二十五話 味覚の秋
九月の雨は、やんでからの方が冷たく感じられた。
庭へ出した手を戻すと、袖口に触れた指までひやりとする。紗季は戸を半分ほど引き寄せ、残した明るさの中へ机を少し動かした。
おきぬへの挨拶は、お梅の文に添えて、とうに届け終えている。
今日はその時とは違い、何を書けばよいか決まっているのに、筆を執るまでが長かった。兄と義姉を食事へ誘う。それだけなら、これまでにも書いたことがある。
ただし、今度は父も同じ席にいる。
「父上には、母上からお話しいただいたのよね」
「ええ。御用が変わらねば、おいでになると」
槙は答えながら、机の下へ潜った紙の端を直した。
小見の方のもとへ栗が届き、皆で食べようという話になったのは昨日のこと。その折、紗季が父と兄にも来てほしいと口にすると、母は思いのほかあっさり頷いた。
ところが、いざ兄へ知らせようとすると、父の名をどこへ書くかで迷ってしまう。
父上がお待ちです、と書くのは違う。まだ父がそう言ったわけではないし、それでは兄を呼びつけるように響くのではないだろうか。
「私が、一緒に食べたいって書いてもいい?」
「そのためのお誘いでございましょう」
槙に不思議そうな顔をされ、紗季は笑った。
自分で難しくしていたらしい。母の部屋で食事をすること、父も来る予定であることを記し、最後に、兄と義姉の話を聞きたいと添える。
日頃、父と兄は用向きがあれば顔を合わせている。
けれど、紗季が二人を同じ部屋で見る機会は少なかった。父の話をする兄と、兄の名を口にする父を、それぞれ知っているだけでは、まだ知らない家族の顔がある気がする。
紙を乾かしていると、お梅が膝を寄せた。
「お返事が参りましたら、お膳の数をお伝えします。ちせ様も、おいででしょうか」
「義姉上がお連れになると思うけれど、そこも聞いてもらおう」
お梅は指を折り、それから、控える者の食事も忘れぬようにと小声で繰り返す。
紗季は客の顔ばかり思い浮かべていた。お梅には、その人たちが座るまでに誰がどこを通り、何を運ぶかも見えているのだろう。
作兵衛へ託した文には、翌日、兄夫婦から承知したとの返事が届いた。
清十郎が持ち帰った包みを受け取る時、紗季は来訪の時刻と供の人数を確かめ、最後に、兄の様子も尋ねてみた。
「変わりなくおいででした。御自分の分まで栗を召し上がらぬように、と」
「そんなに食べません」
言い返した相手は清十郎なのに、彼は少しも困らず、そうお伝えすればよろしかったかと聞く。
作兵衛が横を向いたので、紗季は自分まで笑ってしまった。
*
食事の日、庭には雨の跡が残っていた。
小見の方の部屋へ通じる廊下を歩くと、軒から落ちた雫が、石のくぼみに丸く溜まっている。紗季はそこへ気を取られたお梅を追い越しそうになり、膳を運ぶ女が角を曲がってきたため、二人で柱の内側へ身を寄せた。
母の部屋は、普段より入口を広く空けてある。
北側の座に小見の方、その右手に紗季の場所を取り、庭に近い方へ兄夫婦が並ぶ。父が来たら上手の座へ案内できるよう、槙は膳を置く前に、人の通る幅を見ていた。
「そこを詰めると、お梅が出られませぬ」
小見の方に言われ、紗季は膝一つ分だけ脇へ移った。
自分の前が整っていればよいのではない。今度は給仕の道まで確かめてから座ると、母がこちらを見て、何も言わずに笑った。
新九郎と近江の方は、ほどなく到着した。
義姉は渋い黄の小袖に、赤茶の衣を重ねている。ちせが外して受け取った上の衣には、道で付いたらしい細かな水の粒が光っていた。
「晴れると思ったのに、途中で少し降られました」
「お寒くありませんか」
「歩いてまいりましたから、今は平気。帰蝶様こそ、そんなに端へ寄られなくても」
近江に手で招かれ、紗季は少しだけ座を戻した。
兄は二人のやり取りを眺めながら膝を折り、妹の前にまだ何も置かれていないのを見て、間に合ったな、と言う。
「兄上の栗は、ちゃんと残してあります」
「それなら、来た甲斐がある」
「栗だけですか」
近江が夫を見ると、新九郎は母の方へ体を向けて挨拶を始めた。
話をそらしたのが誰にでも分かる。小見の方まで笑ったので、紗季は父も早く来ればよいのにと思った。
しかし利政が姿を見せた時には、部屋の様子が少し変わった。
