二十四話 名
清十郎にも尾張への供を許す、と利政が告げた時、紗季は隣に座る槙の膝を見ていた。
喜んだ顔を父に見られるのが恥ずかしくて目を伏せたはずなのに、そこにある槙の手まで、ほっとしたように見える。
「作兵衛から聞いた。使いに出した折も、命じたことを違えず戻ったそうだな」
紗季が三人の同行を願ってから、五日が過ぎていた。
今日の表の間には作兵衛と清十郎も呼ばれている。二人は紗季より入口に近く、父の正面を避けて控えており、振り向かなければ清十郎の顔は見えない。
「帰蝶の供に加える。向こうでの役目は、先方との話を整えてから申し付ける」
「ありがたく存じます」
清十郎の声は、普段より低かった。
紗季はその声を聞いてから、ようやく父へ礼を述べる。ひと息に言い終えると、利政がこちらを見た。
「まだ日も決めておらぬ。今日から供を連れて歩くつもりになるな」
「そのようなことは」
「そうか」
言い返す余地を残したまま、父は作兵衛へ向き直る。
「文の使いも、引き続き篠原に覚えさせよ。行く先と用は、そのつどお前が確かめるように」
「承知いたしました」
「刀のことも、奥へ入ることも、これまでの申し付けを変えたわけではない。篠原、分かっておるな」
「心得ております」
今度こそ振り向きたかったが、槙が静かに座り直す気配を受け、紗季は父の前を退くまで待った。
頭を下げて畳から板敷きへ移ると、膝に当たる硬さが変わる。立ち上がり、袖を整えるころには清十郎たちも廊下へ出てきたので、わざわざ呼び止める口実を考えずに済んだ。
「よかったです」
もっと気の利いたことを言うつもりだった。
けれど、清十郎の顔を見れば、何日も用意していた言葉は要らない気がする。彼も同じように一度だけ笑い、すぐに作兵衛へ姿勢を戻した。
「それでは、先に馬屋の方へ参れ。後で行く」
作兵衛の指示に清十郎が応じる。歩き去る背を見送っていると、紗季は、自分の願いが通ったその日にも、彼には別の仕事があるのだと、当たり前のことを少し寂しく思った。
「姫様のお文は、明日お届けさせます」
作兵衛に言われ、紗季は向き直る。
兄への礼状は、清十郎の同行が決まるのを待って、まだ手元に置いてある。判断待ちと書いた箇所へ結果を添えれば、今日のうちに渡せるだろう。
「近江の方にも、見ていただくように書きました。お兄様がお忘れなら、お伝えください」
「では、そのことも篠原に」
紗季は頷いた。
届け先にいる兄を思う間にも、そこへ向かう清十郎の姿が重なる。自分がこの廊下から出られずにいる日、彼の歩く先には、いったいどれほどの景色があるのだろう。
*
八月に入っても、昼の暑さはしばらく残った。
ところが月の半ばを過ぎると、縫い物をする槙が、日陰へ避けていた座を少しずつ庭側へ戻すようになる。紗季も朝の支度を終えた後、開け放した戸をそのままにするか、一度立ち止まって考えるようになっていた。
兄へ文を届けた清十郎は、近江の方へも渡ったことを確かめて帰ってきた。
数日後に届いた義姉からの返事には、三人が供に加わることへの安堵とともに、別れてから何を送ってほしいか考えておくように、とある。
『まだこちらにおいでなのに、もう送りたいものを考えております。新九郎殿には気が早いと言われました』
その一節を読んだ時は笑えたのに、月が進むにつれ、紗季は部屋の物を手に取っては、これは持っていけるだろうか、と考える。
使い慣れた硯にも、槙が戸口へ置く小さな盆にも、ここでの暮らしが染みついているけれど、何でも荷に詰めたところで、兄や義姉の部屋へ続く廊下まで運ぶことはできない。
お梅は、あの翌日に許しを得て母へ文を届けていた。
以来、帰ってくるたびに、母がどこへ紙をしまったかを少しずつ報告してくれる。初めは針箱の横、次は布を包んでおく箱の底。水がかからぬように移したらしい。
