三十四話 土田御前
昼の膳を下げてもらってから、紗季は槙とともに佐和を呼び止めた。
土田御前をどこで迎えるのか、今度は自分でも聞いておきたかった。佐和は空いた盆をお梅へ渡し、庭を挟んだ向こうの廊下へ目を向ける。
「あちらの、角の間をお使いになると伺っております」
昨日、信長へ朝の挨拶をしに行った部屋より、手前だという。
紗季が見ておきたいと頼むと、佐和はまず使用中でないことを確かめに行った。戻った彼女の案内で廊下を渡り、戸口へ立つ。
庭に面した戸を引くと、二つの柱の間から風が入った。畳は奥に二枚、板敷きのこちら側に一枚敷かれている。奥の壁際には、まだ何も置かれていなかった。
槙が入口から奥の座までの間を確かめている横で、紗季も一歩ずつ位置を変えてみる。顔を上げた時に相手を見られ、給仕の邪魔にもならぬところは、どこだろう。
「お母上は、奥のこちらへ。帰蝶様はこちらがよろしゅうございます」
佐和の示す場所へ膝をつく。
座ってみると、庭からの風が袖の内へ通った。自分の分だけ戸を狭めようとして、紗季は手を止める。
「母上のお席も、寒くありませんか」
「明日も風がございましたら、こちらを閉めておきましょう」
佐和が戸を引いた。庭は半分ほど隠れたが、向かいの人の顔を見る明るさは残っている。
「三郎様も、こちらへ?」
「お越しになるかと。お時間を伺ってまいります」
佐和に頼み、紗季は自分の部屋へ戻った。
土田御前の文は、机の上に畳んである。もう何度も読んだのに、明日、顔を合わせるところだけは、紙の続きを追うようには思い浮かべられない。
槙が広げた薄紅の衣を腕へ当てると、鏡の中で顔のそばに明るい色が増えた。婚礼の日より重なりが少なく、立つのも楽にできそうに思える。
「これで、よろしゅうございます」
槙の言葉に頷いてから、紗季は鏡ではなく、その人の顔を見た。
「母上は、私を見て、どう思われるかな」
答えられるはずのないことを、聞いてしまったのではないか。
槙は袖を畳み、少し考える。
「文のお返事を下さった方でございます。まず、御挨拶をなさいませ。先のことまで、一度にお考えにならずとも」
槙の返事を聞き、紗季は鏡へ目を戻す。明日のために着るものは決まった。あとは、まだ会っていない人の声まで、自分で作って怖がることはない。
*
翌日、土田御前が那古野の居所へ入ると、廊下の角で佐和が待っていた。
一礼した後の顔には、いつもより、案内を急ぐところがある。待たせているのだろう。土田御前は供の女へ包みを持たせたまま、その後について進んだ。
嫁からの文に書かれていたことを、問い直すつもりはない。
それでも、佐和の足取りを見てしまう。休めと言われて困ったという娘が、今は自分の務めの場所を心得たように歩いている。紙にあった行き違いは、もう、今日の二人のすべてではなかった。
開けられた戸の向こうで、帰蝶が座っていた。
薄紅の衣の上で、肩に届く髪の先がわずかに動く。顔を伏せる前にこちらを見た目は、すぐに上げ直してもよいか、まだ迷っているようだった。
「お越しいただき、恐れ入ります」
整えた言葉が、ひと息に続く。
土田御前は奥の畳へ座り、供の女を下がらせてから、帰蝶へ向き直った。
「顔を、見せてください」
上がった顔を見て、最初の言葉を選び直す。
息子の嫁になった娘だと思えば、尋ねたいことはいくつもあった。寝起きは不自由でないか、食べるものは合うか、美濃の母へ便りを出せたか。
けれど、順に問いを置いてしまえば、この娘は、全部に間違いなく答えようとするのだろう。
まず、来た理由を言わなければ。
「文を、ありがとう。会って話したくなりました」
帰蝶は一度目を伏せ、もう一度、こちらを見た。
その返事を待つ間、土田御前も、膝に置いた扇を開かずにいた。
*
「お返事をいただき、嬉しゅうございました」
紗季が答えると、土田御前の口元が少し緩んだ。
文を読んだ時に思い描いた声より、低く、柔らかい。礼を言い終えればすぐに次の言葉を求められる気がしていたのに、庭の方から音がすると、その人もそちらへ目を向ける。紗季は声を継がず、向かいの顔が戻るのを待っていられた。
「佐和は、休めましたか」
