二十七話 紗季という名
清十郎の座が、いつもより遠い。
紗季は膝の上で袖を重ね、向かいの畳までの板目を見つめている。昨日までは、庭に立つ彼と廊下から話していた。それより近くにいるはずなのに、二人の間に何もないと、どこへ目を置けばよいのかさえ分からなくなる。
稽古場の脇にある小さな控えの間は、庭側と奥に畳を置き、その間を板敷きにしてある。庭へ向く戸は開けたまま、廊下側は閉じてあった。槙は渡りの先、柱の外へ出れば姿の見えるところに控え、作兵衛はその向こうで人の出入りを見てくれている。ここまで来る途中にも誰ともすれ違わず、二人の間を満たす静けさに、時折、軒を渡る葉擦れが混じる。
「お寒くはございませんか」
清十郎に尋ねられ、紗季は頷きかけて、首を振った。
「大丈夫です。今日は、重ねてきましたから」
おかしな返事をした気がして彼を見ても、清十郎は笑わず、膝の脇へ手を置いて待っている。いつもなら、ここで一言、返してくれるのに。昨日のうちに何を話すか分かってしまったのだろうか。紗季が呼んだと聞いただけで、こんな顔をしているのだろうか。
確かめる言葉を探すうちに、また別の話を始めそうになる。
そこで紗季は、袖の中から両手を出した。
「昨日、明日も話したくなると申し上げました」
「はい」
「その続きです」
清十郎は姿勢を変えず、紗季へ目を向けている。
うまく言わなくてもよいと槙に言われたのに、口の中には、よそ行きの言葉ばかり浮かんでくる。どれを選んでも自分の気持ちから少しずれるようで、紗季は一度、唇を閉じた。
「私、清十郎様が好きです」
言えたと思った後で、声が小さすぎたのではないかと心配になる。
しかし聞き返されはしなかった。清十郎の指が膝の脇でわずかに動き、紗季はその手から顔へ視線を戻す。
「お守りしていただけて嬉しい、ということだけではありません。今日お会いできるか気になったり、ほかの人とお話ししている時も、何を話しているのか知りたくなったりします」
自分だけ、こんなことまで口にするのは恥ずかしい。黙って待つ彼をずるいと思いかけたが、ここで止めれば、言わなかったところを察してもらうほかなくなる。
「一緒に尾張へ来てほしいとお願いしたのも、安心できるからだけではないのです。……離れたくなかったから」
清十郎が伏せた顔からは、考えているのか、困っているのか読み取れない。紗季は返事を急かさぬように手元を見たが、視界の端で彼が動くたび、そちらへ気持ちが引かれる。
「私も、お慕いしております」
いつの間にか、清十郎の目がこちらを向いている。いつもの礼に続く言葉とは違い、言い終えても、わずかに開いた唇をすぐには結ばない。
「ただ、私がそれを申し上げてよいとは、思えませんでした」
「私に、言わせるつもりでしたか」
責めるように聞こえたかもしれない。
清十郎は小さく首を振り、紗季も、そんなつもりで尋ねたのではないと言い直しかける。けれど彼が先に口を開いたので、その声を聞く方へ身を寄せた。
「仰せになるまで待っていたのなら、まだよかったのでしょう。お目にかかれるだけでよいと、自分には言い聞かせておりました」
「それで、よかったのですか」
「よくは、ございませぬ」
お互い同じなのだと昨日も言ってくれたのに、今日の返事を聞いて、ようやく息がつけた。これほど待ち望んでいたのかと、今さら自分に驚く。袖で目を押さえる代わりに膝を少し進め、清十郎の手へ自分の指を重ねる。
紗季が触れた分だけ、彼の手が向きを変え、指を置くところを空けてくれる。
「ここへ、来ていただけますか」
空いた手で隣を示すと、清十郎が庭の方へ一度目を向けた。
紗季もつられてそちらを見たが、渡りにいる槙は柱の陰で、こちらを覗き込んではいない。彼が座を移す間、手が離れるのが惜しく、それを自分から引き戻すこともできずに、膝の上へ戻した。
並んでしまうと、今度は近すぎる。
