第42話:過去の亡霊、墜落した影
原生生物との死闘を経て、静寂が戻った拠点の隅で、エリックは過負荷によって焼き切れた義手の配線を、生身の右手の指先で一本ずつ手繰り寄せていた。
煤けたカバーを剥ぎ取り、剥き出しになった回路基板を覗き込む。砕けた右目のサイバーアイが、不安定な電力の明滅に呼応して、視界の端に「認識不能のパルス」を投影し始めた。それは、アステリア号のどの予備回路とも一致しない、不快なほど規則正しく、それでいて暴力的なまでに冷徹な、地球由来の軍用通信コードだった。
「……アステリア。この音、聞き覚えがある。……俺を、セクター9の地獄まで追い詰めた……あの軍靴の音だ」
『……解析、完了。……エリック、これは私たちの船の周波数ではありません。……もっと旧式で、……殺意に満ちた、……ハワードの追撃艦が使用していた……緊急救難信号です。……地平線の向こう、北西四キロ地点……。そこには、私たちの他に「別の遺体(残骸)」が横たわっています』
義手の中のチップから漏れる声には、かつてないほどの警戒と、抑えきれない拒絶の震えが混じっていた。エリックは右手に握っていた錆びついたスパナを、無意識に強く締め上げた。二百八十年前、地球の重力圏を脱する際、自身を焼き、ミラを奪おうとした「過去の亡霊」が、この不毛な惑星にまで影を落としている。それはただの信号ではなく、終わっていない因果が物理的な質量を持って現れた、不吉な招待状だった。
「……ミラを、このままにはしておけない。……何が墜ちたのか、……誰がまだ『生き残って』いるのか、……俺の眼で確かめる必要がある」
エリックは、まだ熱を帯びたままの燃焼炉の傍らで眠るミラに、アステリア号の厚い断熱材を静かに被せた。彼は船の残骸から削り出した鋭利な鉄杭を腰に差し、予備の松明を一本、泥だらけの右手で掴み取った。ひしゃげたスパナを杖代わりに、エリックは泥濘の地平線を睨み据えた。過去を「修理」し、本当の安息を手に入れるためには、あの呪われた信号の発信源を、自身の腕で叩き潰さねばならない。エリックは、左胸の火傷の疼きがかつてないほど激しくなるのを聴きながら、闇の残る荒野へと、重い足音を刻み始めた。
拠点を離れるほどに、惑星の土壌は粘りつく泥から、鋭利な鉱物片を含んだ黒い「磁気砂」へと姿を変えていった。
エリックは、機能を停止し冷徹な鉄塊へと成り果てた左腕の義手を、右肩から斜めに掛けたスリングで強引に固定し、重心を右側に偏らせながら砂の斜面を這い上がった。一歩踏み出すたびに、細かな磁気砂がブーツの継ぎ目をこじ開けて侵入し、生身の足首を物理的に削り取る。砕けた右目のサイバーアイは、地層が放つ磁気嵐に過敏に反応し、視界の半分に不規則な走査線と、脳を直接灼くような白熱のノイズを撒き散らしていた。
「……アステリア。……あと、どれくらいだ。……砂が、……俺の膝を……笑ってやがる」
『……目標まで、……一・二キロ。……エリック、歩行速度が……三〇パーセント低下しています。……砂漠の磁場が、……私のチップの論理回路を……物理的に……歪めています……。……意識を、保つのが、……苦しい……』
義手から漏れる声は、風に舞う砂に削られるように掠れていた。エリックは右手の掌に、杖代わりに突くスパナの柄から伝わる「砂の層の厚み」を神経のように研ぎ澄ませ、崩れやすい斜面の急所を見極めた。ナノマシンの高度な地形スキャンが消えた今、彼は自身の足裏が感じる「地圧」と、左胸の火傷跡が放つ「冷気への拒絶反応」だけを頼りに、この惑星の拒絶を突破せねばならなかった。
喉は熱した砂を流し込まれたように焼け付き、肺の奥には煤と鉱物の微粒子が澱のように溜まっていく。だが、エリックは立ち止まらなかった。砂嵐の合間に、サイバーアイのノイズを突き抜けて、あの地球軍の「救難ビーコン」の不快な高周波が脳幹を叩き続けている。それはかつてセクター9で彼の住処を焼き、ミラの命を資源として見積もったハワードという名の「設計ミス」が、この星の裏側でまだ息を潜めている証左だった。
エリックは、自らの血が混じった汗で滑るスパナを握り直し、風に抗って頭を垂れた。
「……逃がさねえぞ、……ハワード。……お前が……この星のどこかに墜ちているなら、……俺が、……最後の息の根を……叩き直してやる」
歪んだ影が砂漠の尾根を越え、その先で月光を鈍く跳ね返す「異物の影」が、エリックの欠損した視界に、剥き出しの鉄の牙として姿を現した。
砂嵐のカーテンが揺らぎ、その奥から現れたのは、惑星の地表を数百メートルにわたって削り取った「鉄の傷跡」だった。
地球軍の追撃艦。かつてセクター9の空を支配し、エリックを宇宙の果てまで追い詰めた白銀の巨体は、今や中央部から無残に両断され、砂漠に突き刺さった巨大な墓標のように沈黙していた。アステリア号のような再生能力を持たないその船体は、大気圏突入時の摩擦熱で表面の塗装が剥げ落ち、惑星の酸性雨と磁気砂によって、まるで数千年前の遺物のように赤茶けて風化している。
「……見覚えがあるな。あの左舷のひび割れ、……俺がアステリアの主砲で、無理やりこじ開けた場所だ」
