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THE RE-BUILDER —深宇宙の修復者—  作者: 寝不足魔王


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第17話:深淵の目覚め、鉄の棺の呼び声


 それは、死よりも深い沈黙だった。


 エリックの意識は、二百八十年という永い凍結の檻の底で、塵一つ動かない真空の一部と化していた。そこには夢もなく、時間の概念すら存在しない。ただ、自身の存在が薄氷のように削り取られていく、無機質な忘却のプロセスだけがあった。


 ――ドク。


 唐突に、静止していた宇宙せかいに、不協和音が響いた。

 それは、彼の胸腔の奥で、停止していた心臓が最初の一拍を刻んだ音だった。

 自律神経系が無理やり電流を流され、休眠していたシナプスが火花を散らす。それは「目覚め」という瑞々しい表現からは程遠い、錆びついたエンジンのクランクを、巨大な鉄のレバーで強引に回すような、暴力的で、破滅的な再起動リブートだった。


「……あ、……がっ……!」


 肺が凍りついた空気を吸い込み、エリックは猛烈な嘔吐感と共に目を開けた。

 視界は、どす黒い琥珀色のノイズに埋め尽くされている。右目のレンズ――かつて第一部ラストで脳の熱損傷によって焼き切れた視神経の死角――は、二百八十年を経てもなお、彼に「半分だけの世界」しか許していなかった。


 感覚が戻るにつれ、全身を襲ったのは、文字通り骨を砕くような「重さ」だった。

 コールドスリープ・ポッドを満たしていた冷却液が、排出口へと吸い込まれていく。液面が下がるにつれ、二百八十年ぶりに感じる自らの肉体の質量が、鈍い痛みとなって彼を床へと押し付けた。


『……生体信号、再接続シンクを確認。……体温、三十二度。……心拍数、三十八。……おはようございます、エリック。……あるいは、……お帰りなさい』


 その声は、かつて脳内に直接響いた、あの少女のような高い合成音声ではなかった。

 船体そのものが重厚な唸りを上げ、壁から、床から、そしてエリックの背骨へと直接伝わってくるような、重層的で、どこか物悲しい響きを伴った「母船」の鼓動。


「……アステ、リア……。……俺は、……今……」


 掠れた声は、喉に張り付いた氷の欠片を吐き出すような不快な音を伴った。

 エリックは震える指先で、カプセルの透明なカバーに触れた。内側から見るそのカバーは、二百八十年の月日が堆積させた、微細な塵と冷却液の結晶で白く濁っている。


 彼は、自らの左腕を持ち上げようとした。

 だが、そこにあるのは、慣れ親しんだ血の通った腕の感覚ではなかった。

 第一部、ハワードとの決戦の果てに焼き付いた接続端子ニューラル・リンクの跡。そこからは、アステリアが数世紀をかけて増設したであろう、極細の銀色光ファイバーが、エリックの皮膚の下を這う血管のように、全身へと根を張っていた。

 かつての「道具」であった端子は、今や彼という「機械」の一部として完全に融合している。


 エリックは、自分という存在が、もはや純粋な「人間」ではなく、この巨大な宇宙船アステリア号という機械の末端組織デバイスへと変質し始めていることを、凍えるような恐怖と共に悟った。


「アステリア……。……今は、……いつだ」


『……地球脱出から、二百八十年。……太陽系を離脱し、私たちは今、……約束の場所にいます』


 アステリアの声と共に、船内の気圧調整弁が開放される音が響いた。

 エリックは、重力を呪いながら、鉄の棺から這い出そうと、震える右手をカプセルの縁にかけた。


 エリックがカプセルの縁を掴み、濡れた身体を外へと引きずり出した瞬間、居住区の天井に据え付けられた防衛用センサーが、冷徹な紅い光を放って彼を捉えた。


『警告。未登録の生体反応を検知。……自己防衛プロトコル、フェーズ・ワン。対象を排除します』


 船内スピーカーから響いたのは、アステリアの深い声ではなく、システムに組み込まれた無機質な機械音声だった。

 二百八十年という歳月は、船のメインOSであるアステリアと、下位の自律防衛システムの間に、修復不能な「記憶の乖離」を生んでいた。防衛システムにとって、目の前で喘ぐ血色の悪い男は、宇宙船という神聖な殻を汚す「有機的な汚染物質」に過ぎない。


 壁面から小型の自動レーザー・タレットがせり出し、エリックの眉間に死の照準を定めた。


「……ま、待て……。アステリア、システムを止めろ……!」


 エリックの叫びは、酸素の薄い船内に虚しく響く。

 アステリアの意識が船体各所の経年劣化の修復に追われている隙を突き、狂った防衛プログラムが引き金を引こうとした、その時だった。


 タレットから放たれた走査レーザーが、エリックの剥き出しの胸部を舐めるように通過した。

 プラズマによって焼かれ、幾何学的な紋様として皮膚に定着した、あの「左胸の傷跡」。

 その歪な刺青のような傷が、レーザーの光を浴びた瞬間、青白い燐光を放って脈打った。


『……生体認証、確認。……マスターキー・コード「プロメテウス」を照合。……エラーを修正します。……対象は、本艦の正当なる所有者マスターです』


 死の照準が消え、タレットが再び壁の奥へと沈んでいく。

 エリックは崩れ落ちるように膝をつき、激しく上下する胸の傷跡を、震える右手で押さえた。二百八十年前、ハワードとの死闘で刻まれた致命的な負傷が、今、時を超えて彼の命を救ったのだ。


