第18話:見えない鎖、虚空の修繕者
宇宙船アステリア号の船体を、目に見えない巨大な巨人の手が握りつぶそうとしていた。
二百八十年という永い歳月をかけて、アステリアが幾千回、幾万回と継ぎ接ぎを繰り返してきた装甲板が、逃げ場のない歪みに耐えかねて悲鳴を上げている。キィィィン、という、鼓膜を直接針で刺すような高周波の金属音が、船内の希薄な空気を伝ってエリックの全身を震わせた。
「アステリア、この振動は何だ! 船体が、内側から引き千切られようとしているぞ!」
エリックは、廃材を組み合わせて自作したばかりの不格好な「機械義手」を、激しく揺れるブリッジのコンソールに叩きつけ、辛うじて自分の身体を固定した。義手の油圧シリンダーが、船体の震動と共鳴して不気味な唸りを上げる。
『……遺構の基部より放たれた、指向性重力波による強制牽引を確認。……エリック、これは単なる吸い込みではありません。……あの巨大な幾何学構造体は、本艦を「物質」としてではなく、解体すべき「資源」として認識し、分子レベルで引き剥がそうとしています』
アステリアの声は、船体各所のスピーカーから重低音となって響き、エリックの足裏から脊髄へと絶望的な事実を伝えてきた。
パノラマウィンドウの向こう側、漆黒の宇宙を背景に浮かぶ、月ほどもあろうかという巨大な「先駆者の遺構」。その中心に開いた暗黒の空洞から、青白い光の触手が幾本も伸び、アステリア号の華奢な船体を絡め取っている。
エリックの右目の視界は、脳の損傷によるノイズで半分以上が塗りつぶされていたが、残された左の瞳は、剥がれ落ちていく外装の破片が、遺構の放つ光の渦に呑み込まれていく光景を克明に捉えていた。
「分子レベルで解体だと……? 二百八十年もかけて、お前が直し続けてきたこの『家』を、あんなゴミ捨て場に放り込まれてたまるか!」
『……船体構造維持率、マイナス十二パーセント。……エリック、このままではドックへ到達する前に、居住区が真空に晒されます。……ミラの眠るポッドも、無事では済みません』
その言葉に、エリックの左胸に刻まれた幾何学的なプラズマ火傷が、警告を告げるかのように激しく疼いた。
あの日の地獄を、もう一度繰り返すわけにはいかない。
エリックは、自作の義手の指を一本ずつ動かし、神経端子から流れ込む「鉄の感覚」を確かめた。それは不自由で、冷たく、暴力的な感触だったが、今の彼にとっては、この宇宙という絶望に対抗するための唯一の牙だった。
「アステリア。……牽引を断ち切る必要はない。だが、船をバラバラにさせないための『補強』は、俺がやる」
『……正気ですか。……この重力嵐の中での船外作業(EVA)は、自殺行為です』
「エンジニアを死なせてくれるなよ、相棒。……あいつに、まだトーストを焼いてないんだ」
エリックは血の混じった唾を吐き捨て、重力波に翻弄されるブリッジを後にした。
背後で、かつて美しかった船内の内装がまた一つ剥がれ落ち、二百八十年という時間の重みが、物理的な破壊となって牙を剥き始めていた。
居住区を抜け、エアロックへと続く連絡通路を、エリックは自作の義手を杖代わりに突きながら疾走した。船体が重力波の波濤に揉まれ、左右の壁が生き物のように歪んで迫る。そのたびに、義手の爪が鋼鉄の壁を深く抉り、耳を劈く金属音を響かせた。
彼は一度だけ、ミラのポッドの前で足を止めた。
強化ガラスの向こう側、銀色の髪を漂わせて眠る娘の姿。彼女のポッドの周囲だけは、アステリアが全リソースを注ぎ込んで維持しているのか、微塵の振動も届いていない。だが、船体が引き裂かれれば、この静寂も一瞬で真空に消える。
「……ミラ。……ちょっと外の掃除をしてくる。……すぐに戻るからな」
返答はない。代わりに、船体各所から「ギギギ」と、限界を超えたボルトが弾け飛ぶ音が聞こえた。
エリックはドックの隅に転がっていた古い船外活動用の与圧服(EVAスーツ)を右手で引き寄せた。それは二百八十年前の骨董品で、至る所にアステリアの手による継ぎ接ぎが当てられている。ヘルメットのバイザーには無数の細かな傷が刻まれ、その奥に見えるエリックの顔は、かつてないほど鋭く研ぎ澄まされていた。
『エリック。……外壁の温度は、遺構の放つ高出力パルスにより、摂氏百度を超えています。……スーツの冷却機能は、持って三十分。……それを過ぎれば、あなたは自分のスーツの中で蒸し焼きになります』
アステリアの声が、耳元のスピーカーから震えを伴って響く。彼女は論理的には反対しながらも、既にエリックの左腕――自作の義手と、船外作業用ツールの接続プロトコルを確立させていた。
