三十一話 名乗り
母へ知らせる文は、二度、書き損じた。
無事に着いたとだけ書けばよいのに、その後へ添える言葉が決まらない。お梅が初めて見る棚を開けたことも、信長が川の水を気にしていたことも、書き始めると長くなる。まだ暮らしてもいない家を、心配要りませぬと結ぶのも違う。
墨の乾いたところを指で押さえ、紗季は読み返した。
『槙も、お梅も、ともにおります』
その一行なら、迷わず書けた。
机は美濃から運んだものではない。佐和に用意してもらった低い台へ硯を置き、紙を広げれば膝を入れるところが狭くなる。それでも、使い慣れた筆を持つと、ようやく自分の手元へ帰れた気がした。
「ここで、よいと思う?」
後ろから覗き込んだお梅は、最初の行を声に出さず追い、それから顔を上げた。
「御無事なことは、分かります」
「それが、いちばんだものね」
今日はもう、それでよかった。
会って話すように全てを詰め込もうとするのをやめ、紗季は帰蝶と署名した。槙が乾いたことを確かめ、作兵衛へ預けておくと言う。彼は婚礼を見届けてから美濃へ戻るので、その時に持っていってもらえるらしい。
紙を畳む音を聞くうち、紗季は隣の間へ目を向けた。
奥に寄せた箱へ、現代の服が収まっている。入れた場所は知っているのに、それを着ていた自分へ、今日のことをどう説明すればよいのか分からない。
「明日の朝は、こちらでお食事をなさってから」
佐和が戻り、槙と婚礼の支度を確かめ始めた。
どちらの衣を先に出すか、髪を整えるところは今の部屋でよいか。紗季の返事も必要になるたび、二人がこちらを見る。
父に話をされた日には、先のことばかりで想像もできなかった。明日のこととなれば、何を着て、どの戸から出るかまで決まっていく。
*
翌朝、鏡を向けられ、紗季は顎を引いた。
襟を合わせた槙の手が止まり、下を向けばまた直さねばなりませぬよ、と咎める。顔を上げ直しても、鏡の中の目は、なかなかこちらを見てくれない。
白粉を薄くのせた頬は、見慣れた顔から遠かった。
肩へ触れる髪の端を整えられる間、両手を膝から動かさずにいる。小袖の上へ重ねた衣は、表へ向いたところと、折り返した裏とで紅の濃さが違い、光が当たると、織り込まれた模様が現れる。
これを選んだ時、小見は、こちらへ向いてごらんと言った。
今、後ろへ振り向いても、母はいない。
「苦しくは、ございませんね」
槙が帯を確かめる。
「今は。ずっと座っていたら、分からないけど」
「途中でほどくことは、できませぬ」
「分かってる」
声に笑いが混じったのを聞き、槙も手を止めて顔を見せた。
いつもより丁寧に髪をまとめている。そのこめかみに、短い毛が一本だけ残っていた。紗季が指で示すと、お梅が先に直そうとして、自分の袖を槙の肩へ掛けてしまう。
「あなたの支度を、先になさい」
「はい。すみませぬ」
お梅が慌てて下がるので、紗季もつられて笑った。
それきり笑えなくなった時、廊下から佐和に呼ばれる。
部屋を出てすぐの角は、昨日より明るかった。
向こうへ通じる戸を開けてあり、盆を持つ女たちが、一列にならぬよう間を取って待っている。紗季たちが通ると、それぞれが半身を引き、空いた道の先へ、また別の廊下が見えた。
外から来た男の声がする。
作兵衛だと分かった後、その近くにいるはずの人を探しそうになり、紗季は前へ顔を戻した。道中、手を借りずに輿へ乗った時の指の感触が、まだ掌に残っている。
好きだと告げたことを、取り消したわけではない。
それでも今日は、清十郎に助けを求めるために、この廊下を歩いているのではなかった。
「こちらで、お待ちを」
佐和の声に足を止める。
戸の向こうから呼び入れられるまで、ほんのわずかな間があった。槙が裾を整えてから手を離すと、今度こそ、誰の袖もつかまずに進まねばならない。
*
座敷は、戸を外して二間を続けてあった。
奥の屏風を背にした畳に、信長がいる。昨日のように袖を引き上げてはおらず、烏帽子の下からこちらを見た顔にも、外の赤さは残っていない。
紗季の場所は、その横に間を空けて設けられていた。
