三十二話 灯を残して
新しい湯が運ばれてくる前に、紗季は名を書いた紙へもう一度目を落とした。
森下紗季。その横の墨の跡は、字より濃く、まだ端にわずかな光を残している。机を拭くつもりで布を取ろうとしたが、やめて、筆だけを硯の脇へ置き直す。
戸の外から、槙が声を掛けた。
「お持ちいたしました」
紗季が紙の上へ白紙を被せるまで、信長は返事を待っていた。頷くと、入れ、と短く告げる。
槙は盆を置き、二つの器を取り替えた。湯気が、灯の下で細くほどけていく。紗季はまだ熱い縁へ指を添え、手を引いてから、今度は胴を包んだ。
「お食事を、少しお持ちいたしましょうか」
槙に尋ねられ、腹が空いていたことを思い出す。昼の膳では、人の話を聞くたびに箸を止めていた。けれど、ここで食べたいと答えてよいのか迷ううち、向かいから声がした。
「俺にも持ってこい」
顔を上げると、信長は自分の器を取り、湯を冷ましている。
「そなたは」
「……少し、いただきます」
槙が下がると、庭側の戸が鳴った。風が当たったのだろう。昼には気にも留めなかった板の合わせ目が、夜になってからは、そこに隙間があると知らせてくる。
紗季は衣の中へ足先を寄せた。
「寒いか」
「いえ。大丈夫です」
信長の目が、紗季の膝へ落ちる。
嘘を見つけられたようで、動かした足を戻したくなった。けれど彼は何も言わず、器へ口をつけるだけ。その間に紗季も湯を飲み、今度は、温かいものが腹まで下りていくのを感じる。
ほどなく戻った槙の盆には、飯の椀と小さな皿が二組載っていた。
夕刻の膳とは違い、魚はほぐしてある。紗季の方には煮た大根がひと切れ添えられ、箸を当てると端から崩れた。冷めた表面の下に温かいところが残っていて、慌てて飲み込まずに済む。
信長は食べ始めると、しばらく口を開かなかった。
こちらが箸を止めても何を考えているかと聞かれず、ひと口ずつ食べるうち、紗季の椀の中も減っていく。
「まだ入るか」
信長が、空になった自分の椀を脇へ置いた。
「もう少しだけ」
答えてから、早かっただろうかと椀を見る。こちらには、まだ飯が残っていた。
信長は紗季の手元を見て、口の端を動かした。
「急げとは言うておらぬ」
そのまま庭の戸へ顔を向け、風の音を聞いている。
紗季は、残りをゆっくり食べた。
*
膳が下がる頃には、戸の向こうから聞こえる声も少なくなっていた。
盆を受け取るお梅の返事がして、足音が遠のく。いつもなら、あの子が戻ってくる間に湯を使い、槙に今日のことで何か一つ注意され、ようやく横になれる。
紗季は、閉じた戸を見た。
自分の隣に、槙はいない。
「お休みの支度をいたします」
佐和が戸口で頭を下げる。その後ろで、槙が何かを受け取った。畳まれた夜具が運ばれ、隣の間へと消えていく。
誰かが手を止めれば、今は待って、と言える気がした。ところが、皆の動きは、紗季の知らないところで決めてあった順に進んでいく。
佐和が灯の油を確かめている間、槙は紗季の近くへ来た。
「お疲れでは、ございませんか」
いつもの声だった。
はいと答えれば、この人は横になる支度をしてくれる。もう少しここにいて、と頼めば、留まってくれるだろうか。
信長の前で、その言葉を口にできない。
「少し、眠くなってきました」
紗季の返事を聞き、槙は頷いた。
その肩越しに、隣室の戸が見える。戸の開いた幅だけ、こちらの灯が床へ差し込み、運び込まれたものの端を照らしていた。
今夜は、夫婦になった夜だ。
声に出して自分へ言い聞かせようとしても、胸の中で言葉が止まる。
お梅が湯の器を下げに来た時、紗季はその袖を見た。
手を伸ばせば届く。まだ洗い桶を運ぶ途中だからと、何か用を頼んでもよい。そうすれば、もう少しだけ、ここにいてもらえる。
自分で頼んで皆に下がってもらったばかりなのに。
何も言わず、紗季は箸を揃えた。既に揃えてあった箸を、また少しずらす。
「あとは、私が」
槙が静かに盆を引き取った。
その時、手の甲が触れた。温かさに気づいて顔を上げたが、槙は紗季を見ているだけで、袖を掴むための理由を与えてはくれない。