「そんなに、何度も出して見るの?」
「私にも、また読んでくれと申します。もう覚えておりますのに」
困ったように言うお梅の声は、明るい。
紗季はその話を聞きながら、一度、おきぬのところを訪ねたいと思った。館へ衣を持ってきた時に会うばかりで、お梅が帰る家を、自分は知らない。
槙に頼むと、すぐに支度を始める代わりに、おきぬの都合を先に聞かれた。
急に姫が訪ねれば仕事を止めさせるし、家を片づけるために眠らずにいるかもしれない。そう言われてみれば、挨拶だけのつもりなのは自分の方だけである。
そこでお梅を通して尋ねると、八月の下旬、受けている仕立てを渡した後の午前なら、と返ってきた。
外出は父にも認められ、作兵衛と清十郎が付く。長居せず昼までに戻る約束をして、紗季はその日を待つことになった。
*
門を出る前に、槙が紗季の頭へ掛けた小袖の端を直した。
顔の左右に布が垂れると、さっきまで見えていた庭が急に狭くなる。横を見ようとして衣までずらしかけ、お梅に小さく押さえられた。
「お顔だけ、少しこちらへ」
「これで歩ける?」
「足元は見えますでしょう」
確かに見える。しかし、見たいところは足元ばかりではないのだ。
門の外で待つ清十郎の声が聞こえたため、紗季は布の隙間からそちらをのぞいた。彼は作兵衛と道の話をしており、今日は荷の往来が多いので、先の曲がり角では立ち止まるかもしれないという。
歩き始めると、お梅がいつもより近くに寄り添った。
行き慣れた道へ紗季を連れていくのが嬉しいらしく、曲がる前から「次を右へ」と教えてくれる。一方、槙は道の話に加わりながらも、紗季の裾が地面を擦らぬか気にしていた。
塀の続く道を抜けると、人の声が近くなる。
軒先から男が半身を出し、向かいの家へ何かを尋ねていた。返事をする女は桶を抱えたまま顎で先を示し、それから紗季たちに気づいて、道の端へ体を寄せる。
お礼を言うには、もう通り過ぎかけていた。
紗季が会釈すると女も頭を下げたが、その顔は布に遮られて見えなくなる。こちらは相手をもっと見たいのに、相手は顔を伏せる。城下を歩くことが、思っていた散歩とは違うと、数歩のうちに分かった。
先の狭いところで、荷を担いだ二人の男が止まった。
長い材木の前と後ろを支えており、どちらかだけが脇へ退けば、端が家の軒に触れそうである。前の男が清十郎を見て慌てた声を出すと、彼は手を上げ、そのまま待つよう告げた。
「こちらを先に通すより、荷を抜いた方が早い」
作兵衛が頷き、紗季たちを少し手前の空いた場所へ寄せる。
清十郎は材木の端と軒を見比べてから、後ろの男へ声をかけた。
「そちらをもう少し高く。急がずに、前と足を合わせよ」
二人の足が動き、材木がゆっくり回った。
紗季は近づく木口を見て、お梅と一緒に半歩下がる。清十郎が手を添えているのは荷の方で、こちらを大げさにかばう仕草はない。
通り抜けた男たちが頭を下げると、彼は道の先を示した。
「止まらず行け。後ろがつかえる」
その声を、紗季は初めて聞いた気がした。
自分へ返事をする時の改まった調子とも、作兵衛の指示を受ける時とも違う。よく通るのに、怒鳴ってはいなかった。
何を見ればよいか分かっている人の声だった、と歩きながら思う。
館では清十郎がこちらを見ているかどうかばかり気にしていたけれど、彼の目は、自分の顔以外のものにも向く。そのことが寂しいどころか、今日はもっと見ていたくなる。
「こちらでございます」
お梅の声に顔を上げると、戸口に立つおきぬが、もうこちらを見つけていた。
*
おきぬの家では、道から入った土間の横に板敷きがあり、その奥へ敷物を整えてあった。
入口に近いところは明るく、壁際には畳んだ布が積まれている。針仕事を広げていた跡らしい四角い空き場所へ、おきぬが慌てて目をやったので、紗季は立ち止まって挨拶をした。
