二十一話 言わずにおけぬ事
近江の方へ宛てた文は、翌朝、山を下りる使いの手へ渡された。
折り目を確かめ、紙を包みへ収めるところまでは槙が見てくれたものの、最後に差し出すのは紗季の役目だった。表の小さな控えで待っていた男は、文を両手で受け取ると、ほかの用向きの包みとは別の袋へ入れた。口を紐で結び、懐へ寄せてから一礼する。
「先方へ、確かにお渡しいたします」
「お願いいたします」
返事を急いでいる、と口添えしたくなった。しかし、それは文の中へすでに書いたことである。ここで重ねれば、相手の都合まで急かすことになりそうで、紗季は礼だけを返した。
使いが門の方へ去った後も、控えの間には草鞋の土が二、三粒残っている。お梅が箒を取りに行こうとするので、紗季は自分が落としたわけでもない土を見つめながら、もう届いたような気持ちになった。
けれど、山の館を出た文は、紗季の焦りとは関わりなく道を進む。
何度考えても、それだけは待つほかなかった。
この日の稽古は、日が高くなる前に終わった。
弥四郎の木剣を返し、乱れた息を整えていると、庭の端で作兵衛が水桶の縄を直している。清十郎はその傍らに膝をつき、古い縄からまだ使える部分を切り分けていた。刃物を扱うのは作兵衛で、清十郎は渡された縄を束ねているだけだ。
紗季が稽古棟の縁へ戻ると、彼は作業の手を止めて顔を上げる。
「本日は、足を引かれませなんだな」
褒められたのだと分かるまで、少し掛かった。
「昨日、同じところで遅れたので。弥四郎殿にも、先に目を向けるよう教わりました」
「それで間に合うたのでしょう」
清十郎はそう言って、縄の端を揃え直す。
今なら話せるかもしれない。
父上から縁談を聞いたことを。この人はもう知っているのか、と。
ところが、何から切り出せばよいのか考えた途端、声を掛けるだけのことがひどく難しくなる。「織田」という二文字を口にすれば、昨日までと同じ明日がなくなるような気がしてならない。
「姫様、汗が冷えます」
お梅に布を差し出され、紗季は我に返った。
清十郎も、作兵衛から次の縄を受け取っている。そこへ割って入る用事は、もう見つけられなかった。
「また、明日」
結局、口にできたのはそれだけである。
「はい。また明日」
返された声はいつもと変わらない。そのことへ安堵しながら、変わらないままでよいはずがないとも思う。矛盾した気持ちを抱え、紗季はお梅と稽古棟を離れた。
二日目にも、近江の方から返事は来なかった。
朝の手習いでは、槙から渡された見本文の一行を二度も写し違えた。一度目は同じ字を重ね、次は一字を飛ばす。紙を粗末にできないため、誤ったところへ印をつけて余白へ書き直したが、乱れた文字はいつまでも目に残る。
「お返事は、今日でなくとも届きます」
槙は硯へ少量の水を足しながら言った。
「分かってる。分かっているけれど……」
その先を何と続けるべきか、紗季自身にも分からなかった。
義姉が来てくれたところで、利政の決めた縁談をなくせるわけではない。近江の方にその力を求めて文を書いたのでもなかった。ただ、自分より少し前に生まれ、家を離れて新九郎のもとへ来た人なら、この胸の中で絡まっているものに名前をつけてくれるのではないかと思ったのである。
そんな期待は、義姉に重すぎないだろうか。
紗季が三枚目の紙へ向き直った時、廊下を歩く足音が近づいた。お梅が戸口へ出て、相手と言葉を交わす。すぐに戻ってきた顔には、隠しきれない明るさがあった。
「姫様、近江様からでございます」
差し出された文には、まだ外の熱が残っているように感じられた。
紗季は筆を置き、手を拭ってから受け取る。急いで折りを開きかけると、紙の端が指へ引っかかった。槙が何も言わず、文鎮を机の隅へ寄せて場所を空ける。
返事は短かった。
文を受け取ったこと。三日後なら、新九郎とともに館へ行けること。詳しい話は顔を見て聞きたいから、それまで一人で答えを決めてしまわぬように、とある。
最後の一行だけ、前の文字より少し右へ上がっていた。
『戸を幾度も開け閉めするより、今度は初めから涼しいところへ座りましょう』
紗季はそこを読み、息を漏らした。笑った拍子に、張りつめていたものも少し緩む。
「おいでくださるって。兄上も」
