二十六話 冬支度
重ねた衣の下から、紗季の足先だけが出ていた。
お梅が笑いをこらえながら裾を持ち上げるので、こちらまでおかしくなってくる。立ってみるように言われたのは自分なのに、いざ立つと、二人が広げた袖の間にすっぽり収まってしまう。
「少し、重いね」
「冬には、そのくらいでちょうどよろしゅうございます」
背後から槙が襟を整えた。
十月に入り、晴れた日でも、庭を横切る風に冷たさが混じる。昨日の朝は顔を洗う水へ手を入れてから、思わず引っ込めた。その時には冬の衣が欲しかったはずなのに、昼の日を受けて着せてもらうと、もう肩のあたりが暑い。
紗季は腕を前へ出し、膝を曲げてみた。
お梅が慌てて袖を支える。
「何をなさいます」
「座れるかと思って」
「お座りにはなれます」
「うん。そうなんだけど」
そのまま腰を下ろすと、裾が足の裏へ入りかけた。
お梅の言うとおり、座れはする。ただ、袖も裾も自分の動く先へついてくるので、夏と同じつもりで立ち歩けば、どこかへ引っかけそうである。
槙は脱がせる前にもう一度、肩の落ちる位置を見た。
衣を直す女は入口寄りに座り、膝へ広げた別の小袖の縫い目を確かめている。紗季が袖口をつまむと、その女が顔を上げた。
「そこが、きつうございますか」
「いいえ。手を洗う時に、濡らさないようにしなきゃと思って」
女は笑って、作業の手を止めた。
「ならば、こちらへ一度、手をお引きくださいませ。そうして、空いた方の手でお持ちになれば」
言われたとおりにしてみる。
袖を濡らさず手を洗うだけでも、やり方がある。教われば何でもないことなのに、紗季はつい、着る物の方を変えればよいと考えてしまうのだった。
脱いだ衣は、お梅が両腕で受け取った。
彼女の袖口には、朝から気になっていた細いほころびがある。紗季がそれへ目を留めると、お梅は袖を引き、畳む方へ気持ちを戻したように見えた。
「お梅のは、いつ直すの?」
「こちらが済んでから。大きなものではございませんから」
「でも、引っかかったら広がるよ」
伸ばしかけた紗季の手を見て、お梅が身をよじる。
「今、引かないでください」
「引かないってば」
槙が間へ手を差し入れ、ほつれた糸の先を確かめた。
今日のうちに直そうと決まり、お梅は衣を抱え直して礼を言う。その顔を見て、紗季は、尾張へ持っていく自分の物ばかり数えていたことに気づいた。
「お梅も、冬の物は足りてる?」
「ございます。母も、用意してくれておりますので」
「尾張に行く時の分も?」
返事の代わりに、お梅が槙を見た。
槙は紗季の脱いだ衣を整えてから、二人へ向き直る。
「まずは、この冬を越すものを。お発ちの支度は、それと分けて考えましょう」
まだ使う物を、先にしまっては困る。
そう言われればもっともで、紗季は頷いた。春のために何かを決めようとするたび、そこへ着くまでに、今日や明日が幾つもあることを忘れそうになる。
*
昼過ぎ、女が衣を持って下がると、お梅は自分の小袖を取り替えに出ていった。
槙は残った衣を箱へ戻し、紗季はその脇で、畳み終えた物を渡している。やがて箱の底が見え、奥へ寄せてあった小さな包みを出すところで、槙の手が止まった。
「こちらは、どうなさいますか」
紗季は差し出された包みを受け取った。
この時代へ着てきた服である。洗って乾かしてもらった後、形を崩さぬようにと、ほかの衣とは分けてしまってある。
布を解くと、紺色が現れた。
遠足の日のジャージである。肩のあたりを持ち上げれば、折り目のついた袖がするりと垂れる。さっきの衣の後では、手にしているのを忘れそうなほど軽かった。
紗季は内側へ指を入れ、襟の下を返した。
白い布に、黒い字で名字が書いてある。入学の支度をした時、母が付けてくれたものだ。縫い終えた針をどこへ置いたか探しながら、これなら取り違えないね、と言っていた。
その時は、取り違えたりしないよ、と答えたと思う。
学校には同じジャージが何十枚もあるのだから、母の方が正しかった。今は、この一枚と取り違える服さえ、どこにも見当たらない。
「……これ、着てみてもいい?」
槙は頷き、庭側の戸を細く閉めた。
紗季は今の小袖を脱ぐのをやめ、その上から片腕だけ通してみる。手首のところで袖が止まり、指先まで動かせる。分かっているはずの形に、目を向けず手を入れられることが嬉しい。