庭へ向く側には織田の者が並び、反対側の少し下がったところに作兵衛が控える。席へ着くまでの短い道には、盃を運ぶ者の通り道を横切るところがあった。紗季が一息待つと、先に通った女が盆を下ろし、佐和が進む方を示してくれた。
座ってから、袖の端を直す。
隣の信長は両手を膝へ置き、前を向いている。こちらが来るのを退屈して待っていたようには見えず、そのことが意外だった。
まだよく知らない人なのに、昨日の顔だけで、もう決めつけかけていたらしい。
祝いの言葉が述べられた。
美濃と尾張。斎藤と織田。
自分の顔より、その二つの名を見ている人もいるのだろうと思うと、紗季は背を伸ばした。帰蝶と呼ばれたところで、膝へ揃えた指に力が入る。
差し出された盆には、三つの盃が重ねてあった。
酌をする女が最初の一つを取り、紗季の手へ渡す。銚子を傾ける手元へ目を向け、あふれぬ量だと分かっていても、受けた盃を動かさずに待った。
槙に確かめてもらった順を、一つずつ思い出す。
唇へ触れた酒は、想像していた甘さとは違い、飲み下す前から喉が熱い。顔をしかめそうになり、盃の縁に目を留めた。
同じ盃が、隣へ移っていく。
信長の指は、紗季の指が離れてから、それを受け取る。迷いのない動きに見とれかけ、次に自分が何をするか、慌てて頭の中で辿り直した。
盃が替わり、銚子の口から細い酒が落ちる。その音のする間だけは、誰も話さなかった。
これで夫婦になる。
歴史の本なら、一行で済んでいた。
その一行の中に、こんなに長く、人の手を見ている時間があるとは知らなかった。
最後の盃を戻す時、指先が縁から離れにくく、紗季は自分の手を見下ろす。何かにすがっているところまで見られたようで、袖の中へ戻した。
信長も隣で、膝の位置を直している。
それから先の挨拶では、二人へ向けられる祝いの言葉が増えた。
膳の支度が始まると、室内の音が変わった。
小さな器を置く音、廊下で次の盆を受け取る音。お梅は佐和のそばで一度立ち止まり、譲ってもらった場所から紗季の後ろへ回る。
自分の侍女が迷わず動くことさえ、紗季には嬉しい。
飯と、魚の身を入れた汁、焼き物の皿が置かれ、別の小鉢には根菜を柔らかく煮たものが盛られていた。汁椀の蓋を取ると、生姜の匂いが上がる。朝から何度も腹が空いたと思ったのに、箸を持つと、人の話を聞く方へ気を取られてしまう。
「食わぬのか」
信長の声だった。
「いただいております」
答えた直後、自分の皿の魚が手つかずなのを見つける。
隣へ顔を向けると、信長の膳も、飯ばかりが先に減っていた。紗季の視線に気づいた彼は魚を見下ろし、それから箸を戻す。
「こちらも、忘れておった」
紗季は笑いそうになり、汁をひと口飲んだ。
正面では、年嵩の男が作兵衛へ、美濃を出た日のことを尋ねている。作兵衛は道の具合を答え、信長も途中からその話を聞いていた。
食事の合間に、紗季も名を呼ばれた。
「三郎殿のもとでも、お健やかに」
頭を下げて礼を返す。
誰かの妻として座ることに、まだ体が追いついてこない。けれど、盃を受け渡した手も、今、箸を持っている手も、自分のものだった。
*
自室へ戻ると、槙が先に上の衣を受け取った。
肩が軽くなって初めて、ずっとそこへ力を入れていたと分かる。お梅の用意してくれた湯で唇を湿らせるうち、庭の明るさが薄れていった。
隣の間では、佐和が人を帰す支度をしている。
今日のためだけに手を貸していた者もいるらしい。礼を言いに立とうとした紗季を、槙が引き留める。
「そちらは、私が参ります。姫様は、お休みくださいませ」
頷きかけて、紗季は戸口を見た。
ここで横になってしまえば、今日はこれで終わる。明日、信長に会った時にも、また帰蝶と名乗り、その次の日には、今夜言えなかったことを話すのが、もっと難しくなるだろう。
「三郎様と、お話ししたいの」
槙は衣を畳む手を止めた。
「今宵、お見えになると伺っております」
「その時、私からお願いしたいことがあります。人には、聞かせられない話です」
顔を見られていると分かったが、紗季は先へ続けた。
