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文蝶 〜文が紡ぐ戦国のんびり生活〜  作者: 藤原 智
美濃

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三十一話 名乗り

 母へ知らせる文は、二度、書き損じた。

 無事に着いたとだけ書けばよいのに、その後へ添える言葉が決まらない。お梅が初めて見る棚を開けたことも、信長が川の水を気にしていたことも、書き始めると長くなる。まだ暮らしてもいない家を、心配要りませぬと結ぶのも違う。

 墨の乾いたところを指で押さえ、紗季は読み返した。


『槙も、お梅も、ともにおります』


 その一行なら、迷わず書けた。

 机は美濃から運んだものではない。佐和に用意してもらった低い台へ硯を置き、紙を広げれば膝を入れるところが狭くなる。それでも、使い慣れた筆を持つと、ようやく自分の手元へ帰れた気がした。


「ここで、よいと思う?」


 後ろから覗き込んだお梅は、最初の行を声に出さず追い、それから顔を上げた。


「御無事なことは、分かります」

「それが、いちばんだものね」


 今日はもう、それでよかった。

 会って話すように全てを詰め込もうとするのをやめ、紗季は帰蝶と署名した。槙が乾いたことを確かめ、作兵衛へ預けておくと言う。彼は婚礼を見届けてから美濃へ戻るので、その時に持っていってもらえるらしい。

 紙を畳む音を聞くうち、紗季は隣の間へ目を向けた。

 奥に寄せた箱へ、現代の服が収まっている。入れた場所は知っているのに、それを着ていた自分へ、今日のことをどう説明すればよいのか分からない。


「明日の朝は、こちらでお食事をなさってから」


 佐和が戻り、槙と婚礼の支度を確かめ始めた。

 どちらの衣を先に出すか、髪を整えるところは今の部屋でよいか。紗季の返事も必要になるたび、二人がこちらを見る。

 父に話をされた日には、先のことばかりで想像もできなかった。明日のこととなれば、何を着て、どの戸から出るかまで決まっていく。


 *


 翌朝、鏡を向けられ、紗季は顎を引いた。

 襟を合わせた槙の手が止まり、下を向けばまた直さねばなりませぬよ、と咎める。顔を上げ直しても、鏡の中の目は、なかなかこちらを見てくれない。

 白粉を薄くのせた頬は、見慣れた顔から遠かった。

 肩へ触れる髪の端を整えられる間、両手を膝から動かさずにいる。小袖の上へ重ねた衣は、表へ向いたところと、折り返した裏とで紅の濃さが違い、光が当たると、織り込まれた模様が現れる。

 これを選んだ時、小見は、こちらへ向いてごらんと言った。

 今、後ろへ振り向いても、母はいない。


「苦しくは、ございませんね」


 槙が帯を確かめる。


「今は。ずっと座っていたら、分からないけど」

「途中でほどくことは、できませぬ」

「分かってる」


 声に笑いが混じったのを聞き、槙も手を止めて顔を見せた。

 いつもより丁寧に髪をまとめている。そのこめかみに、短い毛が一本だけ残っていた。紗季が指で示すと、お梅が先に直そうとして、自分の袖を槙の肩へ掛けてしまう。


「あなたの支度を、先になさい」

「はい。すみませぬ」


 お梅が慌てて下がるので、紗季もつられて笑った。

 それきり笑えなくなった時、廊下から佐和に呼ばれる。


 部屋を出てすぐの角は、昨日より明るかった。

 向こうへ通じる戸を開けてあり、盆を持つ女たちが、一列にならぬよう間を取って待っている。紗季たちが通ると、それぞれが半身を引き、空いた道の先へ、また別の廊下が見えた。

 外から来た男の声がする。

 作兵衛だと分かった後、その近くにいるはずの人を探しそうになり、紗季は前へ顔を戻した。道中、手を借りずに輿へ乗った時の指の感触が、まだ掌に残っている。

 好きだと告げたことを、取り消したわけではない。

 それでも今日は、清十郎に助けを求めるために、この廊下を歩いているのではなかった。


「こちらで、お待ちを」


 佐和の声に足を止める。

 戸の向こうから呼び入れられるまで、ほんのわずかな間があった。槙が裾を整えてから手を離すと、今度こそ、誰の袖もつかまずに進まねばならない。


 *


 座敷は、戸を外して二間を続けてあった。

 奥の屏風を背にした畳に、信長がいる。昨日のように袖を引き上げてはおらず、烏帽子の下からこちらを見た顔にも、外の赤さは残っていない。

 紗季の場所は、その横に間を空けて設けられていた。

 庭へ向く側には織田の者が並び、反対側の少し下がったところに作兵衛が控える。席へ着くまでの短い道には、盃を運ぶ者の通り道を横切るところがあった。紗季が一息待つと、先に通った女が盆を下ろし、佐和が進む方を示してくれた。