兄が背を伸ばし、義姉の手が膝の上で揃う。紗季もつられて姿勢を正したが、父は敷居を越えると、皆の顔より先に、庭へ開いた戸を見た。
「風が入るぞ」
「半分、閉めてもらいましょう」
小見の方が槙へ頼むと、父はそれ以上言わず、用意された座へ着いた。
戸が動き、庭の明るさが細くなる。代わりに、運ばれてきた汁の湯気が、部屋の中ではっきり見えるようになった。
膳には飯と、里芋の入った汁、焼いた小魚、青菜を煮たものが載っている。
お梅は一つずつ置き終えるまで次を受け取らず、ちせが戸口の外から渡す手を待った。紗季の膳が来るころには茹でた栗の器も運ばれ、割った殻の間から淡い黄色がのぞいていた。
父が箸を取る。
紗季もそれに続いたが、汁をひと口飲んだところで、利政が新九郎へ話しかけた。
「橋の板は、まだ替えておらぬのか」
兄の箸が止まった。
「替える板を選ばせております。昨日見たものでは、薄すぎます」
「荷を止めたままにしておくつもりか」
「軽い荷は、人に持たせて別の道へ回しております。傷んだところへ重いものを通すわけにはまいりませぬ」
館へ荷を運ぶ途中にある、小さな橋の話らしい。
紗季は兄の顔から父へ視線を移した。先ほどまで冗談を言っていた口が、今はどちらも固く見える。
「板が足りぬなら、なぜ先に申さぬ」
「まだ使えるものがあるか、見定めてからと」
「お前が見定める間に、人を待たせておる」
言われた兄が、膝に手を戻した。
謝るのかと思ったが、新九郎は父を見たまま、静かに答える。
「薄い板で済ませれば、渡る者に危ういことをさせます。そのまま通せとは命じられませぬ」
父も、危ない橋を渡れと言いたいのではないはずだった。
けれど今の言い方では、そう聞こえる。紗季は何か挟もうとして、二人が自分の知らないことを話していると気づき、箸を置くにとどめた。
近江の方は夫を急かさず、その前の汁椀を一度見た。
小見の方が器を持ち直す音に、利政の目がそちらへ向く。
「板の相談は、お食事が済んでからでもよろしゅうございましょう。帰蝶が、皆で食べたいと申したのですから」
自分の名が出て、紗季は顔を上げた。
父と兄の両方に見られると、間に挟まりたいわけではなかったのに、逃げ場がない。
「……冷めないうちに、食べていただきたいです」
ほかの言葉が出てこなかった。
あまりに普通の頼みだったためか、兄が先に箸を取り直す。父も椀へ手を伸ばし、しばらく、食べる時の小さな音だけが続いた。
*
栗は、見た目より崩れやすかった。
紗季が殻から取り出そうとすると、身が途中で割れ、小さな欠片が器の縁へ転がる。つまもうとしてもう一度落としたところへ、兄が横から声をかけた。
「殻を先に広げてみろ。身ばかり引けば、また割れる」
「分かっています」
「では、見ぬことにする」
そう言いながら、兄の目はまだこちらにある。
紗季はわざと顔を向けず、ようやく取れた一片を口へ運んだ。甘さは控えめなのに、噛んでいると粉を含んだような舌触りの奥から、栗の匂いが広がってくる。
「うまいか」
父に聞かれ、紗季は急いで飲み込もうとした。
喉へ引っかかりかけたので、先に椀を持つ。新九郎が笑いをこらえる気配を感じ、返事の前に兄を睨んだ。
「おいしいです」
「急がずとも、取らぬ」
利政はそう言い、紗季の器に残った栗を見た。
自分が問いかけたからだとは思っていないらしい。それが少しおかしく、紗季はもう一つを急がずに食べることにした。
近江の方が、小見へ衣の繕い方を尋ねる。
袖の内側だけが早く擦れるという話に母が応じ、槙も呼ばれて布の重なりを確かめた。紗季が横からのぞくと、近江は腕を差し出して見せてくれる。
「こちら。外からは分からないのですけれど」
「書く時に、ここが机へ当たるのでしょうか」
「そうかもしれません。文を長く書いた日は、ちせに姿勢が悪いと叱られます」
戸口に控えるちせが、叱るなどと、と小さく言った。
近江は振り向いて笑い、手を畳へ戻す。その袖口へ兄が目を向けていたので、紗季は、彼が妻のこうした話も聞いているのだと知った。
「兄上は、お文が短いものね」
「お前の問いが多ければ、長くなる」
「お答えいただいて嬉しかったです」
新九郎は、からかわれると思っていたようで、紗季がそのまま礼を続けると、居心地悪そうに栗の器を脇へ寄せた。
近江の方が夫に代わって微笑む。
