第4話:氷の微笑、紅蓮の電子戦
ヘドロと錆にまみれた「廃棄区画」を背に、エリックは垂直に伸びる緊急梯子を一段ずつ、確実な足取りで登り詰めた。
指先に伝わる鉄の冷たさが、徐々に乾いた温もりへと変わっていく。最後の一段を蹴り、厚い通気グリルを「オーバークロック・ハック」で音もなく開錠して這い出した先は、先ほどまでの奈落が嘘のように静謐な世界だった。
そこは、要塞の軍居住区――「アッパー・セクター」の最下層だ。
空気は高度な清浄システムによって濾過され、潮の臭いも焦げた半田の匂いもない。天井に設置された人工太陽のパネルは、セクター9の住人が一生拝むことのない、穏やかな初夏の陽光を模した光を淡々と投げかけていた。
エリックは自らの姿を苦く見つめた。
泥にまみれ、返り血と廃油で黒く汚れたタクティカル・ベスト。その男が踏みしめる大理石の床には、一歩ごとに不気味な黒い足跡が刻まれていく。
壁面を泳ぐ観賞用のデジタル魚や、住人の帰宅を待つ家庭用ドローンの柔らかな起動音が、エリックの耳には狂気の調べのように聞こえた。
『エリック。心拍数の急上昇を検知。アドレナリンの分泌量が過剰です。……感情の乱れはプロメテウスの同期精度を低下させます。深呼吸を行い、副交感神経を優位に保ってください』
「……足元を見てみろ、アステリア。この連中が吸っている『綺麗な空気』は、下の連中が吐き出した絶望を濾過して作られてる。……落ち着けっていう方が無理な話だ」
エリックが握りしめる左腕の外部ブースター『プロメテウス』が、彼の怒りに呼応するように不気味な赤光を明滅させた。
脳内に流れ込む電子のノイズが、怒りを燃料にして増幅されていく。視界の端で、無害な家庭用ドローンの構造データが「破壊対象」として赤く強調される。
『警告。ブースターがあなたの感情をフィードバックし、演算出力を強制的に引き上げています。……これ以上の出力上昇は、熱暴走を引き起こします。エリック、聞こえていますか?』
「……ああ。分かっているさ」
エリックは一歩、また一歩と、白く輝く廊下を進んだ。
その歩みは、単なる潜入者のそれではない。虐げられた者たちの怒りを背負い、偽りの楽園を焼き払いに来た復讐者の足取りだった。
角を曲がった先、要塞の中央広場へと続く巨大な自動扉が、エリックの接近を感知して、皮肉なほど恭しく開かれた。
中央広場へと足を踏み入れた瞬間、不自然なほどの静寂がエリックを包み込んだ。
広場を彩っていたホログラムの噴水が、一瞬のノイズと共に掻き消える。人工太陽の光が急速に減衰し、代わりに冷たい警告用の非常灯が、空間をどぎつい真紅に染め上げた。
『エリック、全方位からの電磁ロックを確認。……嵌められました。この空間自体が、巨大なファラデーケージとして機能しています。外部との通信は完全に遮断されました』
アステリアの警告と同時に、広場を取り囲むバルコニーの影から、幾十もの銃口が突き出された。だが、それらは引き金を引く気配を見せない。まるで、獲物が罠の深部へとはまるのを愉しんでいるかのようだった。
「……出てきたらどうだ。隠れるのは、あんたの趣味じゃないはずだ」
エリックは広場の中央で立ち止まり、敢えて視線を上げずに言い放った。
正面の貴賓室へと続く大階段の上。影の中から、一人の女性が姿を現した。
白を基調とした隙のない軍服に身を包んだその女性――カレンは、冷ややかな微笑を湛えながら、エリックを見下ろしていた。彼女の首元には、エリックと同じ、いや、それよりも洗練された最新型の神経接続端子が埋め込まれている。
「お久しぶりです、教官。……いいえ、今はただの『廃棄物』でしたね」
カレンの声は、刃物のように鋭く、そして美しかった。
彼女はかつてエリックが教官を務めていた電脳戦部隊の教え子であり、彼が軍を去った後に、その技術を「さらに非情な形」で完成させた後継者だった。
「カレンか。……その端子、無理やり適合させたな。脳への負荷に耐えきれず、情緒を焼き切ったか?」
「おかげさまで、余計な感傷はすべて捨て去ることができました。……今の私には、あなたの『オーバークロック・ハック』の理論は、あまりに古臭く、そして甘く見えます」
カレンが指先を軽く動かすと、彼女の背後の影から、四体の高機動型アンドロイド「リッパー」が滑り出すように現れた。その手足には、一振りで鋼鉄を両断する高周波ブレードが装備されている。
「ハワード大佐からの伝言です。『ミラはもう、新しい家族を見つけた。過去の亡霊は、ここで安らかに眠れ』……と」
カレンの瞳が、戦闘モードへの移行を示す紅い光に染まる。
エリックはプロメテウスを咆哮させ、全身の筋肉を戦闘態勢へと叩き起こした。
「……アステリア。生存確率は出さなくていいと言ったが、一つだけ教えてくれ。……こいつを黙らせるのに、何秒かかる?」
『……最適解を算出。……あなたの脳が耐えられる限界、八十秒以内に決着をつける必要があります。……エリック、これより電脳深度、レベル・マキシマムへ移行します』
「排除開始」
カレンの冷徹な号令と共に、四体のリッパーが爆発的な加速で地を蹴った。