 座ってから、袖の端を直す。

 隣の信長は両手を膝へ置き、前を向いている。こちらが来るのを退屈して待っていたようには見えず、そのことが意外だった。

 まだよく知らない人なのに、昨日の顔だけで、もう決めつけかけていたらしい。


 祝いの言葉が述べられた。

 美濃と尾張。斎藤と織田。

 自分の顔より、その二つの名を見ている人もいるのだろうと思うと、紗季は背を伸ばした。帰蝶と呼ばれたところで、膝へ揃えた指に力が入る。

 差し出された盆には、三つの盃が重ねてあった。

 酌をする女が最初の一つを取り、紗季の手へ渡す。銚子を傾ける手元へ目を向け、あふれぬ量だと分かっていても、受けた盃を動かさずに待った。

 槙に確かめてもらった順を、一つずつ思い出す。

 唇へ触れた酒は、想像していた甘さとは違い、飲み下す前から喉が熱い。顔をしかめそうになり、盃の縁に目を留めた。

 同じ盃が、隣へ移っていく。

 信長の指は、紗季の指が離れてから、それを受け取る。迷いのない動きに見とれかけ、次に自分が何をするか、慌てて頭の中で辿り直した。

 盃が替わり、銚子の口から細い酒が落ちる。その音のする間だけは、誰も話さなかった。


 これで夫婦になる。


 歴史の本なら、一行で済んでいた。

 その一行の中に、こんなに長く、人の手を見ている時間があるとは知らなかった。

 最後の盃を戻す時、指先が縁から離れにくく、紗季は自分の手を見下ろす。何かにすがっているところまで見られたようで、袖の中へ戻した。

 信長も隣で、膝の位置を直している。

 それから先の挨拶では、二人へ向けられる祝いの言葉が増えた。


 膳の支度が始まると、室内の音が変わった。

 小さな器を置く音、廊下で次の盆を受け取る音。お梅は佐和のそばで一度立ち止まり、譲ってもらった場所から紗季の後ろへ回る。

 自分の侍女が迷わず動くことさえ、紗季には嬉しい。

 飯と、魚の身を入れた汁、焼き物の皿が置かれ、別の小鉢には根菜を柔らかく煮たものが盛られていた。汁椀の蓋を取ると、生姜の匂いが上がる。朝から何度も腹が空いたと思ったのに、箸を持つと、人の話を聞く方へ気を取られてしまう。


「食わぬのか」


 信長の声だった。


「いただいております」


 答えた直後、自分の皿の魚が手つかずなのを見つける。

 隣へ顔を向けると、信長の膳も、飯ばかりが先に減っていた。紗季の視線に気づいた彼は魚を見下ろし、それから箸を戻す。


「こちらも、忘れておった」


 紗季は笑いそうになり、汁をひと口飲んだ。

 正面では、年嵩の男が作兵衛へ、美濃を出た日のことを尋ねている。作兵衛は道の具合を答え、信長も途中からその話を聞いていた。

 食事の合間に、紗季も名を呼ばれた。


「三郎殿のもとでも、お健やかに」


 頭を下げて礼を返す。

 誰かの妻として座ることに、まだ体が追いついてこない。けれど、盃を受け渡した手も、今、箸を持っている手も、自分のものだった。


 *


 自室へ戻ると、槙が先に上の衣を受け取った。

 肩が軽くなって初めて、ずっとそこへ力を入れていたと分かる。お梅の用意してくれた湯で唇を湿らせるうち、庭の明るさが薄れていった。

 隣の間では、佐和が人を帰す支度をしている。

 今日のためだけに手を貸していた者もいるらしい。礼を言いに立とうとした紗季を、槙が引き留める。


「そちらは、私が参ります。姫様は、お休みくださいませ」


 頷きかけて、紗季は戸口を見た。

 ここで横になってしまえば、今日はこれで終わる。明日、信長に会った時にも、また帰蝶と名乗り、その次の日には、今夜言えなかったことを話すのが、もっと難しくなるだろう。