けれど肩までは入らなかった。
下に着ている袖が邪魔をしているだけなのに、紗季はそこで動きを止めた。無理に引けば縫い目を傷める。今は直す布も、同じ糸もないのだと思うと、それ以上引っ張れなくなった。
槙が手伝おうと近づく。
紗季は首を振り、自分で腕を抜いた。
「大丈夫。ちょっと、着てみたくなっただけ」
両手へ戻ったジャージを広げ、もう一度、名字の布を見る。
母の字は、自分の字より角が丸い。今の筆なら書きにくそうな細い線まで、前と変わらず残っている。
「一緒に、持っていきたい」
「かしこまりました」
槙は訳を尋ねず、包みの角を引き寄せた。
その手へ渡しかけた紗季は、やはり自分で畳みたくなり、袖を内側へ折る。小袖の畳み方ばかり習っていたせいか、どこを合わせればよいか、一瞬迷った。
学校では、こんなに丁寧に扱わなかった。
部活の後ならリュックへ丸めて押し込み、母に、汗の付いた物を出すのが遅いと怒られる。それでも次に着る時には洗ってあって、乾いた袖へ腕を通しながら、早く支度をしなければとばかり考えていた。
今ここで、きちんと畳んだからといって、あの時の母が楽になるわけではない。
そう分かっていても、紗季は左右の袖を揃えずにはいられなかった。
「帰蝶様」
槙の声に、顔を上げる。
「こちらの包みは、私がお供の荷へ入れます。ほかの者に、開かせることはございません」
紗季は礼を言い、畳んだ服を渡した。
細かなことを全部自分で守らなければと思っていたのに、一つ任せると、ようやく息をつける。槙が包みを元の場所へ戻す間、紗季は膝に置いた自分の手を見ていた。
今、この手には筆の持ち方も、衣の扱い方も少しずつ身についている。
それを母が見たら、驚くだろうか。
できるようになったことを話す前に、どうしてそこにいるの、と聞かれるに違いない。その問いへ答える言葉を、紗季はまだ、誰にも最後まで話したことがなかった。
*
それから十日余り、晴れ間を選んで衣が干され、直しを終えた物から戻ってきた。
紗季のものだけではない。槙もお梅も手持ちを確かめ、使う順に置き直している。お梅が母の家から持ち帰った包みには、縫い終えたばかりのところがあって、紗季が見せてと頼むと、今度は袖を隠さなかった。
小見の方のもとへも冬の支度を見に行った。
母は真綿を入れた衣へ指を沈め、軽いものがよいと槙に話す。紗季にも触らせてくれたが、柔らかさを確かめるうちに、同じ物を現代の母にも着せてみたくなった。
もっとも、あちらには暖房もある。
台所で袖をまくっている母へこんな衣を持っていけば、洗い物ができないでしょうと笑われそうだ。そう思うと、目の前の母へ何をしてあげればよいかは、また別に考えなければならない。
「戸を、もう少し閉めましょうか」
尋ねると、小見は庭の方を見た。
「あなたの顔が暗くならないくらいに」
紗季は立ち上がり、戸を少し引いた。
座へ戻って確かめてもらい、そこで一緒に湯をいただく。初めて通された時には遠慮して見られなかった母の手元を、今は、器が重そうではないかと眺めている。
帰り際には、春の衣も考えなければと言われた。
何に使うものかを聞き返す必要はない。小見は紗季を引き留めず、色の見本が届いたら一緒に見ようとだけ約した。
廊下へ出ると、お梅がそばへ寄った。
「どのようなお色がお好きですか」
「まだ、分からない」
「お好きなお色ですのに」
お梅の声が、困ったように低くなる。
紗季は振り向き、彼女が自分を心配しているのだと気づいて、笑って首を振った。
「着てみたら、思っていたのと違うこともあるでしょう。だから、見てから」
「それは、ございますね」
お梅は納得した様子で頷いた。
すべてが嘘というわけではない。けれど、似合う色を選ぶ楽しさだけで、春を待つことはできない。紗季が歩調を緩めると、お梅もその速さへ合わせてくれた。
*
十月も半ばを過ぎた日の午後、稽古を終えた紗季は、庭に面した板敷きで清十郎を待っていた。
今日は作兵衛に文使いの報告があり、迎えが少し遅くなると聞いている。槙は柱の内側に座り、紗季は汗の引いた襟元へ、持ってきてもらった衣を重ねた。
戸口の外には、葉を落とし始めた木がある。