「三十分か。……全盛期の俺なら、船を新造できる時間だ」
エリックは機械義手のカバーを外し、剥き出しになった油圧プラグをスーツのソケットへと強引に連結した。
ガチリ、という不吉な噛み合わせの音。
エリックの脳内に、スーツの酸素残量、気圧、そして船体外壁の損傷データが、右目のノイズを押し除けるようにして直接流れ込んできた。
『……エリック。……私は、あなたを失う計算式を、一度も解いたことがありません。……どうか、……生きて戻ってきてください』
「ああ。……お前という『世界』を、あんなゴミ捨て場にバラバラにさせてたまるかよ」
エリックはヘルメットをロックし、エアロックの内扉を閉じた。
排気が開始され、重厚な減圧音が周囲の音を奪っていく。
彼が今から向かうのは、二百八十年の時を経てボロボロになった、たったひとつの「家」を守るための、宇宙という名の残酷な戦場だった。
エアロックの外扉が開いた瞬間、音という概念がこの世から消え去った。
エリックの鼓膜を震わせるのは、自身の荒い呼吸と、生命維持装置が吐き出す機械的な排気音だけだ。目の前に広がったのは、漆黒という言葉ですら生ぬるい、深淵なる宇宙の虚無。その圧倒的な広大さに比べれば、二百八十年を生き抜いた『アステリア号』すらも、暗い海に浮かぶ一欠片の流木に過ぎない。
背後には、彼方の太陽が針の先ほどの光となって瞬き、前方には、月ほどもあろうかという巨大な幾何学的構造体――遺構が、青白い重力波の火花を撒き散らしながら鎮座している。
「……アステリア。……テザー(命綱)の固定を確認。……これより、外壁損傷第4ブロックへ移動する」
『了解。……エリック、注意してください。……遺構の放つ重力波の周期に合わせて、船体が目に見えないほど激しく「たわんで」います。……一瞬でも手を離せば、あなたは宇宙の塵として慣性の彼方へ放り出されます』
エリックは機械義手の爪を、継ぎ接ぎだらけの船体外壁に突き立てた。
真空の中では、金属同士が接触する微かな振動が、義手を通じて直接腕の神経へと伝わってくる。二百八十年の時を耐えた装甲板は、放射線に焼かれ、宇宙塵に穿たれ、かつての銀色の輝きを失って鈍い灰色に変色していた。
目的地に辿り着いたエリックが見たのは、悲惨な光景だった。
遺構の牽引力に耐えきれず、船体の中央部――ちょうど居住区を保護している主要隔壁に、長さ十メートルに及ぶ巨大な亀裂が走り始めていたのだ。そこからは、船内の貴重な空気が白い凍った霧となって、宇宙へ向かって絶えず噴き出している。
「……クソが。……アステリア、第4セクションの隔壁を緊急閉鎖しろ。……ここが剥がれたら、ミラが放り出されるぞ!」
『……実行中。……ですが、外側からの物理的な補強がなければ、次の重力波のピークで、この区画全体が「解体」されます。……エリック、右手のマルチツールを!』
エリックは右手に握った古い溶接機を起動させた。
青白いプラズマの火花が真空に散る。右目のノイズが宇宙の暗闇と同化し、視界を著しく妨げるが、彼は左手の義手で船体を掴み、自身の身体を激しく揺れる外壁へと固定した。
彼を繋ぎ止めているのは、一本の細いワイヤーと、自作の機械義手の爪だけだ。
足元では、剥がれ落ちた装甲板が遺構の「口」へと吸い込まれていく。その恐怖を圧殺し、エリックは狂ったように溶接機を振るった。
宇宙という絶対的な孤独の中で、一人のエンジニアが、娘を包む鋼鉄の殻を守るために、己の命を火花へと変えていた。
溶接の火花が真空に飛び散り、一瞬だけエリックの視界を真っ白に染め上げた。
だが、遺構から放たれる重力波の周期が頂点に達し、船体全体が巨大な弓のようにしなった。その衝撃は、溶接したばかりの接合部を無慈悲に引き裂き、エリックの右腕からマルチツールを弾き飛ばした。
「……ッ、この野郎……!」
ツールは暗黒の深淵へと吸い込まれ、二度と手は届かない。背後では、巨大な亀裂が「ギィィ」という振動を伴ってさらに広がり、剥き出しになった居住区の断熱材が宇宙へと吸い出されようとしていた。アステリアが船内から構造維持を試みているが、物理的な崩壊の速度がそれを上回っている。
『エリック、離脱してください! 次の重力衝撃で、その外壁パネルごとあなたは引き剥がされます! 計算上の生存確率はゼロに――』
「うるさい! ……計算なんて、この腕で握り潰してやる!」
エリックは右手に残った唯一の武器――自身の「意志」を込めた、あの無骨な機械義手を振り上げた。