お梅が、よろしゅうございました、と頭を下げた。続けて、今度は戸を閉める役を任されるのかと尋ねるものだから、紗季はもう一度笑ってしまう。
「開けておいて。義姉上が、涼しいところへ座れるように」
「では、風の通るお部屋を槙様にお尋ねします」
お梅は真面目な顔で受け合い、戸口から廊下へ出た。その後ろ姿を見送って、紗季は文を読み返す。
一人で答えを決めないように。
父の前で承知しなかったのだから、まだ何も決めていないつもりでいた。だが、嫌だと思うだけでも、一つの答えには違いない。なぜ嫌なのかを見ないままでは、誰かに問われた時、同じ言葉しか返せなくなる。
三日という時間は、急に短く思えた。
*
近江の方と新九郎が来た日は、朝から薄い雲が山の上へ掛かっていた。
雨になるほど暗くはない。それでも日差しが遮られ、庭石の色も、葉の裏も、いつもより落ち着いて見える。槙は西の庭に面した八畳の間を選び、二枚の戸を開け放った。外縁の先には低い木が並び、その間を抜けた風が、簾をわずかに押して入ってくる。
室の奥には薄縁を重ね、近江の方と新九郎の席が横に設けられた。紗季は向かいの少し下がった位置。お梅は入口に近い柱脇へ控え、槙は廊下との境で、湯や菓子を運ぶ者に指示を出している。
膳に載ったのは、葛を練って冷ました菓子と、塩気を薄くした干し梅だった。菓子の上には砕いた胡桃が少し散らされている。冷たい井戸水で布を絞り、器を拭いてから盛ったのだと、お梅が朝から教えてくれた。
「今度こそ、戸は開いておりますね」
部屋へ通された近江の方は、席へ着くより先に庭を眺めた。
「ちせも安心いたします」
後ろに控えたちせが、やっと笑ってよいのか迷う顔をする。近江の方が振り返って頷くと、娘は口元を手で隠した。
新九郎も庭側へ目をやり、「家で聞いた時より、ずいぶん大きな騒ぎに思える」と言う。その穏やかな声に、部屋の者たちの肩が少し下がった。
挨拶を終えた後、まずは近況を話した。新九郎は道の途中で馬が水を嫌がったことを話し、近江の方は、それは乗る人に似たのだと返す。どちらも相手の言葉を奪わず、話の終わりを待って笑う。その様子を見ていると、夫婦になるとは、同じ家へ入ることだけではないのだと分かる。
けれど、この二人にも、最初から今の間合いがあったわけではない。
紗季がそのことを思い出した時、新九郎が湯の椀を置いた。
「父上から、織田との話を聞いた」
室内の空気が、目に見えないところで改まった。
お梅は膝の脇へ手を揃え、ちせも庭へ向けていた顔を戻す。槙だけは、初めからこの話になると知っていたように動かなかった。
「兄上は、いつ」
「そなたへ話した、その翌日だ。話を進めるつもりである、とだけな」
新九郎は干し梅に手をつけず、紗季の方へ体を向け直した。
「何を聞きたい」
父と同じ問いだった。ただし、急いで答えを出せという響きはない。
「兄上は、そのお話が、よいと思われますか」
新九郎はすぐに頷かなかった。膝の上へ置いた指を組み、しばらく考えてから答える。
「美濃と尾張が戦わずに済む道は、探すべきだと思う。父上が縁を考えるのも分かる」
そこで言葉を切り、庭の方から入ってきた風に目を細めた。
「されど、それでそなたの心まで、何も聞かずに済むとは思わぬ」
紗季は膝の上で指をほどいた。
「父上に、やめてと仰っていただくことは」
口にしてから、それができないと分かっていて兄へ押しつけたのだと気づく。
新九郎は眉を寄せたものの、叱りはしなかった。
「できると言えば、そなたを欺く。話がどこまで進んでおるか、わしにも全ては知らされておらぬ。だが、先方のことを確かめたいなら、父上へ申す。聞けることは聞こう」
「三郎殿が、どのようなお方かも?」
「人づての評判ばかりで、夫として分かるとは約束できぬぞ」
新九郎の口元に苦い笑いが浮かぶ。
「それでも、知らぬよりはよいでしょう。そなたが聞きたいことを、後で書いて寄越せ」
書いて寄越せ、と言われ、紗季は近江の方へ送った文を思った。口にすれば消えてしまいそうな問いも、紙の上なら並べて確かめられる。けれど、誰かから届く答えだけで、夫にできる人かどうかを決められるのだろうか。
「ありがとうございます、兄上」
