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THE RE-BUILDER —深宇宙の修復者—  作者: 寝不足魔王


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第48話:遺言のスパナ、受け継がれる意志

 拠点の最深部、蒸気タンクの基部を締め上げるボルトが、惑星の重圧に耐えかねて不吉な悲鳴を上げていた。


 エリックは右手の掌に、一度も手放したことのないあのスパナを握りしめ、歪んだボルトの頭へとその顎を噛み合わせた。だが、金属同士が接触した瞬間に伝わってきたのは、これまでのような強固な「噛み合い」ではなく、砂を噛むような、不快で脆い「滑り」の手応えだった。使い古された鉄の顎は、数え切れないほどの解体と再構築を経て、もはや規定の寸法を維持できぬほどに摩耗し、広がりきっていた。


「……動け。……あと一巻き、……耐えてくれ……」


 エリックが掠れた声で命じ、渾身の力を込めた瞬間、スパナの内部から「カチ、カチ……」という、金属の結晶構造が物理的な限界を超えて崩壊していく微細な音が響いた。それは、長年の酷使によって蓄積された金属疲労が、分子レベルで鉄の絆を断ち切ろうとしている断末魔だった。エリックの右腕の筋肉は、その不可避の崩壊を察知したかのように、痙攣に似た震えを繰り返し、掌のケロイドが摩擦熱で熱く、そして鈍く疼いた。


 砕けた右目のサイバーアイのレンズ越しには、スパナの表面に走る無数のミクロの亀裂が、赤いノイズとなって不吉に明滅している。かつてのアステリア号であれば、一瞬で「部品寿命」として破棄を勧告していただろう。だが今、エリックの右手にあるのは、ただの古い道具ではなく、彼の人生そのものを繋ぎ止めてきた唯一の「半身」だった。彼は、自身の生身の骨が軋む音を聴きながら、逃げ場のない力の奔流を、その小さな鉄の塊へと注ぎ込み続けた。


『……エリック、……やめて……! 金属の……弾性限界を……完全に……超過……。……そのスパナは、……もう……死んで……います……』


 真空管の歪みを介したアステリアの声が、警告というよりは、弔いの言葉のように低く響く。エリックは返事をする代わりに、奥歯を噛み締め、自身の全体重をスパナの柄へと乗せた。道具が死ぬか、家が壊れるか。その残酷な天秤の上で、エンジニアは自身の右手の感覚が、白い火花を散らしながら消失していくのを、ただ静かに、絶望的な予感と共に受け入れていた。


 極限まで引き絞られた緊張が、物理的な限界点を突破した。


 「パキンッ!」という、乾いた、けれどあまりにも絶望的な破壊音が、蒸気の唸りを突き抜けて拠点の深奥に響き渡った。エリックの右手に残っていたはずの強固な抵抗が、瞬時にして空虚な虚無へと変わる。渾身の力を込めていた彼の身体は、作用と反作用の均衡を失い、無防備に後方の泥濘へと叩きつけられた。


 跳ね上がった鉄の破片が、エリックの頬を鋭利な刃となって切り裂き、鮮血が熱い泥の上に飛び散る。だが、彼はその痛みさえ感じていなかった。砕けた右目のレンズが、泥の中に突き刺さり、二つに分かたれた「それ」を、赤いノイズの向こう側に捉えていた。


 地球脱出から、二百八十年の凍りついた孤独を越え、この不毛な惑星の土を幾度も叩き直してきた相棒。エリックの掌の形に馴染み、彼の血を吸い、熱を分かち合ってきたそのスパナは、今、修復不能の破断面を剥き出しにして、泥の中でただの動かない鉄クズへと成り果てていた。金属疲労の果てに現れたその断面は、まるで老人の骨のように白く、脆く、輝きを失っている。


