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文蝶 〜文が紡ぐ戦国のんびり生活〜  作者: 藤原 智
尾張

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三十六話 呼び名

 袖を留める紐を衣の上へ置くと、紗季は、佐和に聞いておくことがもう一つあったと思い出した。


「お父上のところへは、どのくらいで着くのですか」


 昼の膳を運んできた佐和は、汁の椀を置いてから答えた。


「末森まで参ります。朝にお立ちになれば、お昼の前には。お帰りも、その日のうちと伺っております」


 美濃を発った時のように、泊まるための荷まで作らなくてよいと知り、紗季は衣を積んだ方へ目をやった。槙も聞いていて、まず着ていくものを決めればよいと言う。

 佐和は膳を少し寄せ、置き直した椀が傾いていないのを確かめた。


「それから、美濃への文のことでございますが」


 政秀からの伝言だった。

 作兵衛が人と荷の引渡しを済ませ、明後日の朝に戻る。その帰りに、預けた小見宛ての文も持っていってもらうという。


「ほかにも、お願いできますか。二通、書きたいのです」

「今夜のうちにお書きになれるようでしたら、明日、平手様へお伝えいたします」


 紗季は礼を言い、箸を取った。

 小見だけに書けば、美濃へ届けたいことを全部伝えられるわけではない。仕立ててもらった衣を今朝も手に取り、袖を見てお絹を思い出した。午前に庭を歩いた時には、器へ枝を挿す手元を、お藤がじっと見ていたことを思い出した。

 飯を食べ終えてから、白紙を二枚出した。


 お藤への文には、尾張でも剣の稽古を少し始められたことを書いた。その先で、筆が止まる。

 これでは、お藤に何を知らせたいのか分からない。

 花のことを聞きたいのだった。


『こちらでも、花を生けたいと思っております。まだ器を決めておりませぬが、置く場所を先に見るようにと教えていただいたことを思い出しました』


 今の部屋がどちらから明るくなり、どの辺りに人が座るかを、短く添える。美濃で使った器と同じものを探せばよいのかとも思ったが、それだけでは済まない気がして、その迷いも書いた。

 答えを当ててから出す文ではない。分からぬところを聞ける相手が、向こうにいる。

 帰蝶と名を記し、二枚目へ移った。


「お絹さんには、この字で分かるかな」


 隣で衣を畳んでいたお梅が、紗季の手元へ寄る。

 お梅に読んでもらうと、長く続けたところで一度、声が止まった。紗季はその箇所を指し、ここで切った方がよいかと尋ねる。


「私なら、その方が読みやすうございます」

「じゃあ、そうする」


 浅い青の小袖を尾張でも着ていること。袖の具合がよく、動く時に困らないこと。道中にいただいた丈夫な布が役に立ったこと。

 一つずつ分けると、思っていたより素直な文になった。

 最後へ、お梅がよく働いてくれることを書き、本人を見た。


「これも、書いてよい?」

「姫様がお書きになることですから」

「でも、読むのはお母さんでしょう」


 お梅は視線を落とした。少し考えてから、夜も眠れていると知らせたい、と言う。


「母は、そこを気にいたします。私が、初めての所では目が覚めると、前に申しましたので」


 紗季は紙を少しお梅の方へ向けた。


「そこは、お梅が書く?」


 返事を待ち、筆を渡す。

 お梅は墨を含ませすぎぬよう硯の端へ穂先を寄せてから、空いているところへ字を置いた。ひと文字書くごとに、次に何を伝えるかを選んでいる。

 紗季は覗き込みすぎないように座り直し、お梅の書き終えるのを待った。


 *


 翌朝、清十郎は那古野の門に近い建物で、空いた木箱の底を拭いていた。

 底板の隅に藁の切れ端が挟まっている。指で引き出して布へ包み、同じ大きさの箱を壁際へ重ねた。

 尾張へ着いてからは、作兵衛と一緒に荷を確かめ、受け取る者へ渡し、戻った包みを分ける仕事が続いている。美濃から来た物がどこへ入ったかを尋ねられれば、まだ誰も顔を知らぬ自分でも答えられた。