清十郎が話しかける前に、その顔がこちらへ向くのが分かる。紗季は横を向いたまま返事を探し、まだ何も尋ねられていないことに気づいて、笑ってしまった。
「何を、笑われました」
「分からないです。嬉しいのに、困ってしまって」
清十郎の顔にも、ようやく笑みが浮かぶ。
その顔を見られればよいと思っていたはずなのに、紗季はもっと近くへ行きたくなり、彼の袖をつかんだ。
清十郎が動くのを待ち、自分から頷いて迎えた口づけは、ごく短い。すぐに下を向いてしまい、何か言おうとしても、さっきまで話せていた言葉が一つも出てこない。
「……お嫌でしたか」
「違います」
否定してから彼の袖をつかみ直し、肩へ額を寄せれば、顔を見ずに済む。清十郎は身じろぎせず、紗季が落ち着くまで待ってくれた。
今日ここで話したいことは、まだ終わっていない。幸せなところだけ彼に渡してもよいのかと考えながら、少しずつ顔を起こした。
「聞いていただきたいことがあります」
清十郎の肩へ寄り添ったまま、紗季は声を落とした。
「私が、どこから来たのか。誰と、どんなふうに暮らしていたのか」
彼は頷き、紗季の声を待つ。
いま触れている袖が離れていかないことを確かめてから、紗季は、一番信じてもらえそうにないところを口にした。
「私は、この時代より、何百年も先から来ました」
*
庭の枝が、軒に触れて小さく鳴る。
清十郎は紗季を見たまま、しばらく何も言わなかった。聞き取れなかったのではなく、その言葉をどこへ置けばよいか考えているように見える。
「先、と仰せになるのは」
「まだ、来ていない年月のことです。清十郎様も、父上も、お生まれになってから、ずっと後の」
これでは同じことを繰り返しているだけではないか。自分で言いながら困ってしまうが、何百年もの隔たりを見せて渡すことはできない。
「私のいたところでは、今の時代のことを本で読めます。昔あったこととして、教わるんです。私はそれを読んでいました。父上のお名前も、織田信長様のお名前も、ここへ来る前から知っていました」
清十郎の視線が、一度、庭へ流れた。
そこに答えを探したのかは分からない。ただ、戻ってきた目には、笑って話を流してしまうような色はなく、紗季は、続きを待ってもらえていることにすがって言葉を継ぐ。
「私が暮らしていた家は、こんなお屋敷ではありません。お母さんと二人で、朝、同じ台所へ行って、帰ったらまたそこへ行くような、普通の家です」
「御父君は」
「私が五つの時に、亡くなりました」
事故の話をしかけ、車という言葉のところで止まった。
清十郎が分からぬまま頷いてくれるのが嫌で、馬に引かせずに走る乗り物があり、父はそれに関わる事故で死んだのだと説明する。どうして走るのかと問われれば、うまく答えられない。紗季自身、仕組みを全部知って乗っていたわけではなかった。
「乗っているのに、分からぬこともあるのですね」
「あります。たくさん」
そう答えると、清十郎は考え込みながらも、わずかに頷いた。
紗季の方も、何でも説明できる人のふりをしなくてよいのだと思えば、次の言葉を探しやすくなる。
毎日通っていた学校の話なら、少しは伝わるだろうか。そこには同じくらいの年の子供が集まり、男も女も一緒に字や数、昔のことなどを教わる。紗季には好きな授業も苦手な授業もあり、帰る前には薙刀を習っていた。夕方、別に通っていたのが、今も続けている剣術の道場である。
「母は、初めは嫌がったんです。危ないって。私が何度も頼むから、仕方なく」
「御案じになったのでしょう」
「はい。でも、休みたいと言えば、今度は怒るの。自分でやりたいと言ったでしょうって」
清十郎が少し笑ったので、紗季も笑う。
母の言うことは、その日によって違うようで、きちんと聞けば違ってはいなかった。そんなことまで説明したくなり、学校の支度を後回しにして怒られた夜や、出かける間際に忘れ物を探した朝の話へ移っていく。
