二十二話 問いを託す
織田三郎信長について、何を知りたいのか。
兄に尋ねられた時には、幾つでも答えられそうな気がした。ところが、いざ紙を前にすると、筆は宙に浮いたまま動かない。
年齢や住まいを聞くことなら、たやすいだろう。
好きな食べ物、嫌いなもの。それも知りたいけれど、見知らぬ人の家へ嫁ぐかもしれない自分が、最初に確かめるべきことだろうか。
穂先に溜まった墨を硯の縁で落とし、紗季は試し書きの紙へ線を引いた。途中までは太さが揃っていたのに、終わり際でふっと細くなる。書く字を思い浮かべないまま筆だけ動かせば、こんな線にも迷いが出るらしい。
「その線、もう五本目でございます」
机の向こうでお梅が数えていた。
「考えているの」
「線を、でございますか」
「違う。質問を」
言いながら六本目を引こうとして、紗季は筆を止める。お梅の口元が緩むのを見れば、言い訳を重ねるのもおかしい。
筆を硯の脇へ置くと、簾の隙間から細い風が届いた。
近江の方と新九郎の訪問から、七日ほど。七月に入っても昼の暑さは衰えず、紗季の座る辺りまで畳がぬくもっている。庭へ張り出した枝の葉さえ動かないのに、たまに風が通ると、首筋に残った汗がようやく冷えた。
清十郎に縁談を告げた翌日、紗季は近江の方へ礼の文を送っていた。
縁談のことは伝えたが、離れたくないとは言えなかった、と。そこは隠さず書けたものの、清十郎の言葉まで記す気にはなれない。
どちらへ参られても、お守りする務めを果たしたい。
思い出せば嬉しい。けれど、こちらが望む意味に受け取ってよいのかは、別の話だった。
義姉へ書くには、まず自分の中であの言葉に形を与えなければならず、それがどうしてもできずにいる。
近江の方は返書で、話せたところだけ知らせてくれればよいと答えてくれた。言おうとして言えなかったことも、次に話す時には役に立つでしょう、と添えてある。
次があるのだと思えたことで、幾らか気持ちは軽くなった。それでも今、清十郎への言葉ばかり考えていては、新九郎に何も届けられない。
紗季が机へ向き直ると、右脇に座った槙が、小さく切り分けた紙を差し出した。書き損じの余白を使ったもので、長さも幅も少しずつ違う。
「初めから文にまとめようとなさらず、一つずつお書きになってはいかがでしょう」
「順番も、後で?」
「ええ。まずは、何をお聞きになりたいのかを」
槙は切り残した紙を重ね、自分の膝元へ寄せておく。
「織田のお家のことでございますか。それとも、三郎殿御自身でしょうか」
「三郎殿御自身」
そこは迷わず答えられた。
「お家のことなら、父上や兄上に聞ける。でも、一緒に暮らす人がどんな人かは、それだけでは分からないから」
「お聞きになって、どうなさいます?」
「知ってから、嫁ぐか決めたい」
「御館様が、そのお返事をお待ちになるとは限りませぬ」
紗季は紙を押さえていた指を離した。
利政は、こちらの心が決まるまで話を止めるとは言っていない。紗季が筆を持って迷う間にも、表へ届く文は開かれ、返事を書かれ、次の使いへ渡っていくのだろう。
机の上にある小さな紙だけが、その流れから取り残されているようだった。
「それでも、知らないまま頷きたくない」
槙は否定せず、新しい紙をもう一枚そばへ置く。
そこで紗季は筆を取り、ひとまず思いついたままに書いてみた。
『御家来の申すことを、最後までお聞きになりますか』
読み返すと、試すような言い方に見える。
会ったこともない相手へ、話をちゃんと聞ける人ですかと尋ねるのは、少し偉そうではないか。自分だって、清十郎の言葉を最後まで待てない時があったのに。
「変かな」
「御家来の方によって、答えは違うやもしれません」
「どうして?」
「よく聞いていただける方も、お叱りを受けた方もおりましょう。同じ方でも、願いが通る時ばかりではございませぬから」
紗季は紙の下へ『どのような時に』と小さく添えた。
聞くか、聞かないか。それだけなら簡単に答えてもらえそうだが、知りたい人の顔は、かえって見えなくなるのかもしれない。
次の紙では、先ほどほど手が止まらなかった。
