十八話 隣に座るまで
二本目の薪は、籠の底へうまく収まらなかった。
先に置いた一本の節へ引っかかり、片端だけが浮いている。紗季は向きを変え、それでも落ち着かないので、一度取り出して細い方を奥へ差し込んだ。
向かいでは、清十郎の手が止まっている。
待たせてしまったと思うと、次に取る木まで選びにくい。何でもよいから入れようとして、まだ湿り気のある切り口に気づき、紗季は手元へ戻した。
「それは、こちらへ」
作兵衛が小屋の壁際を指す。
紗季が置き直す間に、清十郎は籠からはみ出していた木の端を揃えた。急かす言葉はなかったが、無言で直される方が落ち着かない。
間違っているなら、言ってくれればいいのに。
そう思ってから、紗季は自分の勝手さに気づく。ここへ来るまで挨拶さえ返せなかったのは、こちらも同じなのだ。
小屋の庇は低く、奥へ入るほど土の色が濃くなる。紗季のいる入口側には朝の日が斜めに差し、積まれた木の切り口を明るく照らしていた。清十郎はその境目にしゃがみ、一本ずつ手に取っては、乾き具合を確かめている。
日向へ出るたび、彼の指の節に白い粉がついているのが見えた。
「お水は、あちらへ置いておきますね」
お梅が稽古棟の縁を指し、布を掛けた盆を据えた。空になった桶を台所へ戻すというので、紗季は頷いたが、引き留める理由を一つ探してしまう。
お梅がいれば、何か話せる。
けれど、それではまた、あの子を間に立たせることになる。
「ありがとう。暑くなったら、飲むね」
ようやくそれだけ言うと、お梅は二人の顔を見比べ、桶を持って裏の通りへ出ていった。
籠が半分ほど埋まったところで、作兵衛が斧を持ち上げた。
小屋から数歩離れた土の上に、太い丸太を据えた薪割り台がある。庇の柱からも、裏口へ続く道からも距離を取り、その周りだけ木屑が掃き寄せられていた。
「こちらも、少し割っておきましょう。初めは見ていてください」
作兵衛は木を台へ立て、置いた手を離してから斧の柄を握り直した。刃が下りると木は二つに分かれ、一方が台の脇へ転がる。
紗季は、思わずそちらへ一歩出かけた。
「まだ」
低い声に足が止まる。
清十郎は紗季の腕をつかまず、拾う木と作兵衛の手元を交互に見た。
「斧を置かれてからに」
作兵衛が刃を休めるのを見届け、紗季は割れた木を拾った。切り口から立つ匂いは、小屋の乾いた薪より濃い。内側の淡い色を眺めながら、さっきの言葉を聞き直す。
今のは、嫌ではなかった。
どこが危ないか分かったし、次から自分で気をつけられる。何もするなと言われたわけでもない。
「分かりました」
返事は少し遅くなった。
清十郎がこちらを見る。紗季も顔を上げたが、目が合う前に、持っていた木を作兵衛へ見せてしまった。
「これも、細くするのですか」
「その太さなら、そちらの籠へ。細くするものは別に残してあります」
教わった方へ運びながら、紗季は唇を結んだ。
今なら、そのまま話せたかもしれない。
おはようございますでも、ありがとうございますでもよかった。三日も黙ってしまったせいで、普段なら何でもない言葉に、妙な重さがついている。
籠へ木を入れると、清十郎も隣の束を持ち上げた。
「こちらを、少し空けていただけますか」
「あ、はい」
紗季は端へよけ、通れる幅を作った。彼は短く礼をして、太い薪を小屋の奥へ運んでいく。
話しかけられたのに、返事だけで終わってしまった。
もっと何か言えばよかったと思いながら、その背中を見ている。すると清十郎が振り向いたため、紗季は慌てて足元の小枝を拾った。
こんなに気にしていることを、知られたくない。
それでも、もうこちらを見なくなってしまうのは嫌だった。
作兵衛に教わりながら、紗季も小ぶりな木を割ることになった。
まず、斧を持たずに立つ場所を確かめる。小袖の裾が足へ掛からないよう整え、周りから人が離れたところで柄を受け取ると、見ていた時よりずっと重みがあった。
木剣と同じつもりでは扱えない。
「急がず。置いた木が動いたら、そこでおやめください」
紗季は頷き、言われた幅に足を置き直した。作兵衛が選んだ木を狙って刃を下ろすと、乾いた音が返ってくる。
割れた、と思ったが、細い筋が入っただけだった。
すぐにもう一度と構えかけると、作兵衛が止め、道具を受け取って木の据わりを見直した。紗季は手のひらを衣で拭いながら、その横に待つ。
清十郎は何も言わない。