「……あ……、……あ……」


 エリックは泥に塗れた右手を伸ばし、折れた柄の片方を震える指先で拾い上げた。かつては世界を修理するための万能の鍵であったその重みは、今や、自身の半身を失った喪失の質量として、ただ重く掌に沈み込む。修理屋エンジニアにとって、道具の死は、自らの意志の死と同義だった。彼は、自身の右手の火傷跡が、まるで命の灯が消えゆくかのように、冷たく、静かに冷えていくのを聴いた。


『……エリック。……金属結晶の、……完全な、……破断を確認。……もう、……結合リペアは、……不可能です……。……そのスパナは、……役割を……終えました……』


 真空管から漏れるアステリアの声は、かつてないほどの哀しみを帯びて、静寂の中に溶けていった。エリックは泥の中に跪いたまま、折れた鉄の塊を胸元に抱きしめ、頭を垂れた。蒸気タンクの緩んだボルトからは、逃げ場を失った熱気が「シュー、シュー」と、男の無力を嘲笑うかのように漏れ続けていた。


 拠点の隅で、エリックは動かなくなった右手を膝の上に置き、折れたスパナの死骸をじっと見つめたまま、微動だにせず座り込んでいた。


 壁面の真空管が放つ橙色の光が、彼の深く刻まれた額の皺と、泥に汚れた頬の傷を不気味に浮かび上がらせている。かつて宇宙の深淵を越え、星を壊し、そしてこの惑星の土を穿ってきた「開拓の王」の背中は、今や重力に負けた古木のように丸まり、言いようのない孤独を纏っていた。彼の脳内では、砕けたサイバーアイが映し出すノイズの向こう側に、かつてナノマシンで何でも「修理」できた全能の時代の残像が、虚しく明滅し、消えていく。


「……アステリア。……俺は、……もう、……何も直せない……」


 その呟きは、自身の肺の奥に溜まった煤を吐き出すような、重く、湿った響きだった。道具を失うことは、エンジニアにとって世界との接点を失うことに等しい。折れた鉄の断面は、彼自身の肉体が辿るべき「摩耗の終着点」を突きつけているようだった。自身の右手の指先を動かそうとするが、そこにあるのは思い通りの動作ではなく、過負荷に焼かれた神経がもたらす、ただ鈍く、重苦しい麻痺の手応えだけだった。


『……エリック。……システム(拠点)の、……各所に、……微細な、……綻び(ノイズ)が、……増え続けています……。……直さなければ、……崩壊……します。……立ち、……上がって……』


 真空管を通じたアステリアの声は、必死に彼を現実に繋ぎ止めようと震えていたが、今のエリックにはその言葉さえも、届くことのない遠い電子の残響に過ぎなかった。彼は、ミラの眠る部屋へと続く暗い通路を、砕けた視界の端で見遣った。あの子を救うために、自分はすべてを捨ててここへ来た。だが、最後に残った「修理屋」という誇りさえも、惑星の泥の中に砕け散ってしまった。


 エリックは自身の左胸の火傷跡に右手を当てた。そこにある熱さえも、今は冷徹な金属疲労の予感に支配されている。情報の海を捨て、泥を選んだ結果が、この無力な「ガラクタの身体」なのか。エリックは暗闇の中に深くこうべを垂れ、自身の喘鳴が真空管の唸り声に掻き消されていくのを、ただ無為に受け入れていた。


 父の背中が絶望に沈む暗がりの外で、ミラは泥の中に打ち捨てられた二つの鉄塊を、震える両手で拾い上げた。


 手のひらに残る、泥に冷やされた破断面のざらつき。彼女は父の分厚い手に包まれながら覚えた、あの「金属の理屈」を必死に手繰り寄せた。情報の海では一瞬で再構成されていたはずの物質が、ここではこうして無残に壊れ、沈黙している。彼女は自身の右手の熱を確かめるように強く握りしめ、父がかつて使った簡易溶接用の熱電素子と、船の廃材から削り出した補強用のチタンプレートを、かまどの残り火の前に並べた。