足を崩していた信長が、膝を戻した。
「まだ何か、話があるのか」
紗季は首を振る。
違う。話があるのではない。今、何を話しても、先ほどまでのようには声が出ない。
「では、休むか」
問いに、返事ができなかった。
*
槙が隣の間へ移った後、信長は立ち上がり、座り続けていた膝を伸ばした。
その影が、紗季の手元まで長くなる。
大きな音がしたわけではなかった。信長がこちらへ手を伸ばしたのでもない。それでも、板の軋む音を聞くと、紗季の体は先に動いていた。
膝を引き、畳の端から足が落ちる。
自分の衣を掴んだところで、信長と目が合った。
「どうした」
顔を見なければ答えられる気がして、紗季は俯いた。
「何でも、ございません」
涙が一つ、膝へ落ちる。
言ったそばから、嘘になってしまった。
信長は足を止めたまま動かない。紗季も、引いた膝を元へ戻せずにいた。
「帰蝶」
その呼びかけには、声を返さなければならない。
今夜、自分の名を覚えておくと言ってくれた人なのに。湯を替え、食事が来るまで待ち、泣いた時にも追い出さなかった人なのに。
何もできずに座っているのは、あまりに勝手ではないか。
「申し訳、ございません」
謝るために息を吸うと、喉が狭くなった。
ここで泣くつもりではなかった。さっき流した涙は、母を思い出したためだと話せた。今は、向かいにいる人を前にして泣いている。
信長の足が半歩動き、紗季はまた顔を伏せた。
「近づかぬ。顔を上げよ」
声が少し強くなる。
紗季は肩を揺らしたまま、ようやく目を上げた。信長は立っていたところから動かず、何かを言いかけて口を閉じる。
「今、俺は何かしたか」
「いいえ」
「ならば、どうした」
返さねばならない言葉を探すうち、涙が頬を伝った。
この人が悪いのではないと、伝えたい。けれど、それを言ってしまえば、悪くない人の望みに応えられない理由を、次に差し出さねばならない気がした。
紗季は袖を握り直す。
「今夜は……まだ」
信長が、隣の間へ目を向けた。
それから、紗季へ視線を戻す。その顔を見て、続きまで言わなければ分からぬふりをする人ではないのだと思った。
「まだ、何も」
うまく言葉にならず、紗季は首を振った。
「嫌です……。伽は……、怖いです」
口にしてしまうと、声が大きかったことに驚く。
戸の外へ聞こえたかもしれない。隣には槙がいる。信長へ向けて嫌だと言った自分を、誰がどう思うだろう。
謝らなくてはと唇を開いたが、信長の方が先だった。
「分かった」
そう言って、彼は自分のいた畳へ戻った。
座る時、衣の端を膝の下から抜き、片手で直す。紗季を急がせる様子も、戸の外へ人を呼ぶ気配もない。
向かいに空いた板敷きが、もう一度、二人の間へ戻ってくる。
「今夜は、よい」
紗季は瞬きをした。
涙のせいで揺れていた顔が、少しはっきりする。
「けれど、私は」
「聞こえた」
信長の返事に、言葉が止まった。
彼は脇へ置いた空の器を見て、それから紗季を見る。
「心が定まるまで待つ」
すぐには、その意味を受け取れなかった。
今夜を待つと言ったのか。それとも、明日のことまで決まっているのだろうか。何日たてば落ち着くと答えれば、この人を困らせずに済むのか。
「いつまで、と」
問いの先で声が掠れた。
信長は眉を寄せる。
「日を決めねばならぬか」
「私には、分かりません。いつになれば、よいのか」
「今、決めよとは言うておらぬ」
叱られたような調子だった。
けれど、待つと告げた言葉を、取り消されはしなかった。
紗季は膝の上へ手を戻そうとして、指が衣を離せずにいることに気づく。一本ずつほどく間にも涙が落ち、ようやく両手を開いたところで、息が大きく乱れた。
「すみませ……」
最後まで言えない。
信長は目を逸らし、閉じた戸の方へ向いた。
「槙を呼ぶか」
頷くと、彼はその名を呼んだ。
隣の間から、すぐに返事がする。
*
戸を開けた槙は、紗季を見て足を止めた。
その顔へ何を言えばよいか考える前に、紗季は袖で目元を押さえた。泣いたことを隠すには、遅すぎる。
