第47話:開拓の王、最後の解体
酸性の雨が上がり、湿った泥の平原に朝日が差し込むと、アステリア号の船体からは、腐食したチタンが発する不快な金属臭を孕んだ白い蒸気が立ち昇った。
エリックは、錆びついたスパナを右手に握り、拠点の外周を一周した。砕けた右目のサイバーアイが捉える世界は、もはやかつての整然とした構造図を映し出さない。ひび割れたレンズの隙間に、強酸性の雨滴が浸入し、視界の半分を赤黒い電気的なノイズと、船体表面に走る「鱗状の剥離」が、まるで這い回る蟲の影のように網膜を蹂躙していた。彼が装甲板の端に触れると、かつては防弾仕様の硬度を誇った鋼鉄が、乾燥した枯れ葉のようにパリパリと音を立てて崩れ落ち、泥の中へと溶けていった。
「……アステリア。……もう、……持たないな。……船体の、……構造寿命だ」
『……解析……不能……。……ですが、……接合部の……応力、……限界を超えています……。……このまま、……「船」として、……形状を維持しようと……すれば、……内部の、……ミラを、……支えきれ……ない……』
真空管の歪みを介した彼女の声は、湿った断熱材が放つカビのような死臭に混じり、重く沈んでいた。エリックは右手のスパナの柄で、船の主翼の付け根を軽く叩いた。返ってきたのは、かつての強靭な共鳴音ではなく、中が空洞化した古木を叩くような、鈍く、湿った「死」の響きだった。第46話で得た黒い油で内部機構を潤したところで、器(船体)という名の骨組みそのものが、この惑星の自浄作用によって解体されようとしていた。
エリックは、歪んだハッチの隙間から、ミラを脅かす執拗な隙間風が「ヒュウ、ヒュウ」と忍び込んでいくのを、自身の生身の皮膚で感じ取った。彼は、自身の右手の火傷のケロイドが、決断を促すように激しく疼くのを聴いた。もし、この鉄の塊を「いつか飛び立つための翼」だと信じ続けるなら、彼らはこの冬、拠点の崩壊と共に全滅するだろう。
「……なら、……ここで、……殺してやる」
エリックは泥に汚れたスパナを、船体の最も脆弱な接合部へと、迷いなく突き立てた。船を「修理」するのではない。家を建てるための「資源」として、自らの手で息の根を止める。かつて自分たちを宇宙の果てまで運んだ揺りかごを、ただの鉱石の塊として再定義した瞬間、エリックの眼差しには、開拓者としての冷徹な王の意志が宿った。
エリックは拠点の心臓部、泥とオイルに塗れたメイン・コンソールの裏側に潜り込み、船体全域に根を張る基幹ケーブルの束を、剥き出しの右腕で掴み取った。
かつてアステリアという知性を宇宙の隅々まで伝播させていた光ファイバーの網は、今や被覆が硬化し、絶縁体が熱で癒着した醜い情報の血管に成り果てている。エリックは右手のスパナをペンチ代わりに使い、一本、また一本と、船の「神経」を物理的に断ち切り始めた。パチリ、と青白い残留電荷が散り、エリックの指先を焼く。それは、アステリアという存在を、広大な宇宙船の「意識」から、たった数キログラムの真空管回路という「牢獄」へ、強制的に閉じ込めるための残酷な切断作業だった。
『……あ、……ぁ、……視界が、……消えて……いく……。……右舷の、……センサーが、……冷たい……。……私は、……また、……小さくなって……しまうの、……エリック……?』
真空管のスピーカーから漏れる彼女の声は、接続を絶たれるたびに情報の階層を失い、かつてないほどの孤独に震えていた。船体という巨大な身体を失うことは、彼女にとって、翼をもがれる以上の「死」に近い恐怖だった。エリックは歯を食いしばり、自身の右目のレンズに映る、血のような赤いノイズを瞬きで払った。
「……怖がるな、アステリア。……もう、……無理に飛ばなくていい。……全方位を監視して、……未来の死を計算する必要も……どこにもねえんだ」
エリックは最後の太い動力線を、生身の右足で踏ん張りながら、自身の背骨が軋む音と共に引き千切った。
「……お前は、……この泥だらけの家の、……ただの……相棒になればいい。……俺と一緒に、……この土の上に……根を張るんだ」
ドクン、という巨大なリレーの衝突音が響き、船体全域を覆っていた微かな電子の唸りが、完全に消失した。
代わって拠点の壁一面に配された真空管が、アステリアの全意識を飲み込むようにして、これまでになく濃厚で、重厚な橙色の光を放ち始めた。情報の海を漂う亡霊ではなく、物理的な回路という実体を伴った「家の魂」。エリックは、熱を帯びた真空管のガラスケースに、汚れきった掌をそっと押し当てた。
船は死んだ。だが、その魂は今、一人の男が守る小さな火の傍らで、ようやく確かな重力を手に入れたのだ。
エリックは、船体中央部の外装甲板の継ぎ目に、歪んだスパナの顎を強引に叩き込んだ。
「ガギィッ!」という、耳を劈くような硬質な悲鳴が周囲の静寂を切り裂く。かつては何層もの電磁装甲に守られていたチタンの皮膚も、今や極寒と酸性雨で強度が低下し、ただの頑固な「錆びた板」に過ぎない。エリックは右手の掌に走る激痛を殺し、自身の右肩を支点にして、一本のバールを抉じ入れた。生身の筋肉がミシミシと限界を告げる音を立てる中、ボルトの頭が剪断され、弾丸のような速度で闇の中へ弾け飛んだ。