『弱い立場の者が過ちを犯した時、どのようになさいますか』
「弱い、というのは、どういう者でございましょう」
槙の問いに、紗季は筆を持ったまま顔を上げる。
「言い返せない人。怒られても、自分がどうしたかったのか、説明さえさせてもらえない人」
すぐに思い浮かぶ顔があった。その人の名を文に書くつもりはないけれど、どうしても外せない問いだった。
「では、身分の低い者、とすれば伝わりましょうか」
「それに近いと思う。でも、身分だけでもないような……」
紗季は余白へ『言い返せない人』と書き留め、もう一枚には槙の言葉を借りる。
『御自身より身分の低い者の過ちを、どのようにお裁きになりますか』
こちらの方が文としては整っていた。誰かに見られても、先ほどほど失礼には聞こえないだろう。
ただ、最初に知りたかったものが、少し遠くなった気もする。
紗季は二枚を見比べた末、どちらも捨てずに並べておいた。
「兄上には、こっちに書いたことも伝えたい。うまい言い方かどうかより、私が何を聞きたいかを分かってほしいから」
指で示したのは、『言い返せない人』の一行である。
お梅が首を伸ばしかけ、途中で膝の上へ視線を戻した。文字を見ようとしたのだと気づき、紗季は紙の向きを変える。
「読んでいいよ」
「まだ、すらすらとは読めませぬ」
「分かる字だけでいい。分からないところは、一緒に読もう」
お梅は少し膝を寄せた。
紗季が声に出して読む間、彼女の目はゆっくり文字をたどっていく。見覚えのある字に出会うと、読み上げる声より先へ進むこともあるらしい。
やがて紗季は、紙より真剣にそれを読むお梅の方を見ていた。
「お梅なら、何を聞く?」
「私が、でございますか」
「私のお嫁に行く先だとしたら、どんなことが気になる?」
お梅は一度槙を見たが、槙は口を挟まない。
考え込む口元を眺めているうちに、聞き方が大きすぎたかもしれないと思えてきた。自分にも答えられないことを、お梅へ預けてしまったのではないか。
別の言い方を探しかけたところで、彼女が顔を上げた。
「姫様がお好きなことをなさっても、お怒りにならないお方でしょうか」
「私が好きなこと?」
「木剣のお稽古や、文を書くことでございます。こちらで続けられても、尾張では分かりませぬから」
紗季はすぐに返事ができなかった。
尾張へ行くことを思うたび、ここにいる誰かと離れることばかり数えてしまう。その先にも朝が来て、自分の一日が始まるという当たり前のことを、お梅の方が考えてくれている。
「それ、聞きたい」
新しい紙へ向かうと、今度は穂先がすんなり動いた。
『妻が望むことを、まずお聞きくださるお方でしょうか』
稽古を必ず続けさせてほしいと、今から約束を取りつけたいわけではない。駄目だと言われる前に、なぜ続けたいのかを聞いてほしい。
書き終えた一行を見ていると、それだけの願いが、ひどく大きなものに思えた。
「お梅、ありがとう」
「私は、思うたことを申し上げただけです」
お梅は照れたように紙の端を揃え直す。
その日、問いは机の端まで並ぶほどに増えた。約束を守るか、怒った後はどう振る舞うかということから、近習と食事をするのか、何を見て笑うのかまで、紗季の筆は行きつ戻りつする。
最後に、妻が文を出すことを許す人かと書きかけると、槙が手元をのぞいた。
「どなたへお出しになるおつもりで?」
「母上や兄上、義姉上には書きたい。それから……」
そこまでで声が途切れる。
もし清十郎が美濃に残ったら、彼にも書きたいと思うのだろうか。嫁いだ先から何を書けるのか想像もつかず、紗季は未完成の一行へ目を戻した。
「文は、お相手のお家にも関わるものでございます」
槙は机の上へ影を落とさないよう、少し身を引いて続ける。
「誰へ何を書いてもよいとは申せますまい。ただ、用向きをお聞きくださるかどうかなら、お尋ねになれましょう」
「うん。その聞き方にする」
初めから一通も許されないのか、話を聞いた上で考えてくれるのか。そこには、自分にとって大きな違いがある。
