第36話:水の記憶、毒の洗礼
拠点を囲う泥の平原に、不気味なほど鮮やかな紫色の霧が立ち込め始めた。
エリックを深い眠りから引き戻したのは、ミラのポッドから漏れ出る、喉に何かが詰まったような苦しげな喘鳴だった。慌てて駆け寄ると、強化ガラス越しに見えるミラの首筋には、赤黒い斑点が浮き上がり、彼女の肺は未知の抗原を拒絶するように激しく波打っている。ポッドの簡易センサーが、外気から侵入した微細な胞子と、保存液の枯渇による深刻な脱水症状を知らせるアラートを、虚しく無音で点滅させていた。
「……ミラ! アステリア、何が起きてる! この空気か、それとも……」
『……解析中。……大気中に含まれる未知の真菌胞子が、……彼女の免疫系と衝突しています。……加えて、……体内の水分保持率が……危険域です。……エリック、……早急に「本物の水」を与えなければ、……彼女の腎臓が……機能を停止します』
義手の中のチップから漏れる声には、これまでになかった焦燥が混じっていた。エリックは自身の喉が、まるで熱した砂を流し込まれたかのように焼け付いていることに、今更ながら気づいた。惑星エデンの清潔な人工水に慣らされた彼らの肉体にとって、この原生惑星の剥き出しの自然は、吸い込む空気さえもが「毒」として牙を剥いていた。
彼は泥を蹴り、近くを流れる小川へと向かった。だが、右目のサイバーアイが捉えた光景は、渇きに喘ぐ彼を絶望させるに十分なものだった。清らかに見えた水の流れには、高濃度の重金属と、エリックの知識にはない螺旋状の微生物が情報の砂嵐の中で蠢いている。それは、そのまま飲めば内臓を物理的に「解体」されかねない、死の液体だった。
エリックは自らの乾いた唇を噛み切り、滲み出した血を飲み下して渇きを凌いだ。
情報の海を泳いでいたときには、水分など単なる「数値」でしかなかった。だが今、この惑星の泥臭い風の中で、水の一滴が娘の生死を分ける絶対的な「部品」として、彼の前に立ち塞がっていた。エリックは、ひしゃげたスパナを泥に突き立て、この惑星の「不具合」をどう濾し取り、どうやって娘をこの世界の循環に適合させるかという、命懸けの選別作業を開始した。
エリックは、アステリア号の生命維持装置の成れの果て――引き千切られた高分子樹脂のパイプと、断熱材の繊維が詰まったフィルターケースを泥の中から回収した。
ナノマシンによる原子レベルの浄化が不可能となった今、彼は数千年前の人類がそうしたように、物理的な「濾過」という原始的な工学に命を託すしかなかった。彼は岩を砕いて作った即席の乳鉢で、船の残骸から得た活性炭の塊を粉砕し、さらに川岸から粒度の異なる砂と小石を慎重に選別して集めた。
「アステリア。……フィルターの層、……この順番でいいか」
『……肯定。……粗い小石から順に、……砂、……炭、……そして私の内部から抽出した……銀繊維のフィルター層を。……重力による自然落下を利用するしかありません。……エリック、接続部の気密を……確実に』
エリックは右手の錆びついたスパナを重しにし、歪んだ樹脂パイプの接合部を力任せに押し込んだ。シリンダーの圧力が足りず、結合部は僅かに浮き上がる。彼は自身の作業服を裂いてパッキン代わりに巻き付け、その上からさらに細いワイヤーで、掌が裂けるほどのトルクをかけて締め上げた。生身の指先が摩擦熱で熱を帯び、泥と汗が傷口に染み込む。
一段、二段と、重なり合う濾過の層。
エリックは自身の義手の、もはや機能していない油圧ポンプの一部を解体してハウジングとして利用した。一滴の水を救うために、かつての自分の「力」を物理的に削り、ただの濾過装置の部品へと貶める。だが、彼に迷いはなかった。一本のスパナでボルトを叩き、歪んだパイプを自身の「感覚」で繋ぎ合わせていく。そこには、数万通りのシミュレーション結果など存在しない。ただ、掌に伝わる「物質が密着した」という確かな手応えだけを頼りに、エリックはこの惑星で最初となる、汚れた水を「命」に変えるための機械を組み上げた。
