三十三話 頼み事
膳を下げてもらうと、急に、部屋が広くなった。
紗季は膝の前に残った箸の跡を見て、帯の上をそっと撫でる。食べている間は、次のひと口のことを考えればよかった。これからは、昨夜別れた人に会いに行く。
槙が庭戸を閉めかけたので、その前に顔を上げた。
「三郎様のところへは、どちらから行くのですか」
「まず、お取り次ぎを頼んでまいります」
答えた槙が戸口で佐和を呼ぶ。
美濃なら、槙自身が行き先を知っていた。誰に声を掛け、どこで待てばよいかまで、この人の足についていけば済んだ。今は、佐和が何かを確かめに下がり、その返事を待ってから槙も廊下へ出ていく。
取り残されたように思った自分が、少し恥ずかしい。
槙も、昨日ここへ来たばかりなのに。
お梅に肩の髪を整えてもらっていると、戸の向こうから、畳んだ衣を置く場所を尋ねる声がした。佐和は戻ってきたらしく、そちらへ短く返事をしている。
昨夜は灯のそばにいて、朝は自分より先に膳を運んでくれた。その声を聞いて、紗季は、佐和がいつ食べたのか知らないと気づく。
「佐和は、朝の食事を済ませましたか」
戸口へ来た佐和は、わずかに目を上げた。
「後ほど、いただきます」
「御挨拶から戻ったら、少し休んでください。槙も、お梅もおりますから」
美濃では、疲れたお梅を休ませる時にそうしていた。槙に任せ、できるところは自分でも片付ける。三人の間でなら、何を代わればよいか、言う前に分かることも増えていた。
佐和の返事が一拍遅れたのを、紗季は意外に思う。
「お心遣い、恐れ入ります」
深く下げられた頭の先に、言葉を足す隙間が見つからない。
その時、槙が戻り、今なら会ってくださると告げた。
*
自室の前を出て右へ曲がると、庭を挟んで見えていた廊下の向こう側へ出た。
朝の光は自分の部屋よりも低く差し込み、柱の影が行く手を横切っている。先を歩く佐和が一つの戸を通り過ぎたところで、内側から男の声が聞こえた。
「では、返す長持のために、別の者をやらずともよろしゅうございますな」
「持ってきた者が戻るのだろう。帰りに持たせよ。返礼の品は、空いたところへ入れればよい」
信長の声だった。
佐和が歩みを止め、槙も少し後ろで待つ。紗季は、衣の裾が柱へ触れぬよう寄せた。
「ただ、こちらの支度が整いませぬと」
「それで人を待たせるなら、別に運ぶのと比べよ。何人を、いつまで留めるのだ」
紙を動かす音がする。
返事はすぐには来ず、その間、紗季は庭の地面を見ていた。長持を一つ返すにも、誰かがここへ残る。運ぶ物のことだけ考えていては、待っている人まで見えなくなるらしい。
やがて戸が開き、紙を抱えた男が一礼して出ていった。
「帰蝶様がお越しにございます」
佐和の声に、入れ、と返事がある。
紗季は戸口の敷居を越え、槙と離れて座った。信長は庭に近い畳にいて、脇へ寄せた紙の端を押さえている。昨夜とは違い、戸は半分開いたまま。佐和は入口の外へ退き、槙は紗季の斜め後ろについた。
「おはようございます」
両手をつき、頭を下げる。
返事があるまでの短い間に、夜、泣きながら引き留めた時の声を思い出してしまう。顔を上げるのが、ほんの少し遅れた。
「眠れたか」
「はい。槙についていてもらいました」
「そうか」
信長は槙にも目を向け、それから紗季へ戻した。
何か申し上げなければ。昨夜のことは、昨夜だけのこととして、何もなかった顔をしていてよいのだろうか。
「あの、昨日は」
「朝の挨拶に来たのではないのか」
言葉が止まる。
信長は、紗季の手の置き方を見た。頭を下げ直すために、指がまた畳へ向いていた。
「毎朝、それから始めるつもりか」
からかわれたのか、叱られたのか。すぐには決められず、紗季は指を膝へ戻す。
「……いいえ」
「ならば、よい」
言って、彼は脇の紙を二つに折った。
