第13話:星を継ぐ代償、燃え盛る父の背
リフトの扉が開くと同時に、視界は漆黒と銀白のコントラストに支配された。
宇宙船『アステリア号』の最上層、司令ブリッジ。前面を覆う巨大なパノラマウィンドウの向こうには、厚い雲を突き抜けた成層圏の闇が広がり、そこから漏れ出す星々の光が、無機質な計器類を冷たく照らしていた。
その中央、指揮官席に腰を下ろしたハワード大佐は、背後の爆炎や揺れを一切感じさせない、静謐な威厳を纏ってエリックを待っていた。
「……遅かったな、エリック。だが、間に合ったようだ。移民船の予熱は完了した」
ハワードは立ち上がり、ゆっくりとエリックへと歩み寄った。
ボロボロのタクティカル・ベストに身を包み、血と廃油にまみれ、意識を失いかけた娘を背負ったエリックの姿を、彼はまるで「出来の悪い図面」でも見るかのような、哀れみの混じった瞳で見下ろした。
「……ハワード。……この船の発射を止めろ。……ミラの……ミラの意識を、この機械から切り離せ」
エリックの声は掠れ、吐息には鉄の匂いが混じっていた。
左腕のブースター『プロメテウス』は、もはや正常な動作音を立てていない。肉を焼く嫌な臭いと共に、不規則な電子の呻きを漏らすのみだ。
「切り離す? ……なぜ、それほどまでに彼女を『不自由』に引き戻したがる。エリック、窓の外を見ろ」
ハワードは、広大な宇宙を指し示した。
「あそこには、病も、争いも、死の恐怖もない。彼女をコアとしてこの船を放てば、人類の文明は純粋な情報となり、数万年の航海を、ただの『一瞬の夢』として飛び越えられる。……お前が望むのは、泥の中で彼女が老い、死にゆく姿か? それが、お前の言う『愛』か?」
「……ああ、そうだ。……腹が減り、膝を擦りむき、……愛する誰かを失って泣く。……それが、人間だ。……あんたの造ろうとしてる『神様』には、……腹を空かせた娘にトーストを焼いてやる喜びなんて、……一行も書き込まれてないんだろう?」
エリックは震える手でP-12を構え、自身の背中に回されたミラの小さな腕の重さを、改めて噛み締めた。
「未来を語る資格があるのは、……今日、この子の涙を拭える奴だけだ。……あんたには、その資格はない」
『エリック。……ハワードのバイタルに急激な変動。……彼は、言葉で解決するつもりはありません。……神経接続型パワードスーツ、機動を開始します』
アステリアの警告と同時に、ハワードの背後の床がスライドし、漆黒の金属製外骨格が彼を包み込むように立ち上がった。
ハワードの瞳に、要塞を統べた時と同じ、冷徹な紅い光が宿る。
「……残念だ。エンジニアとしては一流だったが、……父親としては、致命的に無能だったな、エリック。……お前の遺したバグは、ここで私が消去してやろう」
ブリッジ内の気圧が急変し、二人の男の間に、殺意という名の真空が生まれた。
ハワードが纏った漆黒のパワードスーツが、不気味な排気音と共に駆動を開始した。
それは軍の最新技術の結晶であり、船のメインコンピュータと直結した、言わば「動く要塞」だった。ハワードが一歩踏み出すごとに、ブリッジの鋼鉄の床が悲鳴を上げ、凄まじい風圧がエリックを襲う。
「アステリア、全リミッターを解除! 脳を焼いても構わん、奴の機動を殺せ!」
『了解。……プロメテウス、オーバードライブ。……エリック、これより一二〇秒間、あなたの神経系を私の演算回路に完全供出します。……激痛に耐えてください!』
エリックの視界から現実の風景が消え、世界は白熱するベクトルの奔流へと変わった。
ハワードが振り下ろした重金属の拳が、エリックの顔面を紙一重でかすめる。アステリアがハワードのスーツの駆動モーターに逆位相のパルスを叩き込み、一瞬だけ動作を停滞させたのだ。
エリックはその隙を突き、死に体の左腕をハワードの胸部装甲へ叩きつけた。
端子から放たれる青白い電弧が火花を散らし、スーツの電子シールドを無理やりこじ開ける。
「……無駄だ! 個人の演算能力など、この船の出力の前には無に等しい!」
ハワードは吠え、スーツの肩部から小型の追尾ミサイルを射出した。
エリックは背中のミラを守るように身を屈め、アステリアが強制起動させたブリッジの防護隔壁を盾にして爆風を凌ぐ。炎が舞い、計器盤が次々と破裂して火を吹く中、二人の男は泥臭い乱闘へと突入した。
エリックはP-12の残弾を、ハワードのスーツの関節部へと叩き込む。
一発、二発。だが、ハワードのスーツはダメージを受けるたびに周囲のナノマシンが自己修復を行い、エリックを絶望の淵へと追い詰めていく。
「見ろ、エリック! これが死を克服した文明の力だ! 傷ついても、すぐに直る! お前の脆い肉体とは違うのだ!」
『エリック、敵のハッキング強度が上昇。……私の思考領域の四割が浸食されています! このままでは、あなたの腕の制御を奪われます!』
「……だったら、俺の腕を……焼き切ってでも止めろ!」
エリックは脳を焼くような高熱に耐えながら、ハワードのスーツの首元――神経接続が最も集中している部位に手を伸ばした。