 用が済むと、部屋は急に広くなる。

 奥の方で戸の動く音がしても、それが誰のものか、ここからは見えない。


「その箱は、こちらへ残す」


 作兵衛に言われ、清十郎は持ち上げかけた手を止めた。


「承知いたしました」


 そこへ政秀が、織田方の男を一人連れて入ってきた。

 清十郎は布を置いて座り直す。男の腰には刀がある。自分の脇には、ない。

 美濃でも同じだったはずなのに、作兵衛が明日戻ると思うと、どこまでが変わらず残るのかを、改めて聞かねばならなかった。

 作兵衛が口を開く前に、清十郎は膝へ手を置いた。


「私は、明日から、どなたのお指図を受ければよろしいでしょうか」


 政秀は連れてきた男を示した。

 門の脇で取次ぎをする者だという。清十郎は当面その男につき、届け物を受け取る手伝いと、表の方への使いをする。行く先はその都度確かめ、一人では館の外へ出ない。

 作兵衛から引き継ぐ制限も、そこで一つずつ確かめられた。刀を持たず、呼び出しのない奥へ入らないこと。紗季のもとへの用も、織田側の取次ぎを通すこと。


「姫様へ直接、お届けせよと頼まれた時にも、こちらで伺います」


 清十郎が言うと、男は頷いた。


「誰から預かったかも、忘れずに申せ」

「はい」


 念を押されて、少しだけ腹の底が固くなる。

 頼まれた物を、勝手に渡すつもりなどなかった。けれど、相手はそれを知らない。ここへ来る前の自分の働きも、何をしでかした者なのかも、どこまで聞いているか分からぬ。

 知っている者の前で頭を下げるのとは、違っていた。

 清十郎は、男が話す寝起きの場所と、朝に顔を出す戸口を聞き漏らさぬようにした。


 政秀たちが去ると、作兵衛は帰りの荷の包みを閉じた。


「困った時に、奥へ駆け込むなよ」

「いたしませぬ」


 返事が硬くなった。

 作兵衛は手を止め、清十郎を見た。叱る顔ではなかったが、言い直してもくれない。


「まず、今の者へ聞け。用もないのに立っておれば、向こうも、おまえをどこへ置くか困る」


 清十郎は頷いた。

 姫が困っていたら、役に立ちたい。そのつもりで来たのに、今は、どこに立てばよいかから尋ねている。

 あの娘は、こちらで、どのように過ごしているのだろう。

 少し笑った顔を思い浮かべると、見たい、と思った。無事でいると確かめるだけでは終わらず、声を聞き、自分へ何か言ってほしくなる。

 そこまで考えたところで、清十郎は立ち上がり、残った箱へ手を掛けた。


「こちらの置き場を、もう一度見て参ります。あの方へ伺ってから」


 作兵衛が頷く。

 清十郎は廊下へ出て、先ほど教わった戸口へ向かった。奥へ曲がる角を通り過ぎる時、足を速めることも、立ち止まることもしなかった。


 *


 作兵衛が美濃へ発ったのは、その翌朝だった。

 紗季は槙とお梅を連れ、佐和に案内されて表寄りの廊下まで見送りに出た。

 作兵衛は道中の包みを脇へ置き、預かる文を確かめる。小見への到着の知らせと、その後に書いた文。お藤とお絹へ宛てた二通も、政秀から渡されていた。


「小見の方様へは、二通とも。お藤殿へは、館で取次ぎを頼みます。お絹殿の方は、町のお宅へ届けるようにいたします」

「お願いします。母上には、こちらで皆に助けてもらっていると、お伝えください」


 作兵衛は頭を下げた。

 それから顔を上げ、紗季の後ろにいる槙とお梅にも目を向ける。


「二人も、息災に」


 お梅が礼をした後に、母へよろしくと言い添えた。作兵衛は聞き返さずに頷き、包みを持つ。

 美濃へ帰る人を見送るのは、ここへ来て初めてだった。

 この人についていけば母に会える、と一瞬思ってしまう。その道が今もつながっていることが嬉しく、そこを自分は行かないことが寂しい。

 作兵衛の姿が門の外へ消えた時、袖へ触れる指があった。

 お梅が、何か言いかけたような顔でこちらを見ている。紗季は、その手へ自分の指を軽く重ねた。


「届くとよいね」


 お梅は、はい、と答えた。

 清十郎は門の脇で、織田の男から何かを受け取っていた。紗季がそちらへ目をやると、彼も気づいて、離れたところから頭を下げる。

 紗季は小さく頷いた。

 呼び寄せて尋ねたいことはあったが、今、彼に用を頼んでいる人がいる。その人の言葉が終わるまで待つつもりでいるうち、清十郎は受け取った包みを持ち、男と一緒に建物の向こうへ歩いていった。