「……なおすよ、パパ。……わたしが、……つなぐから」


 ミラは煤けた防護ゴーグルを被り、折れたスパナの断面で学んだ「不純なハンダ」とフラックスを塗り込んだ。熱せられた鉄の棒を継ぎ目に当てると、ジリジリと肉を焼くような異臭と共に、青白い火花が彼女の白い頬を容赦なく灼いた。熱い。火の粉が散るたびに、ミラの小さな指先には新たな水膨れが刻まれていく。だが、彼女は瞬き一つせず、砕けた金属の結晶同士が、熱によって再び「一つの実体」へと融解し、混ざり合う瞬間を凝視し続けた。


『……ミラ、……出力、……安定。……接合部の、……分子構造が、……歪に、……けれど、……強固に……絡み合って……います……。……そのまま、……冷却……して……』


 真空管を通じたアステリアの声が、新しい技術者の誕生を祝福するように、温かな歪みを伴って導く。ミラは自身の汗と涙で汚れた顔を拭うこともせず、廃材のプレートを添え木のようにして、折れたスパナの「傷跡」を包み込むように溶接しきった。それはエリックが持っていた洗練された道具の姿ではなかった。継ぎ接ぎだらけで、表面は不格好なこぶのように盛り上がり、煤で真っ黒に汚れた、異形の「武器」だ。


 だが、ミラがその熱を帯びた柄を握りしめたとき、そこには情報の幻影ではない、泥の中から無理やり引き摺り出した「意志」の質量が宿っていた。彼女は火傷の痛みを、誇らしい勲章のように受け入れ、夜明け前の薄明かりの中で、新しく生まれ変わった鉄の塊を、静かに、けれど力強く掲げた。


 夜明けの冷気が拠点の隙間から忍び込み、エリックの凍てついた意識を微かに揺らした。


 泥の中に跪いたまま、微動だにせず「死んだ鉄」を見つめていた彼の手の中に、突如として、熱を帯びた「重み」が押し込まれた。驚きに砕けた右目を見開くと、そこには煤と灰にまみれ、指先に生々しい火傷の跡を刻んだミラが、一振りの異形の鉄塊を差し出して立っていた。


「……パパ。これ、使って。……こんどは、……わたしが直したんだよ」


 エリックの右手に握らされたのは、かつての洗練されたフォルムを完全に失った、醜くも力強い「道具」だった。折れた断面は船の廃材プレートで無骨に補強され、盛り上がった溶接跡は、まるで傷口を塞ぐ縫い目のように生々しい。だが、その継ぎ接ぎだらけの柄を握りしめた瞬間、エリックの硬直していた指先に、ミラの体温と、彼女が夜通し火花と戦って刻み込んだ「意志」の振動が、直接脊髄を伝って流れ込んできた。


『……エリック。……それは、……論理的な……修復では……ありません。……けれど、……そのスパナの……剛性は、……以前の……一・四倍を超えています……。……ミラの、……執念が、……鉄の構造を……変えたのです……』


 真空管を通じたアステリアの声が、新しい火種の誕生を告げるように、深く、重厚に響き渡った。エリックは、不格好に盛り上がった鉄の瘤を指先でなぞった。かつて自分がミラに教えた「現実の重み」を、今、娘が自分に突き返してきたのだ。情報の海に沈みかけていた父親を、現実の泥の上へ引き揚げたのは、自分自身の教えを継承し、自立した「一人の修理屋」の手だった。


 エリックは震える右腕に力を込め、その重いスパナを天へ向けた。砕けた視界の向こう側、朝日に照らされたミラの瞳には、守られるだけの部品ではない、世界を叩き直す者の鋭い光が宿っている。

「……ああ。……上出来だ、ミラ。……これなら、……どんな不具合だって……叩き壊せる」


 エリックは自身の左胸の火傷跡が、娘の成長を祝うように熱く、誇らしく疼くのを聴いた。折れたのは古い道具ではない。自分という一人の修理屋の、独善的な限界だったのだ。エリックは娘の手を、自身の泥だらけの掌で強く握り直し、新しく生まれ変わった「遺言のスパナ」を胸に抱いて、次なる過酷な開拓の地平を見据えた。


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