「礼は、何か聞き出してからでよい」
新九郎はそう言い、ようやく干し梅を一つ取った。口へ入れた途端、目尻がきゅっと縮む。
「これは、ずいぶん酸いな」
「先ほどから、誰も召し上がらないので、おかしいと思っておりました」
近江の方が涼しい顔で言うと、ちせが俯いたまま肩を揺らした。紗季も笑い、少し遅れてお梅まで小さく息を漏らす。
新九郎は水を一口飲んでから、妹へ向き直った。
「わしがここにおると、話しにくいこともあろう」
紗季の心を読んだのではなく、近江の方がここへ来た理由を知っているからだろう。兄は立ち上がり、作兵衛に見せてもらいたい物があると言った。用が本当にあるのか、席を外すために今思いついたのかは分からない。
「帰る前に、もう一度顔を出す」
「はい」
新九郎が廊下へ出ると、槙も湯を替える者を連れて一度下がった。お梅とちせはそれぞれの主人の後ろに残る。二人だけではないが、先ほどより話しやすい間が生まれた。
近江の方は葛の菓子を一口分に割り、胡桃が多く載った方を紗季の皿へ寄せた。
「さて。わたくしへ早く会いたいと書いたのは、義兄上に調べてもらうこととは、別なのでしょう」
柔らかな声なのに、逃げ道はきれいに塞がれている。
紗季は菓子へ手を伸ばせず、膝の上を見た。
「尾張へ行くのが、怖いのです」
「ええ」
「知らないお方と暮らすことも。帰蝶として、そのまま……」
最後の言葉を続けることはできなかった。近江の方は紗季を本物の帰蝶と信じている。ここで話せるのは、家を離れる娘としての心だけだ。
「それから、ここを離れとうありません」
「母上や、お梅や槙と離れるから?」
お梅の名が出て、入口近くで衣の擦れる音がした。紗季は振り返らなかった。
「はい。兄上と義姉上にも、今までのようにはお会いできなくなるでしょうし」
「ほかには?」
近江の方の問いは短い。
紗季は庭へ目を向けた。雲の薄いところから光が差し、一枚の葉だけが濡れたように明るくなっている。風で枝が動けば光は隣へ移り、さっきまで照らされていた葉はすぐ周りと同じ色へ戻った。
清十郎の名を言えば、自分の中だけにあった思いが、誰かの知るものになる。
それが怖い。けれど、そのために義姉を呼んだのではなかったか。
「離れたくない方が、おります」
声が思ったより小さくなった。
近江の方は驚いたように眉を上げたが、すぐに笑ったりはしなかった。
「その方は、そなたの気持ちを御存じなの?」
「存じません」
「では、縁談のことは」
「それも、まだ。知っているかもしれませんけれど、私からは申し上げておりません」
近江の方は、膝の脇へ扇を置いた。表情が少しだけ厳しくなる。
「誰なのか、尋ねてもよい?」
紗季は一度、お梅を見た。目が合うと、お梅は励ますようにではなく、ただ静かに頷いた。前に打ち明けたことを、ここで勝手に口にするつもりはないらしい。
「篠原清十郎様です」
近江の方の視線が止まった。
名を知っているのだろうか。助命された家臣としてか、父や兄から別の事情を聞いているのか。紗季が身構えると、義姉は何かを確かめるようにゆっくり息を吐いた。
「姫をお守りする務めに就いた方ですね」
「はい。まだ作兵衛殿のお預かりで、勝手に近づくことは許されておりません」
「そなたは、その方と添いたいと思うているの?」
添いたい。
その言葉の先には、同じ家で目を覚まし、毎日顔を合わせる暮らしがある。紗季は一度も、そこまでの形を思い描いたことがなかった。会えば嬉しい。明日も話したい。ほかの人の前では見せない顔を、自分には見せてほしい。それだけでは、夫婦になりたいという答えにならないのだろうか。
「分かりません」
嘘をつかずに言えるのは、それだった。
「近くにいてほしいとは思います。でも、篠原様がどう思っているかも知りません。私が勝手に……」
「勝手に慕うことまで、誰かの許しを得るものではありませんよ」
近江の方は、ようやくわずかに笑った。
「ただし、心の中だけで大切にしておけば、誰にも傷つけられぬ代わりに、誰にも届きませぬ」
庭先で、葉が裏返る音が重なった。
「義姉上は、兄上へ、何でもお話しになれたのですか」
「まさか」
今度ははっきりと笑い、近江の方は首を振る。
