二十八話 申し付け
お梅が一つ目の包みを置くと、帰蝶は、その上へ手を載せた。
「待って。今、書くから」
机へ向き直った顔が真剣なので、お梅も次の包みを抱えたまま待つ。こちらの品は紙に名前を付けておくよう、槙から頼まれている。二人でやれば早いと思っていたが、姫は衣を数えるだけでは済ませず、どこを直したかまで確かめたがった。
十一月に入ったばかりの朝、庭には薄く雪が残っていた。
屋根の近くからは雫が落ち始めているのに、奥の木陰はまだ白い。帰蝶はそこが気になるらしく、筆を置くたび庭を見ては、紙へ戻るのが遅くなる。
「そちらは、私が書きましょうか」
「お梅の手が空かないでしょう」
「空けていただければ」
抱えた包みを少し持ち上げてみせると、ようやく気づいた帰蝶が笑う。膝の脇へ場所を作ってくれたので、お梅はそこへ置き、指を曲げ伸ばしした。
抱えているうち、いつまでも同じように持てる気になってしまうのが不思議である。実際には、置いて初めて分かるほど腕が疲れていた。母が布を幾重にも重ねて運ぶ時に、いったん下ろせばよいのにと思ったことは、もう口に出せない。
「冷えてる」
帰蝶の手が、お梅の指へ触れる。
外で布を受け取ってから、まだ温まっていない。お梅が袖へしまおうとすると、姫は机の端にある湯の器を寄せてくれた。
「少し、休もう。私も字が曲がってきた」
「初めからではございませんか」
こちらを向く帰蝶の顔が、怒ろうとして、なかなか決まらない。お梅は先に笑ってしまう。槙のいる隣の間から、何事かと声が掛かったので、二人とも急いで返事をした。
帰蝶の字が読めぬほど乱れているわけではない。
ただ、冬の支度を確かめるための紙なのに、渡す文のように端を揃え、書き終えるまで次へ進もうとしない。衣を直す者には、どの包みか分かるようにしておけばよいのだと、お梅が説明する番もある。
この姫にも、自分が教えられることがある。
初めてそばに上がった時には、そんなことを考えたこともなかった。あのころなら、聞かれれば槙を呼び、間違いがあれば自分のせいだと思っていた気がする。
「この袖、もう一度見てもらおう」
帰蝶が差し出した衣を受け取り、縫い目を確かめる。
槙に教わっていなければ見落としそうな小さなつれがあって、お梅は直しに戻す方へ分けた。どれでも同じ包みにしてしまうと、後から全部開けることになる。自分の字で短く記した紙を添えれば、今度は帰蝶がその字を見て頷いてくれる。
昼近く、表へ出した物の確認に作兵衛が来た。
清十郎は廊下の折れるところで控え、用が済むまでこちらへは近づかない。帰蝶も筆を持ったまま、まず作兵衛の報告を聞いている。
この前、湯を運んでいった時には、これから二人はもっと話したがるものと思っていた。だから、お梅には少し意外に映る。けれど姫は、作兵衛との話の途中で清十郎を呼ばず、彼も自分から声を挟もうとはしない。
話が終わり、清十郎が荷を受け取るために来ると、そこでようやく二人の目が合う。
「道は、滑りますか」
「陰になる所は、まだ。今日はお庭へも出られませぬように」
「分かりました」
以前なら言い返していたかもしれない頼みを、姫はすんなり聞き入れる。お梅が顔を見ると、今、何か考えたでしょう、と小さく聞かれた。首を振って包みを差し出したが、清十郎の口元も緩んでいたので、隠したつもりの考えは二人に伝わってしまったらしい。
*
雪は翌日には溶けたが、朝の水は日ごとに冷たくなっていく。
庭に残っていた葉が落ちきるころ、お梅の母が縫い物を届けに来た。帰蝶のそばを少し離れる許しをもらい、裏の口まで受け取りに出ると、おきぬは風を避けて門の内側に立っている。
「ここまで持ってこなくても、取りに行ったのに」
「近くに用があったからね」
母の視線がお梅の後ろを窺うのは、誰かを待たせていないか気になるからだろう。お梅は、少しなら話せると先に伝える。それでも母は、袖を引いて長居をさせることはせず、運んできた包みを手渡した。
「ほら、ここは、お前の」
受け取る時には、中身まで確かめるようにと言われている。お梅は母の指した衣を持ち上げ、直してもらった箇所を見た。襟の内側が前より整っていて、指を入れても引っかからない。
「ありがとう」
