二十三話 お供
お梅の広げた小袖に朝の風が入り、畳の上へ丸いふくらみを作った。
彼女は裾を押さえようとして、袖の下に隠れていた紐を踏みかける。紗季が指で知らせると、足を浮かせたまま「あ」と口を開き、二人とも笑ってしまう。
「今日は、こちらでよろしいですか」
「うん。まだ昼は暑いものね」
選んだのは、おきぬが仕立ててくれた浅い青の小袖だった。何度も袖を通すうち、初めの張りが和らぎ、腕を曲げるところには薄く折り癖がついている。
七月も末に近い。日差しの強さは変わらなくても、朝、簾を上げた時の空気には、ひと月前にはなかった涼しさがあった。
槙は脇の畳で別の衣を広げ、縫い合わせたところを内側から確かめている。季節が進む前に、直すものをおきぬへ渡しておくのだという。
「これも、まだ着られるのでは?」
紗季が尋ねた一枚を、槙は裏返して見せた。
「表からは分かりませぬが、ここが薄うなっております。このままお召しになれば、裂けてから継ぐことになりますから」
布越しに指の影が透ける。紗季がその箇所へ触れると、お梅が隣から、母なら同じような色の布を探すだろうと教えてくれた。
自分なら、穴が開くまで気づかなかったかもしれない。着る時には顔映りばかり見ていた衣を、二人はこんなふうにも見ている。
その槙が、戸口から呼ばれて廊下へ出た。
戻ってきた手には、衣とは別の包みが載っている。
「新九郎様からでございます」
紗季は帯へ添えかけた手を下ろした。すぐに受け取りたいが、お梅がまだ背中の皺を伸ばしてくれている。
「先に、こちらを済ませますね」
急がなくていい、と答える前に、お梅の指はいつもより速く動き始めた。
兄が詳しく調べると知らせてくれてから、二十日ほどが過ぎている。届かない日が続くうち、待つことにも慣れたつもりでいたのに、目の前へ来れば、結び目が一つできる間も長い。
ようやく支度が終わり、紗季は机へ座った。
お梅が片づけた衣の跡には、まだ四角く畳の色が違って見える。槙は文を盆ごと脇へ置くと、先ほどの薄くなった小袖を手に取り直し、静かに針箱を引き寄せた。
包みを開くと、兄の字がいつもより大きい。
急いで書くと読めぬと近江の方に叱られた、と以前聞いたことがある。今日は横から見られながら書いたのだろうか。そう思うと、最初の挨拶を読む前に頬が緩んだ。
待たせた詫びに続いて、尾張へ出入りする者や、三郎殿の近くへ参ったことのある者から聞いた、と記されている。
『馬に乗り、川に入りて水練をなさること多しとのこと。これを遊びと申す者もあれば、よく身を鍛えておられると申す者もある』
紗季は同じところをもう一度読んだ。
馬と川。同じ姿を見ても、そんなふうに言い方が変わるのか。
今まで信長を思い浮かべる時、頭に現れるのは、教科書で見た髭のある顔か、テレビの中で家臣へ命じる大人の姿だった。けれど、これから嫁ぐかもしれない相手は、まだ自分に近い年頃なのである。
川から上がり、濡れた髪を振っている少年。誰かと競うように馬を走らせ、風で目を細める横顔。
勝手に描いた姿には顔がない。それでも、座ったまま睨んでいる肖像よりは、ずっと近く感じられる。
「何とございました?」
紗季の読む速さが落ちたためか、槙が尋ねた。
「馬に乗ったり、泳いだりなさるそうです」
「お体を動かすことがお好きなのでしょうね」
「それを、遊んでばかりいるとおっしゃる方もあるって」
槙は手元の衣へ視線を戻したが、すぐに否定も肯定もしない。
「その方は、何をしておいでならよいとお考えなのでしょう」
紗季は文を少し先まで追ってから、首を振る。
「そこまでは、書いてありません」
兄も同じことを気にしたのか、次の行には、実際に何度も稽古の姿を見た者の話と、人から聞いただけの評判を分けてある。町での振る舞いを好ましく思わない者もいるらしいが、それだけで人の諫めを一切聞かぬとは言い切れない、と続いていた。