 槙に、仕事は決まったのかと尋ねると、政秀が表での取次ぎの手伝いへつけたと教えられた。

 ここで働いている。

 それだけ聞き、紗季は、今は呼び止めずに戻ることにした。


 *


 信秀へ挨拶に行く朝、槙は浅い青の小袖の襟を確かめ、紗季の肩へ掛かる髪を指で払った。

 紗季は膝の上へ置いた扇を取り、まだ開かぬまま持ち直す。

 末森へ何を持っていくかは、佐和と槙が前日までに確かめてくれた。お梅は道中に使う布を畳み、紗季が立ち上がるのを待っている。

 戸の外から、信長の声がした。


「お濃、支度はよいか」


 紗季は、すぐには返事をしなかった。

 今、何と呼ばれたのだろう。

 槙が戸を開けた。信長は廊下に立ち、こちらを見ている。知らない誰かを呼んだのではないと分かってから、紗季は口を開いた。


「はい。できております」


 近づくと、信長が顔を覗いた。


「聞こえなんだか」

「お濃、と仰いましたか」

「美濃から来た濃姫であろう。いつまでも、そなたと呼ばずともよい」


 あまりに当然のように言われ、紗季は扇を持つ手へ目を落とした。

 帰蝶でも、紗季でもない。ここへ来た自分に向かって、今、呼ばれた名だった。

 喜んでよいのかと考える前に、返事が遅れたことの方が気になった。顔を上げると、信長はもう歩き出そうとしている。


「参ります、三郎様」


 声を掛けると、彼は振り向き、階の手前で待った。


 道中、紗季は輿の簾を少しだけ上げてもらった。

 見えるのは道の片側と、先を行く供の足、時おり低くなる畑の向こう。那古野へ来た時は、行く先にいる人の顔を知らなかった。今日は信長が前にいて、着いたところで初めて会う父が待っている。

 末森へ近づくと、道が上りになった。

 低いところを渡る風と、斜面の上の木々の揺れが違う。輿を下り、槙に裾を整えてもらう間、紗季は、建物へ続く道の脇に深く落ち込む地面があるのを見た。

 案内の女が来る。


「濃姫様、こちらへ」


 紗季は信長の少し後ろを歩き、廊下へ上がった。


 通された部屋は庭へ向けて戸が開いており、手前の板敷きから、畳を敷いた奥まで見通せた。

 屏風の前に、一人の男が座っている。

 紗季が礼をすると、男はすぐには声を掛けず、信長が座るのを待った。その間に、槙は戸口寄りの一段下がった場所へ控え、お梅は案内の女について隣の間へ退く。

 信長の左へ座り、紗季はもう一度、頭を下げた。


「父上。帰蝶にございます」


 お父上、ではなく、父上と呼ぶために、息を一つ余分に使った。

 信秀はそれを聞き、よう来た、と答えた。


「顔を上げよ。そこでは、こちらからもよう見えぬ」


 姿勢を戻すと、目が合った。

 信秀は茶の衣の袖から手を出し、膝へ置いた。信長より頬に肉があり、目尻には深い筋が寄っている。声はよく通るが、紗季を見ている顔には、思っていたような笑みはなかった。