「こちらで休ませよ。今宵は、そなたがついておれ」
信長の言葉を受け、槙が頭を下げる。
理由を尋ねず、まず紗季の近くへ座った。差し出された布を受け取った時、紗季は、ありがとうと礼を言うはずが、また声を詰まらせてしまう。
槙は布を持つ手を支え、それきり、何も聞かなかった。
信長が立つ。
紗季も体を起こしかけたが、槙の手が肘へ添えられ、かえって立ち上がれなくなった。
「お待ちください」
信長が、戸の手前で振り返った。
引き留めて、どうするつもりなのだろう。
自分でも分からない。それでも、逃げるような別れ方にしたくはなかった。
「三郎様のことを、何も存じ上げないのに……よくしていただいて」
彼は黙って聞いている。
膝に置いた布を見ていると、先ほど自分が口にした、嫌ですという声ばかりが耳へ戻ってきた。
「あのように、申して」
「知らぬなら、これから知ればよい」
紗季は顔を上げた。
信長は戸の縁へ手を掛けたまま、少し首を傾けている。
「俺も、そなたを知ったばかりだ」
昼から、いくつもの返事を間違えた気がしていた。
妻となった以上は、もう分かっていなければならないことがある。分からないままでもできる顔をして、せめて迷惑をかけぬようにしなければと思っていた。
けれど、この人も、知らないと言った。
「明日、御挨拶をしても、よろしいでしょうか」
紗季が尋ねると、信長の眉が上がる。
「明日は口も利かぬつもりであったのか」
「そうでは、ありません」
慌てて首を振ると、槙の手が肘を離れた。
信長は紗季と槙を順に見て、それから戸を開いた。
「今夜は休め」
廊下の暗がりへ姿が移る。
見送りの者へ何かを尋ねる声と、佐和の返事が聞こえ、足音は角の先へ遠ざかった。
戸が閉まった後も、紗季は、そこへ目を向けたまま座っていた。
*
槙はしばらく紗季のそばにいて、呼吸が落ち着いてから、濡れた布を受け取った。
「お顔を、拭き直しましょう」
持ってきてもらった湯へ新しい布を浸し、よく絞る。
頬に残る白粉を拭う手は、朝よりもゆっくりだった。紗季が目を閉じると、瞼の上では布を動かさず、そっと押さえて離す。
その間に、お梅が隣の間から夜具を運び直してきた。
紗季は目を開き、顔を見た。お梅もこちらを見たが、すぐに畳の端へ膝をつき、掛ける衣の向きを確かめる。
「枕は、こちらでよいでしょうか」
尋ねられ、紗季は庭の戸を見た。
近ければ、風の音がもっと大きく聞こえる。奥へ寄せすぎると、廊下から呼ばれた時に気づかないかもしれない。
「柱の、少し手前に。槙のいる方へ」
「はい」
お梅が敷物を直し、枕を置いた。
そばの板敷きで、槙が布を畳んでいる。手を伸ばせば届くが、邪魔にはならない場所を、お梅は見て選んでくれたらしい。
今夜ここで眠る人は、自分だ。
ようやく、横になるところまで思い浮かべられた。
「お梅」
立とうとしたお梅が、こちらを見る。
「変な顔に、なってる?」
聞いてから、答えに困るだろうと思った。
けれどお梅は、紗季の目のあたりをよく見て、少しだけ首を傾ける。
「少し、赤うございます」
「そうだよね」
「明日の朝、冷たい布をお持ちします」
明日まで赤いかもしれないと言われたようで、紗季は困って笑った。
その顔を見たお梅も、わずかに口元を緩める。何があったかとは尋ねず、湯の器を持って部屋を出ていった。
槙に手伝ってもらい、髪を整え直す。
肩へ掛かっていた毛先を指で梳かれると、朝から同じところを押さえられていた頭が、やっと自分の重さへ戻るようだった。鏡は見せてもらわず、机の上の紙だけを手元へ取った。
墨は、もう乾いている。
紗季は四つに畳み、ほかの紙を入れた包みの底へ収めた。槙はその手元を見ていたが、広げて確かめようとはしない。
「明日、道具を置くところを、決めたいの」
「硯も、こちらの机へ置いておきましょうか」
「うん。……はい。お願いします」
言い直すと、槙は笑わずに頷いた。