紗季の方から話を終えてよいとは、まだ思えない。けれど、続きを求められてもいなかった。今朝も謝ってから顔を合わせるつもりでいたことに気づき、何もない膝を一度見下ろす。
「こちらで、分からぬことはあるか」
いくつもある。
ありすぎて、今答えるべきことが選べなかった。夜のうちには筆を置くところを決めようと思っていたが、ここで机の相談をしてよいものか。
「母上への御挨拶は、いつ、伺えばよろしいでしょう」
ようやく出てきたのは、昨夜からではなく、美濃を出る前から教わっていた用件だった。
「日を聞いてある。返事を待て」
「その前に、文を差し上げても」
「よい。佐和に渡せ。こちらから行く使いに持たせる」
紗季は入口を見る。佐和が、承知したというように頭を下げた。
今日、何をすればよいかが一つ決まる。そのことにほっとしていると、信長が立ち上がった。紗季の背もつられて伸びたが、彼は先ほどの紙を持ち、庭とは反対の戸へ向かう。
「出てくる。戻りは分からぬ」
「お気をつけて」
そう答えると、彼が振り返った。
何か言い方を間違えたかと思ったが、信長は、うむ、と返しただけで出ていく。
紗季は、遠ざかる足音を聞いてから槙を見た。槙はもう立つ支度をしている。もう少しここに座っていれば何かが分かるわけでもなく、紗季も袖を寄せて膝を上げた。
*
信長は表へ出る手前で、持っていた紙を開き直した。
誰をいつ返すか、決めねばならぬ。先ほど聞いた人数を見ながら、門の方へ歩を進める。ところが、紙の字を辿る声より先に、帰蝶の、お気をつけて、という声が耳へ戻ってきた。
美濃の娘は、今朝も顔色を窺っていた。
何もかも言ってしまったような顔をしたかと思えば、こちらが立つだけで身構える。何を信じ、何を疑っておくべきか、昨夜から考えが収まらない。
もっと尋ねたいことはあった。だが、問いを一つ置くごとに、あの娘は、答えのほかに詫びる理由まで探しているように見える。
自分の聞き方がそうさせるのか。それとも、美濃では何か違うのか。
槙なら知っているのだろうと思い、すぐに、それも面白くなかった。妻のことを知るのに、先に侍女へ聞かねばならぬのか。
「三郎様」
門の脇で待っていた男が声を掛ける。
信長は紙を畳み、渡した。
「こちらは、戻ってからにする。待たせる者には飯を出せ」
返事を聞きながら、空を仰ぐ。薄い雲の向こうは明るく、昼までは雨になりそうになかった。
帰蝶が母へ何を書くのか、聞けばよかったと思ったが、もう廊下へ引き返すほどのことでもない。
門を出ると、歩く速さがいつものものに戻った。
*
佐和は衣を収める部屋で、返すものと残すものを分けていた。
立ったまま屈むと、朝から同じところで折り曲げていた膝が強張る。帰蝶に休めと言われたことを思い出し、戸口へ顔を向けたが、廊下にはもう誰もいない。
休んでよいという言葉は、ありがたかった。
ただ、どこまで済ませれば休めるのかが、分からない。
美濃から来た槙も、お梅も、帰蝶の身の回りにはよく気がつく。わざわざ佐和を呼ぶまでもなく、袖を直し、欲しいものを取りに行く。その間へ入ると、要らぬ手を出したようになることが何度かあった。
ならば、こちらの仕事を先に片付けておこう。
そう思って下がったのに、奥からは昼の膳をいつ出すかと聞かれ、廊下では、畳んだ衣をどちらへ運ぶかと尋ねられる。
帰蝶のそばへ戻って確かめるのがよいと、分かってはいる。けれど、休むようにと言われた直後に用を持ち込めば、美濃の二人では務まらぬと言いに行くように聞こえはしないか。
袖の山を揃え、紐を手に取る。
初めから、扱いにくい者と思われたくなかった。
この家で役に立ってきたことを、わざわざ口にするのも卑しい気がする。何も知らぬ顔をして従う方が穏やかに済むのなら、今日だけでも、そうしておきたかった。