葉が減れば、向こうの道を歩く人の姿が、前より長く見える。紗季は清十郎を見つけても、すぐに呼びかけず、二人の話が終わるまで待った。
作兵衛が先にこちらを見て、顎を引く。
槙が立ち上がり、次の使いの時刻を確かめにそちらへ向かったので、清十郎だけが軒下まで来た。二人の姿は庭を隔てた廊下の角に見えているが、話す声までは聞き取れない。
「お待たせいたしました」
「寒くありませんでしたか。ずっと、外に?」
「報告の間は、中におりました」
清十郎はそう答え、紗季の羽織った衣へ目を向けた。
こちらが彼の寒さを気にしているのに、彼も同じことを考えていたらしい。紗季は襟を持ち直し、もう平気です、と先に告げる。
「そうお見えになります」
「着せられているように?」
「暖かそうに、でございます」
紗季は笑って、膝の横へ置いた手を少し引いた。
清十郎はまだ庭側に立っている。いつもなら戻り支度を始めるところだが、今日はそのまま話していたかった。
「清十郎様の冬の支度は?」
「私も、ある物を確かめております」
「持っていくもの、そんなにありませんか」
「大きな箱を幾つも、ということはございません」
彼が笑うと、つられて紗季も笑いかけ、途中でやめた。
自分の荷が多いことを気にしたのではない。いっそ、持っていく物が何もなければ、過去の自分を置いていくかどうかで迷わずに済むのかもしれないと思った。
「でも、残したくない物は、あるでしょう」
清十郎はすぐには答えなかった。
気安く聞きすぎただろうか。彼が何を持ち、誰から何をもらってきたのか、紗季はほとんど知らない。問いを取り消す前に、清十郎が懐へ手を当てた。
「お文は、持ってまいります」
紗季は彼の手を見た。
新九郎や近江の方への文のことかと考え、それならまだ書いてもいないと気づく。清十郎は紗季の顔へ目を戻し、以前いただいたものです、と付け加えた。
稽古をやめたくないと書いた文を、清十郎は捨てずに持っている。
あの日、目の前で読まれた時には、読む間の沈黙が長くて、返してほしくなった。最後には彼へ預けたけれど、それから先も持っているかどうか、聞いたことはない。
「まだ、あったのですか」
「お預かりしてよいと、仰せでしたので」
「捨ててもいいのに」
口にしてから、違うと思った。
捨ててほしくて書いたのではない。今ここで、どちらでもよいという顔をする方が、相手にずるい。
「……ごめんなさい。今のは、嘘」
清十郎が紗季を見たまま、手を下ろす。
「持っていてくださって、嬉しいです」
今度は彼の方が、少し目を伏せた。
紗季はその顔をもっと見たくなり、かといって、わざと覗き込むこともできずに、膝へ置いた指を揃える。
「私には、捨てられませぬ」
低い声だった。
礼として言ったのか、主からの物だからなのか。いつもの紗季なら、どちらかを考え、嬉しくなりすぎぬようにしていたかもしれない。けれど清十郎は、いつものように笑って終わらせず、こちらの返事を待っている。
「何度も、読んでしまいます」
「あんな、怒ってばかりの文を?」
「怒っておいでなのは、存じておりました。それでも、明日も話そうと、書いてくださいました」
そんな言葉もあった。
伝えたいことを順に書き、最後に明日のことを足した覚えがある。自分が忘れかけていた一行を、彼は覚えてくれていたのだ。
紗季は、清十郎が懐から文を出すのを待たなかった。
今さら読み返せば、字の拙さや言葉の足りなさが気になって、また別のことを言ってしまう。
「明日も、って思います。今も」
清十郎の顔が上がった。
「今日お話しできたら、明日も何かお話ししたくなるんです。そうしたら、話すことを探してしまって」
庭の向こうで、槙が作兵衛へ一礼するのが見えた。
帰らなければならない。そう思ったのに、紗季は立たず、清十郎の返事を待つ。
「私も、同じでございます」
言い終えた清十郎は、こちらから目をそらさなかった。
その言葉の後には、護衛だからとも、お役目だからとも続かない。紗季が何も言えずにいる間、彼はただそこに立ち、戻ってくる槙の足音を聞いていた。
*
その夜、紗季はリュックを膝へ載せた。
槙に頼んで出してもらった包みの服も、脇に置いてある。お梅は今、台所で明朝のことを聞いていて、戻ったら寝支度を手伝ってくれるはずだった。