「はい。槙たちと、代わる用を決めてから。私が、先に伺うべきでございました」
戸口に控える佐和を見かけ、紗季は、また自分の言葉だけで話をまとめそうになったことに気づく。
「佐和にも、聞いていただけますか」
土田御前は頷き、佐和を呼んだ。
入ってきた佐和は、あの後は休ませてもらったこと、お梅に膳を受け取る場所を教えたことを話す。紗季は横から付け足さず、その声を聞いた。
「お二人に覚えていただきましたので、今日は、こちらへ参る支度も早う済みました」
「そう。それなら、よかった」
土田御前は短く答える。
佐和は肩の位置を少し戻し、一礼して、湯の支度に下がった。
その姿が戸の外へ移ると、土田御前は脇の包みを手前へ寄せた。結び目を解き、布の端を開く。
「これは、そなたに」
包み布の中から、小さな黒塗りの箱が現れた。
両手で受け取れる大きさで、蓋の縁には、光を当てると分かるほどの擦れがある。金の飾りや家の紋は見えなかった。
目の前へ置かれ、紗季は土田御前の顔を見る。
「お開けしても」
「ええ」
蓋の下には、畳んだ白紙が入っている。紗季はそれを一度持ち上げ、底の滑らかな塗りにも指を触れた。母から贈られたものなら、まず立派な礼を言わなくてはと思っていたのに、先に、筆を置いている自分の机のことが浮かんだ。
「文を入れる、箱ですか」
「私が使っていたものです。新しいものではないけれど、紙がそのまま置いてあるよりは、しまいやすいでしょう」
紗季は蓋を机ではなく、自分の脇の畳へ置いた。
昨日まで、もらった文は他の紙と一緒に包んでいた。誰から来たものか、角を少し開かなければ分からなくなることもある。この箱なら、返事を出す前に読み直す文を、上へ置ける。
「ありがとうございます。大切に、使わせていただきます」
言うと、土田御前は、蓋の擦れたところを見た。
「使えば、もっと傷もつきます。それでよいのですよ」
紗季の親指が、箱の縁を撫でる。
きれいに保って、どこかへ飾っておくものではなかった。その人が使っていたものを、これから自分が開けたり閉めたりする。
嬉しいと、改めて言いたくなった。
けれど、さっきから同じ礼ばかりになる気がして、代わりに、文を書くのは好きですと話した。
「美濃にも、書くと約束いたしました」
「お母上へ?」
「はい」
頷くと、土田御前は、そう、と声を落とした。
「着いたという便りの次は、何を書こうかと迷うものです。何か、書けそうですか」
箱のことなら、書ける。
そこまで考えてから、紗季は、ほかにもいくつか言葉が浮かぶのを待った。こちらの部屋からは庭の向こうの廊下が見えること。お梅が膳の場所を覚えたこと。槙まで、佐和に教わりながら暮らしていること。
困ったとだけ書けば、小見は心配するだろう。何も困っていないと書けば、返ってくる言葉を自分から遠ざけてしまう。
「こちらのことを、少しずつ。まだ、うまく書けませんけれど」
「読みたいと思いますよ。少しずつでも」
土田御前の目は、紗季の手元へ向いていた。
小見を思う時とは、違う気持ちになる。美濃の母は、自分を抱きしめた時、帰ってきた娘の名を呼んだ。この人は、ここへ来た自分を、これから知ろうとしている。
だからといって、何でも打ち明けられるわけではなかった。
紗季は箱の蓋を持ち、閉める前に、もう一度白紙を見た。
「母上」
呼びかけると、土田御前が顔を上げる。
その返事を聞いてから、紗季は、声に出して呼べたことを知った。
「文でも、お尋ねしてよろしゅうございますか。お会いする時まで、うまく覚えておけないことも、あると思います」
「もちろん。私も、すぐには答えの出ぬことがあります。その時は、少し待ってください」
何でも知っていると、言われなかった。
紗季は頷いた。早く正しい返事をしなくてはと、自分だけが急いでいたのかもしれない。
佐和が湯を運び、お梅が小皿を置いた。
皿には、割った干し柿が少し載っている。客へ出す分に自分が先に手を伸ばさぬよう待っていると、土田御前が一つ取り、残りを紗季の方へ少し寄せた。
「そなたも」
紗季は礼を言って取った。
噛むと、表面の乾いたところの下に柔らかな甘みが残っている。美濃でも冬の間に食べた味なのに、初めての部屋で、人と向かい合って食べると、ひと口が妙に大きく感じられた。