「お仕事の手を止めてしまいましたか」
「いいえ、もう片づけてございます。狭いところで、まことに」
「お梅が帰ってくるところを、見たかったのです」
そう言うと、おきぬは娘へ目を向け、少し笑った。
槙が紗季の被衣を外す間、お梅は家の中へ迷いなく入り、脇へ置かれた盆を持ち上げる。
「お梅、それは後でよいから」
「でも、ここにあると、槙様がお座りになれない」
館で聞くより、返事が速い。
おきぬも言い直さず、ではこちらへ、と盆の置き場を指した。母と娘の間では、どこまで言えば通じるかが決まっているらしい。
紗季は案内されたところへ座り、その斜め後ろに槙が控えた。
作兵衛は戸口の外、清十郎は土間の入口にいる。外を通る人の影が時折床を横切るが、おきぬがこちらを向くと、紗季から見えるのは母娘の顔と、その向こうの布の山だけになった。
「この間の小袖、着やすくなりました。ありがとうございます」
「それは、ようございました。お梅は、窮屈なところばかり案じておりまして」
「だって、姫様が腕をお上げになると」
「聞いたよ。何度も」
お梅が口を閉じ、紗季は思わず笑ってしまう。
袖のことをこれほど細かく母へ話していたとは知らなかった。お梅は自分の手柄にせず、おきぬが直してくれたとだけ伝えていたのである。
母が湯を用意しようとすると、今度は娘が先に立った。
槙にも止められぬうちに奥へ入り、どこに何があるかを尋ねず戻ってくる。その間に、おきぬが紗季へ頭を下げた。
「お供のお許しをいただいたと、娘から聞きました」
「私が、来てほしいと頼んだのです」
おきぬはまだ顔を上げない。
喜んでくれているのか、不安なのか、額の向こうにある気持ちは紗季には分からなかった。気休めを急いで口にしそうになり、膝の上で指を組み直す。
「遠くへ連れていくことになります。すぐ帰せると、お約束はできません」
「承知しております」
顔を上げたおきぬは、奥から戻る娘を見た。
「こちらへ奉公に上がった時も、何日かすれば、泣いて帰るかと思うておりました。それが、帰ってきても、早う戻らねばと申すようになりましてね」
「そんなこと、言わなくても」
お梅は盆を置いてから、母を見た。
紗季なら言い返したくなる話を、彼女はそれ以上止めようとしない。その代わり、おきぬの置いた器の向きを、客へ向くように直している。
「帰ってくるなと申しているのではないよ」
娘へそう言ってから、おきぬは紗季に向き直った。
「お役に立てるよう、お教えくださいませ。あの子が困らせることもございましょうが」
「私の方が、助けてもらっています」
お梅を見れば、嬉しそうにしているくせに、母には見られたくないらしく、盆の端を揃えることに熱心で、その向こう、壁際の箱には折り目のついた小さな紙が載っている。
紗季の視線に気づいたおきぬが、その文を手に取って見せてくれた。お供の許しを得た夜、お梅と並んで書いたものに違いない。
「これ、しまってあったのでは?」
「お越しになると聞いて、出しておきました」
紗季が手を差し出すと、おきぬは少し迷い、それから渡した。
墨はもう乾き切っているのに、折った端を持つ指は慎重である。お梅の字を褒めようとして、紗季はやめた。ここにあるのは、上手に書けたかを見てもらうための紙ではない。
「お梅、また書こうね」
「はい」
「次は、もっと普段のことも」
おきぬが笑う。
「それなら、何を召し上がったかでも。こちらで食べていたものを、忘れてしまわぬように」
「忘れません」
お梅は今度こそ、すぐに答えた。
*
約束の時刻が近づき、槙が帰り支度を始めると、おきぬは送るために土間へ下りた。
紗季も立ち上がったが、入口に目を向けたところで、清十郎が外へ出かけるのを見て足を止める。作兵衛に呼ばれ、道の様子を確かめに行くらしい。