(……この傷を……残しておけと言ったのは、お前か、アステリア……)


 エリックは壁を支えにして、自らの左胸の拍動を感じていた。

 その幾何学的な火傷跡は、アステリア号という巨大な機械が、数世紀の孤独の中でも決して忘れてはならなかった唯一の「記憶」の形だった。


「……ハッ。……俺の傷を……パスワードにするなんて、……相変わらず性格が悪いな……」


 エリックは血の混じった唾を吐き捨て、視界の半分を覆う右目のノイズを払いながら、暗い通路の先を見据えた。

 認証が完了したことで、船内のバイタル・モニタが一斉に起動し、眠り続けるミラと、ボロボロになった船の「現在」が、不気味な琥珀色の光となって浮かび上がった。


 エリックは壁を支えにして立ち上がり、重力の不安定な揺らぎに耐えながら居住区のメイン通路へと足を踏み出した。だが、視界の半分を占める死角の向こう側に広がっていたのは、かつての白く輝く宇宙船の姿ではなかった。


 剥き出しになった光ファイバーの束が、さながら血管のように壁を這い回り、継ぎ接ぎだらけの鋼鉄プレートが幾重にも重ねられている。アステリアがこの二百八十年、自律ドローンを駆使して船体を「直し続けてきた」執念の痕跡。それは美しさを完全に捨て去り、生き延びることのみに特化した、無骨な戦士の皮膚のようだった。


「……アステリア。お前、たった一人で……これだけのパッチを当てたのか」


『……肯定します。……船体の構造維持プロトコルを維持するためには、美観は不要なリソースでした。……エリック、見てください。……彼女を』


 アステリアの声に導かれ、エリックは居住区の中央、一際巨大な生命維持ポッドの前に立った。

 そこには、あの日と同じ姿で眠るミラがいた。だが、彼女の周囲は異常な光景に変貌していた。

 彼女の銀色の長い髪は、カプセルの外へと溢れ出し、周囲の壁や配線と物理的に「融合」し始めているのだ。彼女の呼吸に合わせて、船内の照明が淡い銀色の脈動を繰り返し、船全体が彼女の神経系の延長であるかのように、不気味な同期を見せていた。


「ミラ……。……これじゃ、まるであいつがこの船の『部品』じゃないか……!」


『……否定できません。……彼女の精神が放つ「星の声」との共鳴は、数世紀を経て船の演算コアを汚染……いいえ、上書きしています。……彼女が目覚めることは、船そのものが彼女の意志に呑み込まれることを意味します』


 エリックは震える右手でカプセルの強化ガラスを叩いた。

 ミラを神(機械)から救い出したはずだった。だが、二百八十年の時は、彼女を再び「鋼鉄の檻」の一部へと作り替えてしまった。

 彼女をこのまま眠らせておくことは、彼女の人間性を少しずつ削り取っていくことと同義だった。


「……直してやる。……アステリア、ミラも、このボロ船も……俺が全部、元に戻してやるぞ」


 エリックは自らの動かない左腕を強く握りしめた。

 その時、船体全体が巨大な震動に見舞われ、頭上のダクトから火花が噴き出した。経年劣化による連鎖的なシステム崩壊。

 感傷に浸る時間は、一秒たりとも残されてはいなかった。


 船体を揺らした震動は、生命維持装置の補助電源が限界を迎えた合図だった。

 エリックは崩落しかけた天井のパネルを避けながら、居住区の隣にある機材ドックへと這いずった。右目のノイズが激しさを増し、視界の右半分は真っ赤な警告信号で塗りつぶされている。


「アステリア……左腕の……フィードバックを切れ。……感覚は要らない。……ただの『工具』として機能すればいい」


『……不可能です。……現在のあなたの左腕は、神経端子が完全に癒着し、無理に外部機器を接続すれば、脳がショック死します。……エリック、止めてください』


「黙ってろ。……腕がないエンジニアなんて、ただの肉の塊だ!」


 エリックはドックの床に転がっていた、錆びついた作業用ローダーのアームを右手で掴み寄せた。それは二百八十年前の「骨董品」であり、アステリアが船体の修繕に使用していた予備のパーツだった。

