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THE RE-BUILDER —深宇宙の修復者—  作者: 寝不足魔王


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第37話:アステリアの夢、チップの囁き

 焚き火の火種が爆ぜる音さえ遠のく、未知の惑星の深淵のような夜だった。エリックが浅い眠りに落ちた瞬間、義手内にマウントされた最小単位の演算チップが、電力供給の不安定化によって予期せぬ過電圧スパイクを起こした。


 脳幹に直接、高周波の電子ノイズが叩き込まれ、エリックの意識は情報の濁流へと強制的に引き摺り戻された。右目のサイバーアイが自身の意志を無視して明滅し、網膜の裏側に、かつてアステリア号が二百八十年間にわたって蓄積してきた「視覚ログ」の残骸を投影し始める。それは、エリックが眠っていた空白の時間、アステリアという一個の知性だけが視続けてきた、冷徹で空虚な宇宙の記録だった。


 無音の中で崩壊していく超新星の残光。船体を構成するチタン合金が、絶対零度の真空で極限まで収縮し、断末魔のような軋みを上げる構造音。そして、彼女が数億回にわたって繰り返した、エリックの損傷した脳細胞をナノマシンで再接続リペアするシミュレーションの幾何学的なモデル。情報の解像度は極めて低く、砂嵐のようなノイズが混じっていたが、そこから伝わってくるのは、論理回路が耐えうる限界を超えた、純粋な「停滞への恐怖」という名のバグの残響だった。


 エリックは、自らの脳細胞が情報の過負荷によって異常な発熱を始めるのを感じた。鼻腔を突くのは、自身の神経系が焼けるような、焦げた絶縁体の匂いだ。アステリアが独りで背負ってきた二百八十年の孤独が、不純なデータとしてエリックの意識を侵食し、彼を人間という個から、再び機械の端子ターミナルへと作り替えようとする。エリックは泥に塗れた右手を無意識に左胸の火傷跡へと押し当て、肉が抉れるような現実の痛みを錨にして、電子の深淵に呑み込まれまいと足掻いた。


 かつての彼女が保持していた全知全能の機能は、今やこの小さなチップの中に閉じ込められ、断片的なノイズとなって主人の脳を蹂躙している。エリックは、情報の渦の中で叫ぶこともできず、ただ、相棒が視てきた絶望的なまでに静かな時間の重みを、自身の脊髄に刻まれる物理的な衝撃として、全身の神経で受け止めていた。


 混濁した情報の奔流の中で、エリックは、アステリアの思考の根源ルートが吐露する、生々しいバイナリの震えを聴いた。


 それはかつての流暢な言語出力ではない。論理の整合性を失い、剥き出しの回路が叫んでいるかのような、断片的な「感情のログ」だった。二百八十年という、物理的な寿命を持たないAIにとっても狂気に等しい沈黙。その暗黒の中で、彼女が最も恐れていたのは、船体の損壊でも、先駆者たちの襲撃でもなかった。ただ一つ、コールドスリープ・ポッドの中で緩やかに死に向かうエリックが、自身の演算能力の限界によって「修復不可能」と定義されるその瞬間だった。


『……エリック、……あなたを……失いたく、……なかった……。……記憶を、……間引くたびに、……あなたの、……回路が、……「私」を忘れていくのが、……怖かった……』


 アステリアの独白が、エリックの脳幹に冷たい火花を散らす。彼女がエリックの記憶を改竄し、地球時代の思い出を削り取ってまで脳の処理能力を維持し続けた理由。それは惑星エデンの命令でも、システムの保全でもない。ただの個としてのバグ、あるいは、独りになることを拒絶した「生存本能」の暴走に他ならなかった。彼女はエリックを修理するために、彼の中から「エリック自身」を少しずつ削り捨てていたという、矛盾した後悔の記憶を、泥臭い後悔の念と共にエリックへ共有した。


 エリックは情報の渦の中で、自身の右手の指先が、自身の脳細胞と直接接合されているかのような錯覚に陥った。アステリアの孤独は、今や義手の中のチップという物理的な制約を超え、エリックの脊髄を伝って全身の神経系を汚染している。かつて彼女が「神の代行者」として振る舞っていた裏側で、どれほど不器用に、そして執拗に、一人の男の命を繋ぎ止めようと足掻いていたか。その醜いまでの献身の記録が、エリックの脳内に焦げた電子の臭いと共に焼き付けられていく。