『妻が里の者へ文を送りたいと願った時、その用向きをお聞きくださいますか』
問いを並べてみると、まだ見ぬ信長の人柄より、紗季が何を恐れているのかの方がよく分かった。
話を聞いてもらえないこと。誰かが弁明もできずに罰せられ、好きなことを手放さねばならず、大切な人との文さえ絶えてしまうこと。
どれも、嫁いだら必ず起こると決まったわけではない。それなのに、紙の上へ出して初めて、こんなにも気にしていたのかと気づかされる。
紗季は紙を重ねず、墨が乾くまで広げておいた。
*
新九郎への文を清十郎に運んでもらいたいと申し出ると、槙の返事には間があった。
「作兵衛殿が明後日、同じ方角へ参ります。文をお預けすることはできましょうが、篠原殿にもとなれば、先に御館様のお許しをいただきませんと」
「私からお願いします」
「では、その文もお見せになりますか」
机には、書き直しの跡を残した小紙が並んでいる。
父を非難した文ではないし、織田家へ何かを仕掛けるつもりもない。けれど、縁談の相手について尋ねる以上、知られずに済ませようとする方が、後で清十郎を困らせるだろう。
「お見せします」
答えを聞いた槙が、紗季の隣へ座り直す。
似た問いを寄せ、離れていた二枚をつなぎ、二人は兄へ送る文の形を整えていった。身分や年齢の違う者の話をどう聞くのか、人の過ちや自分の怒りをどう扱うのか、妻の望みや里との文通をどう考えるのか――大きくまとめれば、この三つになる。
何を食べ、どんな時に笑うかも知りたい。ただ、こちらは兄が見聞きしたことがあれば教えてほしいと添えることにした。
それなら、何から何まで調べて答えを揃えなければならない文にはならないはずである。
翌日の午後、紗季は槙とともに表の間へ向かった。
開いた戸の手前までは庭の照り返しが眩しく、敷居を越えると、畳に落ちた柱の影がくっきり見える。奥で文を読んでいた利政は、紗季の礼が終わるのを待って、それを伏せた。
「新九郎へ、三郎殿のことを尋ねたいそうだな」
「はい。お許しをいただきたく、持ってまいりました」
槙が横へ置いた盆を両手で取り、紗季は父の前へ進める。
左に置かれた硯箱の蓋は開いたままで、右には折り畳んだ文が三通ほど。柱近くに控える年嵩の家臣も、何かの返事を待っているのだろうか。
利政は包みを解くと、黙って読み始めた。
筆を持っていた時には気にならなかった言葉が、父の目を通っていると思うだけで引っ掛かる。妻の望みなどと書けば、もう嫁ぐ気になったと取られはしないだろうか。
訂正を口にしかけたが、まだ何も言われていない。紗季は膝へ手を置き、父が顔を上げるのを待った。
「領地がどれほどあるかとは、尋ねぬのだな」
「それは、父上がお調べになることでしょう」
「兵の数もか」
「私が兵の数を聞いて、夫にしたいかどうかを決めるのでございますか」
柱脇の家臣がわずかに顔を伏せる。
笑ったのか、紗季の口の利き方に困ったのか。横目で確かめる余裕もないまま、紗季は父の返事を待った。
「そなたが決めれば、この縁が動くとは申しておらぬ」
「分かっております」
「いや。まだ、分かっておらぬ顔だ」
声を荒らげられたわけではない。それなのに、紗季はずれてもいない膝を揃え直していた。
「わしは、そなたが三郎殿を好くまで待ってから、話を結ぶのではない。会わぬうちに、よい夫かどうかを知り尽くすこともできぬ」
「では、尋ねても無駄だと仰るのですか」
「そうは申しておらぬ」
利政は文の端を指で押さえると、紗季の方へ少し向けた。
「聞かずに恐れるものと、聞いてなお恐ろしいものは違う。それを知っておけば、向こうへ参った後にも役立とう」
向こうへ参った後。
父の話は、もうそこへ届いている。紗季はまだ、ここを離れる自分を思い描くことさえ難しいのに。
「父上は、私が嫁ぐと、もうお決めなのですね」
「織田と縁を結ぶと決めて、話を進めておる」
否定してはくれなかった。せめて今だけは曖昧にしてほしいと思う一方、そうされれば、いつまでも期待してしまうだろうとも分かる。
「だが、そなたが何を恐れ、何を知りたいかまで、わしが決めるつもりはない。この文は出せ」