いつも母を待たせていた。
けれど、髪を直す母を玄関で待つ時もあり、まだなの、と言うと、先に靴を履いていなさいと返される。紗季がそれを真似ると、清十郎は、なるほど、と真面目に頷くので、かえっておかしかった。
「私の友達も、よく笑うんです。美羽と、千尋」
名前を口にするのは久しぶりで、二人が返事をしそうな気がした。
清十郎が聞き返したのは、名の読み方だけ。紗季はゆっくりもう一度呼び、二人のことも話し始めた。
美羽は、誰と誰が仲よくしているという話を、すぐに見つけてくる。
千尋は知らないことを知らないと言い、紗季が熱心に話しても、関心がなければ相づちさえ短い。そのくせ本を見つけると取っておいてくれるから、本当は聞いていたでしょうと、つい続きを話してしまう。
「お二人には、今日のお話もなさったでしょうか」
紗季は返事の意味を考え、清十郎の顔を見た。
今日の、好きだという話のことらしい。彼の方も尋ねてから困ったように口を閉じたので、紗季は笑いをこらえきれなくなった。
「たぶん。聞いてもらいたいです。でも、美羽には、ものすごくからかわれそう」
どんな人なの、と聞かれるだろう。
言い争った話をすれば、美羽は紗季の代わりに怒り、千尋はその後のことまで聞いてからでなければ何も言わない気がする。顔を思い浮かべるだけで、三人で話す時の速さへ、気持ちが戻っていく。
しかし紗季が話をやめれば、その二人も黙ってしまう。
ここにいるのは清十郎で、美羽にも千尋にも、今日のことは伝わらない。
「二人と、遠足に行っていました。私が、ここへ来た日は」
学校の皆で山へ登ったこと、城を見ようとしていたことを話す。
今の稲葉山を、紗季のいたところでは岐阜と呼ぶ。その名が口から出ると、清十郎は山の方角へ目を向けたが、変わった名の由来を尋ねはしなかった。
「二人は、すぐそばにいたんです。それなのに、私の足の下だけ、真っ黒になって」
伸ばした指が、袖の上で宙を探した。
落ちる時のことを細かく話そうとすると、かえって、どの声が先だったのか分からなくなる。紗季は確かに覚えているところだけを選び、暗いところへ落ち、山の土の上にいたのだと告げる。
「帰り道が、見つからなかった。探しても、私が落ちてきたところには、何もなくて」
今度は清十郎の手が、紗季の手へ重なった。
話を止めるための手ではない。その下へ指を戻し、作兵衛に会ったこと、槙に迎えられたことを短く続けた。
誰も帰蝶ではないという言葉を受け取ってくれず、利政に名を尋ねられ、帰蝶として生きることになった。
そこから先の暮らしは、清十郎も知っている。けれど紗季が一人で何を思い、どんな言葉を口にせずにいたかまでは、彼に見えなかったはず。
「森下紗季、という名前です。母も、二人も、ずっとそう呼んでいました」
牢で告げた時には、帰蝶ではない証のように名乗った。
今日は、その名前で暮らしていた自分を知ってほしくて、同じ名をもう一度、彼に渡す。
「清十郎様のことは、ここで会うまで知りませんでした」
清十郎の指が、紗季の手に触れたまま動かなくなる。
「先の世の本には、私のことは」
「私が読んだ本には、ありません。でも、それで、いなかったことになるのではありません。私が、知らなかっただけです」
言いながら、説明が足りているか彼の表情を探す。自分の読んだ何冊かの本が、世の中にいた人を全部載せているはずはない。ここへ来るまでは、名前を知らない人たちの朝や夕方を、こんなふうに考えたこともなかった。
「私が知っているのは、一部です。どこで何があったとか、誰の名前が残ったとか。今日、清十郎様が何を考えているかは、聞かないと分かりません」
彼が手を離さないことに少し励まされ、紗季は、言いにくかった願いも続ける。
「だから、昨日、同じだと言ってくださって、嬉しかった」
*
長く話したせいか、口の中が乾いている。