今、お礼を言っておきたかった。
自分たちが座っている間も、彼らは戸口に立ち続けていた。ところが、いつもの呼び名を口にしかけた時、お梅が母へ何かを尋ね、その声と重なりそうになる。
ほんの一息、待った。
清十郎の背が戸の向こうへ隠れる前に、紗季は呼んでいた。
「清十郎様」
彼が振り返る。
呼ばれたと分かったのだから、間違った名ではない。それなのに、紗季はその顔を見た途端、用件よりも先に、自分が何と言ったかを考えてしまった。
「……外で、お待ちくださって。ありがとうございます」
「いえ」
返事は短く、続きがなかった。
戸口の光の中で、清十郎が一度、作兵衛の方を見る。戻ってきた視線が自分へ止まると、紗季はもう、元の呼び名へ言い直すことができない。
「先ほどの道は、今は空いております。ゆっくりお支度ください」
清十郎はそう告げ、外へ出ていった。
何でもない返事のはずが、いつもより言葉を選んでくれたように聞こえる。紗季が戸口を見たままでいると、槙の手が頭へ衣を掛けた。
「おきぬに、ご挨拶を」
忘れていたわけではない、と言い訳するほど、忘れていたように見えるだろう。
紗季は顔を向け、迎えてくれた礼を述べた。お梅は母へ、また来ると短く告げ、その声は館へ戻るための声になっている。
帰り道では、頭の布を整えるふりをして、何度も前を見た。
清十郎は先を歩き、曲がり角で一度こちらを待つ。目が合っても、さっきの呼び方について何も言わなかった。
嫌だっただろうか。
そう思った次には、嫌なら、あんなふうに振り返らないのではないかとも考える。たった一度、名前を呼んだだけなのに、町の音が耳のすぐ外を通り過ぎていく。
しかし館の門が見えてくると、このまま何事もなかったように一日が終わる方が、落ち着かなくなった。
門の内側で作兵衛が帰着を告げている間、紗季は、槙の隣から清十郎へ声をかける。
「あの、お名前でお呼びしても、よろしいでしょうか」
清十郎はすぐには答えず、紗季の顔を見た。
被衣の端が少し邪魔で、彼の目が半分隠れる。紗季が指で布を持ち上げると、清十郎の口元に笑みが浮かんだ。
「もう、お呼びになりました」
「そうですけれど」
「差し支えございません」
許しをもらったからといって、続けて呼べるものではなかった。
紗季は小さく礼を言い、槙とともに奥へ向かう。途中で、お梅が母の家に忘れ物をしたかと尋ねてきたので、慌てて首を振った。
「何度も、後ろをお気になさるから」
「忘れてない。ちゃんと、持ってる」
何を、と聞かれる前に歩き出したが、お梅は笑っただけで追及してこない。
自室へ戻り、頭の衣を取ってもらうと、首元へ通る風が心地よかった。紗季は机へ座る代わりに庭側へ寄り、しばらく、外を歩いた足を休めることにした。
お梅が持ち帰った空の包みを畳んでいる。
あの家の箱へ文が戻されるところを思い浮かべると、紙を受け取った時のおきぬの指まで思い出せる。尾張から何を書くかはまだ分からなくても、読む人がどこに座るかを、今日は知ることができた。
「今度お母さんへ書く時、今日のこと、書いてもいい?」
「母も、その場におりましたけれど」
「そうだね。でも、お梅のお母さんに会えて嬉しかったって、後からでも伝えたい」
お梅は包みを膝へ置き、紗季の座る方へ向き直る。
「では、私の文に添えてくださいませ。母がまた、何度も読みます」
その言い方に二人で笑っていると、表の方から作兵衛が清十郎を呼ぶ声が届き、紗季は笑いを収めかけてやめた。
自分の声で呼んだ時とは、同じ名でも違って聞こえる。
机の上へ出しかけた紙を、お梅が風の当たらない方へ寄せる。
紗季はまだそこへ移らず、日差しの届く板敷きに両手をついた。外から帰ったばかりなのに、明日、彼に会って挨拶をする時のことを、もう考えていた。