少し離れた場所で、割ったものを太さごとに分けている。こちらが一つ終える間に、彼の脇には形の揃った束ができていた。
失敗するところを見られたくなくて、紗季はもう一度、木の上面へ目を戻す。
二度目に分かれた時は、声を出しかけて飲み込んだ。
「できましたな」
作兵衛が言う。
「……割れました」
自分でも不満そうに聞こえる返事になった。嬉しいはずなのに、清十郎が何を思うか気にしたら、喜び方まで分からなくなってしまう。
斧を作兵衛へ返したところで、清十郎が台の脇へ来た。
「こちらは、俺が拾います。姫様は、あちらを」
彼が示した方には、先ほど紗季が割った片割れが落ちている。
紗季はそれを拾い、籠へ戻った。清十郎も反対側から木を入れるが、今度は、彼の手が離れるまで待ってから自分の分を置く。
二つとも、収まった。
小屋の入口で作兵衛が次の束をほどき始め、縄が土を擦る。その音を聞きながら、紗季は籠に載った木へ目を落とした。
心配してくれたことまで、嘘だったわけではないのだろう。
あの朝、自分が手伝おうとして困らせた人の顔を、この人は見ていた。今も、紗季が不用意に刃物へ近づかないように気を配っている。
私のために言ってくれたことも、あったのに。
ただ、そう考えても、あの言い合いの中で感じた悔しさは消えない。女らしく、と言われるたび、自分が面白いと感じたことや、したいと思ったことまで、間違いにされるようで悲しかった。
心配していると言われたら、全部、我慢しなければいけないのだろうか。
それも違う気がする。
紗季は膝についた木屑を払い、清十郎の手元を盗み見た。自分より大きな手なのに、枝の出た薪を選り分ける動きは細かい。尖ったところを内側へ向け、次に持つ人がつかみやすいよう揃えている。
こういうことを、さっきまでは見ていなかった。
何か言われたら嫌だとか、見られたら気まずいとか、自分のことばかり考えていたから。
謝らないと。
その思いは、もう、槙に言われたからではなかった。
「そこの短い分までで、一度休みましょう」
作兵衛は斧を片づけ、裏口側の柱のそばへ腰を下ろした。見張りの男が門から声を掛け、二人の間で荷の受け取りについて短いやり取りが始まる。
紗季たちの前には、まだ数本の木が残っている。
休みになったら、清十郎は離れていってしまうかもしれない。作兵衛のそばへ行かれたら、また呼ぶところから始めなければならないのだ。
今、言おう。
そう決めて顔を上げると、清十郎は籠の持ち手を直していた。話しかけるのを待つような顔ではない。それは当たり前なのに、紗季は名前を呼ぶだけの勇気を失くしかける。
謝ったら、何と返されるだろう。
お構いなく、と頭を下げられて終わったら。姫がしたことだから咎めないという顔で、もう自分には何も言わなくなったら。
許してもらうだけでは、足りないのかもしれない。
前のように話したかった。どうでもよいことを言い合い、変な結び方だと笑われたら、今度こそ言い返したい。
紗季は手近な薪へ指を伸ばした。
同じ一本を取ろうとした清十郎の指が、その手に触れる。
「申し訳ない」
彼が先に手を引いた。
触れたのはほんの一瞬で、木を間違えてつかんだのと変わらないはずだった。ところが、紗季の指は薪の上に残ったまま動かない。
手の甲に触れたところだけが、妙にはっきりしていた。
清十郎が困ったように紗季を見る。何か答えなければと思うのに、息を吸った途端、胸の内側がせわしなくなる。
「私も」
思っていたより大きな声が出た。
清十郎の眉が上がり、紗季は薪から手を離す。
「私も、謝らないといけないことが」
今ここで言わなかったら、次はいつになるのだろう。
紗季は膝に置いた手を握り合わせかけ、開いた。指を隠しても、したことがなくなるわけではない。
「頬を叩いて、ごめんなさい」
清十郎は返事をしなかった。
聞こえなかったのかと思うほど、その顔は動かない。紗季は彼の頬を見てから、目を逸らさずに続けた。
「怒っていたからといって、叩いていいわけじゃありません。あの時のことも……篠原様が言い返せなくなると、どこかで分かっていて、言いました」
言葉にすると、ひどさが余計にはっきりする。
喉につかえていたものを飲み込み、紗季は頭を下げた。
「傷つけるために言ったことも、謝ります」
そばで衣の擦れる音がする。
顔を上げると、清十郎が籠の脇へ両膝をつき、土の上に手を揃えていた。