「私が帰蝶ではないことを、申し上げます」
声を聞いた槙が、隣の間の方へ目を向ける。
お梅は湯を替えに立ち、廊下の先で佐和と話している。この声は届かない。それでも、槙の手が戸を引き寄せてからでなければ、紗季も次を口にできなかった。
「父上が、お知らせになっていないことは存じています。でも、私は……」
何と説明すれば、この人を困らせずに済むのだろう。
待っていた槙は、やがて畳みかけの衣を脇へ置いた。
「お館様へ、お伺いを立てる間もございませぬ」
「はい」
「お話しになって、どのように受け取られるかも」
「分かりません」
紗季は膝の上で袖を重ねた。
清十郎が聞いてくれた時とは違う。信長には、自分を長く見てきた時間がない。美濃から何を送り込まれたのかと疑われても、仕方のない話だった。
それでも、知らない顔のまま盃を交わした相手に、自分まで黙っていてよいとは思えなかった。
「私から、お話しします。槙に説明をしてもらうのではなくて」
槙はすぐには答えない。
戸の向こうからお梅に呼ばれ、少し待つよう返した後で、紗季のそばへ膝を寄せる。
「お側を離れすぎぬ所で、控えております」
許されたのだと喜ぶことはできなかった。
槙は安心してくれたのではない。その人をここへ置いて、自分だけが戸の中で話す。その頼みの重さを受け止め、紗季は頭を下げた。
*
信長が来た時、部屋には灯を二つ置いてあった。
一つは庭へ向く戸の近く、もう一つは廊下側。紗季の座る畳と、向かいに用意した畳の間には板敷きがあり、小さな盆を脇へ寄せてある。
佐和が迎えに出て、紗季は奥へ座り直した。
昼の衣を脱いだ信長は、昨日会った時に近い姿をしていたが、袖はどちらも下ろしている。敷居の前で、紗季と、その後ろの槙を見た。
「疲れは取れたか」
「少し、休ませていただきました」
佐和が湯を据え、お梅が廊下から空の盆を受け取る。
その手が戸口の向こうへ消えるのを見届け、紗季は信長へ向き直った。
「人に聞かれず、お話ししたいことがございます」
信長の指が、湯の器の手前で止まる。
「美濃からの言付けか」
「私自身のことです」
彼はしばらく紗季を眺め、それから佐和へ、下がれと命じた。
槙も立つ。戸を閉める前、紗季の方へ一度顔を向けたが、何も言わずに外へ退いた。足音が少し遠のき、廊下の角で止まる。
紗季は、向かいの顔を見た。
ただ待っているだけなのに、昼の大勢の視線より、目を逸らしたくなる。
「私は、帰蝶様ではありません」
信長は動かなかった。
聞き取れなかったのかと続きを急ぎかけると、彼の方が先に口を開く。
「帰蝶ではない」
「はい」
「では、誰だ」
膝へ置いた指が、衣を押した。
「森下紗季と申します」
口にした名前が、自分から離れていくように聞こえた。
信長はその名を繰り返さず、入口の戸へ目をやる。それから紗季へ視線を戻し、先ほどより低い声で尋ねた。
「美濃の帰蝶は、どうした」
「亡くなられたと、伺いました。私がお会いするより前に」
「誰から聞いた」
「父上からです。熱が下がらず、お亡くなりになったと」
信長の背が、ゆっくり伸びた。
紗季は教わった順に話そうとしたが、彼は待ってくれない。
「父上とは、利政殿のことか。その方が、そなたを帰蝶として寄越したのか」
「私が帰蝶様とは別の者だと、御存じです」
信長の手が膝を離れ、脇へ置かれる。
戸の外へ人を呼ぶのかと思った。紗季がそちらを見たためか、彼も入口へ目を向けたが、声は掛けず、こちらへ向き直る。
「いつからだ」
「一年ほど前です。私は、美濃の山におりました。帰蝶様と、顔がよく似ていたので……」
似ていたからと説明しても、それで全てが済むはずはない。
自分の意思でここへ来たのではない。そう言えば、父のしたことだけを並べて、自分が受け取ってきたものを隠してしまう。
「帰るところが、見つかりませんでした。利政様や槙に置いていただかなければ、どうしてよいかも分からなくて。帰蝶として暮らすことを、承知いたしました」
声が細くなり、もう一度息を吸った。