「帰蝶様に、お待たせしてはならないよ」
「私のものです」
「だからだよ。お前の支度ばかり遅れて、皆様の手を煩わせないように」
分かっていると答えかけたが、母はもう、別の包みの注意を話し始めている。
どちらを先に戻してほしいか、どこがまだ仮の縫い目か。お梅が聞き返すと、母は指で場所を示し、その後、いつものように、覚えたかと顔を覗き込んだ。
「紙に書いておきます」
仕事の話をしていた母の口元が、そこで少し緩む。何か言われると思って待つと、母は、そうおし、と頷いただけで包みを閉じる。
字のことを自慢せず紐を結び直せば、母が持ちやすいところを押さえてくれる。お梅はその手に助けてもらい、結び目が上に来るよう包みの向きを変えた。館へ上がる前には何度もしていたことなのに、二人で一つの包みを扱う手つきが懐かしい。
「尾張へ行ったら、また書くから」
「ああ。こちらで分からないことを、教えておくれ」
母が包みから手を離すので、そのまま帰るのかと見送ろうとした。しかし、迷ったように宙へ留まった手が、お梅の頬へ触れる。指は冷たくても、顔を引きたくはなかった。
「元気でいるかどうかは、忘れずに」
帰蝶がそばで話す母への文を、お梅は幾度も聞いてきた。
何を書けばよいか迷う姫に、日々のことをと答えた覚えもある。しかし自分の母にこう言われてみると、たった一行でも、待たせず書こうと思う。
門を出る母の背が見えなくなるまで、そこにいた。戻ったお梅へ、帰蝶は筆を置いて顔を向ける。何をもらったの、と尋ねられたので、仕事の包みを槙へ渡してから、自分の衣だけを広げてみせた。
「よかったね。襟が、きれい」
帰蝶が自分を褒められた時より嬉しそうに見えるのは、気のせいだろうか。お梅も、母がここを直してくれたのだと、もう一度説明したくなる。
*
十二月に入ってから、まだ先の春の話が、目の前の仕事を増やしていく。
戻した衣をまた出したのは支度を忘れたためではなく、持参する物を確かめるためと、槙がお梅へ教える。今、使っている物にも後で荷へ入れる物があり、何をどこへ置いたか覚えているだけでは足りなくなっていた。
ある午後、帰蝶が利政のもとへ呼ばれた。
小見の方もいらっしゃると聞き、お梅は姫の後ろで衣の裾を整える。部屋へ入ると、小見は利政の脇から少し下がったところに座り、その隣に帰蝶の場所が用意されていた。
槙は帰蝶の斜め後ろ、お梅は入口近くへ控える。
利政の前には畳んだ文があったが、お梅の場所からは、その字までは見えない。小見が娘の座るのを待っている間にも、利政は一度、その紙へ目を落とした。
「年が明け、二月に入れば、尾張へ発つ支度を整えよ」
お梅の手は膝の上で動かなかった。春とだけ聞いていた時には、まだ幾つも寒い朝があるはずと、遠くに置いておけたのに。二月と聞けば、この月を終え、正月を越した向こうに、出立が待っている。
帰蝶はすぐに返事をせず、小見の方を見た。
母の手が娘の袖へ触れ、そのまま膝の脇に置かれる。
「道の様子や、先方の支度もある。日の細かいところは、追って申し渡す」
「……承知いたしました」
部屋の入口まで声が届いても、お梅には、姫の顔を正面から見ることができない。少し横を向いてくれればと思うのに、姫は父の方を向いたまま、次の言葉を待っている。
利政は供や荷のことを槙へ確かめた。
お梅も返事を聞き逃さぬようにしていたが、自分に何かを問われることはなかった。ここで数を間違えれば、箱の中だけの話では済まなくなる。部屋へ戻ったら、朝の紙を確かめようと考える。
「父上」
利政の視線が、帰蝶へ戻った。
「文を、届けていただけますね。尾張からも、こちらへ」
「無論だ」
「母上や、兄上、義姉上へも」
利政は、そこで小見の方へ目を向けた。
小見は娘の袖から手を離し、送ってちょうだい、と答える。帰蝶はようやく、父とは違う方へ顔を向けて笑った。
「皆に出すなら、紙を持たせねばならぬな」
利政に言われても、帰蝶はすぐに頷かない。
「たくさんでなくても。足りなくなったら、向こうでも求められましょうか」
「そのくらいの物はある」
小見の方が笑ったので、お梅も俯いて笑みを隠す。
