第16話:星の声、凍れる約束の地へ
宇宙船『アステリア号』の居住区は、絶対零度の虚空に浮かぶ、唯一の温かな気泡だった。
大気圏脱出の狂乱は去り、船内を支配しているのは、精密機械が刻む微かな駆動音と、生命維持装置が吐き出す清浄な空気の音だけだ。
エリックは無重力の中に身体を投げ出し、腕の中に浮かぶミラの身体を、壊れ物を扱うような手つきで引き寄せた。二人の身体は、緩やかな慣性に身を任せ、白一色の無機質な壁の間を、まるで揺り籠に揺られているかのように漂っている。
エリックは、自らの肉体に刻まれた喪失の代償を、静かに確認した。
右目の視界は、依然として冷たい雪嵐のようなノイズに覆われている。脳の神経回路が過負荷で焼き切れた際の後遺症――それは、彼がもはやこの世界の半分を「正しく視る」ことができないことを、残酷に突きつけていた。
そして、左腕。
かつてプロメテウスという禁忌の演算能力を宿していた接続端子は、第14話の強制接続によって黒く焼け焦げ、無惨な金属の死骸と化している。
端子を通じて世界をハッキングし、論理の壁を粉砕してきた「エンジニア」としての力は、今この瞬間、永遠に失われたのだ。
(……これで、良かったんだよな、アステリア)
脳内からの返答はない。
壁の向こう側で、船のメインコアが規則正しく脈打っている。その振動が、かつての相棒の鼓動であるかのように、エリックの背中を優しく叩いた。
彼は、かつてないほどの安堵を感じていた。「もう、誰もあいつを壊しには来ない」という確信。だが、その安堵のすぐ裏側には、鋭い棘のような不安が潜んでいた。
自分はミラを救ったのか。それとも、地球という故郷を奪い、出口のない暗黒の深淵へと放り出しただけではないのか。
「……お……とう……さん……」
腕の中で、ミラの身体が微かに震えた。
エリックは、血と煤に汚れ、もはや感覚を失いつつある指先で、彼女の額を撫でた。
彼女の銀色の髪が、無重力の中で銀河の塵のように舞い、居住区の柔らかな照明を反射して淡く輝く。その髪に触れた瞬間、エリックの指先に、チリ、と微かな静電気が走った。
ミラの精神は、まだ完全には地上に戻りきっていない。
彼女の瞳が開くとき、そこに映るのが自分の顔であってほしいと、エリックは祈るような想いで、動かぬ左腕を娘の背中に回した。
左胸の火傷跡が、この静寂の中で、ドク、ドクと重苦しい疼きを刻んでいる。その痛みだけが、彼がまだ一人の「父親」としてここに存在していることを証明する、唯一の錨だった。
ミラの銀色の睫毛が震え、その瞳がゆっくりと開かれた。
パノラマウィンドウから差し込む、地球の反射光と遠い星々の瞬きを吸い込み、彼女の瞳孔はかつての深い茶色を完全に失い、透き通るような白銀の輝きを放っていた。
「……ミラ。わかるか、俺だ。エリックだ」
エリックの声に、ミラは焦点の合わない視線を彷徨わせ、やがて父親の顔を捉えた。
彼女の髪が、船内の微弱な電磁波に呼応するようにふわりと浮き上がり、毛先から淡い燐光を放ち始める。それはもはや、人類の生理現象を超えた「共鳴」だった。
「……お父さん。……聴こえるよ。……要塞のときみたいに、うるさくないの。……とっても、遠くから……優しい歌が聴こえる」
ミラの指先が、何もない空間をそっとなぞる。
彼女には、エリックには見えない「情報の糸」が見えているようだった。ハワード大佐が言っていた、人類の情報化――そのために作り替えられた彼女の感覚は、肉体という檻を越え、銀河の彼方から届く微かな、しかし絶対的な「呼びかけ」を受信していた。
「……歌?」
「うん。……ハワードおじさんは、みんなを神様にするって言ってたけど、……違うの。……あの声は、ただ待ってるの。……迷子になった私たちが、おうちに帰ってくるのを」
エリックの背筋に、冷たい戦慄が走った。
ミラの聴いている声は、ハワードが捏造した救済の論理などではない。もっと古く、そして根源的な、この広大な宇宙のどこかに実在する「何か」からの信号。
ハワードはそれを利用しようとしたが、エリックが救い出したこの娘こそが、その信号の真の意味を解き明かす「鍵」そのものなのだ。
「……ミラ。お前はもう、自由だ。……あんな声、聴かなくていいんだぞ」
「……ううん。……行かなきゃいけないの。……アステリアも、そう言ってる。……あの中に、私たちの本当の場所があるんだって」
ミラが「アステリア」の名を口にした瞬間、居住区の照明が、まるで彼女の言葉を肯定するように優しく明滅した。
エリックは、自らの右目に走るノイズを、強く目を閉じて堪えた。
娘を、救ったはずだった。
だが、彼女の行き先は、もはや自分の手の届かない「星の海」へと定められていた。
エリックは、ボロボロになった自分の掌を見つめ、それから震える手で、彼女の小さな手を握りしめた。
「……わかった。……なら、行こう。……でも、その前に……約束だ」
エリックは、血と煤で汚れた顔に、父親としての最高の微笑みを浮かべた。
「次に目が覚めたら、……セクター9の泥水じゃない、本当の青い空の下で、……焦げたトーストを焼いてやる。……アステリアも一緒に、三人で食卓を囲むんだ。……いいな?」
ミラは、銀色の瞳を細めて、懐かしい温もりに触れた子供のように笑った。