「三郎とは、話せていますか」
土田御前の問いに、紗季は指先を布で拭いてから顔を上げた。
何を話したかと聞かれるのが怖かった。けれど、その人は続きを急がず、器を持っている。
「少しずつ、です」
「そう」
「お尋ねに、どうお答えすればよいか考えていると、次をお尋ねになるので……」
言ってから、紗季は口を閉じた。
悪く申し上げるつもりではなかった。こちらが返事に迷うせいだと付け足そうとすると、土田御前の器が、口の手前で止まる。
「それは、私にもいたします」
思わず目が合った。
土田御前は器を戻し、今度は、はっきりと笑った。
「答えが出ぬのかと思うているのでしょうね。考えておる間も待てぬのかと、私は申します」
紗季も笑いかけたが、すぐに、笑ってよいのか迷った。
土田御前は、その顔を見て、責めるようには何も言わない。
「三郎のことを、最初から分かっている必要はありませぬ。私の知っている三郎と、そなたの前にいる三郎も、同じではないでしょうから」
部屋の外で、板を踏む音がした。
佐和が身を引き、廊下へ向かって頭を下げる。紗季も顔を向けると、開いた戸のところへ信長が立っていた。
*
「何の話だ」
信長は部屋へ入り、母と紗季の間から少し離れた畳へ座った。
紗季が体の向きを変える間に、彼の目は、脇の箱から小皿、湯の器へと移る。
「そなたを待たずに、お湯をいただいておりました」
土田御前の答えに、信長は、湯を飲むのに俺を待つことはない、と返した。
佐和が新しい器を運んでくる。受け取った彼は、箱の方へ顎を向けた。
「母上のものか」
「帰蝶に差し上げました」
紗季は箱へ手を添えた。
「文を入れる箱を、いただきました」
「そうか」
返事は短かった。
それでも、信長が、土田御前から紗季の方へ箱が移ったことを見ていると分かる。早く部屋へ持ち帰って、いただいた返書を入れてみたかった。
「帰蝶に、こちらで何かしたいことはないか、聞いてみたいと思っていたのです」
土田御前の言葉に、紗季は顔を上げる。
そういう話もしてよかったのかと思った。困ったことを尋ねる支度ばかりしていたせいで、自分が何を望むかは、まだ一つも話していない。
「何をしたい」
信長の問いを受け、紗季は膝の上で手を開いた。
真っ先に思い浮かんだことがある。ここへ来てから、衣を着て座り、人の顔を見て言葉を選ぶ時間ばかりが長かった。
「剣の稽古を、続けとうございます」
信長が器を置いた。
「剣だと」
「はい。美濃では、お許しをいただいて、稽古をしておりました。こちらでも」
「誰が許した」
「父上です」
答えると、信長の眉の間が狭くなった。
「ここは美濃ではないぞ」
強く返された声に、紗季は次の言葉を失った。
分かっている。そのつもりで聞いたのに、返事を間違えた気がする。
槙へ助けを求めかけ、やめた。今、何をしたいかと尋ねられたのは、自分だ。
「三郎」
土田御前が呼んだ。
「帰蝶は、こちらではどうかと、そなたに尋ねておるのです。美濃の許しで、勝手に始めたとは申しておりませぬ」
信長は母を見た。
紗季は、もう一度口を開く。庇ってもらったままで話を終えたら、稽古をしたいという気持ちまで、言わなかったことになりそうだった。
「まだ、どこへ出てよいかも分かりませぬ。木剣も、美濃でお借りしておりましたので、持ってはおりません。まず、伺いたかったのです」
信長の視線が戻る。
「何のために振る」
今度は、すぐに答えないようにした。
身を守るため。武家の娘だから。人に聞かれても恥ずかしくない理由なら、いくつかある。美濃でも、帰蝶の名を借りて言い切ったことがあった。
けれど、ここで同じ言葉を使ってよいとは思えなかった。
「振るのが、好きなのです」
声にすると、いかにも子供の返事のようで、膝を見たくなる。
信長は笑わず、ただ、こちらを見ていた。
「好きだから、か」
「はい。思うところへ足が出せて、腕だけでなく、体ごと、うまく動けた時は……もう一度、同じようにできるか、確かめたくなります」
話しているうち、板の上へ足を置いた時の感覚が戻ってきた。