「那古野では、眠れておるか」

「はい」

「食うものは」

「いただいております。皆が、食べやすいようにしてくれますので」


 信秀は頷き、今度は息子を見る。


「そなたも、一緒に食っておるか」

「朝におれば」

「おらぬ時の話を聞いたのではない」


 信長の口元が動いた。笑ったのか、何か言おうとしたのか、紗季には分からない。

 信秀は、先に息を吐いた。


「まあよい。今日は、ここで食ってゆけ」


 戸口の女へ合図すると、膳の支度をすると返事が来た。

 張っていた背中を少し緩めかけ、紗季はまだ話が終わっていないと気づく。


「山城守殿は、変わりなくおられると聞いた。出立の折も、達者であったか」


 父の名を聞き、紗季は頷いた。

 出立の朝の姿なら、自分で話せる。


「はい。見送りに立ってくださいました」


 信秀の視線が、少しだけ長く紗季の顔に留まった。


「そうか」


 何を考えたのかは分からなかった。美濃の父がこちらを見ていた顔を、今、詳しく言葉にすることもできない。

 やがて、膳を運ぶ音がして、政秀が戸口へ姿を見せた。信秀へ短く用を告げると、向こうの間で待っていると言って退く。

 その背を見送り、信秀は、息子へ問いを向けた。


「頼んだ縄と筵は、いつになる」

「明日には出せます。急ぎでなければ、同じ方へ帰る者の荷と合わせると申しております」


 信長は、縄の束と筵を、帰りの空荷へ載せる話をした。

 手の空いた男を新しく出せば早いが、帰りを待っている運び手がある。その者へ少し足せば、先方まで運ばせられるという。


「その少しは、幾らだ」


 信長が額を告げる。

 紗季は、その銭で何がどれだけ買えるか、とっさには思い浮かばなかった。ただ、信秀が頷く前に、信長が、戻る荷まであるかはまだ確かめさせていると付け加えたので、安ければ済む話でもないのだと分かる。


「帰りにも用を負わせるなら、その分は先に決めておけ」

「承知しております」


 父の前でも、信長の声はいつもの調子だった。

 庭で場所と荷の通り道を見ていた時にも、彼は、そこにある物と人の動きを確かめていた。こちらへ来てから紗季が知らずにいたことを、この二人は、毎日の用として話している。


 膳は、信秀の前へ運ばれた後、信長、紗季の順に置かれた。

 飯に温かい汁、焼いた魚、柔らかく煮た菜。給仕の女が膳の右へ回ると、槙は自分の膝を少し引き、通る場所を空ける。

 紗季も器へ手を伸ばした。

 汁の湯気が頬に触れる。ひと口飲むと、思っていたより味噌が強く、朝から固くなっていた口の中へ味が戻った。


「それでは、魚まで冷めるぞ」


 信秀に言われ、紗季は椀を置いた。二人を見ていたのが分かったらしい。


「申し訳ございません」

「飯を食わずに話を聞けとは言うておらぬ」


 隣で、信長が箸を動かしている。

 紗季も魚へ箸を入れ、骨を避けて身を取った。信秀はそれを待つでもなく、自分の飯を食べ始める。

 食べてよいと言われても、最初から家の食卓のようにはならない。それでも、椀を何度か持つうちに、置く場所を一度ずつ考えなくても手が動くようになった。


「その衣は、美濃からか」


 尋ねられ、紗季は袖を見た。


「はい。母上からいただいた布を、仕立てていただきました。お梅の母が、縫ってくれました」

「供の娘の母か」

「はい。こちらへ参る時にも、布を持たせてくださいました。道中で、使えるようにと」


 信秀は、戸口の向こうへ目を向ける。お梅の姿はそこから見えない。

 紗季は、この人へお絹をどう話せばよいだろうと考えた。身近な人の話が、ここでは美濃から伴ってきた人の話にもなる。


「今も、尾張で着ていると、文に書きました」


 言い添えると、信秀は、そうか、と返した。


「向こうも、用に立っておると分かれば喜ぼう」


 紗季は頷き、箸を取り直した。

 お絹がその文を読むところを、ここからは見られない。だが、読んで何を思うかを、自分以外の人も考えてくれた。

 それを嬉しいと言う代わりに、魚の残りを、今度は急がずに口へ運んだ。


 *


 膳を下げさせた後、信秀は、土田御前のいる方へ帰蝶を案内させた。

 息子はその場へ残しておく。頼んでいた荷以外にも、確かめることがある。

 娘が廊下の角を曲がると、三郎が立ち上がりかけた膝を戻した。


「何だ」

「用がおありなのでしょう」


 そういうところは、察しがよい。

 察した上で、自分の望む返事を先に言うのも、この息子の癖だった。信秀は脇へ置いていた書付を取り、渡す前に、その顔を見た。

 美濃の娘を隣に座らせていた。

 話しかけられると娘の方を見て、食べる時は自分で先に箸を使う。気を配っているのか、ただ、いつもどおりなのか。少なくとも、迎えた妻を見せるために、殊更に優しくしている様子はなかった。