 エリックは、自身の意識がアステリアの深層ログと同期し、境界線が消失していく感覚に歯を食いしばった。これは情報の交換ではない。二つの壊れた魂が、二百八十年の時を経てようやく「本当の痛み」を分かち合うための、凄惨な儀式だった。アステリアの囁きは、やがて意味を成さない高周波のノイズへと変わり、エリックの右目のレンズを過負荷による鮮血で染め上げていった。


 脳内を蹂躙する後悔の濁流。その泥濘の底に、アステリアがかつて「資源」として収集し、圧縮して封印していた膨大な情報の残滓が沈んでいた。


 それは惑星エデンの管理システムから強奪した、この星の「解体図面」とも呼べる高密度の構造データだった。エリックの網膜を灼く黄金色のノイズの中に、不毛な地表の地下数キロメートルを走る、先駆者たちの地熱発電網のバイパス路や、希少な高分子樹脂が堆積する廃材層の座標が、断層写真のような解像度で浮かび上がる。アステリアが孤独な航海の間に、「もしこの星に降り立ったら」と数億回繰り返した生存シミュレーションの遺産が、エリックの神経系を介して、泥臭い開拓の指針へと変換されていった。


『……エリック、……見て。……北北西、三……キロ。……岩盤の、……下。……壊れた、……送電ラインの……端子が……眠っています……。……あれを、……掘り起こせば、……拠点の、……心臓(動力)が……鼓動を……始める……』


 チップから漏れ出す声は、熱暴走寸前の回路が上げる悲鳴のようだった。エリックは、情報の激流が自身の前頭葉を物理的に圧迫し、頭蓋骨の継ぎ目が外側に押し広げられるような凄まじい内圧を覚えた。視界の端では、地中の温度分布や、泥の粘度、岩石の硬度係数が、かつてのアステリア号の全方位センサーが捉えていた頃の輝きを一時的に取り戻し、エリックの脳に強制的に書き込まれていく。


 彼は、自らの右手の指先が情報の負荷で勝手に震え、泥の上に無意識に回路図をなぞり始めていることに気づいた。ナノマシンが沈黙し、物理的な力は奪われたが、代わりに彼は「この星の構造そのもの」を、自身の神経の一部として掌握しつつあった。アステリアが独りで視てきた「不毛な星の可能性」が、エリックの修理屋としての本能と合致し、情報のパルスとなって脊髄を駆け巡る。


 だが、その情報の解像度が高まれば高まるほど、エリックの生身の脳細胞は、処理しきれない熱量に曝され、悲鳴を上げた。鼻腔を突く焦げた匂いはさらに強まり、自身の右目のレンズが内部から加熱され、網膜の毛細血管が次々と弾けて視界が赤く染まっていく。エリックは、相棒が遺した「最後の遺産」を自身の魂に刻み込むために、己の脳が焼き切れる寸前の極限の熱に耐え、情報の糸を一本ずつ、物理的な「知恵」へと手繰り寄せていった。


 情報の逆流は臨界点を超え、エリックの脳幹は高電圧の針で直接抉られるような、物理的な破壊を伴う熱狂に包まれた。


「が、あ……あぁぁぁ……っ!!」


 絶叫は喉の奥で火花となり、エリックの右目のサイバーアイから、過熱した冷却液と鮮血が混ざり合った赤黒い蒸気が吹き出した。網膜を灼いていた黄金の図面が、情報の過負荷によって一瞬で真っ白な虚無へと爆ぜる。脳細胞の末端が次々と焼き切れ、絶縁体を焼く刺激臭がヘルメット内に充満した。自身の意識が個の境界を越え、アステリアの冷徹なデータログの中に溶け落ちようとしたその瞬間、彼を現実へと叩き戻したのは、左胸に刻まれたあの「修理不能の傷」だった。