ブースターが限界を超えた出力を上げ、エリックの鼻と耳から鮮血が滴り落ちる。
電子の悲鳴と肉の咆哮が、閉ざされたブリッジの中で狂った旋律のように鳴り響いていた。
「……往生際が悪いぞ、エリック!」
ハワードの咆哮とともに、漆黒のパワードスーツが強引にエリックを振り払った。
エリックの体は計器盤に叩きつけられ、火花が散る。背負ったミラの喉から、か細い悲鳴が漏れた。その声にハワードが反応する。
「その『鍵』を渡せ。彼女さえいれば、不完全な肉体など捨てて、全人類が昇華できるのだ!」
ハワードは背中のプラズマ・コンジット――船の主機関から直接エネルギーを引き込む高圧供給管に手をかけた。彼はそれを力任せに引き抜き、むき出しのエネルギーの奔流を、エリックが庇うミラへと向けた。
「やめろ……ッ!」
エリックは反射的に、ミラの体を包み込むようにしてその背中を向けた。
次の瞬間、コンジットの亀裂から、数万ボルトの青白いプラズマが牙を剥いて噴き出した。
――視界が、白熱する。
エリックの左肩から胸にかけて、地獄の業火が直接注がれた。
タクティカル・ベストが瞬時に蒸発し、皮膚が、肉が、そして神経が、電子の奔流によって焼き潰されていく。脳が処理できる痛みの限界をとうに超え、エリックの意識は真っ白な虚無へと弾き飛ばされそうになった。
『……エリック! 心停止、〇・二秒前……! 脳が……あなたの脳が焼けてしまいます!』
アステリアの悲鳴が聞こえる。
だが、その激痛の果てに、エリックは見た。
焼け焦げる自分の肉の匂いと、左胸に刻まれていく「幾何学的なプラズマの傷跡」。それは皮肉にも、ハワードが造り上げようとした精密な回路図のような形をしていた。
「……あ、あああああああぁぁぁぁっ!!」
エリックは魂を削り出すような絶叫を上げ、焼けつく左腕を、無防備になったハワードのスーツの胸部へ突き立てた。
プロメテウスに残された最後の一滴、いや、エリックの命そのものを変換した電力を、接続端子を通じてハワードのメインフレームへ逆流させる。
「なんだ……!? この、汚いデータは……! 人間一人のノイズが……船の論理を上書きしているというのか……!」
「……ノイズじゃ、ない……。これが、……親の、執念だ……!」
エリックの胸の火傷が、青白く、そして激しく明滅する。
彼の命と引き換えに放たれた一撃は、ハワードのスーツ、そして彼が信奉する「完璧な論理」を、内側から爆発的に食い破っていった。
眩い閃光の後に残ったのは、焦げたオゾンの臭いと、断末魔を上げるように火花を散らすブリッジの残骸だった。
ハワードの纏っていたパワードスーツは、内部からの演算爆発に耐えきれず、装甲が剥がれ落ちていた。かつて要塞を統べた冷徹な支配者は、崩れた床に膝をつき、力なく首を垂れている。その胸元からは、エリックが逆流させたプロメテウスの余熱が、虚しく白い煙を上げていた。
「……ハ、ワード……」
エリックは崩れ落ちそうな体を、計器盤を支えにして辛うじて保っていた。
左胸の火傷は、既に痛みの感覚さえ奪い去っていたが、焼けた肉からは未だに青い電弧が時折爆ぜ、彼の生命が急速に削られていることを示していた。
ハワードは、血に塗れた口端をわずかに歪め、空を仰いだ。その瞳には、もはや紅い光はなく、ただの老人のような虚脱感だけが漂っている。
「……お前は、……やはり……バグ、だったな……。……だが、エリック……。その鍵を持って、……彼女を……どこへ連れて行く……。……この泥の星に、……未来など……」
「……未来は、……あいつが決めることだ……。あんたが決めることじゃ、ない……」
エリックの言葉を聴いたのか、あるいは聴かなかったのか。ハワードは満足げに一度だけ頷くと、そのまま事切れた。
人類を情報へと昇華させようとした男の最期は、驚くほど静かで、そしてただの「肉の死」に過ぎなかった。
『……ハワード大佐のバイタル、停止を確認。……要塞は、完全に水没しました。……エリック、船の自動発射プロトコルは、既に後戻りできない段階へ達しています。……この船は、飛び立ちます』
アステリアの声が、震えるエリックの耳に届く。
彼は血まみれの手で、背中に固定していたミラのベルトを解き、彼女を優しく、震える腕で抱き上げた。
「……ミラ。……行くぞ」
エリックが選んだのは、ハワードが用意した「神への昇華」ではない。
だが、この沈みゆく星に、娘を留めるわけにもいかなかった。
彼は、ハワードの亡骸を背に、ブリッジの奥にある、ミラの生体波形を船の深部へ送るための「メイン・コンソール」へと歩み寄った。
「アステリア。……この船の『鍵』を、俺たちの意志で回す。……人類を飛ばすためじゃない。……この子を、自由にするためにだ」
『了解。……承認します。……エリック、あなたの左腕のデータを、この船の航海日誌に刻みます。……これが、新しい旅の……最初のログです』
エリックが意識を失う寸前、船全体が巨大な胎動を始めた。
重力を引き裂くエンジンの咆哮。
エリックはミラを抱き締めたまま、訪れる加速の衝撃の中へ、自らの意識を委ねた。