「佐和殿」
お梅の声がした。
戸口でこちらを覗き、何をしているか確かめてから、少し慌てたように言葉を続ける。
「姫様が、お昼の支度は、どちらへお願いすればよいかと」
佐和は結びかけた紐を置いた。
やはり、向こうでも自分を待っていたのか。
*
紗季は硯へ置いた筆を取り、また戻した。
義母へ出す文の最初の一行を考えている間に、腹が空いてきた。お梅に昼の膳のことを尋ねると、槙も、誰に取り次ぐかは佐和に聞かなければ分からぬと言う。
佐和を休ませたつもりで、結局また呼びに行かせてしまった。
戻ってきた佐和は、まず廊下で誰かへ声を掛け、それから部屋へ入って頭を下げた。
「お待たせいたしました。すぐに、お持ちいたします」
「こちらこそ。休んでいるところを、呼んでしまって」
佐和が顔を上げる。
その目を見て、紗季は返事を待った。何かを言いかけて、やめたように思えたから。
「……お休みには、なれなかったのですか」
「まだ、片付けるものがございましたので」
衣を運んでいる声を聞いたことはあった。けれど、自分の部屋へ物が入ってこなければ、佐和はもう休んだのだと考えていた。
「それが終わるまで、食事も?」
尋ねると、佐和は目を伏せた。
答えを聞く前に、紗季は筆を置き直した。休めと言ったから、休ませてあげられた。そう考えていた自分へ、さっき廊下で聞いた信長の問いが戻ってくる。
何人を、いつまで留めるのだ。
人数どころか、ひとりが何をしているかも確かめていない。
「何を残しているか、先に聞けばよかったです。槙たちがいれば、代われると思っていました」
佐和は、紗季と、その後ろの槙を見た。
「私が、申し上げませず」
「私も、こちらの奥のことは、まだ存じませぬ」
槙が言った。
紗季のために取り繕ってくれる声ではなかった。佐和へ向かい、膝を揃えて座り直している。
「姫様のお支度は私でできても、誰へ何を頼むかまでは、そなたに聞かねばなりませぬ。先ほど、お教えいただくべきでございました」
槙に頭を下げさせている、と紗季は思った。
美濃で何でもできた人が、自分のために、知らない家で分からないことを口にしている。その人を頼りにすることと、何もかも任せてよいことは、同じではなかったらしい。
佐和が小さく息をつき、顔を上げる。
「お昼のことは、こちらから伺えばよろしゅうございました。お二人がいらっしゃるので、今日はお任せせよという仰せかと、迷いまして」
「任せるつもりは、ありませんでした」
紗季は答え、すぐに言葉を選び直した。
「佐和の務めを、なくしたかったのではないのです。疲れているだろうと、それだけで」
言ってしまうと、善いつもりでいたことまで差し出したようで、頬が熱くなる。
分かってくださいと頼むだけなら、佐和はまた、恐れ入りますと言うだろう。そうして同じ場所へ戻るのは嫌だった。
「今、代われることを教えていただけますか」
佐和は畳の端を見たまま、少し考えた。
「お膳を受け取るところへ、お梅殿に来ていただければ。お時間は、私が伝えましたので、今日はもう分かっております」
「はい。私、参ります」
お梅が先に答える。
佐和の方へ体を向け、どちらから行くのかと尋ねた。自分と同じことを聞いているのに、紗季が今朝抱いたような恥ずかしさは、その声にない。
「衣のことは、急ぎますか」
今度は紗季が尋ねる。
「返すものを分けるだけでございます。運ぶのは、明日でも差し支えございません」
「では、お昼の後に。残りを教えてもらってから、佐和に休んでもらいたいです」
佐和の眉が、少しだけほどけた。
「承知いたしました」
今朝と同じ返事でも、今度は、その後に何をしてくれるかが分かる。
佐和とお梅が連れ立って出ると、紗季は残った槙へ顔を向けた。
「槙も、食べてね」
