えている。こちらが手を添えるまで、無理に立ち上がらなかった。
次にお連れする時は、先に筆の置き場も見ておこう。おとせはそう考え、布玉を包みへ戻した。
猫を描いた紙は、墨の乾くのを待って、別に挟んで持ち帰ることになった。
*
見送りから戻ると、紗季は槙に衣を替えてもらった。
汚れた袖は、明るい方へ向けて確かめる。槙は、今できることをしてみるが、跡が残らぬとは申せぬと答えた。
「ごめんなさい。まだ、よく着られるものなのに」
「まずは、お脱ぎくださいませ。押さえていては、手が入りませぬ」
叱られていないのに、すぐ詫びたくなる。
紗季は手を離し、片袖ずつ抜いた。お梅が持ってきた別の小袖へ腕を通すと、先ほどまで抱いていた重みが、肘の内側へ少し残っている。
文を出す便は、明日の朝だと佐和から聞いた。
お藤宛ては、もう預けてある。小見にも、今日のことを書こうと思い、紗季は新しい紙を出した。
元気にしています、だけではないことを、今なら書ける。
『今日は、こちらの母上がお市様を連れておいでくださいました』
初めて会い、膝へ座ってもらったこと。その間に自分で袖を汚したことも、隠さず書いた。
お梅が脇から覗いて、そちらもお書きになるのですかと尋ねる。
「後で、槙から聞かれるよりよいでしょう」
紗季が言うと、衣を畳んでいた槙が顔を上げた。
「私から何をお聞きになるので」
「何でもありません」
慌てて紙へ戻ると、お梅がとうとう声を出して笑った。
小見なら、まず、まだ新しい衣を、と言うだろう。けれど、その先で、小さな子の抱き方を教えてくれるかもしれない。
紗季は、どう添えれば手が疲れにくいのかを尋ね、次の行へ筆を移した。
『猫の絵も描きました。三郎様には、前足を耳だと言われましたが、お市様には分かっていただけました』
そこで、少し手が止まる。
帰った市は、今ごろ母のそばで眠っているのだろうか。
あの紙を持っていってもらえたことが、後から嬉しくなってきた。
帰蝶と名を添えた後、文の端に、小さな猫をもう一匹描いてみる。今度は前足を離し、ひげを長くした。
お梅の方へ向けると、何も聞かぬうちに、今度は犬でございますか、と言われた。
「猫です」
紗季はきっぱり答え、乾くまで袖を寄せて待った。