彼は義手の油圧シリンダーを逆噴射させ、指先の爪を無理やり亀裂の左右にある分厚い装甲板へと突き立てた。肉体と機械を繋ぐ神経端子が、限界を超えた負荷によって再び熱を帯び、左胸の火傷跡が防護服越しに発火せんばかりの疼きを放つ。
エリックは自らの義手を「鎹」にしたのだ。
船体が引き裂かれようとする力と、義手がそれを引き留めようとする力が、エリックの左肩一点に集中する。肩の関節が、内側から粉砕されるような激痛を上げた。だが、彼は義手の出力を最大まで引き上げ、シリンダーが真っ赤に白熱するまでエネルギーを注ぎ込んだ。
「アステリア……今だ! ナノ補修材を、この腕の……隙間に流し込め!」
エリックが義手で無理やり亀裂を閉じさせている数秒の間、アステリアが操る無数の小型ドローンが、彼の手元へと殺到した。ドローンが吐き出す銀色の液体金属が、エリックの義手ごと、船体の亀裂を強引に埋めていく。
機械の腕と、船の皮膚が、一つに溶け合い、硬化していく。
衝撃が去り、船体の震動が一時的に凪いだ。
エリックは義手のロックを解除し、自らの身体を引き剥がした。そこには、エリックの義手の指跡が深く刻まれた、歪だが頑強な銀色の「継ぎ目」が残されていた。
『……補強、完了。……居住区の気圧、安定しました。……エリック。……無茶です。……あなたの左肩の組織は、今の負荷で……』
「……直せない機械は、ないんだ。……俺自身も含めてな」
エリックは荒い呼吸を整えようとしたが、ヘルメットのバイザーの向こうで、右目のノイズがますます激しく明滅していた。
修理は成功した。だが、アステリア号を飲み込もうとする「遺構」の巨大な門は、もうすぐ目の前まで迫っていた。
エリックがエアロックのハッチを潜り抜け、命懸けの船外作業から帰還したその瞬間、船全体を包み込んでいた激しい震動が、唐突に「無」へと変わった。
それは安らぎではない。巨大なプレスの内側に入り込んだような、耳に痛いほどの静寂。
よろめきながらブリッジへ辿り着いたエリックが目にしたのは、パノラマウィンドウの視界すべてを埋め尽くす、幾何学的な「壁」だった。アステリア号を捉えていた青白い牽引光が消失し、船は慣性のまま、遺構の中心部に口を開けた直径数十キロメートルに及ぶ暗黒の回廊へと吸い込まれていく。
「……アステリア。……何が起きた」
『……牽引プロトコルの終了を確認。……私たちは今、遺構の第一外殻を突破し、内部の「管理区画」へと進入しました。……エリック、見てください。……これが二百八十年前にハワード大佐が見落とした、真の救済の地です』
シャッターが完全に開放されると、そこには宇宙の常識を覆す光景が広がっていた。
遺構の内部は、真空ではなかった。
透明な光の膜に包まれた広大な空間には、地球の海を思わせる深い蒼色の液体が巨大な球体となって幾つも浮遊し、その周囲を、数万年前の文明が遺したであろう巨大な「思考する結晶体」が、生命体のようにゆっくりと巡回している。
それらすべてが、ミラが発する「星の声」と同調するように、一定のリズムで青白く明滅していた。
エリックは自作の義手を強く握り締めた。義手の指先からは、遺構が発する高密度の情報流が逆流し、右目の死角に「設計図」のようなワイヤーフレームを強制的に投影し始める。
「……ミラは、これに呼ばれていたのか。……この、死んだ神様の墓場に」
『……警告。複数の自律防衛ユニットが接近中。……彼らは本艦を「修復すべき異物」としてスキャンしています。……エリック、私たちの「家」が、分解される前に……この迷宮の深部へ向かう必要があります』
パノラマウィンドウの向こう側、遺構の壁面から無数の光の粒が飛び立ち、アステリア号を包囲するように集まり始めた。
エリックは血の混じった涙を拭い、崩落しかけた艦長席へと深く腰を下ろした。
左胸の火傷跡は、まるで遺構の鼓動を刻むメトロノームのように、激しく、かつ一定の周期で青い光を放ち続けている。
「……いいだろう。……直してやるさ。……この世界がどれだけ狂っていようが、俺が直して、ミラを連れて帰ってやる」
アステリア号のメインエンジンが、遺構のエネルギーと共鳴するように、かつてないほど高く、鋭い咆哮を上げた。
船は光り輝く迷宮の奥深く、ミラの意識が囚われた「核心部」を目指し、再び加速を開始した。
それは、二百八十年の時を超えたエンジニアが、神の造った「理」を分解し、人としての「明日」を再構築するための戦いだった。