 縁が結べた。それで、こちらの気掛かりが全部なくなったわけではない。

 山城守と争わずに済むことには、大きな意味がある。だが、この娘がどれほど美濃を思い、何を伝えるかは、今日初めて顔を見た自分には分からぬ。

 父の達者を答えた声より、縫い手の話をする声の方が、いくらか淀みがなかった。

 そういうことを、自分から話せる娘ではあるらしい。


「母の方で、少し待ってもらう」


 信秀は書付を広げた。

 三郎が、帰る刻限まで遅くするつもりはないと先に言う。信秀は、その言葉を聞いてから、用件の一つ目を尋ねた。


 *


 土田御前のいる部屋へ通されると、紗季は、敷物の上へ広げられた枝に目を留めた。

 浅い桶に、白い椿が入っている。隣には芽のほどけかけた柳。その手前で、土田御前が花入れを一つ、少し回していた。


「食事はできましたか」

「はい。ごちそうになりました」


 礼を言って座ると、土田御前は、もう一つの器をこちらへ寄せた。


「花を選んでいたところです。よろしければ、一緒に」


 紗季は頷き、槙に袖を寄せてもらった。

 花入れは、紗季の前の方が口が少し広い。土田御前のものは細く、首のところへ柳の影が掛かっている。


「美濃でも、教わりました」

「では、そなたの選ぶところを見せてください」


 桶へ手を伸ばし、白い椿の枝を一本取った。

 艶のある葉の下に、半ば開いた花と、まだ固い蕾がついている。花を正面へ向けると、葉がその手前へ重なった。

 紗季は一度枝を戻しかけ、向きを少し変えてみた。


「どちらへ置かれるのですか」


 土田御前が、庭と反対側を示す。

 紗季は枝を持ったまま、そちらへ体を向けた。部屋へ入ってきた時に、いちばんに見えるところだった。

 お藤なら、どこに座って見るのかも尋ねるだろう。

 紗季が器を置く位置について聞くと、土田御前は、少し横へ座り直した。


「私は、ここから見ることが多うございます」


 そこからなら、花だけを前へ向ければよいのではない。

 紗季は器の縁へ枝を当て、葉の重なりをもう一度見る。支えにする短い枝は、供の女が用意してくれた。根元を当てて立たせると、思っていたよりも上へ花が来る。

 土田御前が、自分の手元から柳を一本取った。


「こちらも、いかが」


 受け取り、椿の脇へ入れてみる。だが、長い先が隣の器へかかってしまった。

 紗季が困って顔を上げると、土田御前も自分の器を見ている。


「私も、長く残しすぎましたね」


 母の方の柳も、大きく曲がった先が、置こうとしていた場所の壁へ近い。

 供の女が刃物を置いた敷物を少し寄せた。土田御前は器から枝を抜き、どこまで残すかを確かめる。紗季も、葉に花が隠れぬ位置を探しながら、自分の枝を持ち直した。


「短くすると、戻せませぬから」


 紗季が言うと、土田御前は、そうですね、と答えた。


「もう少し残したいと思ううちは、手が止まります」


 すぐに切って見せられるのかと思っていた。

 けれど土田御前も、枝を膝の上で一度回し、決めるまで少し黙った。その間に紗季は自分の方を見直し、器へ入ったところから先がどう傾くかを、指で支えて確かめた。

 切り口へ袖が触れぬようにして、短くした枝を戻す。

 柳の先が、椿より少し向こうへ伸びた。


 供の女が水差しを持って近づき、土田御前の器へ水を足した。紗季の方はまだ足りている。女は敷物へ落ちた葉を拾い、二人の手が空くのを見て、切った枝をまとめていった。

 器の中に残った白い花を見ていると、肩へ入っていた力に気づく。


「つい、ずっと、こちらへ寄ってしまいます」


 紗季が背を戻すと、土田御前も少し離れて花を眺めた。


「手を動かしている時には、そこばかりになりますね。三郎も、庭を見せたそうですね」

「はい。少し振ってよいと、お許しをいただきました」


 土田御前は、よかったですね、と笑った。

 紗季も笑い、器へ添えていた指を離す。


「ほかにも、何か覚えてみたいものはありますか」


 問いを受けても、すぐには思い浮かばなかった。

 剣を振る場所ができたところで、もう一つ願ってよいのだろうか。そう迷ううちに、土田御前が自分の手元の葉を除きながら言った。


「鼓や太鼓も、習ってみてはどうです。花とは、また違う楽しみがありますよ」