「三郎様と、お話ししたいの」


 槙は衣を畳む手を止めた。


「今宵、お見えになると伺っております」

「その時、私からお願いしたいことがあります。人には、聞かせられない話です」


 顔を見られていると分かったが、紗季は先へ続けた。


「私が帰蝶ではないことを、申し上げます」


 声を聞いた槙が、隣の間の方へ目を向ける。

 お梅は湯を替えに立ち、廊下の先で佐和と話している。この声は届かない。それでも、槙の手が戸を引き寄せてからでなければ、紗季も次を口にできなかった。


「父上が、お知らせになっていないことは存じています。でも、私は……」


 何と説明すれば、この人を困らせずに済むのだろう。

 待っていた槙は、やがて畳みかけの衣を脇へ置いた。


「お館様へ、お伺いを立てる間もございませぬ」

「はい」

「お話しになって、どのように受け取られるかも」

「分かりません」


 紗季は膝の上で袖を重ねた。

 清十郎が聞いてくれた時とは違う。信長には、自分を長く見てきた時間がない。美濃から何を送り込まれたのかと疑われても、仕方のない話だった。

 それでも、知らない顔のまま盃を交わした相手に、自分まで黙っていてよいとは思えなかった。


「私から、お話しします。槙に説明をしてもらうのではなくて」


 槙はすぐには答えない。

 戸の向こうからお梅に呼ばれ、少し待つよう返した後で、紗季のそばへ膝を寄せる。


「お側を離れすぎぬ所で、控えております」


 許されたのだと喜ぶことはできなかった。

 槙は安心してくれたのではない。その人をここへ置いて、自分だけが戸の中で話す。その頼みの重さを受け止め、紗季は頭を下げた。


 *


 信長が来た時、部屋には灯を二つ置いてあった。

 一つは庭へ向く戸の近く、もう一つは廊下側。紗季の座る畳と、向かいに用意した畳の間には板敷きがあり、小さな盆を脇へ寄せてある。

 佐和が迎えに出て、紗季は奥へ座り直した。

 昼の衣を脱いだ信長は、昨日会った時に近い姿をしていたが、袖はどちらも下ろしている。敷居の前で、紗季と、その後ろの槙を見た。


「疲れは取れたか」

「少し、休ませていただきました」


 佐和が湯を据え、お梅が廊下から空の盆を受け取る。

 その手が戸口の向こうへ消えるのを見届け、紗季は信長へ向き直った。


「人に聞かれず、お話ししたいことがございます」


 信長の指が、湯の器の手前で止まる。


「美濃からの言付けか」

「私自身のことです」


 彼はしばらく紗季を眺め、それから佐和へ、下がれと命じた。

 槙も立つ。戸を閉める前、紗季の方へ一度顔を向けたが、何も言わずに外へ退いた。足音が少し遠のき、廊下の角で止まる。

 紗季は、向かいの顔を見た。

 ただ待っているだけなのに、昼の大勢の視線より、目を逸らしたくなる。


「私は、帰蝶様ではありません」


 信長は動かなかった。

 聞き取れなかったのかと続きを急ぎかけると、彼の方が先に口を開く。


「帰蝶ではない」

「はい」

「では、誰だ」


 膝へ置いた指が、衣を押した。


「森下紗季と申します」


 口にした名前が、自分から離れていくように聞こえた。

 信長はその名を繰り返さず、入口の戸へ目をやる。それから紗季へ視線を戻し、先ほどより低い声で尋ねた。


「美濃の帰蝶は、どうした」

「亡くなられたと、伺いました。私がお会いするより前に」

「誰から聞いた」

「父上からです。熱が下がらず、お亡くなりになったと」