紗季は言葉を切り、開けた戸の向こうを眺めた。座った時には庭石へ届いていた日差しが、今は石の縁から外れ、落ち葉の片側だけを明るくしている。
「ごめんなさい。一度に、こんなに」
首を振る清十郎に、無理に分かったふりをしている様子はない。紗季の手を包んだまま、答えかけ、また考える。それを見ているうちに、すぐ信じてほしいと望む方が無理なのだと、ようやく思えてきた。
「何百年も先の世は、私には思い描けませぬ」
清十郎は、確かめるように一つずつ言葉を選ぶ。
「馬もなしに走る車も、男女がともに学ぶ所も。今ここで、分かったと申し上げれば、それこそ偽りになりましょう」
「はい」
「ただ、御母君のお話をなさる時、帰りたいのだということは、分かります」
紗季は彼の手の下で、指を曲げた。
聞いてほしかったはずの言葉なのに、今それを言われると、彼から遠いところへ引き戻されそうになる。
「帰りたいです」
清十郎の手が緩む。
離れる前に、紗季は自分からつなぎ直した。
「でも、清十郎様とお話ししたいのも、本当です。どちらかが嘘なのではないんです」
母を忘れたから、ここで誰かを好きになったわけではない。
反対に、母へ会いたいと願うたび、この人を好きだと言ってはいけないことにもしたくなかった。二つをうまく合わせる言葉がなく、紗季はつないだ手を見る。
「帰れるかどうかも、分かりません。帰るために何をすればいいかも。でも、分からないままでも、清十郎様には、私のことを知っていてほしかった」
言い終えてしまうと、もう先へ足す言葉はなかった。
服やリュックを持ってきて見せれば、何か変わっただろうか。そう考えてから、紗季は、今日ここに持ってこなかった物へ、答えを代わってもらうのをやめた。
「紗季殿」
顔を上げると、清十郎は照れたようにも、慎重なようにも見えた。
「そのように、お呼びしてよろしいか」
頷く紗季の視界に、清十郎の顔がいっぱいになる。名を一度呼ばれただけで、さっきまで一生懸命説明していた家や学校が、遠い場所にあるまま、自分の暮らしへ戻ってくる。
「……はい。人のいない時だけ、そう呼んでください」
「承知いたしました」
続けて呼んでくれるかと待ったが、彼はすぐには繰り返さない。
それが少し残念で、少し助かった。今もう一度呼ばれれば、好きだと言った時より、うまく返事ができない気がする。
「帰るすべがあると知ったら、私にお聞かせください」
清十郎を見たが、その申し出が彼にとって何を意味するのか、紗季にはまだ分からない。
「その時、お引き留めしないと、今は軽くお約束できませぬ。しかし、知らされぬまま、お別れするのは……」
彼の言葉が初めて途切れた。
紗季は、今まで自分の側からしか想像していなかったことに気づく。帰れたら母に会える。その嬉しさの向こうに、ここで自分を待つ人がいる。
「黙って、いなくなろうとはしません」
どうやって落ちてきたかさえ分からないのだから、絶対に消えないとは言えなかった。
約束できるところまでを選んで告げると、清十郎も、分かりました、と頷く。
紗季はつないだ手をほどき、今度は自分から彼の肩へ腕を回した。
清十郎の腕が背を支える。何を見せれば信じてもらえるかと考えていた時には出なかった涙が、肩に頬を寄せたところで、こぼれた。
「ずっと、お母さんに、元気だって言いたかった」
清十郎は答えを急がなかった。
紗季の言葉の続く間、背へ添えた手を動かさずにいてくれる。
「私がいなくなったから、お母さんが自分を悪く思っていたら、嫌なんです。朝、ちゃんと送り出してくれたのに。あの日も、いつもと同じだったのに」
あの日より前のことまで、母が悔やんでいるかもしれない。
それは今の紗季には確かめられず、清十郎にも、御母君はそのようには、と慰めてほしくなかった。
「今日は、そのお話を私が伺いました」
肩の近くで、清十郎の声がする。
