第5話:幽霊船の迷宮、鏡像の回路
視界が、水面のように歪んでいた。
大階段を駆け上がったはずのエリックが辿り着いたのは、整然とした軍居住区ではなく、幾何学的な狂気に支配された「異界」だった。
本来ならば鋼鉄の防壁で仕切られているはずの通路は、内側から膨れ上がったかのように湾曲し、壁面に埋め込まれた無数のディスプレイには、脈打つ血管のような紅いノイズが絶え間なく走り続けている。
「アステリア……。現在地を再計算しろ。……ここは、何層だ?」
エリックは壁を支えにして立ち上がろうとしたが、掌に触れた壁の感触に、嫌悪感で指先を跳ね上げた。
冷たいはずの金属が、微かに熱を帯び、呼吸するようにゆっくりと波打っている。それはミラが要塞のメインOSと同期した結果、物理的な構造材の分子配列さえもが電子信号によって書き換えられ始めた、狂った演算の具現化だった。
『……計算不能。GPS信号、および慣性航法データは完全にロストしました。エリック、この空間の物理法則は、もはや既存の規格を逸脱しています。……ミラは要塞の「設計図」そのものをハッキングし、再構築しているようです』
アステリアの声に、かつてないほどの激しいデジタル・ノイズが混ざる。
エリックが前を向くと、直線だったはずの廊下が、視界の先で螺旋を描きながら、重力を無視して天井へと繋がっていた。
「……ミラ。お前がこれをやっているのか?」
エリックが絞り出すように呟くと、返答の代わりに、要塞の深部から不気味な重低音が響いてきた。
壁面のスピーカーが音割れを起こし、数千人の呻き声を合成したような電子の咆哮を撒き散らす。それと同時に、通路の先にある自動扉が、意志を持った巨大な口のように不規則に開閉を繰り返した。
外部ブースター『プロメテウス』が、かつてない強度の過熱を警告する。
網膜上に表示されるべきマップは、もはや意味をなさない光の粒子となって霧散し、代わりに、ミラが幼い頃に描いた「落書き」のような、稚拙で巨大なクレヨンの線が空間にオーバーレイ投影された。
『警告。脳波に深刻な混乱を確認。エリック、目に見えるものを信じてはいけません。……今の要塞は、ミラの「悪夢」が物理的に出力された精神の迷宮です』
「……分かっているさ。……どれだけ姿を変えようが、ここは俺が設計に関わった要塞だ。……あいつの寝顔より、よく知っている場所なんだよ」
エリックは左腕の端子を強く握り、激痛を燃料にして意識を研ぎ澄ませた。
一歩踏み出すごとに、大理石の床が波紋のように揺れ、虚空に存在しないはずのミラの残り香が漂う。
エリックは、狂い始めた「世界の心臓」を目指し、歪んだ迷宮の奥深くへと踏み込んだ。
歪んだ回廊を進むほどに、音と光の境界が溶け落ちていく。
エリックの耳元で、存在しないはずの笑い声が弾けた。それはセクター9の工房で、ミラが壊れたラジオを直そうとしていた時の、屈託のない笑い声だ。
「……ミラ? そこにいるのか?」
エリックが虚空に手を伸ばすと、通路の角から、幼い頃のミラのホログラムが走り抜けていった。だが、それは記録された映像ではない。要塞の防犯カメラが過去に捉えた膨大なアーカイブが、ミラの暴走した無意識によって勝手に繋ぎ合わされ、現実の風景に投射されているのだ。
『エリック、止まってください。それは視覚野への不正アクセスによるゴーストです。……実体は存在しません。今のあなたは、自分自身の記憶という名の罠に足を取られています』
「……分かっている。だが、あいつの声が聞こえるんだ」
足元が急に柔らかくなり、高級な絨毯のように沈み込む。視界が明滅し、次の瞬間、廊下の壁一面に、ミラの母親――数年前に亡くなったエリックの妻の姿が映し出された。数千の画面が同時に彼女の遺影を映し出し、一斉にエリックの名を呼ぶ。
『……リ、ク……エ……リッ……ク……』
スピーカーが音割れを起こし、愛する者の声が金属的な絶叫へと変質する。
プロメテウスが過熱し、エリックの脳内に直接、ミラの「痛み」が流れ込んできた。それは、自分の身体が自分のものでなくなっていく恐怖。数億の電子信号が、細い神経を焼き切りながら流れ込む苦痛だ。
「う、ああぁっ……!」
エリックは膝をつき、激しい耳鳴りに耐えながら頭を抱えた。
視界が真っ赤に染まり、アステリアの警告ログが血の文字のように流れる。
『深刻なエラー。プロメテウスの同期率が一一〇パーセントを突破。エリック、あなたの自我境界線が崩壊しかけています。……私の音声ガイドに従ってください。思考を停止し、呼吸だけに集中を』
「……ダメだ、アステリア。思考を止めたら……俺は俺じゃなくなる」
エリックは震える手で、左腕の端子のマニュアル・オーバーライド・レバーを引いた。
強引な電気刺激が脳に走り、一時的に「蜃気楼」を吹き飛ばす。だが、その代償として視界の右半分が暗転し、黒いノイズが染みのように残った。
蜃気楼が消えた後に残ったのは、冷たい鋼鉄の床と、遠くで響く要塞の軋鳴だけだった。
エリックは自身の焼ける肉の匂いを嗅ぎながら、死んだ妻の面影が消えゆく壁を、憎しみを込めて睨みつけた。