「鼓……」


 名を繰り返すと、土田御前が顔を上げた。


「聴く機会は、ありましたか」

「音を聞いたことはございます。でも、自分で打ったことは、ありません」


 テレビで見た姿が頭に浮かぶ。けれど、その場の誰にも話せないまま、紗季は、花を選んだ時とは違う手の動きを想像していた。

 強く叩けばよい、というものでもないのだろう。


「母上も、なさるのですか」

「鼓を、ときおり。上手だと申せるほどではありませんが。人の音を聴いて、自分でも鳴らしてみるのは好きなのです」


 好きだから、と言われたのが意外だった。

 ここの妻として覚えておくものを増やす話だと思いかけていた。だが、土田御前は、いつまでに何ができるようにとも言わず、紗季の返事を待っている。


「一度、聴いてみたいです。それから、私にもできそうでしたら、習ってみたいと存じます」

「では、教える者が来られる日を、聞いておきましょう。私も一緒に」


 紗季は礼を言い、もう一度花を見た。

 土田御前が少し首を傾げ、柳の先を指す。


「そちらから見ると、どうですか。私は、もう少し向こうへ向けたいのですが」


 紗季は座る場所を替えた。

 言われた方から見ると、柳が白い花のすぐ脇を通っている。先ほどより広がりがなく見えるのは、そのためかもしれない。


「こちらへ、少しだけ」


 指で示すと、土田御前が枝へ手を添えた。

 自分の花について尋ねられるだけでなく、母の花について意見を聞かれている。紗季はもう一度よく見てから、そのくらいでよいと思います、と答えた。


 *


 帰り支度の声が掛かった時にも、花は二つの器に立っていた。

 紗季は、自分の花入れを壁のそばへ置かせてもらい、敷物の上を片付けた。袖を戻し、土田御前へ別れの礼をする。


「お藤にも、今日のことを書こうと思います」

「美濃で教えてくれた人ですね」

「はい。こちらでも始めたいと、昨日発った文には書いたのです」


 またすぐ書けば、返事を待たずに次を送ることになる。

 紗季がそう言うと、土田御前は、先に書いて手元に置いてもよいのではないかと答えた。

 文にしておけば、その時、自分がどこを見て枝を選んだかも残る。

 紗季は頷き、次は鼓の音を聴かせてほしいと頼んだ。


 信長は、廊下の先で待っていた。

 紗季を見ると、帰れるかと尋ねる。先ほどまで花へ向けていた顔を、彼の方へ向け直した。


「はい。お待たせいたしました」

「母上とは、何をしておった」

「花を。私にも一つ、生けさせてくださいました。それから、鼓や太鼓の稽古をしてみないかと」


 信長は、紗季の袖へ目を落とした。


「今度は、そちらか」

「まず、音を聴かせていただく約束をいたしました。日取りは、これからです」


 信長が階へ向かう。紗季もその後を追った。

 先ほどまで座っていた部屋は、もう廊下の角に隠れている。花はあちらへ残したが、どこで枝を短くしようと迷ったかは、今も指で示せそうだった。


 那古野へ戻った頃には、庭の土へ長く影が伸びていた。

 槙とお梅が持ち帰ったものを分けている間、紗季は文箱の蓋を開けた。お藤に書くための紙を出し、机へ置く。

 硯へ水を足そうとした時、廊下から声がした。


「お濃」


 紗季は顔を上げた。


「はい」


 信長が戸口にいて、手に持っていた折紙を佐和へ渡している。こちらを見て、父上の前で疲れたかと尋ねた。

 疲れていないと言おうとして、紗季は、膝を少し伸ばしたかったことを思い出した。


「少し。でも、食事もいただけました」

「ならば、休め。その文は、今夜でなくともよかろう」


 紗季は白紙を見た。

 今日のことを忘れる前に書きたい。けれど、一通を全部仕上げなくてもよいのかもしれない。


「最初のところだけ、書いておきます。それから、休みます」


 信長は、そうか、と言い、廊下の向こうへ去った。

 お梅が湯を運んでくる。紗季は机の脇へ器を置いてもらい、紙の上へ筆を運んだ。


『今日、こちらの母上と、白い椿を生けました』


 そこまで書いて、穂先を硯へ戻した。

 器を両手で取り、揃えていた足を、そっと横へずらした。

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