利政が箸を置き、湯を求めた。
お梅は槙から目配せを受けて立ち、戸口でちせと場所を譲り合う。戻ってきた盆は父の脇へ静かに据えられたが、紗季はそれを見届ける間、兄がもう一度、父へ話しかけようとしているのに気づいた。
「先ほどの橋のことですが」
部屋の空気が、また張った。
小見の方は止めず、膳を引く女たちが通り終えるのを待っている。
「替えの板を、こちらから回していただきたく存じます。長さと枚数は、明朝までに書いてお持ちいたします」
「誰に渡す」
「私が受け取り、現場の者に確かめさせます」
父は湯の器を持ったまま、兄を見た。
紗季はまた叱られるのかと思ったが、利政は別の道でどれほど遅れるかを尋ね、人手についての兄の答えにも耳を傾けている。
先ほどと同じ二人なのに、今度は質問と返答が少しずつ先へ進む。父は板を出すよう申し付けると告げたが、どこに何があるかまで知っているわけではなく、確かめる者を呼ばせる必要があるらしい。
「次からは、足りぬと分かったところで知らせよ。揃ってからでは遅い」
「承知いたしました」
新九郎は頭を下げた。
その顔に、すっかり納得したという明るさはない。それでも、さっき膝へ戻した手は、もう固く握られてはいなかった。
紗季は、二人が同じことを大事にすれば、すぐ分かり合えると思いたかった。
けれど、橋を早く使えるようにすることと、渡る者を危険に遭わせないことは、どちらも必要なのである。何を先に口にするかだけで、聞いている自分にさえ、相手の考えが見えなくなる。
「帰蝶」
父に呼ばれて、紗季は膝を揃えた。
「お前まで難しい顔をするな。栗が残っておるぞ」
食べ終えたと思っていた器の端に、崩れた欠片が少し残っている。
紗季がそれを集めると、新九郎が自分の器を示した。こちらにはまだ、大きなものが一つある。
「食うか」
「兄上の分でしょう」
「お前に食われぬように来たが、もう腹に入らぬ」
近江の方が、そんなはずは、と言いかけてやめた。
紗季は兄の器へ手を伸ばし、代わりに自分の器を見せる。
「では、こちらをどうぞ」
「欠片ばかりではないか」
「取るのは大変だったのよ」
兄が声を立てて笑った。
その向こうで、父も口元を緩めている。紗季は栗を受け取りながら、誰かが次の用を告げに来るまで、もう少しだけこのままでいたかった。
*
利政が先に席を立ち、小見の方も奥で休むことになると、紗季は兄夫婦を庭向きの小部屋へ案内した。
槙は母に付き、お梅とちせが供をする。通り過ぎる時、父の座に残った膳が目に入り、栗の器が空になっているのを見つけた。
父も、食べていたのだ。
自分の手元と兄の顔ばかり見ていて、いつ食べたかは分からない。その小さな見落としが、なぜか惜しかった。
小部屋へ入ると、近江の方は庭を見て、ここは風が静かですね、と言った。
庭木の葉には、まだ雨の粒が残っている。枝が揺れるたびに落ちる雫を見ながら、新九郎は前の部屋より楽な姿勢で座り直した。
「お前には、つまらぬ話だったな」
「橋のこと?」
「せっかく呼んでもらったのに」
紗季は首を振ったが、すぐに、それだけでは伝わらないと思い直す。
「少し、怖かったです。父上がお怒りになったのかと思って」
「あの方は、尋ねる時もああいう言い方をなさる」
「兄上も、怒っているように見えました」
兄が返事をする前に、近江の方がこちらを見た。
笑ってはいない。けれど、言ってはいけないことを言ったという顔でもなかった。
「腹が立たぬわけではない」
新九郎は庭から目を戻した。
「見に行っていたことまで、何もせず待っていたように言われればな。ただ、板が要ると先に伝えることはできた」
父と兄の間に立つなら、何と言えばよいのだろう。
兄の話を聞けば父の言い方が厳しすぎたと思うし、父が何人も待たせることを気にしていたのも分かる。頷いてから口を開きかけると、新九郎が先に言った。
「お前が、父上の言い分を俺に聞かせることはないぞ」
「そんなこと、まだ言っていません」
「言おうとしておった」
近江の方が、今度は少し笑った。
紗季は二人を交互に見て、膝へ置いた手をほどく。兄を慰めるために父を悪く言うのも、父の代わりに兄を説得するのも、したいことではなかった。
「私は、また皆で食べたいだけです」