「姫様のお済みになった後で」
「その後で。……私が、忘れていたら言ってください」
槙は紗季を見て、わずかに口元を緩めた。
「申し上げます」
庭の戸は、朝に開けた時より広く引いてある。
風で紙が浮きそうになり、紗季は硯を少しずらして端を押さえた。机の上に何を置くかは、もう自分で決めてよい。けれど、人に何かを頼む時は、決める前に聞くことがある。
そこまで考えたところで、お梅の足音がした。
今度はどの廊下を通って戻ってくるか、紗季にも分かった。
*
昼の膳には飯と汁のほかに、焼いた魚がひと切れ添えられていた。
食べ終えた後、お梅が佐和から教わった場所へ盆を運ぶ。槙は佐和と衣の部屋へ行き、紗季はしばらく、一人で机に向かった。
義母への文は、まだ初めの挨拶しか書けていない。
いかにも嫁らしい言葉を続ければ、美濃で習った形にはなる。小見にも、槙にも、礼を失わずに書くことは教わってきた。けれど、その先へ、今日のことを書いてよいだろうか。
家へ来たばかりの嫁から、侍女をうまく使えぬという文が届く。
頼りないと思われるかもしれない。息子の暮らしを任せられぬと、そう読まれてしまったら。
紗季は、白いところに筆先を近づけた。
小見なら、できなかったことも聞いてくれた。分からぬことがあれば尋ねよと、何度も言ってもらった。
でも、こちらの母上は、その人ではない。
同じように甘えてよいと決めてしまうのも怖く、何でもできるように見せるのは、もっと続かない気がする。
しばらくして戻った槙は、紙を覗き込まず、庭側の戸を少し狭めた。
「佐和は?」
「食事を済ませ、休んでおります。お梅が衣の残りを見ておりますので、急ぐことはございませぬ」
それを聞くと、先ほどまで書けずにいた言葉が、少し変わった。
失敗を許してもらう文にしなくてもよい。今日、分からなかったことを、これから教えてほしいと願うのなら。
紗季は墨を含ませ、挨拶の続きへ筆を置いた。
『こちらでの暮らしにつき、まだ心得ぬこと多くございます。今朝、佐和を休ませたく存じながら、何を代わるか尋ねず、かえって迷わせてしまいました。人に頼む言葉も、家ごとに異なるものと知りました。お目にかかりました折には、お教えをいただきとう存じます』
一度読み直し、佐和の名のところで筆が止まる。
この書き方では、相手の失態を告げるように見えはしないか。紗季は槙へ、ここを読んでほしいと頼んだ。
槙は声には出さず、目で辿ってから頷く。
「姫様が、何をお尋ねになりたいかは分かります。佐和にも、見せておかれては」
休んでいる人を、また呼ぶところだった。
紗季は筆を置き、文を乾かすことにした。
佐和が戻ったのは、庭の影が机の脚まで伸びてからのこと。
少し顔色のよくなった彼女へ、紗季は文を差し出した。土田御前に初めて出す文で、佐和の名を書いたため、読んでもらいたいと伝える。
立ったまま受け取りかけた佐和を、向かいへ座らせた。
読み終えた顔からは、すぐに何も分からなかった。
「困るようでしたら、書き直します」
紗季が言うと、佐和は紙から目を離した。
「いいえ。私の名も、このままで」
それから、言葉を探すように文へ視線を戻す。
「私も、お梅殿に教わりました。帰蝶様が、お汁をもう少し欲しい時、椀の中を気にしておいでになると」
紗季は、そばの器を見た。
そんなことまで見られていたのかと恥ずかしくなったが、佐和は笑わずに続ける。
「明日は、声をお掛けいたします」
「欲しい時は、私からもお願いします」
そう返すと、ようやく、佐和が少し笑った。
文を折る前に、紗季は末尾の名を確かめる。帰蝶。その二文字は、いま自分がここで頼み事をするための名でもある。
書き損じはなかった。槙に教わった通りに整え、佐和へ託した。
廊下の先で、使いの者を呼ぶ声がする。