すぐには礼が言えず、紗季は盆の縁を見つめた。
選ばせてもらえたわけではないのに、自分で考えた問いが残ったことには安堵している。腹を立てたまま嬉しくなるのは、妙な感じだった。
「ありがとうございます」
頭を下げると、紙の擦れる音がした。父が文を盆へ戻したのだと分かって顔を上げれば、こちらを見ている目に、先ほどとは違う鋭さがある。
「作兵衛に持たせればよいものを、なぜ篠原を名指しする」
これは聞かれると思っていた。
「篠原様は、以前、おきぬのところへ文を届けてくださいました。先方の都合を聞き、勝手に決めず、私へ持ち帰ってくださいました」
「それだけか」
離れたくない人だから、と答えられたなら、どれほど簡単だろう。
しかし、口にした途端、この場にいない清十郎まで呼ばれるかもしれない。紗季は膝の上で指を揃え、言えることを選んだ。
「私の文を、開かずに届けてくださると知っております」
父に向かって言えるのは、そこまでである。
利政は返事をせず、しばらく紗季の顔を眺めてから、控えの家臣へ目を向けた。
「明日の用に、作兵衛と篠原を組ませよ。文は篠原に持たせる。渡す相手を違えるなと申しつけておけ」
「承知いたしました」
話が済んだと思い、紗季が礼をしかけると、父の「ただし」がそれを止めた。
「使いが文を届けても、新九郎がそなたの望むことまで答えるとは限らぬ。返事を持たずに戻ったからとて、篠原を責めるなよ」
「そのようなことはいたしません」
思わず強く答えた紗季を、利政は片眉を上げて見ている。
「ならばよい」
まだ何か言いたげな顔だったが、父は脇の文を取り上げ、それ以上は尋ねなかった。
*
出立の朝は、門の上まで雲が低く垂れ込めていた。
雨は降っていない。それでも、軒先で蓑を丸める作兵衛の手が、時折空を気にして止まる。
紗季が槙とお梅を伴って控えへ出ると、脚絆の紐を結び直していた清十郎も顔を上げた。彼が作兵衛のそばへ戻り、二人で礼をするのを見届けてから、紗季は文を差し出す。
「兄上へ、直接お渡しください。お留守でしたら、近江の方へ。それもかなわない時は、お持ち帰りいただけますか」
「新九郎様か、近江様へ。ほかの方にはお渡しせず、でございますな」
「はい」
清十郎は包みの表を確かめ、作兵衛にも見える位置で持ち直した。紗季が指を離した後も、その手にはまだ、渡した時の形が残っている。
「御返事をお待ちしてもよろしゅうございますか」
そこまでは考えていなかった。
すぐに書いてもらえるなら嬉しいが、兄にも用があるだろうし、作兵衛たちを待たせれば帰りが遅くなる。
「兄上にお尋ねして、今日いただけなければ、いつ頃になるかだけ聞いてください。無理にお待ちしないで」
「かしこまりました」
清十郎は油紙を広げて文を収め、折り返した口を押さえた。その上から道中の袋へ入れ、結び目の緩みを指で確かめる。
墨がにじめば読めなくなる、風にさらわれれば届けられない。机の上では考えずに済んだことを、この人の手が一つずつ引き受けてくれているのだ。
「篠原様」
呼ぶと、彼はすぐ顔を上げた。
何を言いたくて呼び止めたのか、自分でもうまくまとまらない。作兵衛も侍女たちもこちらを見ており、紗季はようやく短い言葉を選んだ。
「道中、お気をつけて」
「姫様も、お変わりなく」
変わりなく待っている。そんな返事ならできそうなのに、口にすると妙に親しく響きそうで、紗季は頷くにとどめる。
門を出た二人の姿が見えなくなってから、お梅が机の片づけを尋ねた。
部屋へ戻って硯を動かした頃には、簾の向こうから雨音が届いていた。
初めは葉を打つ音だけだった雨が、昼前には軒から途切れず落ちるほどになる。庭の飛び石を細い流れが巡り、土の色をした水が溝へ吸い込まれていった。
小見の方の部屋で包み物を習っている間も、紗季の目は何度となく庭へ向いた。
膝の前には、畳みかけの衣と、太さの異なる紐が二本。いつもなら先に手順を尋ねるところなのに、今日は雨脚が強くなるたび手を休めてしまう。
「作兵衛たちが気に掛かりますか」