「嫁いだばかりの頃は、分からぬことを分からぬと言うだけで、夜まで掛かりました。嫌われたくなくて黙り、黙っているから平気なのだと思われたこともございます」
新九郎と近江の方の間にも、言えない夜が幾度かあったのだろう。その事実は、先ほど並んで笑っていた二人の姿を損なわず、むしろ今の親しさに時間の厚みを加えている。
「どうなさったのですか」
「腹が立って、文を書きました」
「同じお屋敷にいらしたのに?」
「同じ屋敷にいるからこそ、口では最後まで言えなかったのです」
近江の方は指先で、畳の目を一筋なぞった。
「もっとこちらを見てほしい、と。それだけを書くのに、紙を三枚駄目にしました。渡した後は恥ずかしくて、二日ほど義兄上のお顔をまともに見られませんでしたけれど」
後ろで、ちせが小さく咳払いをした。知っている話らしい。近江の方は振り返らず、「笑うところではありません」とだけ言う。その声にも笑いが混じっていた。
「言えば、望みどおりになりますか」
紗季が尋ねると、義姉の笑みは静かに消えた。
「なりませぬ」
迷いのない返事だった。
「相手にも、事情と心がございます。そなたが慕う方へ告げても、同じ思いが返るとは限らない。織田との話を止められるとも申しません」
厳しい言葉なのに、不思議と突き放されたとは感じなかった。
「けれど、何も言わずにいれば、黙って従うことも、何も思わぬことも、同じ顔に見えてしまいます。父上にも、その方にも」
紗季は、自分の膝を見下ろす。
父には、ここに居たいと伝えてある。母には、会うことと嫁ぐことは違うと言えた。なのに、清十郎には「また明日」としか話していない。明日が続かなくなるかもしれないことを隠したまま、普段どおりの返事を求めていた。
「何から、言えばよいのでしょう」
「それを、わたくしが決めてはなりません」
近江の方は紗季の皿へ寄せた菓子を指した。
「まずは召し上がりなさい。葛がすっかり温うなってしまいます」
紗季は言われた通り、菓子を一口食べた。冷たさはもう残っていない。それでも胡桃の香ばしさと、控えめな甘みは分かった。
答えをもらえなかったのに、来る前より心細くはない。
おそらく、近江の方が代わりに決めなかったからである。
*
新九郎たちが帰った翌朝、紗季は稽古へ向かう前に、槙へ頼んだ。
「終わった後、篠原様とお話をしたいの。作兵衛殿のいるところで」
槙は理由を尋ねず、承知した。ただし、長くなるなら日陰へ席を移すこと、清十郎を一人で待たせないことを付け加える。
「分かっています」
返事はできても、何を話すのかは、まだ一つに定まらなかった。
稽古中、足の向きを間違えるたびに、別の言葉が頭へ浮かぶ。
尾張へ嫁ぐかもしれません。
私は行きたくありません。
あなたと離れたくありません。
最後の一つだけは、思い浮かべるだけで木剣の握りが浅くなった。弥四郎に手元を指摘され、紗季は慌てて握り直す。気持ちを伝える前に足をくじいては笑えない。
稽古が終わると、お梅が水を持ってきた。紗季が一息に飲もうとするのを止め、二度に分けるよう椀を少し引く。その目は、今日はからかっていなかった。
「お待ちです」
促された先では、作兵衛と清十郎が稽古棟の北側に立っている。直射しの日を避けた場所で、槙も少し離れて控えていた。
紗季が近づくと、清十郎はいつものように礼をする。しかし、呼ばれた理由を知らないせいか、顔を上げた後も口を開かなかった。
「篠原様に、お伝えしたいことがあります」
「私に、でございますか」
「はい」
近江の方には、離れたくない人がいると言えた。けれど、本人を前にすると、用意した言葉が喉の奥で押し合う。
紗季は一度、庭の土へ目を落とした。箒の跡が弧を描き、その上へ自分の草履の先が少し掛かっている。
「父上が、織田家との縁談を進めておられます」
言えたのは、事実だけだった。
清十郎の表情は変わらない。驚いた様子がないことへ、紗季は先に気づいた。
「御存じだったのですか」
問われた彼は、作兵衛を見た。許しを求めるというより、どこまで答えてよいか確かめる視線である。作兵衛が黙って頷く。
「話があることは、耳にいたしました。御相手と、どこまで進んでおるかまでは」
「いつから?」
「昨日、作兵衛殿から。今後、供の備えに関わるやもしれぬゆえ、と」