誰にでも優しい人だとは、書いていない。
一方で、理由も聞かず人を罰する人だと決めつけてもいなかった。紗季がいちばん気にしていたことについては、裁きの場に居合わせた者から、確かな話を聞けていないという。
期待していた答えには足りない。それでも、兄が空いたところを都合のよい話で埋めなかったことは分かる。
紙をめくる指が、さっきよりゆっくりになった。
『妻の望みをどう聞くかは、今の俺には答えられぬ。お前が何を望むか、先に父上へ申し置くがよい。向こうへ参ってからでは、こちらで整えてやれぬこともある』
妻になれば分かる、と突き放されたわけではない。
ただ、会ったことのない相手の心ばかり尋ね、自分の望みを、まだ父にはほとんど伝えていなかった。
文の終わり近くには、少し間を空けて、もう一行ある。
『里への文が途切れぬよう、俺からも父上に話しておく。お前は筆を怠るな。読めぬ字があれば、近江に尋ねるから構わぬ』
「兄上の字も、義姉上に聞かないと読めないところがあるのに」
つい声に出すと、お梅が笑い、槙は「そのままお返しになってはなりませぬよ」と針を持つ手を止めた。
「少しだけなら?」
「少しでも、お書きになった言葉は残ります」
そう言う槙も、口元は厳しくない。
紗季は最後まで読み終え、兄の名のところへ指を添えた。紙の向こうに、自分の文を広げる兄と、横から字をのぞく近江の方の姿が浮かぶ。
嫁げば、その二人の部屋へ行くことさえ、今ほど簡単ではなくなるのだろう。けれど、書いたものを開いてくれる手まで、なくなるわけではない。
返書を畳みかけて、机の隣に置かれた衣へ目が向いた。
槙の指は、薄くなった布を確かめながら、まだ残せるところを探している。お梅は小さな糸くずを集め、針が混じっていないかを見てから脇へ寄せていた。
尾張の部屋でも、この二人が隣にいるような気がしていた。
何度考えても、湯を持ってくるのはお梅で、支度の具合を見てくれるのは槙。知らない城や部屋を思い浮かべても、そこだけは、いつの間にか今と同じにしていたらしい。
「槙」
「何でございましょう」
「私が尾張へ行く時、誰が一緒に来るか、もう決まっているの?」
針を布へ通しかけた槙が、いったん手を戻した。
「まだ、何も仰せつかっておりませぬ」
お梅も黙っている。糸くずを持った指だけが、膝の上で閉じた。
*
「槙とお梅に、来てほしい」
思っていたより、はっきりした声になった。
槙は針を針箱へ戻し、繕いかけの衣を畳む。その間、紗季はお梅の顔を見ようとして、うまく見られなかった。
「父上には、私からお願いします。でも、その前に、二人に聞きたいの」
「私どもに、でございますか」
「うん。来てくれるかどうか」
お梅は一度唇を開いたものの、声を出さず、槙へ視線を移す。
言われたことにすぐ返事をするのが普段のお梅だった。ためらっている様子を見ると、紗季の方が慌てて言葉を足したくなる。
「嫌だったら、そう言って。今すぐじゃなくても――」
「姫様」
槙の声に、先を止められた。
「お梅が考えております。少し、お待ちくださいませ」
紗季は口を閉じ、膝に置いた手の向きを直した。何でもないふりをして返書を片づけようとしたが、それも急かすように見えそうで、結局、そのまま待つことにする。
廊下を人が通り、井戸の方から桶の縁を打つ音が届く。
お梅はその音に一瞬目を向けてから、紗季を見た。
「私は、お供をしたいです」
嬉しくて、すぐに頷きそうになった。
けれど、お梅の指はまだ重なったままで、話が終わっていないことに気づく。
「ただ、母に、一度お話ししてもよろしいでしょうか」
「もちろん」
今度は間を置かずに答えた。