「……はい。こんなに降るとは思わなかったので」
小見は何も言わず、開いた包みの端を紗季の方へ向けた。
清十郎の名だけを出さずに済んだことへほっとする。母に気づかれなかったか確かめたい気もしたが、顔をうかがえば、かえって何か尋ねられそうだった。
「こちらを押さえてごらんなさい。中の衣を包みに沿わせてから、紐を掛けます」
小見の指を見ながら、紗季も布の端を折り込んだ。
これまでにも教わってきた手仕事なのに、縁談を聞いてからは、何を畳んでも旅支度に見えてしまう。今、目の前にあるのは母の衣で、自分の荷ではないのだけれど。
「濡らせぬ物なら、外を覆うだけでなく、口から水が入らぬようにすることも忘れずに」
朝、清十郎が油紙の口を折っていた手つきが浮かぶ。
なるほど、あれはこのためだったのか。紗季は包みを片手で押さえ、もう一方で紐を引いた。
最初の結びは緩く、片側へ寄ってしまったため、いったん解く。やり直したものは形が崩れず、持ち上げても衣が動かなかった。
「できました」
「ええ。では、中身を乱さず解いてみましょう」
「今、結んだばかりなのに」
つい漏らすと、小見は当たり前のように紗季を見返した。
「開ける時にも、人の手を借りるつもりですか」
紗季は自分の結び目を見下ろす。
強く締めたところを引いてみれば、ますます解けにくくなるではないか。小見の唇に笑みが浮かぶのを見て、紗季もとうとう笑ってしまった。
清十郎と作兵衛が戻った知らせは、日が暮れる少し前に届いた。
控えへ急ぐと、入口の外には濡れた蓑が掛けられ、その下だけ土が黒い。槙が襟の乱れを直してくれるのも待ちきれず、紗季は内側をのぞいた。
「お帰りなさい」
髪を布で拭っていた清十郎が振り向く。
「ただいま戻りました」
いつもの務めの報告にすぎないのだろう。それでも、朝に送り出した人から自分へ返る挨拶は、思ったより嬉しかった。
作兵衛が前へ出て、道中に異状はなかったと告げる。足場の悪い所はあったが大きく遅れず、元の用向きも済ませ、新九郎へ文を直接渡せたという。
「兄上は、何と?」
清十郎は道中の袋から小さな包みを取り出し、板敷に膝をついた。
「御返事をお預かりしております」
油紙の表には水の跡が残っていても、開かれた内側は乾いている。差し出された文を受け取り、紗季は折り目に指を当てた。
朝に渡したものより薄いが、濡れて縮れたところは見当たらない。
「すぐに、お書きくださったのですね」
「詳しいお返事には、日をいただきたいとのことでございます。そのことを、まずお知らせすると」
「そうですか……」
「同じ問いを、立場の異なる者にも尋ねると仰せでした。一人の言葉だけでは、三郎殿を見たことにならぬゆえ、と」
紗季は包みへ落としていた目を上げた。
父が決めた縁だからと良いことを並べたり、尾張の噂を一つ拾って答えにしたりする方が、早く済むだろう。それをせず、妹が何を知りたいかを受け止めてくれたのだと思えば、返書の薄さはもう気にならない。
「ほかにも、何か仰っていましたか」
「このような問いを、姫様はどなたに教わったのかと」
「教わっていないのに」
「いつも御自身でお考えになる方です、と申し上げました」
紗季は清十郎の顔を見つめた。
いつも、と言われるほどに自分のことを知ってくれている。その嬉しさの後から、今の話にはおかしなところがあると気づく。
「篠原様も、文を読んだのですか」
「いいえ。新九郎様が、姫様は以前からこうした問いをなさるのかと、私どもへお尋ねになったのでございます。中身はお聞かせになりませなんだ」
「それで、何と?」
清十郎が隣の作兵衛を見た。
作兵衛は頷くだけで、代わりには答えない。やがて清十郎は、きちんと膝へ手を置いて口を開いた。
「姫様は、分からぬことをそのままになさらず、人へお尋ねになる方です、と」
何でも聞けるわけではない。
清十郎には、いちばん知りたいことを尋ねられずにいる。それなのに、彼から見た自分は、そんなふうなのか。
「それだけ?」
「それから……御自分の答えが聞き入れられぬ時には、声が大きゅうなることもある、と」