「俺の方こそ、申し訳ございませぬ」
「篠原様、そこは」
汚れます、と言いかけて止まった。
清十郎は深く頭を下げている。慌てて立たせたら、彼の言おうとしていることまで止めてしまうのではないか。
「あの日、皆が困っていると申し上げながら、俺の望むお姿を押しつけました。姫様がどう思われるか、聞こうともせず」
紗季は膝の上で、手を揃え直した。
「俺が気に入らぬということと、危ないということを、一緒にしておりました」
清十郎が顔を上げる。
土のついた手が、まだ両脇に置かれている。その姿を見ると、謝ってほしくてここに残ったわけではないのに、ようやく届いたものがあるように思えた。
「ご心配くださったのは、分かりました」
紗季はゆっくり言った。
「でも、私が何かできた時は……まず、それを見てほしいです。直すところばかりだと、何をしても駄目みたいで」
そこまで話してから、贅沢な願いではないかと不安になる。清十郎は紗季を褒めるためにいる人ではない。
それでも、言い直す前に彼が頷いた。
「先ほどの薪は、よう割れました」
「あれは、作兵衛様が割りやすいものを選んでくださったから」
「選ばれた木でも、割ったのは姫様です」
紗季は返す言葉を失い、籠へ目を落とした。
あの二つの片割れは、ほかの薪と交じって、もうすぐには見つからない。けれど、ちゃんと見てくれていたのだ。
「……ありがとうございます」
頭を下げた時、頬に集まった熱が自分でも分かった。
さっきから、どうしてこんなに暑いのだろう。日向に出ているわけでもないのに。
「姫様」
呼ばれ、紗季は顔を戻した。
「あの時、俺がしたことを、なかったことになさる必要はございませぬ」
先ほどまでより低い声に、紗季は耳を澄ます。
「それと、今日のお話とは別のことです」
紗季は彼を見つめた。今、すべてを許す言葉を探さなくてもよいのだと思うと、返事を急がずにいられる。
しばらくしてから、小さく頷いた。
「私も、言われたことを、全部一緒にして怒らないようにします。困る人がいるなら、教えてください。でも、その人にどうすればいいか、自分でも聞きたいです」
「承知いたしました」
「それから」
清十郎が待つ。
これだけは言っておきたかったのに、いざ口にするとなると、謝る時とは違う恥ずかしさがあった。
「挨拶を返さなかったのも、ごめんなさい」
「俺も、お声を掛けませんでした」
紗季は膝の上の手をほどいた。
「明日は、言います」
清十郎が口元を緩める。
「では、俺も」
それだけの約束なのに、明日の朝まで待たなければいけないのが惜しかった。
残った木を籠へ収め、清十郎が作兵衛へ声を掛ける。
「こちらは、揃いました」
「では、水を飲んでおいてください。運ぶのは、こちらでいたします」
作兵衛は門の男へ一言告げて立ち、籠の置き場を見に小屋の奥へ入った。紗季が手を貸そうとすると、底に曲がった木があるので持ち直す、と言われる。
今度は、そのまま待てた。
縁へ行って水を飲み、手についた粉を濡れ布で拭う。冷たいところを指へ押し当てていると、清十郎も少し離れて椀を取った。
会話が途切れても、さっきのように何か言わなければとは思わない。
ただ、彼が水を飲む横顔を見てしまい、見ている自分に気づいては、布へ視線を戻した。
庇の陰に、太い薪を低く積んだ場所がある。紗季は足の疲れを感じてそちらへ向かい、崩れないか手で確かめてから腰を下ろした。
清十郎は縁のそばに立ったままだった。
作兵衛は小屋の入口で、運びやすいように籠を置き直している。ここからなら彼の姿も見えるし、声を掛ければ届く。
紗季は隣の空いたところへ手を置いた。
「こちらに」
清十郎が、自分を指されたのか確かめるように顔を上げる。
紗季は頷き、少しだけ端へ寄った。
彼は一礼して腰を下ろした。間には袖が触れないほどの隙間があり、無理に詰めてきたわけではない。
なのに、近い。
自分で呼んだくせに、紗季は膝の上へ目を落とした。何を話すつもりだったのか、もう思い出せない。
心の臓が跳ねて脈打ち、真横に座る清十郎を見返すことができなかった。
土の上には、二人の草履の先が並んでいる。
紗季は少し内向きになっていた自分の足を揃えた。そうすると、今度は背筋の曲がっていることが気になる。直しすぎればかえって妙だろうかと考え、動くのをやめる。
母上に教わった座り方なら、できるのに。