姫は何もかも持っていくつもりではないらしい。ただ、文を書くことだけは、向こうへ着く前から決めている。その中に母へ送る自分の文も添えてもらえればと思い、お梅は、帰蝶の背を見た。
退出の時、小見の方は帰蝶に、明日また衣を見ようと声を掛けた。
帰蝶は母のそばへ少し膝を寄せ、何かを小声で話す。その間、槙は利政へ残る用を確かめ、お梅は戸口から通り道を見て待っていた。
姫は、部屋を出ると急に大きく息を吐いた。
お梅が近づくと、顔を覗かれるより先に笑ってみせる。
「二月だって」
「はい」
「お梅の荷も、忘れずに見ておかないとね」
その言葉で、お梅はようやく、自分もそこへ行くのだと実感した。
姫の荷を間違えず整えることばかり考えて、自分の母との別れを、その先に置いたままにしていたらしい。
「母が、また文をと申しておりました」
「うん。一緒に書こう」
帰蝶はそう言い、先を歩く槙に追いつくため、足を少し早めた。
お梅も袖を持ち上げ、遅れぬようについていく。二月になったらと考えるより、今は、その背のすぐ後ろへ戻りたかった。
*
それから数日後、槙に頼まれた包みを渡して戻る途中で、お梅は取り次ぎの女に名を呼ばれた。利政からの召しだという。帰蝶様ではなく自分なのかと聞き返すと、女は、お前一人だと答える。
手に何も持たぬまま、表の部屋へ向かった。
廊下を曲がった先で待ち、呼び入れられてから敷居を越える。利政は奥の畳に座り、傍らに置いた紙からお梅へ目を移した。
女が下がって、戸が閉まる。
帰蝶も槙もいない部屋で膝をつくと、お梅は、いつもより畳の目が細かく見える気がした。何か間違えたのなら先に詫びたい。しかし心当たりが出てこないので、頭を下げたまま待つほかなかった。
「尾張へ供をする支度は進んでおるか」
「はい。槙様に、お教えいただいております」
「字も、覚えたそうだな」
胸の奥が浮き立ちかける。誰から聞いたのだろう。帰蝶が話してくれたのかと思うと嬉しくなりかけ、それを顔へ出してよいものか分からず、はい、とだけ答える。
「まだ、難しい文は読めませぬ。書くのも、手本を見ながらのものが多うございます」
「見聞きしたことを、覚えておくことはできよう」
思わず顔を上げたが、利政は褒めているのでも、字の出来を確かめたいのでもないらしい。次に何を申し付けられるのか聞こうと、膝の上で手を揃え直す。
「向こうへ参った後も、お前は斎藤家に仕える者だ。そのことを忘れるな」
「はい」
「織田家で見聞きしたことを、わしに知らせよ」
文を運ぶ用だろうか。それにしては利政は紙を取らず、お梅の顔から目を離さない。使いに託す品を渡されることもなく、部屋は静かなまま。
「帰蝶の文とは別に、だ」
お梅は、返事をする前に息を吸った。
何を見て、何を書けばよいのか。姫が話したことをもう一度申し上げればよいのなら、ここへ一人で呼ばれるはずはない。
「信長や、織田家の内の様子を知りたい。お前には、そばに仕える者として、見えるものがあろう」
「姫様にも、お伺いして――」
「帰蝶には申すな」
お梅は開きかけた口を閉じた。強い声ではないのに、その先を続けることができない。
「お前に命じておる。向こうで暮らしていても、こちらへ知らせる務めがある。心に留めよ」
膝の上で小袖を握りかけ、指を伸ばす。
姫に内緒で何かをしたことなら、今までにもある。疲れて眠ったところへ槙と湯の支度をした時も、母からの包みを驚かせようと隠しておいた時も。けれど今命じられていることを、あとで笑いながら話せるとは思えなかった。
「どのように、お知らせすればよろしゅうございますか」
尋ねるべきことは、ほかにもあるはずなのに、そこまでしか口にできない。利政は、その手立ては追って申し付けると答え、お梅へ、今は他の者にも話さぬよう重ねて命じる。
槙にも言えないのか。
名前を出しかけた口を閉じる。誰に話してよいか尋ねれば、話したがっているのだと分かってしまう。帰蝶のそばで働くため、何でも確かめようと覚えてきたことが、この部屋では役に立たなかった。
「帰蝶を向こうへやる。こちらに何も分からぬままでよいはずはない」
利政は、今度は少し間を置いてから続けた。
「よいか」
お梅は両手を畳へつき、頭を下げる。帰蝶を案じておいでなのだと思えば、頷けるかもしれない。けれど、そのためだと思うだけでは、姫に黙っていなければならぬところが、どうしても残る。