 信長の背が、ゆっくり伸びた。

 紗季は教わった順に話そうとしたが、彼は待ってくれない。


「父上とは、利政殿のことか。その方が、そなたを帰蝶として寄越したのか」

「私が帰蝶様とは別の者だと、御存じです」


 信長の手が膝を離れ、脇へ置かれる。

 戸の外へ人を呼ぶのかと思った。紗季がそちらを見たためか、彼も入口へ目を向けたが、声は掛けず、こちらへ向き直る。


「いつからだ」

「一年ほど前です。私は、美濃の山におりました。帰蝶様と、顔がよく似ていたので……」


 似ていたからと説明しても、それで全てが済むはずはない。

 自分の意思でここへ来たのではない。そう言えば、父のしたことだけを並べて、自分が受け取ってきたものを隠してしまう。


「帰るところが、見つかりませんでした。利政様や槙に置いていただかなければ、どうしてよいかも分からなくて。帰蝶として暮らすことを、承知いたしました」


 声が細くなり、もう一度息を吸った。


「今日、ここで帰蝶と名乗ったのも、私です」


 信長は、長い間、紗季を見ていた。

 人を呼ばずにいる理由を、都合よく考えることはできない。その目は、紗季が何を省いて話しているかを、探しているようにも見える。


「その家の者が、そなたを捜しに来ぬのか」


 母の顔が浮かんだ。

 紗季は唇を開き、うまく声にならないまま首を振る。


「来られません。私が、どこにいるかも、御存じありません」

「いずこの家だ」


 ここから先を言わずに済ませれば、知らない国から来た娘として、話を収められるかもしれない。

 けれど、今日の自分を知ってほしいと願っている。その願いにまで、帰蝶の名を借りたくはなかった。


「私は、この時代より、ずっと後の世から来ました」


 灯の火が細く伸び、また元へ戻った。

 器へ伸ばしかけていた信長の手が、膝に戻る。


「後の世とは」

「何百年も先です。今、ここにあることが、昔の出来事として、本に書かれている世から」


 声にすると、何もかも頼りない。

 母と二人で暮らしていた家も、毎日通った学校も、この人にとっては、自分が今思いついて話しているものと変わらないのだろう。


「本で、私のいた世の人は、この時代のことを学びます。父上のことも、三郎様のことも、私は、こちらへ来る前から名前を知っておりました」


 信長の目元が動いた。


「昨日の川のことは分からぬのに、俺のことは知っておるというのか」

「全部を知っているわけでは、ありません」


 返事が早くなり、紗季は口を閉じた。

 否定することばかりを先に言えば、何を聞いても答えぬ者だと思われる。それでも、知らないものまで知っていると言ってしまったら、今ここで名を告げた意味がなくなる。


「三郎様が昨日、何をなさったかも、今日、何をお考えかも、私には分かりません。知っているのは、本に残されたことの、一部だけです」

「先のことを、俺に教えに来たのか」


 紗季は強く首を振った。


「違います。どうして来たのかも、分からないのです」


 そこで初めて、信長の目が、顔以外へ向いた。

 紗季の手元に何かを探しているらしく、何も持っていない指から、袖の重なりへ視線が移る。


「何があった。来た時に」


 紗季は、足元が黒くなった日のことを話した。

 同じ年ごろの友達と、学校の皆で山の城を見に来ていたこと。二人の声が聞こえるほど近くにいたのに、自分の下だけが抜け、落ちたと思った後には、見知らぬ木々と土の上にいたこと。