エリックは重い足取りで、歪んだ外装板の亀裂へと歩み寄った。砕けた右目のサイバーアイが、剥き出しになった装甲の断面を捉える。そこには、二百八十年前の戦闘でエリックが放った熱線が融解させた、独特の「波状の焦げ跡」が、化石のように刻まれていた。自身の過去が、物理的な質量と傷跡を伴って目の前に実在している。その事実に、エリックの心臓は不快な、泥臭い拍動を刻んだ。
『……エリック、……構造材の……腐食、深刻……。……船体は、……完全に……死んでいます。……ですが、……内部に、……微弱な……熱源反応……。……地球製の、……バックアップ・電源が、……まだ……蠢いています……』
義手から漏れるアステリアの声が、船体の軋む音と混じり合い、不気味な不協和音を奏でる。エリックは右手のスパナの柄で、錆びついた外装を叩いた。返ってくるのは、内部が完全に空洞化し、砂に侵食されていることを示す、虚しい空洞音だけだった。
風に晒されたチタンの破片が、エリックの頬を薄く切り裂く。彼はかつての宿敵が座していたはずの、暗黒の艦橋へと続く裂け目を見据えた。そこから漂ってくるのは、古い配線の焼ける匂いと、長い沈黙に閉じ込められた死の気配だった。エリックは、自身の左胸の火傷が、敵意を孕んだこの鉄の死骸に呼応するように、激しい熱を帯びるのを聴いていた。
歪んだ隔壁を潜り抜けた先には、二百八十年前の「停滞」が、死の臭気と共に凝固していた。
船内の非常灯はとうに力尽き、エリックが掲げる松明の火光だけが、壁面にこびりついた赤錆の斑点を不気味に浮かび上がらせている。通路の両脇には、コールドスリープの故障によって装置の中でミイラ化した、かつての追撃兵たちの成れの果てが並んでいた。彼らは地球の「正義」を信じ、エリックという「不具合」を消去するために派遣された者たちだ。だが今、彼らは惑星の重力に従って座したまま、虚ろな眼窩でエリックの侵入を傍観している。
「……ハワード、お前もこの中にいるのか。それとも、まだ地獄のどこかを這いずり回っているのか」
エリックは艦橋の奥深くに鎮座する、半ば泥に埋もれたメインコンピュータの筐体へと辿り着いた。彼は右手の錆びついたスパナを、熱で癒着した冷却パネルの隙間に抉じ入れ、全身の体重をかけて「解体」を開始した。ギチ、ギギィ……と、古いハンダが引き千切られる嫌な音が響き、不快なオゾン臭が鼻腔を突く。彼は情報の解析など待たなかった。ただ、物理的に物理層を剥ぎ取り、残留電荷が眠るメモリ・チップを直接、義手の端子へと叩きつけた。
『……データ、……断片的。……ログ、……再生……します……』
義手のチップから漏れ出したのは、ノイズに塗り潰されたハワード大佐の、あの冷徹なまでの高圧的な音声ログだった。
『……目標の脱出を確認。……カレン、残存機体を集結させろ。……この惑星の座標は……呪われているが、……「資源」の回収は……人類再生の絶対条件だ……。我々が墜ちようと、……後続の……第二陣が……』
音声はそこで、激しい破砕音と共に途絶えた。エリックは、スパナを握る指先が怒りで白く震えるのを止めることができなかった。ハワードは、この惑星に不時着してもなお、ミラを、自分の娘をただの「部品」として追うことを諦めていなかったのだ。エリックは、ミイラ化した兵士が握りしめていた地球軍の認識票を力任せに踏み砕き、暗黒の艦橋に、自身の肺が絞り出した獣のような低い唸り声を響かせた。
傾きかけた太陽が、赤茶けた鉄の死骸に、長く、鋭い影を投げかけていた。
エリックは、ハワードの残響を吐き出したコンピュータの筐体から、まだ予熱の残る数本の高強度ボルトを、錆びついたスパナで力任せに引き抜いた。泥にまみれた右手の掌に、その「地球製の鋼」の確かな硬度と冷たさが伝わる。かつての宿敵が遺した唯一の有用な資源が、娘を傷つけるための武器の成れの果てであるという事実に、エリックは奥歯が軋むほどの嫌悪を覚えながら、それを腰のポーチへと押し込んだ。
『……エリック。……ログの、……末尾に、……複数の、……突入艇の、……分離シグナルを……確認。……ハワードが、……この本艦と……運命を共にした……形跡は……ありません。……カレンも、……生存……している……可能性が、……八三パーセント……』
義手から漏れるアステリアの声は、磁気砂の干渉でさらに音程が崩れ、断末魔のような唸りを孕んでいた。エリックは、血と煤で汚れた顔を上げ、地平線の向こう側に広がる、底知れぬ未知の荒野を見据えた。この惑星のどこかに、自分たちと同じように、あるいは自分たち以上に殺意を研ぎ澄ませた「文明の亡霊」が息を潜めている。その事実は、剥き出しの牙となって、エリックの背筋を冷たく撫でた。
「……追いかけてくるなら、来ればいい。……今度は、……宇宙船の主砲なんて……上等なもんは……使ってやらない。……この、……泥だらけのスパナで、……一人ずつ、……叩き直してやるだけだ」
エリックは、夕闇に飲み込まれゆく追撃艦の残骸に背を向け、拠点へと引き返し始めた。影はまだ消えていない。どころか、より深く、重く、この惑星の泥の下へと根を広げようとしている。彼は、自身の左胸の火傷跡が、迫り来る「再会」を予見するように、拍動に合わせて激しく、そして熱く疼くのを聴いた。砂を噛む一歩一歩が、かつての復讐劇ではなく、娘を守るための、より凄絶な開拓の続きであることを、エリックは暗くなる空に自身の喘鳴を響かせながら、心に深く刻み込んだ。