「お母さんにも聞いて。それで、もし……」
来られなくなってもいい、と続けるつもりだった。その言葉が喉の手前で止まる。
来てほしいのだ。本当は、とても。
困らせたくないからと先に何もかも諦めたように言えば、お梅はかえって、本気で頼まれたのか分からなくなるのではないだろうか。
「お母さんと話してから、もう一度、返事を聞かせて」
お梅が頷く。いつもの用向きへの返事より、少し深い頷きだった。
槙は小見の方へ取り次ぎ、午後にお梅が下の町へ行けるよう、付き添いの務めを自分が代わると告げた。すぐに戸口へ向かいかけた彼女を、紗季は呼び止める。
「槙の返事も、聞いていない」
振り向いた槙が、意外そうな顔をした。
自分のことは、初めから話のうちに入れていなかったらしい。
「私が参ることを、お望みなのでございましょう」
「それは私の望み。槙は?」
畳へ戻った槙は、少し考えてから、紗季の肩の縫い目へ視線を向けた。
「朝、お目覚めになってから、どなたも姫様のお顔を存じ上げぬ。何も申されぬから具合がよいのだと、そのままにされる。それを考えると、私は落ち着きませぬ」
「そんなに、分かりにくい顔をしてる?」
「言いたいことが多い時ほど、妙におとなしくしておいでのことがございます」
お梅が小さく頷いたので、紗季は彼女を見た。
すると慌てて首を振る。その変え方がおかしくて、返ってきた笑いにつられ、紗季も肩の力を抜いた。
「私は、おそばでお仕えしたいと存じます」
槙は今度こそ、紗季の目を見て答えた。
「ただし、私がおりますからとて、いつまでも御自分の望みを口になさらずに済むとは、お思いになりませぬよう」
「今日、言ったでしょう」
「ええ。ですから、お答えしております」
叱られたようでいて、そうでもない。
紗季はもう一度、来てほしいと繰り返す代わりに、槙へ礼を言った。
*
お梅が出かけた午後、部屋はいつもより広く感じられた。
誰もいないわけではない。槙は廊下に近いところで衣を繕い、次の用を聞きに来た女とも短く言葉を交わしている。それでも、机の前で紗季が紙を裏返した時、いつもなら顔を寄せてくる人の気配がない。
紗季は新九郎への礼を書いた。
兄が調べてくれたことを一つずつ書き写すのはやめ、まだ知らぬことが多いままでも、何を父へ願いたいかは考え始めたと伝える。最後に、字の読めないところは義姉上へ尋ねます、と添えかけ、槙の方を見た。
「お書きになりたいのでございましょう?」
見られていたらしい。
紗季は笑って一行を書き切り、墨が乾くのを待つ間に、兄の返書を読み直した。
馬に乗る信長は、いったい何を考えているのだろう。
誰かに遊びだと言われても気にしないのか、それとも、表に出さないだけなのか。もし一つだけ尋ねることができたら、今なら「どうして泳ぐのがお好きなのですか」と聞いてみたい。
そこまで思って、指が紙の端から離れた。
清十郎のことを考える時とは違う。それでも、信長へ問いかける自分を、初めて具体的に想像した。
会えば、その声も顔も知ってしまう。縁談の相手という遠い呼び名で押し返せなくなることが、少し怖い。
槙に散歩を願うと、では小見の方へお梅の外出の礼を、と勧められた。部屋の中で同じ紙ばかり見ていたせいか、廊下へ出た時には、庭が妙に明るく感じられる。
日陰を選んで歩き、表へ通じる角まで来ると、先で作兵衛の声がした。
清十郎が、小さな荷を載せた台の脇に立っている。道中の袋を干すためらしく、紐を解いて口を広げたところだった。
作兵衛が紗季たちに気づき、邪魔にならぬよう台を内側へ寄せる。
「通れます。そのままで」
紗季が言うと、清十郎は手にしていた袋を畳まず、台の端へ置いた。
「新九郎様から、お便りが参ったそうでございますな」
「ええ。先ほど、読みました」