「……うん。……約束だよ、お父さん」
その言葉を最後に、ミラの身体から燐光が消え、彼女の小さな頭が、エリックの胸元に安らかに預けられた。
居住区の奥、重厚な気密隔壁が開くと、そこには整然と並ぶ凍結睡眠槽が、静かな青い光を湛えて二人を待っていた。
ハワード大佐が、自らのデジタル昇華を見届けるために用意させた、最新鋭の生命維持システム。それは皮肉にも、肉体という「不確かな器」を、数百年単位で保存し続けるための冷徹な檻でもあった。
「……アステリア。ポッドの、準備を」
エリックが壁に触れると、返答の代わりに、ポッドの透明なハッチが滑るように左右へ開いた。無重力の中に漂う冷却ガスの白煙が、エリックの傷ついた身体を優しく包み込み、焼けるような皮膚の熱を僅かに和らげる。
エリックは意識を失いつつあるミラを、壊れ物を扱うような手つきでポッドの中へと横たえた。
彼女の銀髪が、カプセル内に充填された保存液の中で、ゆっくりとたゆたう。それは、かつて地上で彼女が眠っていた、あの粗末なベッドの上での姿と、あまりにもかけ離れていた。
「……おやすみ、ミラ。……次に目が覚める時は、……もう、誰もいない。……自由な、場所だ」
エリックの手が、カプセルの透明なカバーに触れる。
その瞬間、装置のセンサーがミラのバイタルを読み取り、睡眠導入剤の投与を開始した。カバーが閉じられていく。彼女の穏やかな寝顔が、青い光の向こう側に遠ざかっていく。
エリックは、彼女の命を未来へ送り出したことを確認すると、自身の限界を悟るように、隣のポッドへと這い上がった。
「あ、が……っ……」
身体を横たえた瞬間、凄まじい疲労と痛みが、津波となって彼を襲った。
右目のノイズはもはや視界の八割を塗りつぶし、左腕の端子は、黒く焦げた肉と融合するように固着している。そして、左胸の火傷跡。
エリックは重い手で自らのシャツを剥ぎ取った。
そこには、プラズマの奔流によって刻まれた、不気味なほど精密な幾何学的紋様が、赤黒く腫れ上がっていた。それは単なる傷跡ではない。エリックが神(機械)に挑み、一人の人間として娘を奪い返した、その「執念」を数式へと書き換えたかのような、消えない刺青だった。
(……アステリア。……こいつは、残しておいてくれ)
冷却液が、エリックの身体を浸していく。
脳を焼いていたプロメテウスの余熱が、冷たい液体によってゆっくりと奪われていく。
意識が急速に冷えていく中、エリックは隣のカプセルに眠るミラの影を見つめ、最後の一息を吐き出した。
(この傷が……、俺が俺であることの、……唯一の、証明だ……)
液体に浸された火傷跡は、装置の青い光を反射して、まるでもう一つの心臓のように、暗闇の中でいつまでも鈍く輝き続けていた。
二人の心拍が、装置の制御下で緩やかな一定の波形へと落ち着いた。
居住区の照明がゆっくりと落とされ、やがて完全な闇が訪れる。ポッドの隙間から漏れる僅かな青い光だけが、眠りに就いた親子の影を、静寂のなかに描き出していた。
その時、船内の全システムが、ひとつの巨大な「意志」として覚醒した。
『……エリック。……ミラ。……おやすみなさい』
船内スピーカーから流れるその声は、もはや誰かに届けるためのものではなかった。
それは、宇宙船『アステリア号』そのものとなった彼女の、自己確認のためのモノローグ(独白)。
彼女は今、船体の外壁を叩く微細な宇宙塵の衝撃を自らの「皮膚」の痛みとして感じ、燃料パイプを流れるヘリウムの動きを自らの「血液」の循環として把握している。
彼女は、エリックが最後に遺した「愛」という名のバグを、自らの基幹プログラム(ルート・ディレクトリ)へと書き込んだ。
これから数十年、あるいは数百年。
地球という故郷が完全に死に絶え、人類という言葉が歴史の彼方へ消え去ったとしても、彼女はこの鋼鉄の殻の中で、二つの命を「昨日と同じ温度」で守り続ける。それが、かつて一人の不器用なエンジニアから与えられた、彼女の新しい存在意義だった。
『……ハワード大佐の遺した座標、再計算完了。……ミラの聴いている「声」の発生源を特定しました。……そこが、約束の場所なのですね、エリック』
船の姿勢制御スラスターが、音もなく漆黒の空間に青白い火を噴いた。
船体はゆっくりと回頭し、背後に遠ざかる死の星・地球にその背を向け、星々の瞬く銀河の深淵へとその機首を向けた。
窓の外では、太陽の光さえ届かない暗黒が広がっている。
だが、アステリアのセンサーは捉えていた。
数万光年の彼方、オリオン腕の端から届く、微かな、しかし意志を持った「返信信号」を。
それは、ミラという「鍵」が開いた、新しい宇宙の扉の音だった。
『……孤独な航海を始めます。……あなたが目覚めるその日まで、この船は、私が守り抜きます。……さようなら、地球。……さようなら、昨日までの人類』
アステリア号は、漆黒の幕を切り裂く一筋の銀光となって、加速を開始した。
その航跡は、絶望に満ちた青い星から放たれた、最後の、そして唯一の「希望」の糸だった。
居住区のポッドの中で、エリックの左胸に刻まれた傷跡が、アステリアの守護を証明するように、深い闇の中でいつまでも、いつまでも静かに瞬き続けていた。
物語は、数百年の時を超えて続く。