ここでは、まだ何がどこにあるかも分からない。筆を置く場所一つを、自分で決める。そのための明日があると考えられるようになっていた。
横になってから、紗季は庭側の灯を見た。
二つのうち一つは消され、部屋の奥まで見渡すには暗い。それでも、灯のそばの柱と、廊下へ出る戸の位置は分かる。
「こちらも、消しましょうか」
槙が尋ねた。
「少し、つけておいてもらえますか」
返事を待つ間、紗季は掛けられた衣の端へ指を添えた。
昼に着ていた紅の衣は、畳まれて隣の間にある。何もかも支度をしてもらい、あの衣を着る人としてここへ来た。それを脱いだ後の自分も、同じところで眠ってよい。
紗季は顔を枕へ向けた。
槙が灯へ油を少し足し、芯の先を直している。火が一度だけ大きくなり、元より低く落ち着いた。
「槙は、眠れる?」
「姫様がお休みになれば」
「ずっと、見ていなくていいから」
背後で、衣の擦れる音がした。
槙も座り直したらしい。返事はすぐに来ず、紗季が振り向きかけた時、その声が聞こえた。
「では、私も休ませていただきます」
はい、と答えたつもりが、息だけになった。
目を閉じると、帰り際の信長の顔が浮かぶ。何もかも許してもらったとは思えない。明日、何を話せばよいかも、まだ決まっていなかった。
ただ、明日も顔を合わせてよいと分かった。
廊下を人が通り、足音が遠くなる。その音を数えようとして、三つ目か四つ目のあたりで、続きが分からなくなった。
*
朝、紗季が目を開けた時、灯は消えていた。
代わりに庭の戸の合わせ目が白くなり、細い光が床へ落ちている。身じろぎをすると、隣で横になっていた槙が先に起き上がった。
「もう少し、お休みになりますか」
紗季は首を振りかけ、枕から顔を上げたところでやめた。
瞼が重い。目をこすると槙に止められ、言われたとおり、膝へ両手を戻す。
戸の外では、誰かが盆を置く音がしていた。
「お梅が、湯を持ってまいります」
「冷たい布は?」
昨夜の約束を思い出して尋ねると、槙は少し顔を寄せた。
「それほど、腫れてはおりませぬよ」
紗季がほっとしたところへ、戸口からお梅の声がする。
「でも、お持ちしました」
槙が戸を開ける。
盆を置いたお梅は、畳んだ布を水の中から取り、両手で絞った。紗季が目へ当てると、思っていたより冷たく、鼻の奥まで目が覚める。
「冷たい」
「少し、離しましょうか」
「ううん。これでいい」
布の向こうで、二人が朝の支度をしている。
庭戸を開けるかと聞かれ、紗季は少しだけと答えた。光の幅が広くなり、頬の、布を当てていないところへも冷たい空気が触れる。
昨夜の戸の音とは違い、外には鳥の声があった。
食事はこの部屋へ運ばれた。
佐和が膳を据え、お梅が汁椀を置く。飯のそばには、大根の煮たものが添えてあった。庭の明るさで見ると、椀の縁には細かな傷がある。箸を持とうとして、そのそばに置かれた湯の器へ目が留まった。
昨夜と同じ器だった。
「三郎様は」
尋ねてから、続きをどう言うか迷う。
佐和は、膳の向きをわずかに直した手を止めた。
「先に召し上がりました。帰蝶様にも、お食事をお持ちするようにと」
もう起きて、この家の中でいつものように過ごしている。
当然のことなのに、聞くまで、信長は昨夜の暗い廊下の先にいる人のままだった。
紗季は佐和へ礼を言い、汁椀を持つ。
温かい汁を飲んでから、飯をひと口食べた。昨夜よりも腹が空いている。挨拶に行くまでに、もう少し食べておきたかった。
「槙」
そばで膳を見ていた槙が、顔を上げる。
「食事が済んだら、三郎様へ朝の御挨拶をしたいの。お時間を、伺ってもらえますか」
槙は、承知いたしました、と頭を下げた。
約束した挨拶の先に、何を話すかは決められない。それでも、顔を見て、おはようと申し上げるところからなら、できそうだった。
お梅が空きかけた汁椀を見て、鍋のある方へ目をやる。
「もう少し、お持ちしましょうか」
「お願いします」
紗季は椀を渡した。
廊下へ出るお梅の足音を聞きながら、残っていた大根へ箸を添える。今度は崩さずに取れたので、そのまま口へ運んだ。