 遠足という言葉を使ってから、意味を言い直した。信長はそこで遮らず、二人も落ちたのかと尋ねる。


「いいえ。私だけです」


 美羽と千尋の名は、胸の内へ残した。

 あの時の声を思い浮かべながら、山へ帰る道を探したこと、その場所には何もなかったことを続ける。


「誰かを困らせるために来たのでは、ありません。母にも、行ってきますとしか、申しませんでした」


 そこで、声が途切れた。

 母が何と返したかを、今は細かく思い出せなかった。靴を履きながら聞いた、いつもの声だったから。最後に聞くつもりで、覚えておかなかったから。

 袖を目元へ持っていこうとして、膝に戻す。

 信長は脇の布を取り、盆の空いたところへ置いた。こちらへ差し出されるより、手を伸ばしやすい位置に。


「拭け。顔が見えぬ」


 紗季は礼を言い、布へ指を掛けた。

 泣いてしまったら話を聞いてもらえなくなると思っていたのに、彼は立ち上がらず、座ったまま湯をひと口飲む。その間に、紗季も息を整えることができた。


 *


「持ってきたものが、ございます」


 紗季が言うと、信長は器を置いた。


「ここへか」

「美濃から運んだ荷に。こちらへ落ちてきた時、着ていた服です。私の名も、母が縫いつけてくれました」


 信長は入口を見た後、紗季へ目を戻す。


「誰が持っておる」

「槙です。母の字のあるところを、お見せしてもよろしゅうございますか」


 彼が頷いてから、紗季は槙を呼んだ。

 戸の外で、返事がする。思ったより早く近づく足音に、待たせてしまっていたのだと分かった。

 戸を細く開けた槙は、まず紗季の顔を確かめ、それから信長へ頭を下げる。


「あの服の包みを、お願いできますか」


 紗季の頼みに、槙の目が一度止まった。

 しかし、理由を問い返さず、承知したと答えて下がる。信長からの問いもなかった。紗季は膝の上へ布を置き、顔を合わせたまま待つのに耐えられず、湯へ手を添えた。

 戻ってきた槙が包みを置き、開く役を代わろうとしたが、紗季は自分で触れる。紐を解く手がもたついても、急がせる声は掛からない。

 紺のジャージを取り出し、襟の内側を返した。


「こちらです」


 白い布を明かりへ向ける。

 信長は畳を進めず、紗季が差し出すのを待って受け取った。袖の先が彼の膝へ落ちるのを見るうち、紗季は無意識に手を伸ばしかけていた。


「切らぬ」


 彼が言った。

 紗季は手を引き、自分でも、何を恐れたのかを知った。確かめるために縫い目を切り、布を取られてしまったら。母が付けたままの形では、もうなくなってしまう。

 信長は襟を広げ、白い布の字を読んだ。


「森下」


 母の付けた名前を、この人の声で聞く。

「紗季が、私の名です」


 紗季が添えると、信長は小さく頷いた。その布を引っ張らず、裏の縫い目を見てから、紺の袖を指で挟む。厚さを確かめる指が、知らない生地の上で止まる。


「変わった織りだな」

「もとの世では、私と同じ服を着ている子が、たくさんおります。学校で着るものです」

「そなたが、縫ったのではないのか」

「この服は、違います。私には、作れません」


 入学の支度をしてくれた時のことを、紗季は少しだけ話した。

 信長は、そうか、と返す。それから服を持ち直し、紗季の手へ戻してくれた。

 受け取った腕へ重さが戻ると、ようやく息がつけた。紗季は両袖を折り、包みに収める。槙にはもうよいと伝え、戸を閉めてもらった。


「それを見ても、先の世から来た証とは言えぬ」


 信長の言葉に、紗季は頷く。

 珍しい服を持っているだけかもしれない。母と暮らした家を話しても、その家が何百年も後にあることまでは、見せられなかった。


「はい。信じていただけるとは、思いませんでした」

「では、何故、今話した」


 今度の問いには、答えを用意してあるはずだった。

 けれど、口へ出そうとした途端、きれいに整えた言葉が、自分には大きすぎるものに思える。


「今日、三郎様と盃をいただきました。明日からも、ここで、お顔を合わせます。その時に、私は帰蝶様のことを何も知らないまま、知っているふりをするのでしょうか」


 信長の目は、逸れない。


「父上に習ったことは、お話しできます。母上が好きなものも、兄上がどんなふうに笑われるかも。けれど、それは、私があの家で暮らして知ったことです。帰蝶様の思い出ではありません」