「御母君へお届けできるとは申せませぬが、紗季殿がそう願っておられることは、覚えておきます」
紗季は返事の代わりに頷き、しばらく、そのままでいた。
母への言葉を誰かが知っている。それだけで届いたことにはならなくても、自分の中へ閉じ込めていた時とは、もう違っている。
*
ようやく顔を離すと、清十郎の肩に涙の跡があった。
紗季が袖で拭こうとして止められ、そこで二人とも笑う。泣いた後の自分の顔が気になったが、確かめる鏡を持っていないことが、今はありがたい。
「湯を、お願いしてもよいでしょうか」
清十郎が、庭の先へ目を向ける。
紗季は、自分から槙へ合図をすると伝え、戸口へ膝を進めた。柱の向こうでこちらを向いた槙に、湯が欲しいと手振りを添えて頼む。頷いてくれたのを見届け、元の場所へ戻りかけたところで、清十郎の隣ではなく、少し前へ座り直した。
そのまま肩へ戻りたくなる。
けれど、もう一つ、自分の言葉で頼みたいことがあった。
「清十郎」
呼び捨てにすると、彼の背が伸びた。
紗季も袖を整え、母に教わったとおり、手を膝の上へ揃える。
「そなたを、尾張でも、わらわの護衛に任じます。よろしいか」
声まで少し変わってしまった。
今の自分が何をしているか分かるので、笑いそうになる。それでも清十郎は笑わず、両手を畳へつき、深く頭を下げた。
「御身をお守りするため、この命を尽くします」
紗季は彼が顔を上げるまで待った。
父が同行を認めてくれたこととは別に、自分が誰へ、何を託したかったかを、ようやく伝えられた気がする。
「……私、できれば、長く守っていただきたいです」
清十郎の目が、少しだけ和らいだ。
「心得ました」
いつもの声で返され、紗季はとうとう笑ってしまった。
その笑いを隠すように近づくと、清十郎も腕を伸ばし、二人はもう一度、互いを抱きしめる。
庭に、細い枝を踏む音がした。
「姫様、お湯を――」
紗季が振り向いた先に、お梅が立っていた。
台所へ続く渡りから庭沿いの道を回り、盆を運んできたらしい。片足を前へ出したまま止まり、目だけを素早く下へ向ける。
清十郎の腕が離れ、紗季も座り直そうとする。ところが袖が彼の手に掛かっていて、一度では離れられない。
「お梅」
「何も見ておりません」
返事が早い。
紗季が何も言わずにいると、お梅は盆の上の器を確かめ、やけに丁寧な足取りで板敷きへ上がってきた。
「槙様から、お持ちするようにと。お邪魔でございましたか」
「お湯をお願いしたのは、私です」
「では、よろしゅうございました」
何がよかったのかと聞き返す間もなく、お梅が膝をつき、紗季の前へ器を置いた。とうとうこぼれた笑みに気づかないふりで器を受け取り、その中を覗き込む。
「熱うございますから、お気をつけて」
お梅の声はいつもどおり優しい。
そのせいで余計に顔を見られず、紗季は湯の表面へ息を吹く。隣でも器を受け取る気配がして、自分のことをあれほど話したのに、今は湯加減のことさえ言い出せない。
飲み終えて立つ時、お梅が紗季の袖を整えてくれた。
何か付いているのかと見れば、どこも汚れてはいない。
「少し、お乱れでしたので」
「……ありがとう」
板敷きへ先に下りた清十郎が、戻る道を空けて待っている。
紗季はその横を通る前に立ち止まり、顔を向けた。
「また、明日」
短く頭を下げた清十郎から、はい、と返る。昨日も今日も、明日のことばかり話している。それでも今は、その約束を口にできるのが嬉しい。
渡りでは槙が待っていて、お梅と並んで戻った紗季の衣へ手を伸ばしてくれた。礼を言い、肩へ掛けた衣の端を直してもらう。何を話したかとは尋ねられず、いつもより念入りに襟を合わせられた。
帰りの廊下で、お梅がそっと顔を寄せてくる。
「明日は、何をお話しなさるのですか」
紗季は少し考え、まだ決めていないと答えた。
お梅が笑う。今度は自分も笑って、そのまま並んで歩いた。