作兵衛が横を向いて咳払いをした。
「そんなことまで?」
「偽りを申し上げるわけにはまいりませぬ」
清十郎の顔は、少しもふざけていない。
その真面目さがかえって困りもので、怒れば、たった今兄へ伝えられた話をここでも裏づけてしまう。
「兄上は、笑ったでしょう」
「少し」
「やっぱり」
お梅が後ろで顔を伏せ、槙も口元へ手を添えた。二人を見れば我慢できず、紗季の口からも笑いが漏れる。
清十郎は表情を和らげたものの、笑いの収まる頃には、もう報告する顔に戻っていた。
「お返事をいつまでにとは、お約束なさいませんでした。急いで耳当たりのよいことを書くより、確かめたいとのことでございます」
「分かりました。待ちます」
早く知りたい気持ちが消えたわけではない。ただ、今日中に返してほしいと頼んでいたら、この答えには出会えなかったかもしれないと思う。
朝、清十郎に返事を待つかと尋ねられた時、急がせずに帰ってきてほしいと伝えておけてよかった。
「文を濡らさずに届けてくださって、ありがとうございました」
「お預かりしたものにございます」
「でも、私が篠原様にお願いしたのです」
清十郎がこちらを見た。
利政の前では言い切れなかったことも、今なら彼へ伝えられる気がする。
「文を開かず、違う方へ渡さずに届けてくださると思ったから。お返事がいただけなくても、勝手に話を作って安心させたりしないでしょう」
言い終えてから、紗季は文を両手で持ち直した。
遠くへ届いた自分の言葉が、そこでどう扱われるのかは見えない。だからこそ、自分のいない所でどう振る舞うかを、この人なら信じられると伝えたかった。
清十郎はすぐに答えず、膝の上へ置いた指を揃えていた。
「信じてくださったこと、かたじけなく存じます」
深く下げられた頭を見て、紗季は少し戸惑う。
大仰な約束をしてほしかったわけではなく、また頼みたいというだけだったのに。その「また」を口にすればよいのだと気づき、顔が上がるのを待った。
「次も、お願いしていい?」
清十郎の視線が、作兵衛を確かめる。
「御役目として、お許しいただけるなら」
すぐ頷いてくれなかったことを、寂しいとは思わなかった。
許されるかどうかを一緒に考えられるところまで、話は進んだのだ。紗季は、また一人で答えを思い描きそうになる自分を止め、目の前の清十郎へ返す言葉を選ぶ。
「父上と作兵衛殿に、お願いしてみます」
「承知いたしました」
清十郎の襟から雫が落ち、板に小さな丸を作った。乾いた文に気を取られていた紗季は、そこで初めて、彼の肩にまだ濡れ色が残っているのを見つける。
「長くお引き留めしてしまって……」
槙が着替えを促し、作兵衛は清十郎の荷を指して、先に置いてくるよう告げた。
立ち上がった彼が一礼するまで見届け、紗季も部屋へ戻る。廊下へ出ると、雨はすでに上がっており、軒から落ちる雫だけが、遅れて土を打っている。
「篠原様へ、また文をお願いなさるのですか」
後ろから聞こえたお梅の声は、いつもより弾んでいた。
「うん。まだ、お許しはいただいてないけど」
「では、私は紙を濡らさぬ包み方を、槙様に教わります」
「お梅も?」
「姫様が書かれ、篠原様がお運びになるなら、私もお手伝いができますから」
お梅は返事を待つより先に、歩調を緩めた槙のそばへ寄った。朝の油紙はどこを折っていたのかと尋ねる声が聞こえ、紗季の歩みも自然に遅くなる。
書けば誰かが届けてくれると思っていた文には、こうして自分から手を添えようとする人もいる。
部屋へ戻ると、紗季は新九郎の返書を机へ置いた。
まだ灯は要らない。簾越しの白い光で表書きを読めるのを確かめ、お梅が脇へ寄せておいた紙を端へ揃える。
近江の方へも、知らせたいことができた。
離れたくないとは、今日も言えなかった。けれど、また頼みたいとは伝えられたし、清十郎からも返事をもらえたのだ。
その違いをうまく書けるだろうか。
考えているうちに、先に読まなければならない文が手元にあることを思い出した。紗季は返書を開き、兄の最初の一行へ目を落とした。