全部を広げるつもりではない。
紗季はファスナーへ触れ、閉じたまま手を離した。母に出したつもりで送れなかった言葉も、友達の顔も、機械の中だけにあるのではない。取り出して確かめなくても、今日のように不意に近くなる。
清十郎には、もう本当の名を告げてある。
帰蝶ではないのに、その名で生きなければならないことを知りながら、どこにいた誰なのかまでは尋ねずにいてくれた。その遠慮へ甘えたまま、そばにいてほしいとばかり願ってよいのだろうか。
好きだと言って、もし同じ言葉が返ってきたら。
嬉しいはずの想像の途中へ、帰る場所があるならどうするのだという問いが浮かんだ。紗季自身にも答えが出ていないことを、彼の分まで決めてしまうわけにはいかない。
どちらへ行くかを、今すぐ選ぶ話ではなかった。
何も知らないまま、自分だけを見ていてほしいとは言いたくない。母のことを、友達のことを、帰れなくなった日のことを、彼に聞いてもらいたかった。
紗季はリュックを脇へ置き、槙を呼んだ。
隣の間から来た槙は、包みとリュックを見たが、しまうための手を伸ばさず、紗季の前へ座る。
「清十郎様と、お話ししたいのです」
「明日の稽古の折に?」
「稽古のことでは、なくて」
槙の目へ、心配が浮かんだ。
その顔を見ると、言い出した勇気が少ししぼむ。何でもないと言ってしまえば、槙はそれ以上聞かずにいてくれるかもしれない。しかし紗季は、膝の上で手を組むのをやめた。
「ほかの人には、聞かせられない話です。帰蝶ではない、私のことを」
槙は黙っている。
利政に話さなければならないと言われるだろうか。考えを変えるなら今のうちだとでもいうように間が空いたが、やがて槙は、すでに御名を存じておりますね、と静かに確かめた。
紗季が頷くと、槙は庭側の戸へ目を向けた。
「何をお話しになるのか、私にも?」
自分を疑っているのではないと、分かる。
それでも、槙にまで話すことはできない。清十郎に話せばほかの者にも同じように、と考えると、どこから口を開けばよいか分からなくなる。
「……今は、言えません」
槙の手が膝へ戻った。
よくしてもらっているのに、その人を外へ置く頼みをしている。紗季は俯きかけ、やめた。曖昧に微笑んで済ませては、槙の顔を見られなくなる。
「槙が心配してくれるのは、分かっています。でも、まず、私から話したいのです」
槙は長い間、紗季を見つめ、紗季も目を伏せずに待った。隣の間から入り込む風が細くなったころ、槙は小さく息をついて、承知しました、と答えた。
「作兵衛殿と、場所を考えましょう。人の通らぬ所で、お声が漏れぬように。私どもは離れて控えます」
許されたことが、急に怖くなる。
ここで槙に、やはり明日でなくても、と頼めば、もう少し先へ延ばせる。紗季はその言葉を飲み込み、お願いします、と頭を下げた。
「お文に、いたしますか」
槙が、机へ目を向けた。
顔を上げた紗季は白い紙を見つめ、それから首を振る。
「お話ししたいとだけ、伝えていただけますか。中身は、会ってから」
相手の返事を待たず、最後まで自分の言葉で埋めることはできなかった。
何を尋ねられるか、どこで信じられないと言われるかも分からない。それでも、清十郎が聞き返す声を、想像の中だけで答えにしたくないと思った。
槙は立ち、戸口で一度振り返った。
「帰蝶様。急いで、言葉をお決めにならずとも」
「はい」
紗季は、膝へ置いた手の力を抜く。
何から話すかまで全部用意して、間違えずに言うための夜ではない。紗季と呼んでほしいという願いも、隠さず彼に話せるだろうか。
お梅が戻る前に、服は包みへ、リュックはいつもの場所へ戻してもらった。
紗季は自分で灯りのそばを片づけ、横になってからも、少しの間、目を開けている。廊下に槙の戻る足音がして、返事をもらえたと分かるまでは眠れそうになかった。
明日の稽古の後、話せるという。
槙がそう伝えてくれると、紗季は布を肩まで引き上げた。寒さのためだけではなく、落ち着かない両手をしまっておきたかった。
口を開いてすぐ、好きだと言えるとは思わない。
それでも、今日の続きから話そう。清十郎が同じだと答えてくれた声を思い出し、紗季はようやく目を閉じた。