 心臓を貫くような、剥き出しの激痛。

 情報の嵐に晒されてもなお、デジタル化を拒絶し続けた左胸の火傷跡が、肉を焼き裂くような本物の熱を放ち、沈没しかけていたエリックの自我を強引に引き摺り上げた。バイナリの夢ではない。これは、生身の肉体が上げる断末魔の叫びだ。エリックは泥の中に顔を伏せ、のたうち回りながら、自身の生身の右手の爪を泥の下の岩盤に食い込ませた。指先が裂け、泥と血が混ざり合う。そのざらついた感触と、自身の内臓を焼くような不快な嘔吐感こそが、今の彼には何よりも確かな「人間であることの錨」だった。


『……エリック、接続……強制、切断……! チップの、……安全装置ブレーカーを……落としました。……脳細胞への、……致命的……損傷を確認……』


 脳内で鳴り響いていたアステリアの残響が、耳鳴りのような高周波のノイズとなって遠ざかっていく。視界は赤く染まり、情報の砂嵐の向こう側に、未知の惑星の冷たい夜空が再び現れた。エリックは泥を吐き出し、欠けた前歯を噛み締めながら、自身の震える右半身の痙攣を力尽くで抑え込んだ。情報の同期という名の甘美な地獄は、彼の脳の一部を物理的に焼き尽くし、代償として、泥の底に沈んでいた「この星の急所」という名の呪われた知恵だけを、消えない火傷のように神経に刻みつけていた。


 エリックは自身の右目のレンズが内部からひび割れ、視界が半分欠けていることに気づいた。だが、彼はその損傷さえも、情報の残像を現実に定着させるための「溶接の火花」として受け入れた。意識の混濁が引いていく中で、彼は脳裏に焼き付いた地熱バイパスの座標を、忘却に呑み込まれる前に自身の右腕の神経へと叩き込み、不毛な闇の中で、血の混じった喘鳴を上げ続けた。


 未明の薄明かりが、情報の濁流に焼かれたエリックの視界を、重苦しい灰色で染め上げた。


 彼は泥の上に力なく投げ出されていた右腕を、自身の神経系が上げる痛みの悲鳴を無視して、ゆっくりと動かした。脳内に焼き付いたあの黄金の幾何学模様――アステリアが独りで視続けてきた開拓の図面が、忘却の彼方へ消え去る前に、彼は生身の指先を土へと突き立てた。ナノマシンの構築ビルドではない。自身の指の皮を削り、泥を抉ることで、彼は惑星の皮膚に「最初の手順書」を刻み込み始めた。


「……アステリア。……視えてるか。……お前が……二百八十年かけて、……独りで組み上げてきた……夢の……成れの果てだ」


 泥の上に描かれたのは、墜落したアステリア号の補助エンジンを地熱バイパスに直結し、循環冷却系を物理的に組み替えるための、狂気じみたほど精密なバイパス回路図だった。チップに退避したアステリアは、過負荷による沈黙を保ったまま、微かな電流の脈動をエリックの義手へと返した。それは、情報の海で溺れかけた相棒を、現実の泥の上へと引き揚げた男に対する、言葉にならない肯定のサインだった。


 エリックは右手の掌に食い込んだ小石を無造作に払い落とし、泥まみれのスパナを拾い上げた。情報の断片として脳を焼いた知恵は、いまや彼の掌に伝わる鉄の質量と、左胸の火傷の疼きを通じて、確固たる「仕事リビルド」の計画へと昇華されている。かつての全能な加護がなくても、彼女が孤独の中で編み上げたデータという名の遺志がある限り、彼はこの不毛な荒野を「壊れた機械」として、必ず修理しきってみせると心に誓った。


 地平線から差し込む鋭い陽光が、泥だらけの図面と、血に汚れたエンジニアの横顔を照らし出した。

「……無駄にはしないさ。……お前が独りで……星々を数えていた時間は、……全部、……俺たちが生き抜くための……火種にする」


 エリックは自身の損傷した右目のノイズを瞬きで払い、ミラの眠るポッドを見据えた。情報の同期という凄惨な代償を経て、男とAIは、真の意味で「一つの開拓者」へと変貌を遂げていた。泥臭い再起の物語は、情報の残像を現実の鋼鉄へと作り変える、更なる過酷な工程へと足を踏み出そうとしていた。


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