「……承知いたしました」
返事をしてしまうと、顔を上げるのが難しかった。
利政はよいと答え、下がるように言う。お梅は立つ順を間違えぬよう手を引き、戸口まで退いてから、もう一度頭を下げた。
*
廊下へ戻ると、人の声が聞こえてきた。
台所の方で誰かが笑い、運ばれる盆の上では器が小さく鳴っている。通り過ぎる女に道を譲ったが、さっき命じられたことが顔に出てはいないかと、お梅はうまく目を合わせられない。
どこにも隠す紙はなく、懐を押さえる必要もない。ただ覚えて帰るだけなのに、何かを落とすようで、考えたくない言葉ほど頭の中で繰り返してしまう。
姫の部屋まで戻っても、すぐには入れない。帰蝶が槙へ筆のことを尋ねる声を、戸口の脇で聞いた。次の文のために墨を用意していたらしく、槙の返事に、お梅の名が混じった。
「お梅も、戻りましたら」
その声を聞き、自分がまだ戻ったと告げていないことに気づく。
お梅が入口から声を掛けると、帰蝶はすぐにこちらを向いた。
「お帰り。寒かったでしょう」
さっきまで、いろいろな返事を考えていた。
何をしてきたか尋ねられたら、どこまで言うか。お館様から何か預かったのかと聞かれれば、何もと答えるか。けれど帰蝶は、そのどれも尋ねず、手元の紙を脇へよけて、お梅の座る場所を作ってくれる。
用意された場所へ座るうち、槙が道具を取りに隣へ下がり、帰蝶は机の端に伏せてあった小さな紙を出した。
「お母さんへの挨拶、今度はお梅が読んでくれる?」
母のところへ行った時、帰蝶が添えてくれた文を、お梅は覚えている。
今度も自分の文に添えてくれるのだろう。受け取って広げると、母の仕事を気遣う言葉と、直してもらった衣への礼が見えた。
その下には、お梅が毎日助けてくれる、という意味の一行がある。
読み直している間に、帰蝶が身を寄せた。
「そこ、読める? 少し、続けて書いてしまった」
「読めます」
いつもより早く答えたお梅に、帰蝶はほっとしたように笑い、母も喜んでくれるだろうかと聞く。
喜ぶに決まっている。
母はきっと何度も読み、自分の娘が役に立っているところを、お梅に聞かせてくれる。以前なら照れくさくて、もうよいと言いそうになったその話を、今は最後まで聞きたい気がした。
「喜びます。きっと」
「よかった」
帰蝶が手を伸ばしてきたので、紙を返した。
指が姫の手へ触れると、そのまま話してしまいそうになる。帰蝶は何も気にせず、紙を揃えていた。
お館様から、と口を開きかける。
利政の、帰蝶には申すなという声が、続きを押しとどめた。
「お梅?」
呼ばれた名へ答えようとしても、声が喉に引っかかる。帰蝶は顔を近づけるのをやめ、お梅が話し出すのを少し離れて待ってくれる。
「お母さんに、会いたくなった?」
母を思い出していると思われたのだと、そこでようやく気づいた。
お梅は頷き、それから首を振りかけてやめる。会いたいという気持ちは本当にある。けれど、その一つで今の顔を説明してもらってよいのか、考えているうちに、帰蝶は槙の戻る方を見た。
「今度のお使いの時、少しお話しする時間をもらえるか、聞いてみよう」
「いえ、そんな、お手を煩わせるほどでは」
「お梅がお母さんに会えたら、私も嬉しいから。近くにいるのだもの」
お梅は膝へ目を落とした。
できるか分からないと帰蝶は添え、それ以上、答えを急がせない。戻った槙に、母のところへ行く用向きがあるか尋ね始めたので、お梅は小さく礼を言い、その声が届いたことだけを願った。
墨はもう、使えるようになっていた。
帰蝶が紙を寄せ、お梅のために、筆を置く場所を一つ空ける。お梅はそこへ手を伸ばしたが、すぐには筆を執らず、袖が紙に掛からぬよう、いつもより丁寧に引き寄せた。
「今日は、何から書こうか」
帰蝶に尋ねられ、お梅は母の顔を思い浮かべた。
元気でいるかどうかは忘れずに。その声を胸の内で聞き、白い紙の端へ指を置く。
「寒くなりましたので、お体を、と」
「うん。そこからにしよう」
隣で帰蝶が書き始め、お梅も筆を執った。行を追う速さは違い、姫の筆が先に止まるたび、こちらへ目を向けずに待ってくれる。お梅は続きを書こうと、紙の端を押さえ直した。




