第6話 若い女に認められたかった
最初は、本当に小さなことだった。
それは恋ではなかった。
少なくとも、としお自身はそう思っていた。
ただ――
嬉しかったのだ。
若い女性から見られることが。
「その時計、高そう」
「お金持ちなんじゃない?」
「意外とカッコいいじゃん」
そんな言葉を聞くと、胸の奥が少しだけ熱くなった。
五十歳近くまで生きてきた。
仕事ではそれなりの地位にいる。
給料も悪くない。
貯金もある。
しかし、これまで女性から「男」として評価された経験は、ほとんどなかった。
ひとみと出会うまで、としおは自分に自信がなかった。
女性に好かれることなど、自分には縁のないものだと思っていた。
だからこそ――
「お金持ちなんじゃない?」
という言葉が、妙に心に残った。
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「最近、機嫌いいですね」
会社の部下に言われた。
「そうかな?」
「はい。なんか若返った感じします」
としおは笑った。
「彼女ができたからかな」
「いいですねえ」
周囲も笑う。
以前のとしおなら、そんな話をすることさえ恥ずかしかった。
しかし今は違った。
ひとみがいる。
自分を好きになってくれた女性がいる。
それが自信になっていた。
だから――
少しくらい若い女性と話したって、問題ない。
そう考えていた。
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数日後。
スマートフォンに知らない番号からメッセージが届いた。
――この前のおじさんだよね?
としおは画面を見つめた。
すぐに、あの女性だと分かった。
――そうだけど。
――覚えてた?
――覚えてるよ。
――よかった!
そこから、何気ない会話が始まった。
今日何を食べた。
大学はどうだった。
仕事は忙しいか。
そんな他愛もない話。
としおは、最初は何とも思っていなかった。
しかし、返信が来るたびに嬉しくなった。
若い女性とメッセージをしている。
それだけで、自分が少し若返ったような気がした。
「としおさんって、優しいね」
その一言に、何度も画面を見返した。
そして、彼女から初めて名前で呼ばれた。
「としおさん」
その響きが妙に心地よかった。
ひとみも、もちろん自分を大切にしてくれている。
けれど、ひとみとの関係には安心がある。
長く付き合っている夫婦のような安心。
それとは違う。
この女性とのやり取りには、緊張があった。
自分がどう見られているのか。
次は何を言われるのか。
それが気になった。
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「今度、ご飯行かない?」
ある夜。
そう送られてきた。
としおはしばらく返信できなかった。
頭の中に、ひとみの顔が浮かぶ。
結婚の話をしている。
二人で住む家を探している。
両親の墓参りにも行く予定だ。
それなのに――
若い女性と二人で食事。
どう考えても、普通ではない。
「やめておこう」
そう返信しようとした。
だが。
画面には、別のメッセージが届いた。
――おじさんとご飯行ったら楽しそう!
そして、その後に。
――ダメ?
としおは画面を見つめた。
「……ダメじゃないだろ」
小さく呟いた。
食事だけ。
そう自分に言い聞かせた。
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店は高級なレストランだった。
「すごい!」
女性は店内を見回した。
「こんなところ来たことない」
「そう?」
「としおさんって、こういうところ慣れてるんだ」
「いや、そんなことないよ」
「絶対嘘」
彼女は笑った。
そしてメニューを開く。
「これ食べたい」
指差したのは、一番高いコースだった。
としおは少し驚いた。
だが――
「いいよ」
そう言ってしまった。
「本当?」
「うん」
「ありがとう!」
彼女が嬉しそうに笑った。
その笑顔を見て、としおも嬉しくなった。
会計は二人で数万円。
としおにとっては、大した金額ではなかった。
店を出たあと。
「今日は本当にありがとう」
彼女が言った。
「楽しかった?」
「うん」
「また連れてって」
その言葉に、としおの胸が高鳴った。
「……いいよ」
帰宅したのは、夜遅くだった。
ひとみからメッセージが来ていた。
――今日はどうだった?
としおは少し迷った。
そして。
――会社の人と食事してた。
そう送った。
嘘だった。
ほんの小さな嘘だった。
このときは、としお自身もそう思っていた。
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その夜。
ベッドに入っても眠れなかった。
頭の中には、若い女性の笑顔が浮かんでいる。
「としおさん」
そう呼ばれた声。
「お金持ちなんじゃない?」
「優しいね」
「また連れてって」
何度も思い返してしまう。
一方で、ひとみとの将来も頭に浮かぶ。
結婚。
子ども。
家。
普通の幸せ。
としおは目を閉じた。
「俺は何を考えてるんだ」
自分でも分かっていた。
ひとみを裏切りたいわけではない。
若い女性と付き合いたいわけでもない。
ただ――
自分が「男」として評価されることが嬉しかった。
それだけだった。
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翌朝。
としおは会社へ向かった。
鏡を見る。
少し太っている。
髪にも白いものが増えた。
五十歳近い。
昔の自分なら、そんな姿を見て、
「もう若くない」
と思っただろう。
だが今は違った。
「まだ俺も、いけるんじゃないか」
そんな考えが頭をよぎった。
それが最初の変化だった。
服を買った。
少し高い腕時計も気になった。
美容院にも行った。
運動も始めた。
ひとみは喜んだ。
「最近、すごく変わったね」
「そうかな?」
「うん。前より若々しくなった」
「ありがとう」
ひとみは笑った。
「格好よくなったよ」
その言葉を聞いたとしおも、嬉しかった。
だが――
以前なら、それだけで満足していた。
今は違った。
「ひとみ以外の女性からも、そう言われてみたい」
そんな気持ちが、ほんの少し芽生えていた。
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ある夜。
例の若い女性からメッセージが届いた。
――としおさんって、彼女いるの?
指が止まる。
「いるよ」
そう送ることもできた。
実際、いる。
結婚を考えている女性がいる。
それを隠す必要などない。
しかし――
としおは数秒考えてから、
――まあね。
とだけ返した。
――へえ。
――どんな人?
としおは返信しようとした。
だが、そこでスマートフォンを伏せた。
「……何やってるんだ、俺」
自分で自分に呆れた。
それでも――
翌朝には、またスマートフォンを開いていた。
そして彼女から届いていたメッセージを見る。
――今度、買い物付き合ってほしいな。
としおは、しばらく画面を見つめた。
そして――
――いいよ。
そう返信した。
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一方、ひとみは何も知らなかった。
結婚後の生活を想像しながら、家具を見ていた。
新しい食器。
二人で使うベッド。
将来の子ども用の家具。
そんなものをスマートフォンで検索していた。
そして、ふと思った。
「私、幸せだな」
その頃――
としおは別の女性と、次に会う約束をしていた。
まだ大きな裏切りではない。
まだ引き返せる。
まだ何も壊れていない。
しかし――
人間の人生を壊すのは、
いつだって最初から大きな悪事ではない。
「これくらいなら大丈夫」
という、小さな言い訳だった。
そして、としおはまだ知らない。
次にその女性が欲しがるものが、
数万円の食事では済まないことを。
やがて彼女が、としおの一億円という数字に気づくことを。
そして――
その一億円が、
彼女にとって「人生を変えるほどの金」に見えてしまうことを。