「今日、ここで帰蝶と名乗ったのも、私です」
信長は、長い間、紗季を見ていた。
人を呼ばずにいる理由を、都合よく考えることはできない。その目は、紗季が何を省いて話しているかを、探しているようにも見える。
「その家の者が、そなたを捜しに来ぬのか」
母の顔が浮かんだ。
紗季は唇を開き、うまく声にならないまま首を振る。
「来られません。私が、どこにいるかも、御存じありません」
「いずこの家だ」
ここから先を言わずに済ませれば、知らない国から来た娘として、話を収められるかもしれない。
けれど、今日の自分を知ってほしいと願っている。その願いにまで、帰蝶の名を借りたくはなかった。
「私は、この時代より、ずっと後の世から来ました」
灯の火が細く伸び、また元へ戻った。
器へ伸ばしかけていた信長の手が、膝に戻る。
「後の世とは」
「何百年も先です。今、ここにあることが、昔の出来事として、本に書かれている世から」
声にすると、何もかも頼りない。
母と二人で暮らしていた家も、毎日通った学校も、この人にとっては、自分が今思いついて話しているものと変わらないのだろう。
「本で、私のいた世の人は、この時代のことを学びます。父上のことも、三郎様のことも、私は、こちらへ来る前から名前を知っておりました」
信長の目元が動いた。
「昨日の川のことは分からぬのに、俺のことは知っておるというのか」
「全部を知っているわけでは、ありません」
返事が早くなり、紗季は口を閉じた。
否定することばかりを先に言えば、何を聞いても答えぬ者だと思われる。それでも、知らないものまで知っていると言ってしまったら、今ここで名を告げた意味がなくなる。
「三郎様が昨日、何をなさったかも、今日、何をお考えかも、私には分かりません。知っているのは、本に残されたことの、一部だけです」
「先のことを、俺に教えに来たのか」
紗季は強く首を振った。
「違います。どうして来たのかも、分からないのです」
そこで初めて、信長の目が、顔以外へ向いた。
紗季の手元に何かを探しているらしく、何も持っていない指から、袖の重なりへ視線が移る。
「何があった。来た時に」
紗季は、足元が黒くなった日のことを話した。
同じ年ごろの友達と、学校の皆で山の城を見に来ていたこと。二人の声が聞こえるほど近くにいたのに、自分の下だけが抜け、落ちたと思った後には、見知らぬ木々と土の上にいたこと。
遠足という言葉を使ってから、意味を言い直した。信長はそこで遮らず、二人も落ちたのかと尋ねる。
「いいえ。私だけです」
美羽と千尋の名は、胸の内へ残した。
あの時の声を思い浮かべながら、山へ帰る道を探したこと、その場所には何もなかったことを続ける。
「誰かを困らせるために来たのでは、ありません。母にも、行ってきますとしか、申しませんでした」
そこで、声が途切れた。
母が何と返したかを、今は細かく思い出せなかった。靴を履きながら聞いた、いつもの声だったから。最後に聞くつもりで、覚えておかなかったから。
袖を目元へ持っていこうとして、膝に戻す。
信長は脇の布を取り、盆の空いたところへ置いた。こちらへ差し出されるより、手を伸ばしやすい位置に。
「拭け。顔が見えぬ」
紗季は礼を言い、布へ指を掛けた。
泣いてしまったら話を聞いてもらえなくなると思っていたのに、彼は立ち上がらず、座ったまま湯をひと口飲む。その間に、紗季も息を整えることができた。
*
「持ってきたものが、ございます」
紗季が言うと、信長は器を置いた。
「ここへか」
「美濃から運んだ荷に。こちらへ落ちてきた時、着ていた服です。私の名も、母が縫いつけてくれました」
信長は入口を見た後、紗季へ目を戻す。
「誰が持っておる」
「槙です。母の字のあるところを、お見せしてもよろしゅうございますか」
彼が頷いてから、紗季は槙を呼んだ。
戸の外で、返事がする。思ったより早く近づく足音に、待たせてしまっていたのだと分かった。
戸を細く開けた槙は、まず紗季の顔を確かめ、それから信長へ頭を下げる。
「あの服の包みを、お願いできますか」