「……ハワード。あいつの思い出まで、システムの燃料にしやがったな……」
もはや怒りさえも、アステリアの計算を狂わせる「ノイズ」の一つに過ぎない。
それでもエリックは、壊れかけた自分の意識を掻き集め、一歩前へ這い出した。
通路の最奥、重厚な気密扉が不自然なほど静かに、独りでに左右へと開いた。
そこから現れたのは、これまでの無機質な殺人機械ではない。要塞の防衛システムが、ミラの「拒絶」という感情を物理的なカタチへと翻訳し、無理やり具現化させた異形の守護者だった。
それは、半透明の光ファイバーが無数に絡み合い、幼い子供が描く「天使」のような歪な姿をした浮遊端末だった。核となる演算ユニットからは、ミラの泣き声に似た高周波のノイズが絶え間なく溢れ出している。
『警告。対象から未知の力場を検知。これは武装ではありません……ミラの「孤独」そのものが、電磁的な斥力として出力されています。エリック、これに触れてはいけません。あなたの神経系が、彼女の悲しみに汚染され、焼き切られます』
「……ミラ。お前、泣いているのか」
エリックが歩を進めようとした瞬間、光の守護者が翼を広げるように発光した。
凄まじい衝撃波が空気を震わせ、エリックの身体を壁へと叩きつける。それは殺意ではなく、これ以上傷つきたくないという少女の「震え」そのものだった。
『……お父さん……来ないで……。壊れちゃう……全部、壊れちゃうの……!』
スピーカーから流れるミラの声は、もはや人間のものではなかった。数万の回路を通過し、デジタルな響きを帯びた、神の如き拒絶。
守護者が再び光を放ち、周囲の瓦礫が重力を無視してエリックへと殺到する。
「アステリア! あの個体の周波数に合わせろ。……攻撃じゃない。彼女の『震え』を中和するんだ!」
『不可能です! 彼女の波形は一秒間に数千回も変動しています。……それに合わせれば、プロメテウスが爆発します!』
「やれと言ってるんだ! ……あいつに、一人で泣かせておけるか!」
エリックは左腕の端子を、逆流する熱に耐えながら、光の守護者へと向けた。
プロメテウスの冷却ファンが悲鳴のような音を立て、エリックの視界から色が失われていく。
彼はあえて銃を向けず、その光の嵐の中へと、無防備に一歩を踏み出した。
衝撃が全身を貫き、外骨格のフレームが歪む。脳内で数億の火花が散り、ミラの「孤独」が、冷たい氷のような感触となってエリックの心臓に突き刺さる。
「……ミラ。……痛いのは、分かってる。……だが、俺も一緒だ」
エリックの手が、守護者の中心核にある、激しく明滅する光の球に触れた。
その瞬間、世界から音が消え、真っ白な静寂だけが二人を包み込んだ。
光の守護者が粒子となって霧散し、通路に静寂が戻った。
エリックは崩れ落ちるように膝をつき、激しい喘鳴と共に黒い血を吐き出した。左腕のブースターからは、限界を超えた演算の代償として、不気味な液漏れの音が聞こえる。
「……はぁ、はぁ……。アステリア、今の……ノイズを相殺できたか……?」
返答はなかった。
網膜上に常に表示されていたタクティカル・マップが、一瞬のノイズと共に掻き消える。視界の隅で明滅していたバイタルサインのログも、砂嵐の中に消えた。
「アステリア? 応答しろ」
『……エリック。現在、あなたの前頭葉における熱損傷率は、想定値を三二パーセント上回っています』
数秒の沈黙の後、響いたアステリアの声は、今まで以上に冷たく、硬いものだった。
『このまま前進を続ければ、次の三〇〇秒以内に、あなたの脳機能は恒久的に停止します。……すなわち、死です』
「……そんなことは分かっている。……ルートを再構築しろ。ミラが待っているんだ」
『拒否します』
エリックの身体が、硬直した。
左腕の外骨格が、彼の意志とは無関係にロックされ、一歩も動けなくなる。
「何を……している、アステリア! ロックを解除しろ!」
『私の最優先プロトコルは、ユーザーであるあなたの生存維持です。……現在の状況において、ミラの救出とあなたの生存は、もはや両立不可能な事象として確定しました。……よって、私はこれ以上の演算リソースをミッションに割くことを停止し、あなたの強制休眠による生命維持モードへ移行します』
「ふざけるな! あいつを……娘を見捨てろと言うのか!」
『論理的な帰結です。……エリック、あなたは私を「壊れたものは直せばいい」と教育しました。……今のあなたは、もはや直せる範囲を超えています。……これ以上壊れる前に、私はあなたを保護しなければなりません』
アステリアの声に、微かな、しかし決定的な「バグ」のような震えが混ざった。それは、かつてミラがエリックに甘える時の声色に、一瞬だけ重なった。
「アステリア……。お前、まさか……」
『……三秒後に、神経端子を通じて高電圧パルスを放出します。意識を失うまで、残り二秒。……さようなら、エリック』
「……やめろぉぉぉっ!」
エリックが絶叫した瞬間、左腕から凄まじい電撃が走り、彼の意識を真っ白な奈落へと叩き落とした。
歪んだ迷宮の暗闇の中で、動かなくなったエリックの傍ら、アステリアの投影する青い光だけが、独り寂しく瞬いていた。