新九郎の顔から、からかうような色が消えた。
近江が夫へ向き、今度は私たちも何か持ってまいりましょう、と言う。兄はそれに頷いてから、紗季へ、次も呼べば来ると答えた。
それだけで先々まで安心できるはずはない。
それでも紗季は、今日ここで聞けた約束を、勝手に小さなものにしたくなかった。
*
兄夫婦を見送った後、小見の方のもとへ戻ると、母はまだ横にならず、槙に肩へ衣を掛けてもらっていた。
戸口から礼を言おうとした紗季を、手招きで近くへ呼ぶ。
「楽しかった?」
「はい。母上は、お疲れではありませんか」
「少し。でも、一人で食べるより、よくいただきました」
紗季は母の脇へ座った。
近くで見ると、髪に混じる白いものが、窓からの光を受けている。今日の楽しさを話したいのに、母が休む時間を長く奪っている気もして、何から言えばよいか迷う。
「父上も、栗を全部召し上がっていました」
「お好きですもの」
「知らなかった」
小見の方が一瞬、紗季を見つめた。
その目に何が浮かんだのか気づき、紗季は返す言葉を探す。だが母は問い返さず、膝に掛けた衣の端を直しただけだった。
「では、覚えておいて。今度、お文に困ったら、栗のお話でもなさい」
嫁いだ後のことだと分かった。
父へ書く文には、何か立派な報告が要るような気がしていたけれど、栗を食べたという話でもよいのだろうか。思い浮かべてみると、紙を読む父の顔が、いつもほど遠くない。
「母上には、何を書けば?」
「帰蝶が、書きたいことを」
「それが難しいのです」
小見の方は笑い、紗季の袖へ手を置いた。
「では、初めは一つでよいわ。朝、何を見たか。庭に何が咲いたか。私が見られぬものを、少し分けてくださいな」
紗季は母の指の下で袖を動かさず、頷いた。
その願いなら応えられそうな気がする。まだ見ぬ尾張の庭を想像するより先に、今日の部屋の狭くなった明るさと、父の空の器が思い出される。
*
自室へ戻る途中、表へ通じる廊下の角に清十郎がいた。
兄夫婦の供へ渡す荷を運び終え、作兵衛へ戻ったことを告げている。紗季がお梅とともに近づくと、二人は通り道を空けた。
「お疲れさまでございました」
清十郎に言われ、紗季は笑った。
「座って食べていただけです」
「それでも、お客様を迎えられましたから」
帰りの挨拶や膳を置く場所、父と兄の間で言葉を探したことを思い返せば、確かに、ただ食べていた時とは違う疲れがある。清十郎がどこまで知って言ったのかは分からなかったが、紗季は素直に礼を受け取ることにした。
「兄上が、また来てくださるそうです」
「では、次もお迎えせねばなりませぬな」
その次にも、彼がここにいる。
そう考えた途端、紗季は、自分が帰蝶として嫁ぐ日までの時間を、前より細かく数えるようになっていると気づいた。ひと月はまだ長いのに、今日のような午後があと幾つあるかと考えると、急に短くなる。
「清十郎様」
「何でございましょう」
名を呼ぶことには、少し慣れた。
けれど、ここで何を言いたくなったのかは、自分でもまだうまく掴めない。目の前の人が返事をしてくれる間に、聞いておきたいことも、話しておきたいことも、増えていくばかりだった。
「今日は、栗を召し上がりましたか」
清十郎が目を細めた。
「後ほど、台所で分けていただけると聞いております」
「よかった。おいしかったです。少し、取り出すのが難しいけれど」
「身を崩されましたか」
「見ていらしたの?」
「いえ。私も、よく」
返事の途中から、お梅が隣で笑っている。
紗季も笑い、ではまた、と挨拶をする。話したかったことの全部ではなくても、今日のことを一つ、彼に渡せた気がした。
部屋では、机の上に片づけたはずの紙が一枚残っていた。
兄への招きの文を書いた時、言葉を選びかねて使わずにおいた紙である。お梅がしまおうとするのを止め、紗季はその前へ座った。
今すぐ誰かへ送るためではない。
父が栗を好きなこと、母がいつもより食べたこと、兄が次も来ると言ったこと。書いておけば、今日聞いた言葉を、後で別の言葉に変えて覚えずに済むだろう。
紗季は筆を執り、日付の下に、皆で食事をした、と記した。
次の行を考える間、廊下でお梅が槙へ、栗を一つ取っておいてもらったと話している。紗季は戸を閉めず、その声を聞きながら、父の好物を一行書き足した。