返書を運んだ兄の使いと、作兵衛が表で行き会ったのだという。
紗季は、清十郎がどこまで聞いているのかを気にしかけたが、彼は中身を尋ねようとしない。用を終えた袋の口を、指で押さえたまま待っている。
「槙とお梅に、尾張へ来てほしいと頼みました」
自分から話すと、清十郎の指が袋を離した。
「お二人が参られるなら、御心強うございましょう」
「まだ、父上のお許しはいただいていません。お梅も、お母さんと話しに行っているところです」
「では、お返事を待たれますか」
「はい」
そこで話を終えることもできた。
小見の方の部屋へは、廊下をもう一つ曲がれば着く。槙も先へ急がせずにいるし、清十郎には、この後の務めがあるだろう。
しかし、このまま立ち去れば、自分のいちばん大きな願いだけを、また見えないところへ戻すことになる。
「篠原様のお名前も、父上へ申し上げたいのです」
清十郎は、紗季の方へ体の向きを変えた。
斜めに差した日が、彼の袖の片側を白く照らしている。顔まで見ると用意した言葉を忘れそうで、紗季は袖の縫い目を見ながら続ける。
「護衛として、尾張へも来ていただきたい。以前、おっしゃってくださったことを、私の都合のよいように受け取っているかもしれませんけれど」
「そのつもりで申し上げました」
答えが早く、紗季の方が黙ってしまった。
「御館様のお許しをいただけるなら、お供をいたしたく存じます」
務めとしての言葉だと分かっている。
それでも、胸の内で張りつめていたものがほどけ、紗季はようやく清十郎の顔を見ることができた。こちらが頼む前から、そのつもりでいてくれたのだ。
「では、お願いします。私から、父上へ」
清十郎は一礼したが、その隣から作兵衛が静かに口を挟む。
「篠原のことは、私からも御館様へ申し上げねばなりませぬ。これまでの務めも、今後のことも」
「はい。お願いいたします」
願ったからといって、全てがその場で決まるわけではない。そのことを、今日は待てそうな気がした。
清十郎へ小さく会釈し、槙と歩き始めると、後ろで袋を持ち上げる音がする。振り返りたいのをこらえた紗季は、角へ着く前に、結局一度だけ振り向いた。
清十郎もまだ、こちらを見ている。
目が合った途端、どちらからともなく会釈を重ねてしまい、紗季は今度こそ前へ向き直った。
*
お梅が戻ったのは、夕餉の支度が始まる頃だった。
戸口で帰着を告げた顔は普段と変わらないように見えたが、紗季が迎えに立つと、両手で持っていた包みを胸へ寄せる。
「母が、槙様にお礼を申し上げてほしいと」
「お話はできましたか」
槙の問いに頷いてから、お梅は紗季へ向き直った。
「お供をさせてくださいませ」
待っている間は何度も、その返事を想像したのに、実際に聞くと、すぐ言うはずだった礼より先に息がこぼれた。
「……お母さんは、いいと?」
「私が参りたいなら、と。ただ、こちらの務めもございますから、勝手に決めてはならぬと言われました」
「父上には、これからお願いする」
お梅が膝元へ下ろして開いた包みには、繕いに使えそうな細い布が何枚かと、巻き直した糸が入っている。
「尾張へ行く支度には早いけれど、こちらへ置いておきなさいと」
紗季は、重なった布を見つめた。
おきぬはいつも、すぐ使うものと、後で役に立つものを分けて持ってくる。今日も同じように包んで渡したのだろうか。それとも、娘が出た後で、残った布を畳み直したのだろうか。
会っていない母の顔を、勝手に寂しそうに思い描きかけて、紗季はお梅へ目を戻す。
「お母さんと離れるの、寂しくない?」
「寂しいです」
その声には、紗季を気遣って言葉を濁すところがない。
「今は、お許しをいただけば帰れますから。尾張では、今日行って、夕方に戻るというわけにはまいりませぬ」
お梅は糸の端を指先で巻き込み、ほどけないように収めた。