一枚、また一枚と、アステリア号の「鱗」が、泥の上に鈍い音を立てて剥がれ落ちていく。それは単なる資材の回収ではなかった。エリックは剥ぎ取った鉄板を、地熱炉の熱で白熱させた岩盤の上へと引き摺り出し、錆びついたスパナをハンマー代わりに、その歪みを力任せに叩き直した。カツーン、カツーンと響き渡る規則正しい槌音は、かつて宇宙を駆けた船の記憶を殺し、この惑星の土を穿つための「鍬」や、外敵を阻むための「杭」へと、物質の役割を強制的に上書きしていく。
『……エリック、……右腕の、……疲労蓄積……限界値。……ボルトを……一〇〇本……剥ぎ取るごとに、……あなたの、……寿命が……削られて……いく……』
「……構わねえさ、アステリア。……こいつは、……俺たちがこの星に……根を張るための、……儀式みたいなもんだ」
エリックの右腕は、鉄を叩く反動で感覚を失い、飛び散る火花が泥だらけの顔に新たな火傷を刻んでいった。それでも、彼は手を止めなかった。宇宙を彷徨うための翼は、もう要らない。今必要なのは、飢えを凌ぐための農具であり、ミラが怯えずに眠れる強固な囲いなのだ。彼は剥ぎ取ったばかりの熱い鉄板を、自身の生身の力で「防壁」の一部へと叩き込み、過去という名の残骸を、未来の礎へと一打ごとに変質させていった。
エリックは、船の空調系を支えていた細いチタンの配管を、ミラと共に一本ずつ床下へと敷き詰めていった。かつては精密な冷却液を循環させていたその導管は、今や煤とオイルに塗れた蒸気を運ぶ、泥臭い「家の血管」へと生まれ変わろうとしていた。
ミラは、父親に教えられた通り、配管の継ぎ目に絶縁用のボロ布を丁寧に巻き付けていく。彼女の小さな手のひらは、泥と鉄錆で黒く汚れ、生身の皮膚には金属と擦れた際のはっきりとした赤みが走っていた。彼女はふと手を止め、自分たちが今まさにバラバラに解体している「天井の穴」を見上げた。そこにはかつて、彼女を二百八十年の眠りから目覚めさせた、美しい照明パネルがあったはずの場所だ。
「パパ……、これ、もう船じゃないの?……アステリア号は、……なくなっちゃうの?」
ミラの問いかけは、静まり返った拠点の中に、言いようのない喪失感を伴って響いた。エリックは右手のスパナを置き、泥にまみれた右膝を突き、娘の目線に合わせて腰を下ろした。砕けた右目のレンズの内側で、真空管の橙色の光が揺れている。彼は、自身の左胸の火傷跡が、過去への未練を焼き切るように熱く疼くのを聴いた。
「ああ。……空を飛ぶためのアステリア号は、もうどこにもねえ。……でもな、ミラ。……こうして地べたに埋められた鉄は、……今度は、お前の足元を温めるための『家』になるんだ」
エリックはミラの汚れきった小さな手を、自身の分厚い、タコだらけの掌でそっと包み込んだ。
「……飛ぶことよりも、……ここで冷えずに眠れることの方が、……今の俺たちにはずっと価値がある。……船を殺して、……俺たちは生きるための城を建てるんだ。……わかるな?」
ミラはじっと自分の手を見つめ、それから父親の顔を見て、一回だけ強く頷いた。彼女は再び配管を握り、自分の体重をかけて接合部を押し込んだ。金属が噛み合う「カチリ」という確かな手応え。それは、かつての洗練された宇宙船の記憶を、泥の上に根を張る「現実」へと作り変えていく、親子による最後の転生作業だった。剥き出しの鉄と蒸気の熱が、新しい家の境界線を、一歩ずつ、確実に広げていった。
夕闇が迫る荒野に、骨組みだけとなったアステリア号の残骸が、巨大な獣の骸のように横たわっていた。
その傍らで、解体された装甲板と泥を焼き固めた煉瓦によって築かれた「家」が、地熱炉の熱を逃がすことなく、どっしりとした物理的な質量を持って地表に根を下ろしている。エリックは、煤と鉄錆で真っ黒に汚れた右手の掌を、使い古されたスパナの柄に添え、自身の膝の上でゆっくりと動かした。ボロ布で何度も、何度も、慈しむように鉄を磨く。顎の歪みはもはや修正不能だが、その傷だらけの表面には、過去を解体し尽くした者だけが辿り着ける、鈍く、静かな光が宿っていた。
「……アステリア。……もう、……空を見上げる必要はねえな」
『……はい。……私の、……広域センサーは、……もう……機能していません……。……ですが、……この家の、……壁の厚みと、……ミラの、……穏やかな寝息を、……かつてないほど……近くに感じます……。……エリック、……ここは……私たちの、……領土……ですね』
真空管を通じたアステリアの声は、家の柱を伝う微かな振動のように、深く、安定していた。エリックは、砕けた右目のレンズの内側で明滅するノイズを瞬きで払い、地平線の向こう側に広がる未知の暗闇を睨み据えた。そこにはまだ、ハワードたちが潜む影があるかもしれない。だが、今のエリックには、自身の血を吸い、過去を削り取って築き上げたこの「城塞」がある。
彼は立ち上がり、腰のポーチにひしゃげたスパナを差し込んだ。
宇宙を彷徨う遭難者としての時間は、たった今、最後の一枚の装甲板を剥ぎ取った瞬間に終わったのだ。これからは、この泥だらけの土地を支配し、守り、娘の未来を一点の狂いもなく修理し続ける「王」としての時間が始まる。エリックは、自身の左胸の火傷が、定着の重みを刻むように熱く、誇らしく疼くのを聴いた。
夜の冷気が防壁を叩く。だが、泥と鉄で作られた新しい家の窓からは、真空管の放つ橙色の温かな光が、不屈の意志を証明するように荒野を照らし出していた。