装置を小川の上流に設置し、泥水を流し込む。
最初の一滴が落ちるまでの、永遠のような数分間。エリックは泥に跪き、パイプの末端から滲み出す無色の雫を、まるで聖遺物を見つめるような眼差しで凝視していた。
濾過器の末端から滴り落ちた、水晶のように澄んだはずの一滴。それをミラの唇に流し込んだ数秒後、キャンプの静寂は彼女の絶望的な悶絶によって引き裂かれた。
「……あ、……ぁ、が……っ、……ゲホォッ!!」
ミラは背中を弓なりに反らせ、喉の奥から込み上げる拒絶反応に身を震わせた。彼女の白磁のような首筋から胸元にかけて、見る間に赤黒い浮腫が這い回り、それはまるで皮膚の下を未知の蟲が這い回っているかのような、おぞましい光景だった。濾過によって取り除けなかったのは、物理的な不純物ではなく、この惑星の生命が持つ「情報的な拒絶」――地球由来の肉体には毒としてしか機能しない、高分子のタンパク質だった。
ミラの体温が爆発的に上昇し、ヘルメットのバイザーが彼女の苦しげな吐息で真っ白に曇る。エリックは機能停止寸前の義手で、暴れる彼女の細い肩を泥の上へと押さえつけた。左腕の関節から、過負荷による黒いオイルが涙のように滴り、ミラの頬を汚す。そのオイルの焦げた臭いと、彼女の身体から立ち昇る、未知のアレルギー反応特有の、熟しすぎた果実のような甘ったるい死の匂いがエリックの鼻腔を突いた。
『……エリック、だめです! 濾過精度、不十分! 惑星固有のアルカロイド成分が……彼女の血管を内側から焼き切ろうとしています。……このままでは、……心肺停止まで……あと三百秒を切る……』
アステリアの警告が、脳内で不快な高周波ノイズとなって爆ぜる。エリックは自身の右手の爪を泥に食い込ませ、血走った眼で苦しむ娘を凝視した。
「……何が、……何が故障してやがる……! この水か、……それとも、……この星に適合できない……俺たちの肉体の方か!」
彼はミラの口元から溢れた、鉄錆のような味がする唾液を自身の指で掬い、躊躇なく自分の舌に乗せた。
一瞬で舌の粘膜が焼けつくような激痛に襲われ、内臓が裏返るような嘔吐感がせり上がる。だが、エンジニアは逃げない。彼はその毒性を、自身の神経で「解析」し、中和すべき成分の正体を、もはや機能しない計算機の代わりに、自身の命を削る感覚で特定しにかかった。泥を噛むエリックの口から、どす黒い吐瀉物が零れ落ちる。それは、ナノマシンによる自動的な生体修復が沈黙した父親が、自らを検体として娘の不具合を直そうとする、凄惨な「解体修理」の始まりだった。
視界が毒素によって赤黒く明滅する中、エリックは泥を這い、拠点の岩陰に自生する奇妙な植物の群生へと、自身の引き千切れそうな肉体を叩きつけた。
それは、暗紫色をした多肉質の葉を持ち、折るたびに「ネチャリ」と粘りつく不快な体液を溢れさせる、この星の異形の植生だった。エリックは右手の指先を震わせながら、鋭利な岩の角でその葉を石臼のように磨り潰した。ナノマシンによる高度な成分抽出など、もはや望むべくもない。彼はその、鼻を突くアンモニア臭と腐敗した果実が混ざったような悪臭を放つ「緑の泥」を、躊躇なく自身の口へと放り込んだ。
「……ッ、が、あぁ……っ!!」
口腔に触れた瞬間、爆発的な刺激が味雷を蹂躙し、喉の奥が直接熱した鉛を流し込まれたかのように焼け付いた。内臓が反転し、胃壁を内側から爪で掻き毟られるような激痛。だが、エリックは自身のサイバーアイの、過熱して砂嵐が混じるレンズを強引に植物の繊維へと焦点を合わせた。網膜の端に、かつてのデータベースの残滓から引き摺り出された、アルカロイド中和プロトコルの断片が黄金の火花となって明滅する。
(……これだ。……この苦味の奥にある、……冷たい感覚。こいつが、……ミラの血管を焼いてる『熱(毒)』を、……解体する……!)