「母も、それを申しました。途中で帰りとうなっても、明日帰れるとは思わぬように、と」
「それでも、来てくれるの?」
「はい。姫様のところで、まだしたいことがございます」
「文を、もっと読めるようになりたいです。母に頼まれても、今は分からぬ字があります。それに、衣も、綻んだところを綴じるばかりではなく、母のように仕立てられたら」
「うん」
「尾張でどのような務めになるかは存じませぬが、槙様に教わったことを、私もできるようになりたい。それから……」
「姫様と、お話をしたいです。御用がある時だけでなく」
紗季は笑おうとしたが、朝の支度の間に交わすどうでもよい話や、縫い目を見せ合って笑う時間を、お梅も惜しんでくれていたと分かると、うまく笑えなくなった。
「私も」
それ以上を言おうとしても、どこから話せばよいのか分からない。
紗季がお梅の手へそっと触れると、彼女は指を開き、こちらの手を受け止めてくれる。
槙は二人を急かさず、布と糸を針箱へ移した。蓋を閉める前に、一枚だけ色の近い布を選び、朝から繕っていた衣の脇へ置く。
おきぬの用意したものが、もうこの部屋で役に立っている。それを見たお梅が、少し誇らしそうに母の名を口にした。
「どの布がよいか、母はすぐ分かるのでございます」
「槙も、すぐ選んだよ」
「では、私はまだ、二人分教わらねばなりませぬ」
*
利政に願いを聞いてもらえたのは、二日後の朝だった。
表の間へ通されると、父は庭に面した戸のそばで、家臣の差し出す紙を眺めている。紗季が来たからと話が途切れることはなく、槙とともに入口近くで待つ間、男の声が、米の運び手をどこから出すかという話を続けた。
父が短く問い返し、家臣は指を折って答える。
この人にも、自分とは別の心配事が幾つもある。そう分かっていても、今日の願いを後回しにされたくはなかった。
家臣が下がり、利政の前が空いてから、紗季は進み出た。
膝元には、自分で書いた願いの紙を置く。長い文ではない。槙とお梅の名、尾張へ連れていきたいこと、それぞれ本人にも聞いたことを、読み違えようのない字で記してある。
「新九郎の返事は読んだか」
「はい。調べてくださったことへ、お礼を書きました」
「それで、今日の願いか」
紗季は紙を進め、父が手に取るのを待った。
利政の視線が二つの名をたどる間、後ろに控える槙の衣擦れが聞こえる。今まで何度も助けてもらった場なのに、今日は自分の言葉で、この人の行く先も願わねばならない。
「槙と、お梅か」
「二人に、お供をしてもらいたいのでございます」
「理由は」
幼い頃から仕えているから、と答えれば、帰蝶としては自然なのかもしれない。
けれど、紗季が二人を頼りたいと思う理由は、この数か月の暮らしにある。
「私が困っていることを、言葉にするまで待ってくれます。言わずに済ませようとすれば、言うようにとも。お梅は、私が気づかないことに気づいてくれる。尾張でも、二人に助けてもらいたいのです」
「代わりの女では、かなわぬか」
「これから知り合う方を、初めから頼れぬとは申しません。でも、この二人に来てほしいのです」
利政は紙から顔を上げ、紗季の後ろを見た。
「槙。お前はどうだ」
「お供を願っております」
「お梅にも、聞いたのだな」
紗季が頷き、町の母と話してから返事をもらったと伝えると、父はもう一度紙へ目を落とした。
名前だけを書いて持ってきていたら、この先で何を答えただろう。分からないまま「きっと参ります」と、お梅の返事まで代わりに口にしていたかもしれない。
「よかろう。この二人は、供に加えるつもりで支度をさせよ」
紗季はすぐに頭を下げた。
畳の縁が近くなり、張っていた背中の筋がゆるむ。後ろから、槙の礼を述べる声も重なった。
「ありがとうございます」