 そこで言葉を切り、膝へ置いた手を開いた。


「私が、ここに来ました。そのことだけでも、お知らせしてから、一緒に暮らしたかったのです」


 信長が、初めて目を伏せた。

 指が畳の縁へ触れ、少しずれていた盆を元の位置へ押す。その小さな動きを見ている間、紗季は、返事を聞かずに謝ってしまいそうになった。

 やがて彼は、顔を上げる。


「利政殿は、後の世のことも知っておるのか」

「申し上げておりません。帰蝶様とは別の者だと、御存じなだけです」


 信長の眉の間が狭くなる。


「あちらはそなたを娘として出し、こちらは妻として迎えた。今、違う名を言われたからとて、両家の話を、そなたと俺だけで解くわけにはゆかぬ」


 紗季は息を詰めた。

 帰蝶と名乗り続けよと言われる。それは覚悟していたのに、今夜もまた、自分の名が置き去りになるのかと思うと、膝へ目を落としたくなる。


「そなたも、それは分かって申しておるのだな」

「はい」


 信長は入口の戸を見た。


「この話は、今は外へ出さぬ。俺も、聞いたばかりだ」


 すぐに信じたとも、忘れろとも言われなかった。

 紗季は戸口を見てから、もう一度、彼の顔を見る。ここで待ってもらえるとは、思っていなかった。


「ここに、おいていただけますか」


 声にすると、聞くのが怖かった。

 美濃で帰蝶として暮らすことを承知した時にも、同じように、置いてもらえる場所が要った。けれど今は、食べ物や着る物の話だけではない。


「今日、迎えたばかりだぞ」


 信長は、困ったように紗季を見た。


「俺には、死んだ帰蝶の顔も、声も分からぬ。今日、隣で盃を取ったのは、そなたであろう」


 紗季は頷いた。

 あの長い間、自分の手の中にあった盃を思い出す。信長が受け取る前に指を離したところも、まだ覚えている。


「名を聞いたからとて、今夜、出ていけとは言わぬ」


 それを聞いた途端、湯を飲みたいと思った。

 ずっと器はそばにあったのに、喉が渇いていることを、今まで考えられなかったらしい。紗季が器を持つと、信長も、冷めたなと言って自分の湯を眺めた。


「替えましょうか」

「後でよい」


 信長は器を戻し、脇へ置いた包みを見る。


「帰るところは、まだ探しておるのか」

「帰り方が、分かりません」

「帰りたくは、あるのか」


 今、この人へ答えてよいのだろうか。

 夫婦となった日に、ほかの家へ帰りたいと話す。何もかも間違えている気がしたが、紗季は自分の手にある器を見つめ、はい、と答えた。


「母に、会いたいです」


 信長は黙っている。

 母を忘れれば、ここでうまく暮らせるのかもしれない。そんなことは、一度だって望んでいなかった。


「けれど、ここでよくしていただいたことも、嘘にはしたくありません。母上に、また文を書くと約束しました」

「美濃の母か」

「はい」


 信長は頷き、長く息を吐いた。


「母が、二人か」


 その言い方が、少しおかしかった。

 母が何人いるのだと困っているようにも聞こえ、紗季が顔を上げると、彼はようやく、口元を緩めた。


「帰る道は、俺にも分からぬ。その話が本当なら、なおさらな」

「はい」

「美濃へ文を出すくらいなら、できる。使いは、まず取り次がせよ」


 紗季は両手で器を包み直した。

 すべてを信じてもらえたわけではない。帰蝶という名を脱げたのでもない。それでも、自分が母へ会いたいと願うことを、この人は聞いたままで、同じ部屋に座っている。


「ありがとうございます」


 頭を下げた後、紗季は筆のある方へ目を向けた。


「私の名を、書いてもよろしいですか」


 信長の視線が、こちらへ戻る。


「先ほどの字であろう」

「母の書いたものではなく、私から」


 彼は少し考え、よい、と答えた。

 紗季は戸口で槙に道具を頼み、包みはしまってもらった。新しく何かを聞かれると思ったのに、槙は筆と紙を運んだだけで下がっていく。

 部屋へ戻った静けさの中、紗季は硯へ水を落とした。

 墨をする音が、二人の間に続く。


「下手な字に、なったら」


 つい口にすると、信長が紙を見る。


「名は変わらぬであろう」


 もっともな答えだった。

 笑ってしまうと、筆を持つ指も、さっきまでほど強く握り込まずに済む。

 紙の上へ、森下紗季と書いた。

 最後の一画を引き、筆を上げる。学校でノートへ書いていたのと同じ字なのに、墨の濃いところも、払いの形も違って見える。

 乾くのを待って紙を向けると、信長は灯へ近づけず、その場で目を落とした。


「紗季」


 自分の書いた字を、その声が辿る。


「はい」


 返事をしてから、紗季は顔を上げた。

 もう帰蝶ではないのだと、言えたわけではない。今日、夫になった人の顔も、まだよく知らない。それでも今、その人が呼んだ名へ答えたのは、誰かの代わりではなかった。

 信長は紙を畳まず、机の上へ戻した。


「外では、帰蝶と呼ぶぞ」

「承知しております」

「この字は、覚えておく」


 紗季は頷き、紙の角が灯へ近づかぬよう、手元へ寄せた。

 廊下で、槙が湯を替えるかと尋ねている。顔を向けた信長の横に、昼の式では気づかなかった、髪のはねたところが見えた。

 まだ、会ったばかりの人なのだ。

 その人が本の中でどう呼ばれるかを知っていても、今夜、何を聞いてくれたかは、自分にしか分からない。


「替えていただけますか」


 紗季が答えると、戸の外から、はい、と槙の声が返った。

 信長は自分の器も盆へ載せ、それから、紙の上に置き残された筆を示す。


「汚れるぞ」


 紗季は慌てて筆を硯の脇へ戻した。

 まだ乾かない名の横に、墨の跡が一つ、ついている。拭えば広がると分かっていたので、そのままにして、二人分の湯が来るのを待った。

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