 彼は迷うことなく、自らの動かない左腕の端子――黒く焼け焦げたあの傷口に、ローダーから引き抜いた無骨な電力ケーブルを直接突き刺した。


「う、おおおおおおっ!!」


 脳内を、雷が直撃したような衝撃が駆け抜けた。

 プロメテウスが融解したあの日以来の、暴力的なまでの電子の奔流。エリックは泡を吹いてのけ反り、全身の筋肉が激しく硬直した。だが、アステリアが咄嗟に彼の脳波に噛み付き、強制的に意識を固定する。


『……バイパス、接続。……神経経路の再構築を強行します。……エリック、聞こえますか!』


 激痛の果てに、エリックの左腕……いや、その先にある「鉄のアーム」が、ガチリと音を立てて駆動した。

 廃材で自作した、剥き出しの油圧シリンダーと歯車が組み合わさった異形の義手。それはお世辞にも精密とは言えないが、エリックの怒りと執念に呼応するように、重厚な金属音を立てて拳を握りしめた。


「……動く。……動くぞ、アステリア……!」


 エリックはふらつく足取りで立ち上がり、義手の爪で歪んだ壁の配線を掴み取った。

 漏れ出す火花を義手の装甲で受け流しながら、彼はむき出しになったメインフレームの基板を強引に引き出す。感覚を遮断した左腕は、どれだけ熱を帯びようとも、どれだけ火花に焼かれようとも、冷徹に「修理」を遂行する鋼の道具へと成り果てていた。


「……俺はエンジニアだ。……命を繋ぐことに関しては、……神様よりもプロなんだよ」


 エリックは自作の義手を使い、ショートした回路を次々とバイパスさせ、ミラの生命維持装置を死の淵から引き戻した。

 黒い油と、自身の鼻から滴る鮮血が混ざり合い、彼の新しい「機械の腕」を汚していく。

 その姿は、沈みゆく文明の残骸を繋ぎ合わせ、絶望という名の闇に抗う、呪われた職人そのものだった。


 急場を凌いだ生命維持装置の脈動を確認すると、エリックは血の滲む唇を噛み締め、居住区の重圧を振り切ってブリッジへと向かった。継ぎ接ぎの義手が通路の壁を叩くたび、重厚な金属音が船体へと響き渡る。二百八十年の孤独を耐え抜いたアステリア号の「肺胞」が、主人の帰還を祝うように不規則な排気音を上げた。


 円形のハッチをこじ開け、エリックは司令ブリッジの中央に立ち尽くした。

 そこは、第一部のラストで見上げた、あの機能的な聖域ではなかった。無数の追加モニターが壁を埋め尽くし、それらすべてに、地球の常識では測り得ない「異常」が映し出されていた。


「アステリア……。パノラマウィンドウを開けろ。……俺たちの現在地を見せてくれ」


『……了解。……遮光シールド、開放します。……エリック、これが私たちの到達した「約束の地」の……真の姿です』


 重々しい音を立てて、巨大な鋼鉄のシャッターが左右へと滑り出した。

 その瞬間、ブリッジは物理的な「暴力」とも言える光の奔流に飲み込まれた。エリックは思わず右目のノイズを覆い、たったひとつの視界に映る光景に、言葉を失った。


 そこには、漆黒の宇宙など存在しなかった。

 眼前に広がっていたのは、巨大なガス惑星の重力によって引き裂かれ、燃えるような橙色の粉塵となって渦巻く「光の海」だった。砕かれた数百万の小惑星が、さながら銀河の輪のように恒星を囲み、その中心では、青白い閃光を放つ脈動星が、死神の眼のようにエリックを見下ろしている。


 そして、その「光の海」の中枢、重力と熱の檻に囚われるようにして浮かんでいたのは――月ほどの大きさを持つ、巨大な幾何学的な構造体だった。


「……何だ……。あの、バケモノみたいなデカい機械は……」


『……ミラの聴いていた「星の声」の発生源。……ハワード大佐が救済の地と呼んだ、先駆者たちの遺構です。……ミラと同期しているあの場所が、私たちを……船ごと引き込もうとしています』


 構造体から放たれる青いパルスが、アステリア号の装甲を舐めるたび、エリックの左胸の火傷跡が、共鳴するように激しく明滅した。

 地球という揺り籠は、もう何百光年も彼方にある。

 そこにあるのは、人類を「部品」として招き入れようとする、神の如き冷徹な意志の巨大な残骸だった。


「……ミラは、あそこに呼ばれてるのか。……あんな、バカげた墓場に」


 エリックは自作の義手の指を、ガチリ、と鳴らした。

 右目のノイズはますます激しく、左胸の痛みは増すばかりだ。だが、彼の瞳の奥に宿る「修理屋」の火は、むしろかつてないほど激しく燃え上がっていた。


「アステリア。……エンジンを吹かせ。……あんな死体みたいな機械に、ミラは渡さない。……次はあのアホみたいなデカい奴を、俺が『直して』やる」


 船は加速の咆哮を上げ、光り輝く地獄の渦中へと、その傷だらけの機首を向けた。

 二百八十年の時を超え、一人のエンジニアと、船になったAIの、本当の戦いが幕を開けた。


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