彼は血の混じった唾液を垂らしながら、石で葉を磨り潰す速度を上げた。右手の爪が剥がれ、自身の鮮血が薬草の泥に混じるが、その鉄錆の味が、かえって「中和剤」の純度を増していくようにさえ感じられた。彼は自分の身体を実験台にし、毒による麻痺が呼吸筋に届く寸前で、最も効果的な配合比率を「舌の痺れ」で特定した。
『……エリック、心拍数二〇〇を……超過。……あなたの肝臓が、……悲鳴を上げています。……これ以上は、……あなたの意識が……先に落ちる……』
アステリアの警告が、遠い雷鳴のように響く。エリックは、石で磨り潰したその「どす黒い薬液」を、汚れきった自分のシャツの切れ端で濾し取り、一滴の抽出液として自身の掌に集めた。指先は毒による痙攣で思うように動かない。だが、彼はその一滴を、世界で最も貴重な「交換部品」を扱うかのような慎重さで、苦しみに喘ぐミラの口元へと運んだ。
エリックは自身の震える指先をミラのこわばった唇に差し込み、どす黒く、不気味な粘り気を帯びた「解毒液」を一滴ずつ流し込んだ。
数秒の静寂。ミラの喉がヒクリと波打ち、不快な苦味を拒絶するように一度だけ激しく喘いだ。だが、その直後、炎に焼かれているようだった彼女の肌の赤みが、潮が引くように急速に退いていった。腫れ上がっていた喉の筋肉が弛緩し、ヒィ、ヒィと、細い笛のような音を立てていた呼吸が、深く、規則正しい「生の音」へと書き換えられていく。中和反応が、彼女の血管内で暴れていた惑星の毒素を、泥臭い理屈で叩き伏せたのだ。
「……ミラ、……飲め。……今度は、……大丈夫だ……」
エリックは自作の濾過器から滴る、今度こそ純粋な透明度を持った水を、震える手のひらで掬って彼女の口元へ運んだ。ミラは、まだ意識が混濁したまま、本能的にその「冷たさ」を求めて喉を鳴らした。ゴク、ゴクという、生命が乾いた大地に染み込むような、瑞々しくも生々しい嚥下音。その音が、エリックの鼓膜をどんな音楽よりも優しく揺らした。
ミラが落ち着いたのを見届け、エリック自身もまた、残った水を両手で掬い、一気に煽った。
舌を焼くような泥の苦味と、濾過しきれなかった重金属の硬い質感が食道を通り、空っぽの胃壁を内側から冷徹に叩く。だが、それは拒絶ではなく、この過酷な惑星が自分たちを「構成員」として受け入れた、初めての洗礼の感覚だった。内臓が新しい水分を得て、ナノマシンのノイズに代わる、本物の生命活動の熱が腹の底から湧き上がってくる。
『……生体反応、正常値へ復帰。……エリック。……この星の毒を、……あなたは自分の肉(身体)で、……修理しきりましたね。……私たちは今、……ようやくこの星の「一部」になりました』
義手から漏れるアステリアの声が、水面に反射する柔らかな光のように響いた。エリックは泥だらけのまま大の字に地面に倒れ込み、ミラの規則正しい寝息を隣で聴きながら、自身の喉を潤す「水」の圧倒的な質量に涙した。
「……ああ。……不味い水だが、……生き返るな、……本当にな……」
空には未知の惑星の雲が流れ、二人の親子は、泥と毒を克服した「最初の日」の静寂の中で、深く、深く、その身を惑星の循環へと委ねた。