「尾張へ参ってからの置き所や務めは、向こうとも話をせねばならぬ。今の部屋のまま、そっくり移せると思うな」
「承知しております」
父は紙を脇へ置き、そこで話を終えようとした。
紗季は一度吸った息を止めず、そのまま次の名を口にする。
「篠原清十郎様のことも、お願いがございます」
槙は何も言わなかった。
父の指が、脇へ置いた紙から離れる。
「ここには、書いておらぬが」
「作兵衛殿からもお話があると伺いました。私からは、お供を願っていることを、先に申し上げたく存じます」
「本人は」
「お許しをいただけるなら、参りたいと」
父は紗季の顔をしばらく見ていた。
その沈黙の意味を探していると、また、聞かれたこと以上の理由を並べてしまいそうになる。紗季は口を結び、返事を待つ。
「篠原については、作兵衛から務めの様子を聞いてから答える」
「はい」
「今日、ここで承知したとは伝えるなよ」
「お答えを待っていると、そのまま伝えます」
利政の口元がわずかに動いた。
笑ったようにも見えたが、紗季には確かめる余裕がない。願いを退けられなかったことだけを、今はしっかり覚えておきたかった。
*
部屋へ戻ると、お梅が戸口まで出てきた。
先に尋ねてよいものか迷っているらしく、手にした布を畳み直している。紗季は座るのも待たずに、父の言葉を伝えた。
「槙とお梅は、供に加えるつもりで支度をしてよいって」
お梅が槙を見る。
槙も頷くと、彼女は布を両手で持ったまま、深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
「こちらこそ。二人とも、よろしくお願いします」
紗季まで頭を下げたため、お梅が慌てて姿勢を正す。顔を見合わせるとおかしくなり、三人の礼は、最後だけ少し崩れてしまった。
清十郎のことはまだ決まっていないと、紗季は続けて伝えた。お梅は気遣うようにこちらを見たものの、大丈夫だと請け合うことも、結果を尋ね直すこともしない。
代わりに、夕方、作兵衛たちが戻ったら知らせると答えてくれた。
知らせたいことが増えたので、紗季は机へ座り、兄への礼の文をもう一度開いた。
二人の同行を父が認めたと追記し、清十郎については返事を待っていると短く添える。書いてから、近江の方にも読んでもらうよう、兄へ頼む一行を加えた。
背後で槙が、今すぐ荷を作るわけではないとお梅に話している。
季節が変われば必要な衣も違うし、何を持つかはまだ決まらない。お梅はその話を聞きながら、いつもの針箱をいつもの場所へ戻した。
紗季の筆が止まるのを待っているお梅の膝には、小さな紙が一枚載っている。
「母にも、知らせとうございます。少し、お教えいただけますか」
並んで書けるように文を寄せると、お梅は初めに言いたいことを小声で確かめ、それから筆を持った。
穂先へ墨を含ませる手つきは慎重でも、初めて自分の名を書いた時ほどのためらいは、もうない。
『お供に参ることを、お許しいただきました』
紗季が読めるところまで書くと、お梅は顔を上げた。
「これでは、すぐ発つと思うでしょうか」
「日が決まったら、また知らせるって添えたら?」
お梅は小さく頷き、次の行へ移った。
母が読みやすいようにと、字の間を少しずつ空けている。その横顔を見ながら、紗季は、明日の外出の許しも槙に尋ねようと思った。
まだ、顔を見せて話せる。
文を届ける手に、自分の娘の手を選べる日が残っている。
「お梅。明日、これを持って、お母さんのところへ行ってきたら? 槙に聞いてみよう」
「私が、持っていっても?」
「うん。読んでもらって、分からない字があったら、教えてあげて」
お梅は笑い、最後の一文字を、今まででいちばん丁寧に書いた。
乾くのを待つ間、二人は紙を広げたまま、夕餉に呼ばれるまで並んで座っていた。