力を込めればうまく振れるわけではない。踏み出す前に肩が上がっていれば、自分でも、次が遅れると分かる。うまくいったと思って繰り返すと、今度は違ってしまう。
ずれたところが分かれば、次は変えられるかもしれない。
「こちらで覚えねばならぬことを、しないと申しているのでは、ありません。ただ、あれも、続けていたいのです」
立派な理由を後から足すのはやめ、紗季は信長の返事を待った。先ほどよりも部屋の静かさが気に掛かるが、土田御前も、その間に口を挟もうとはしない。
「どの程度、振れる」
「それは……見ていただかなければ、申し上げにくうございます」
つい正直に答えた。
上手ですと言って見せれば、下手だと思われるかもしれない。下手ですと先に言うのも、積んできた時間を、自分から軽く扱う気がする。
信長の目が、膝の上の手へ移る。
「人が通るところでは振らせぬ。場所も、つける者も決めておらぬ」
「はい」
「見てから決める。明日、晴れていれば、庭を見せる」
紗季は顔を上げた。
「よろしいのですか」
「稽古をしてよいとは、まだ言うておらぬぞ」
慌てて頷くと、土田御前が小さく息を漏らした。
笑ったのだと分かり、紗季も、こらえきれずに口元を緩める。信長は二人を順に見たが、今度は何の話だとは尋ねなかった。
佐和が、廊下で控えている者の用を伝えに来た。
信長はその話を聞き、少し考えてから立ち上がる。母にまだいてよいと告げた後、紗季の方へ顔を向けた。
「今から庭へ出るのではないぞ」
「明日と、伺いました」
返事が早くなった。
信長の眉がわずかに動き、それから、うむ、と声が返る。
戸の向こうへ姿が消えた後も、紗季はしばらく、膝の上で足の指に力を入れたり抜いたりしていた。
*
廊下へ出た信長は、待っていた男の用を聞きながら、庭へ目を向けた。
帰蝶を歩かせるだけなら、通れるところはいくらもある。だが、剣を振ると言う。人の出入りを避け、地面を確かめ、誰をつけるかを決めねばならなかった。
母の前で、先に話を止めかけたことが面白くない。
帰蝶が利政の名を出した時、美濃で許されたことを、そのまま持ち込むつもりかと受け取った。だが、あの娘は、許された話の次に、こちらでもと続けていた。
最後まで聞く前に、言い返していたのは自分だったらしい。
母の言い分を、そのまま認めるのも癪に障る。それでも、帰蝶がこちらへ向き直り、自分の言葉で続きを話した時には、止める理由を探す気が薄れていた。
振るのが好きだと、言った。
利政の娘として何をせねばならぬかではなく、あの娘自身が、そうしたいと言う声だった。
「三郎様、こちらの返しは」
男に尋ねられ、信長は用件へ顔を戻す。
一つ確かめたいことがあったので、先にそれを問うた。相手が考えている間、次の問いを口へ出しかけ、そのまま待った。
ほどなく返事が来る。
聞き終えてから、信長は、二つ目を尋ねた。
*
部屋には、庭の枝の擦れる音が戻っていた。
紗季は器へ手を添えたが、すぐには飲まず、土田御前へ向き直る。
「先ほどは、ありがとうございました」
「驚きましたか。あのような言い方をして」
少し迷い、頷いた。
怖くなかったふりをするには、声が止まったところまで見られている。
「何とお返しすればよいか、分からなくなりました」
「私には、美濃で許されたことと、こちらで尋ねたいことを、続けて話そうとなさったように聞こえました」
その言い方に、紗季は顔を上げた。
何もかも分かってもらったのではない。途中で切れてしまった言葉の先を、この人は待ってくれた。
「はい。そう申し上げたかったのです」
土田御前は頷いた。
それから器を取る。湯は少し冷めていたが、替えなくてよいと言い、ひと口飲んだ。
「そなたがあのように話す顔を、初めて見ました」
「どのような顔でしょう」
「先ほどまでより、忙しい顔です。思い浮かべることが、次々にあるような」
紗季は頬へ手をやりかけ、膝へ戻した。
いつも人の顔色を窺っていると思われていたのだろうか。そう考えかけたが、土田御前は責めても、直せとも言わない。
「美濃では、よく稽古を?」
「はい。毎日とは参りませんでしたが」
紗季は、袖が邪魔にならぬよう紐で留めていたことを話した。