エリックの網膜上に、アステリアが弾き出した無数の回避ルートが奔流となって流れる。だが、その情報の海を、カレンのハッキングが真っ向から引き裂いた。
『警告。視覚野への強制介入を確認。……カレンが私のレンダリング・データを書き換えています! エリック、視界を信じないでください!』
視界が歪む。実在しないはずの壁が立ち塞がり、リッパーの残像が十数体にも増殖して広場を埋め尽くす。
エリックは敢えて目を見開き、外部ブースター『プロメテウス』の全出力を、自身の「聴覚」と「皮膚感覚」に再分配した。
「アステリア……視覚情報は捨てる。……音と風圧のデータだけを、ダイレクトに脳へ叩き込め!」
左腕の端子が、ジリジリと肉を焼く異臭を放ち始める。
一機のりッパーが、頭上から高周波ブレードを振り下ろした。エリックは目をつぶったまま、空気の揺らぎだけを頼りに身を翻す。大理石の床がバターのように切り裂かれ、火花がエリックの頬を焼く。
避けながら、エリックはP-12の引き金を引いた。
だが、弾丸は虚空を撃ち抜く。カレンが弾道の演算を先読みし、リッパーの挙動をミリ秒単位で補正しているのだ。
「遅いですよ、教官。……あなたのハックは『点』だ。対して、今の私は要塞そのもの。……『面』で支配しているの!」
カレンの嘲笑と共に、広場の天井に据え付けられた消火用高圧ノズルがハッキングされ、エリックへ向けて猛烈な水流を噴射した。足元をすくわれ、姿勢を崩したエリック。そこへリッパーの刃が、心臓を狙って殺到する。
『残存時間、四十二秒。……エリック、脳の温度が四十一・五度を突破! このままでは意識が焼き切れます!』
「……なら、こいつをくれてやる!」
エリックは回避を捨て、逆にリッパーの懐へと飛び込んだ。
左腕の接続端子を、リッパーの駆動系に直接叩きつける。
――「オーバークロック・ハック:全リソース過負荷」。
自分の脳を焼くはずだったプロメテウスの狂気的な演算負荷を、逆流させてリッパーのメインフレームへと流し込む。
ドォォォォ、と重低音が響き、リッパーの内部回路が耐えきれずに破裂した。内部から青白い電弧が噴き出し、アンドロイドがただの鉄屑となって崩れ落ちる。
「なっ……自分の回路を焼いてまで……!?」
カレンの表情が初めて驚愕に歪む。
エリックは鼻から鮮血を滴らせながら、残りの三体を見据えた。
視界はもはや半分がノイズに埋もれている。だが、彼の背骨には、アステリアを通じたミラの「叫び」が、かつてないほど鮮明に響いていた。
「……プロの仕事を見せてやる。……代償を払ったのは、俺だけじゃないぞ」
エリックの左腕から、紅いスパークが炎のように立ち昇る。
その姿は、狂気に染まった機械の神に抗う、ただ一人の人間そのものだった。
爆発的な火花が広場を埋め尽くし、最後の一体のリッパーが派手に回路を吹き飛ばして沈黙した。
静寂が戻った広場の中央で、エリックは膝をつき、激しく肩を上下させていた。左腕の外部ブースターからは、限界を超えた演算の代償として、白く細い煙が立ち昇っている。
「……バカな。脳を直接冷却もせずに、これほどの出力を……」
大階段の上、カレンが信じられないものを見る目でエリックを凝視していた。彼女の首元の端子もまた、激しい電脳戦の余波で紅く変色している。彼女は追撃を仕掛けようと、再び指を掲げた。
――その時だった。
メガロポリスそのものが、巨大な生物の断末魔のような地響きを立てて激しく震動した。
壁面のモニターが同時にノイズを発し、スピーカーからは意味をなさない「電子の悲鳴」が全方位から降り注ぐ。
『……エリック! 警告。要塞のメインOSが、予測不能なバーストを起こしています! 震源は……最上層「アテナイ」! ミラの生体信号が、要塞の全システムを無理やり「発火」させています!』
アステリアの絶叫に近い報告。
直後、エリックの脳内に、針で刺されるような鋭い痛みが走った。それはハッキングでもノイズでもない。ミラの、純粋で、そして絶望に満ちた「声」だった。
『……お父さん……助けて……暗い……全部が、私の中に流れ込んでくるの……!』
「ミラ……!」
エリックが顔を上げると、要塞の中心を貫く巨大なシャフトの防壁が、内側からの圧力で紙細工のように弾け飛んだ。そこから溢れ出したのは、純白に近い青い光の奔流。ミラの意志と要塞のエネルギーが混じり合った、物理的な破壊の波だ。
カレンはその光に呑まれそうになり、舌打ちをして身を翻した。
「……調整が早すぎる……。あの娘、要塞を喰い殺すつもりなの!?」
彼女は一瞥をエリックに向けると、退避用の高速リフトへと飛び込んだ。
「死に損ないの教官。……命を拾いましたね。ですが、その先に待っているのは地獄だけです。……ミラはもう、あなたが知っている娘ではないのだから!」
リフトが急上昇し、カレンの姿が消える。
後に残されたのは、崩落し始めた広場と、天にまで届くようなミラの悲鳴。
エリックは、感覚の失われかけた左腕を強引に動かし、大階段の先――光の奔流が噴き出す最上層を見上げた。
「……待ってろ。今、その檻を壊してやる」
降りしきる瓦礫の中、エリックは一歩、また一歩と、地獄の最上階へと続く階段を登り始めた。
要塞の深部、ミラという名の「神」の胎内へと突き進んでいく。