紗季の頼みに、槙の目が一度止まった。
しかし、理由を問い返さず、承知したと答えて下がる。信長からの問いもなかった。紗季は膝の上へ布を置き、顔を合わせたまま待つのに耐えられず、湯へ手を添えた。
戻ってきた槙が包みを置き、開く役を代わろうとしたが、紗季は自分で触れる。紐を解く手がもたついても、急がせる声は掛からない。
紺のジャージを取り出し、襟の内側を返した。
「こちらです」
白い布を明かりへ向ける。
信長は畳を進めず、紗季が差し出すのを待って受け取った。袖の先が彼の膝へ落ちるのを見るうち、紗季は無意識に手を伸ばしかけていた。
「切らぬ」
彼が言った。
紗季は手を引き、自分でも、何を恐れたのかを知った。確かめるために縫い目を切り、布を取られてしまったら。母が付けたままの形では、もうなくなってしまう。
信長は襟を広げ、白い布の字を読んだ。
「森下」
母の付けた名前を、この人の声で聞く。
「紗季が、私の名です」
紗季が添えると、信長は小さく頷いた。その布を引っ張らず、裏の縫い目を見てから、紺の袖を指で挟む。厚さを確かめる指が、知らない生地の上で止まる。
「変わった織りだな」
「もとの世では、私と同じ服を着ている子が、たくさんおります。学校で着るものです」
「そなたが、縫ったのではないのか」
「この服は、違います。私には、作れません」
入学の支度をしてくれた時のことを、紗季は少しだけ話した。
信長は、そうか、と返す。それから服を持ち直し、紗季の手へ戻してくれた。
受け取った腕へ重さが戻ると、ようやく息がつけた。紗季は両袖を折り、包みに収める。槙にはもうよいと伝え、戸を閉めてもらった。
「それを見ても、先の世から来た証とは言えぬ」
信長の言葉に、紗季は頷く。
珍しい服を持っているだけかもしれない。母と暮らした家を話しても、その家が何百年も後にあることまでは、見せられなかった。
「はい。信じていただけるとは、思いませんでした」
「では、何故、今話した」
今度の問いには、答えを用意してあるはずだった。
けれど、口へ出そうとした途端、きれいに整えた言葉が、自分には大きすぎるものに思える。
「今日、三郎様と盃をいただきました。明日からも、ここで、お顔を合わせます。その時に、私は帰蝶様のことを何も知らないまま、知っているふりをするのでしょうか」
信長の目は、逸れない。
「父上に習ったことは、お話しできます。母上が好きなものも、兄上がどんなふうに笑われるかも。けれど、それは、私があの家で暮らして知ったことです。帰蝶様の思い出ではありません」
そこで言葉を切り、膝へ置いた手を開いた。
「私が、ここに来ました。そのことだけでも、お知らせしてから、一緒に暮らしたかったのです」
信長が、初めて目を伏せた。
指が畳の縁へ触れ、少しずれていた盆を元の位置へ押す。その小さな動きを見ている間、紗季は、返事を聞かずに謝ってしまいそうになった。
やがて彼は、顔を上げる。
「利政殿は、後の世のことも知っておるのか」
「申し上げておりません。帰蝶様とは別の者だと、御存じなだけです」
信長の眉の間が狭くなる。
「あちらはそなたを娘として出し、こちらは妻として迎えた。今、違う名を言われたからとて、両家の話を、そなたと俺だけで解くわけにはゆかぬ」
紗季は息を詰めた。
帰蝶と名乗り続けよと言われる。それは覚悟していたのに、今夜もまた、自分の名が置き去りになるのかと思うと、膝へ目を落としたくなる。
「そなたも、それは分かって申しておるのだな」
「はい」
信長は入口の戸を見た。
「この話は、今は外へ出さぬ。俺も、聞いたばかりだ」
すぐに信じたとも、忘れろとも言われなかった。
紗季は戸口を見てから、もう一度、彼の顔を見る。ここで待ってもらえるとは、思っていなかった。
「ここに、おいていただけますか」
声にすると、聞くのが怖かった。
美濃で帰蝶として暮らすことを承知した時にも、同じように、置いてもらえる場所が要った。けれど今は、食べ物や着る物の話だけではない。
「今日、迎えたばかりだぞ」