ただ隣にいるだけで、手をどこへ置いたら自然なのかさえ分からない。
風が小屋の脇を通り、足元の薄い木片を転がした。清十郎はそれを目で追っただけで、すぐ拾いには行かなかった。
まだ、ここにいてくれる。
そんなことを喜んでいる自分が、紗季には不思議だった。さっきまで一緒にいるのがあんなに気まずかったのに、今は離れずにいてほしい。
でも、このままでは、胸の音まで聞かれてしまわないか。
「姫様。お疲れに」
「これで!」
清十郎の言葉に、自分の声が重なった。
紗季は立ち上がり、曖昧に頭を下げた。何をもって「これで」なのか、自分にも分からない。
「私、お部屋へ。あの、失礼します」
作兵衛へも会釈をして、裏の廊下へ急ぐ。
上がり口で草履を脱ぎ、裾を持ち上げて走りかけると、曲がり角から盆を持った女が現れた。紗季は足を止め、壁際によけて通ってもらう。
「申し訳ありません」
女が通り過ぎる間にも、清十郎がどんな顔をしているか気になった。それでも振り返れず、紗季はその先の空いた廊下を小走りに戻った。
部屋へ入ると、机に置いた手本の下から白い紙の端がのぞいている。
昨日、謝る言葉を書こうとして出した一枚を目に留めながら、紗季は机の前へ座った。もうそれを取り出す必要はない。言いたかったことは、言えたはずだ。それなのに、胸の中には、さっきまではなかったものが次々と浮かんでくる。
あんなふうに帰って、怒ったと思われていないだろうか。
せっかく隣へ座ってくれたのに、失礼だった。
追いかけて来てほしいわけではない。今、戸口に立たれたら、もっと困る。
紗季は両手を頬へ当て、しばらくそのままでいた。
「姫様?」
お梅の声に、手を下ろす。
戸口には、戻ってきたお梅が立っていた。紗季の顔を見てから、まだ袖を留めている紐へ目を移す。
「お早かったのですね。お加減でも」
「違うの。何でもない」
「でも、お顔が」
お梅が近づき、額へ手を当てようとしたので、紗季は首を振った。
「熱じゃないと思う」
「思う、では困ります」
結局、額を確かめられた。お梅は少し考え、汗を拭く布を取りに立つ。
紗季は、その背を呼び止めた。
「謝れたよ」
お梅が振り向く。
「篠原様に。叩いたことも、ちゃんと」
「そうでしたか」
お梅の声が柔らかくなった。
紗季は頷き、胸元へ残っていた木の粉を指で払った。話せたことを誰かへ伝えたら、もう少し落ち着くと思ったのに、名前を口にすると、またあの横顔を思い出してしまう。
「篠原様も、謝ってくださって。それで、少し座っていたの」
「お二人で?」
「作兵衛様もいらしたよ。小屋のところに」
「はい」
お梅はそれ以上尋ねず、紗季の背へ回って袖の紐をほどいた。
布が肩から抜けると、腕が自由になる。紗季は袖口を直しながら、どう説明すればよいのか考えた。
「近くにいらっしゃると、変なの」
紐を畳んでいたお梅の指が止まる。
「変、と申しますと」
「胸が、どきどきして。さっき、少し手が触れただけなのに、何を言おうとしていたか分からなくなって」
お梅が、ゆっくり紗季の正面へ座った。
その顔を見た途端、紗季は説明の仕方を間違えた気がした。お梅の目元が明るくなり、結んでいた口の端まで上がっていく。
「何で笑うの」
「いえ」
「今、笑ったでしょう」
「お仲直りができて、ようございました」
それだけの笑いではない気がする。
紗季が見つめると、お梅は畳んだ紐を盆の脇へ置き、今度こそ布を取りに立ち上がった。
「お幸せに」
「お梅!」
呼んだ時には、彼女はもう戸口へ出ていて、振り返った顔にも悪びれた様子がなく、紗季は怒る言葉を探せないまま、廊下へ消える袖を見送った。
部屋には、庭の葉が擦れ合う音が戻ってくる。
お幸せに、だなんて。
紗季は机の角を見つめた。そんなことを言われるような話をしただろうか。謝ったことと、隣にいると落ち着かないことしか伝えていない。
けれど、考え直すうちに、顔を上げられなくなった。
また話したいし、姿が見えれば、こちらを見てほしくなる。それなのに、いざ隣へ座ってくれると、嬉しいのに逃げてしまうのだ。
これを、好きというのだろうか。
心の中で言葉にしてみると、気恥ずかしくて、誰もいないのに周りを見てしまう。
明日は、挨拶をする約束だった。
ただそれだけのことを思い浮かべて、紗季は口元へ手を当てた。お梅が戻ってくる前に、せめて普通の顔にしておきたかった。