自分が迷っていた間に、清十郎は務めの話として知らされていた。
それが悔しいのか、恥ずかしいのか、自分でも判然としない。ただ、彼にとっては姫をどこへ守っていくかという話でしかないのだと思うと、胸の内が急に冷えていく。
清十郎は膝をつき、頭を下げた。
「おめでとうございます、と申し上げるには、まだ早うございましょうか」
紗季は答えられなかった。
おめでとうございます。
聞きたくなかった言葉なのに、清十郎が礼を欠くために言ったのではないことも分かる。ここで怒れば、彼は何を言えばよかったのか。
「私は、まだ、お返事をしておりません」
ようやく告げると、清十郎は顔を上げた。
その目に何が浮かんだのか、紗季には読み取れない。わずかな変化を都合よく喜ぶのも、落胆するのも怖くなる。
「参りたくないと、父上には申し上げました」
「……さようでございますか」
「篠原様は、どう思われますか」
清十郎の眉が寄る。
「私が、申し上げてよいことではございませぬ」
「私が聞いているのです」
強く言うと、彼は口を閉ざす。以前なら、ここで言い合いになっていたかもしれない。今は互いに、次の言葉で相手を追いつめないよう立ち止まっている。
「御身にとって、よき御縁であればと願います」
清十郎は慎重に答えた。
「それでは、私がどうしたいかは、関係ないように聞こえます」
「そのようなつもりでは」
「では、私はどうしたいと思っていると、篠原様には見えますか」
問いを重ねるほど、本当に聞きたい言葉から遠ざかっていく。それでも止められなかった。
清十郎は土の上へ片手をつき、少し俯いた。
「ここへ残りたいと、思うておられるように見えます」
「はい」
「されど、御家のために背くまいとも考えておられる」
その答えは、紗季の胸の中を正確に二つへ分けた。だからこそ、その先も分かってほしくなる。
「ほかには?」
清十郎が顔を上げる。
視線が合ったまま、どちらも動けなかった。
あなたと離れたくない。
あとは、それを言うだけだった。
だが、近江の方が言った通り、告げたからといって同じ思いが返るとは限らない。清十郎が忠義から困り、断ることさえ許されないと思ったら。父の命で自分を守る人へ、姫の立場を使って答えを迫ることにならないだろうか。
「……私が帰蝶様ではないことを、篠原様は御存じでしょう」
口から出たのは、また別の事実だった。
作兵衛と槙が、周囲に人のいないことを同時に確かめる。お梅は稽古棟の縁に残り、この声までは届かない。
「はい」
「だから、知っておいてほしかったのです。帰蝶として嫁げと言われて、私が嫌だと思っていることを」
嘘ではない。けれど、全てでもなかった。
清十郎は、長く返事をしなかった。やがて両手を土へつき、深く頭を下げる。
「お話しくださり、ありがとうございます」
礼を言われたかったわけではない。
紗季が唇を開きかけると、清十郎は頭を上げた。その顔には迷いがあり、いつもの生真面目さだけでは隠しきれていない。
「姫様が、どちらへ参られても」
そこで彼は言葉を切った。
作兵衛も続きを促さない。庭の外で蝉が一声鳴き、遠くの木立から別の声が返ってくる。
「……お守りする務めを、果たしたく存じます」
どちらへ参られても。
それは尾張も含むのだろうか。父から命じられれば、清十郎も来るという意味なのか。それとも、ここにいる間だけの言葉か。
尋ねたいことが、また増えた。
しかし、清十郎もまた言い切った後で苦しそうに見えたため、紗季は問いを重ねられなかった。
「聞いてくださって、ありがとうございます」
今度は自分が礼をし、話を終える。
槙に促されて歩き出してから、紗季は一度だけ振り返った。清十郎はまだ同じ場所に膝をついており、作兵衛が何かを言うまで顔を上げなかった。
文なら、書き損じた言葉を消して、別の紙へ書き直せる。
けれど、口から出た言葉は戻らない。出せなかった言葉も、胸の内に残って、なかったことにはならなかった。
紗季は自室へ戻る廊下で、近江の方へ何と知らせようか考えた。
縁談のことは伝えた。
離れたくないとは、まだ言えなかった。
その二つを、自分に都合よく一つにまとめず、次の文にはありのまま書こうと思った。