「御台様から、母御前へお渡しいただきたい文にございます」
紗季は、思わず戸口を見た。
今、自分の文のことを言ったのだろうか。
聞き慣れない呼び方を口の中で繰り返す間に、受け取った男の返事がした。紙はもう、佐和の手を離れている。
*
翌朝、土田御前は、那古野から届いた文を膝の前へ置いた。
息子からの言付けは、先に聞いてある。顔を合わせる日を決めたいという。それに添えられた嫁の文は、考えていたよりも長かった。
初めの挨拶を読み、佐和の名のところで、もう一度目を戻す。
あの娘は、働き者だ。用を頼めば、他の者に言うべきことまで自分の手へ抱えて戻ってくる。気がつく者に任せていると、任せた方が、どこまで頼んだかを忘れる。
その佐和を、休ませたかったという。
土田御前は、紙の端へ指を添えた。
嫁がどのような声で頼み、佐和が何と答えたかは、この文だけでは分からない。三郎が何かきつく言ったのかと考えかけ、そこは書いていないと思い直す。
息子のことになると、先に浮かぶ顔がある。幼い時からよく知っているつもりで、今の顔を見ずに話してしまうこともあったろう。
嫁に対してまで、初めから、こちらの知っている家へ当てはめるわけにはいかない。
「返事を、持たせます」
そばの女へ告げると、待っている使いへ食事を出してあるか尋ねた。済んでいると聞き、筆を取る。
立派な文を書かねばと、嫁は思ったのだろうか。途中から字の間が詰まり、それでも、末尾の名の手前には少し空きが残してある。
早く返してやりたいと思った。
ただ、困ったことがあれば何でも自分へ言えと書くには、まだ、その娘のことを知らなさすぎる。
土田御前は考えた後、三郎に伝える訪問の日取りとは別に、帰蝶への返事を書き始めた。
*
返書が紗季のもとへ来たのは、その日の昼前だった。
佐和から受け取り、机へ置く。紙の折り目が自分のものよりきちんとして見え、すぐに開けるのをためらった。
槙は隣の間で衣を整えている。お梅も、昼の膳を受け取るところへ行っていて、今はそばにいない。
紗季は、折り目へ指を差し入れた。
『文、嬉しく読みました。佐和を気遣われた由、承りました。あの者は、頼まれたことの先まで引き受けようといたします。残した用があれば、口に出して申すよう、そなたからもお伝えください。
そなたも、何を頼めばよいか分からぬ時は、分からぬと申されよ。こちらのことを、まだ知らぬのは道理です。
明日、そちらへ参ります。お顔を見て、話しましょう』
紗季は最後まで読み、初めへ戻った。
叱られていない。
それが分かると、今度は、書いてあったことが一つずつ目に入る。佐和を気遣ったことは受け取ってもらえた。けれど、よい心掛けだと褒めて終わりにもされていない。
佐和にも、言ってほしいことがある。自分にも、言わなければ伝わらないことがある。
戸の外から、槙が衣はどちらにするかと尋ねた。
紗季は返書を手元へ寄せ、入ってもらう。
「明日、母上がお越しくださるそうです」
「では、こちらの衣にいたしましょうか」
広げられた袖へ目をやり、紗季は、会う時の自分を思い浮かべようとした。どこへ座り、何を話し、どう礼を申し上げるのか。その順番は、まだ見えてこない。
文では書けたことが、顔を見たら、また言えなくなるかもしれない。
「槙。お会いするところは、佐和に聞けば分かる?」
「伺ってまいりましょう」
「私も、一緒に聞きたいの」
槙は袖を畳みかけ、紗季の方を見た。それから、衣を机の向こうへ置き直す。
「では、お梅が戻りましたら」
はい、と答えて、紗季は文へもう一度目を落とした。
そのうち、廊下から二人分の足音が近づいてくる。お梅が先に膳を運び、佐和が後ろから、器を置く場所を尋ねていた。
紗季は返書を畳み、汁椀の置かれるところから、少し離しておいた。