お梅に袖口を繕ってもらったことも。土田御前がお梅へ目を向けると、戸口に控えていた本人は、畳の目を見て小さく頭を下げる。
「私も、まだ上手にはできませぬ」
「ちゃんと、直してくれました」
紗季が答えると、お梅は顔を上げた。
その目が少し笑ったので、紗季も笑う。今ここで話せる美濃のことが、みな、帰りたいと嘆くための思い出になるわけではなかった。
土田御前は二人を見てから、自分の袖口を整えた。
「続けられると、よいですね」
稽古を許すとも、信長を説き伏せるとも言われなかった。
それでも、願っていることを知った人が、この部屋に一人増えた。そのことを、紗季は、いただいた箱と同じくらい嬉しく思った。
やがて、帰り支度をする供の声がした。
土田御前が扇を取り、佐和へ、来た時と同じところへ案内してほしいと頼む。紗季は一緒に廊下へ出て、曲がり角の手前まで見送った。
戸口で言うつもりだった礼が、まだ残っている。
「母上」
土田御前が振り返った。
供の女も足を止めたが、紗季はそちらを気にせず、顔を上げて話した。
「今日、お越しくださって、嬉しゅうございました」
立派な挨拶ではない。
けれど、文の中で用意しておいた言葉より、今は、これを伝えたかった。
土田御前は、すぐには返事をしなかった。紗季の方へ体を向け直した。
「私も、会えて嬉しかったですよ。また、文をください。何をしたいかという話も、聞かせてくださいね」
紗季は頷いた。
佐和に付き添われた姿が角の向こうへ消えるまで、その場で見送った。
*
帰りの途中、土田御前は、解いた包み布だけが供の女の腕へ戻っているのを見た。
箱は、もう、あの娘の手元にある。
気に入るだろうと選びながら、古いものを押しつけたようには見えぬかと、朝は少し迷っていた。帰蝶が真っ先に中を見て、しまう文のことを考えている顔になった時、その迷いを口にする必要はなくなっていた。
息子へ小言を言うために来たのではない。
しかし、あの声を聞くと、先に言い返したくなるのは、自分にもある癖だった。帰蝶が続きを話す前に、代わりに何もかも決めてしまわずに済んだか、歩きながら考える。
あの娘は、最後には、自分の望みを自分で話した。
それを思い返すと、別れ際の、嬉しゅうございました、という声も、少し違って聞こえてくる。
次に会う時は、庭のどこで足を踏み出したかを聞けるだろうか。
まだ許しは出ていないのだと、三郎の声まで思い出し、土田御前は供の女に気づかれぬほど小さく笑った。
*
部屋へ戻った紗季は、机の脇へ文箱を置いた。
槙が運んでくれた返書を、まず中へ収める。畳んだ紙は箱の底より少し小さく、重ねても、蓋はきちんと閉まった。
他の紙の包みは、そのままにしておいた。
箱へ入れるものを全部決めなくても、今もらった文の場所を一つ作れればよかった。
「明日、どの衣になさいますか」
槙に尋ねられ、紗季は庭へ目をやった。
まだ一日も終わっていないのに、明日の庭へ行くところを考えてしまう。袖を留める紐のことまで言いかけたが、まず庭を見るのだという信長の言葉を思い出した。
「歩きやすいものを。稽古は、まだしてはいけないの」
「承知しております」
槙の返事に、お梅が戸口で口元を押さえた。
紗季はそちらを見て笑い、先に明日の支度を全部始めてしまうのはやめた。今から紐を用意するつもりだったことまでは、言わずにおく。
美濃へ書く文のために、白紙を一枚出した。
小見には、まず箱をいただいたことを伝えたかった。それから、信長と、少しずつ言葉を交わしていること。怖くなった時にも、話の続きを聞いてもらえたこと。
書き始める前に文箱の蓋を開けると、畳んだ返書が、白紙の上に収まっていた。
紗季はその紙を取り出さず、隣に新しい紙を置いた。
『母上、文をしまう箱をいただきました。こちらの母上がお使いになっていたものだそうです』
そこで筆を止めた。
母上と、二度書いている。どちらを呼んだか分からなくなるのは困るが、書き直してしまうのも惜しかった。
続きへ、小さく字を運ぶ。
『三郎様は、明日、庭を見せてくださるそうです。まだ、稽古をしてよいとは仰いませんでした』
読み返すと、別れ際の信長の声が浮かんだ。
紗季はひとりで少し笑い、乾く前の字へ袖が触れぬよう、腕を引いた。