信長は、困ったように紗季を見た。
「俺には、死んだ帰蝶の顔も、声も分からぬ。今日、隣で盃を取ったのは、そなたであろう」
紗季は頷いた。
あの長い間、自分の手の中にあった盃を思い出す。信長が受け取る前に指を離したところも、まだ覚えている。
「名を聞いたからとて、今夜、出ていけとは言わぬ」
それを聞いた途端、湯を飲みたいと思った。
ずっと器はそばにあったのに、喉が渇いていることを、今まで考えられなかったらしい。紗季が器を持つと、信長も、冷めたなと言って自分の湯を眺めた。
「替えましょうか」
「後でよい」
信長は器を戻し、脇へ置いた包みを見る。
「帰るところは、まだ探しておるのか」
「帰り方が、分かりません」
「帰りたくは、あるのか」
今、この人へ答えてよいのだろうか。
夫婦となった日に、ほかの家へ帰りたいと話す。何もかも間違えている気がしたが、紗季は自分の手にある器を見つめ、はい、と答えた。
「母に、会いたいです」
信長は黙っている。
母を忘れれば、ここでうまく暮らせるのかもしれない。そんなことは、一度だって望んでいなかった。
「けれど、ここでよくしていただいたことも、嘘にはしたくありません。母上に、また文を書くと約束しました」
「美濃の母か」
「はい」
信長は頷き、長く息を吐いた。
「母が、二人か」
その言い方が、少しおかしかった。
母が何人いるのだと困っているようにも聞こえ、紗季が顔を上げると、彼はようやく、口元を緩めた。
「帰る道は、俺にも分からぬ。その話が本当なら、なおさらな」
「はい」
「美濃へ文を出すくらいなら、できる。使いは、まず取り次がせよ」
紗季は両手で器を包み直した。
すべてを信じてもらえたわけではない。帰蝶という名を脱げたのでもない。それでも、自分が母へ会いたいと願うことを、この人は聞いたままで、同じ部屋に座っている。
「ありがとうございます」
頭を下げた後、紗季は筆のある方へ目を向けた。
「私の名を、書いてもよろしいですか」
信長の視線が、こちらへ戻る。
「先ほどの字であろう」
「母の書いたものではなく、私から」
彼は少し考え、よい、と答えた。
紗季は戸口で槙に道具を頼み、包みはしまってもらった。新しく何かを聞かれると思ったのに、槙は筆と紙を運んだだけで下がっていく。
部屋へ戻った静けさの中、紗季は硯へ水を落とした。
墨をする音が、二人の間に続く。
「下手な字に、なったら」
つい口にすると、信長が紙を見る。
「名は変わらぬであろう」
もっともな答えだった。
笑ってしまうと、筆を持つ指も、さっきまでほど強く握り込まずに済む。
紙の上へ、森下紗季と書いた。
最後の一画を引き、筆を上げる。学校でノートへ書いていたのと同じ字なのに、墨の濃いところも、払いの形も違って見える。
乾くのを待って紙を向けると、信長は灯へ近づけず、その場で目を落とした。
「紗季」
自分の書いた字を、その声が辿る。
「はい」
返事をしてから、紗季は顔を上げた。
もう帰蝶ではないのだと、言えたわけではない。今日、夫になった人の顔も、まだよく知らない。それでも今、その人が呼んだ名へ答えたのは、誰かの代わりではなかった。
信長は紙を畳まず、机の上へ戻した。
「外では、帰蝶と呼ぶぞ」
「承知しております」
「この字は、覚えておく」
紗季は頷き、紙の角が灯へ近づかぬよう、手元へ寄せた。
廊下で、槙が湯を替えるかと尋ねている。顔を向けた信長の横に、昼の式では気づかなかった、髪のはねたところが見えた。
まだ、会ったばかりの人なのだ。
その人が本の中でどう呼ばれるかを知っていても、今夜、何を聞いてくれたかは、自分にしか分からない。
「替えていただけますか」
紗季が答えると、戸の外から、はい、と槙の声が返った。
信長は自分の器も盆へ載せ、それから、紙の上に置き残された筆を示す。
「汚れるぞ」
紗季は慌てて筆を硯の脇へ戻した。
まだ乾かない名の横に、墨の跡が一つ、ついている。拭えば広がると分かっていたので、そのままにして、二人分の湯が来るのを待った。




