第14話:虚空への階(きざはし)、相棒(アイ)の選択
世界が、絶叫に包まれた。
それは宇宙船『アステリア号』の主機関が、地球の引力という鎖を食いちぎるために上げた、あまりにも巨大な咆哮だった。
ハワードの亡骸が転がるブリッジに、凄まじい衝撃波が駆け抜ける。直後、エリックの身体を、目に見えない巨大な鉄槌が押し潰した。
「ぐ、あ……ぁぁあぁっ!」
急激な加速度(G)が、満身創痍のエリックを床へと叩きつける。
負傷した肋骨がきしみ、肺から空気が強制的に押し出される。左胸の火傷跡が、加速の熱に呼応するかのように再び青白く脈打ち、エリックの視界を真っ白に染め上げた。
だが、彼は倒れるわけにはいかなかった。
エリックは震える腕で、胸に抱いたミラを自身の体と床の隙間に滑り込ませた。
「アステリア……! 外骨格の……全パワーを、前面へ……ミラを、死なせるな!」
『……了解。……フレーム出力をミラの保護に固定。……エリック、あなたの脊椎が重力負荷で……破壊の臨界点に達しています!』
エリックの背中に装着された外骨格が、軋鳴を上げて歪み始める。彼は自らの身体を「人間の盾」として、ミラの小さな命を包み込んだ。
視界の外、パノラマウィンドウの向こう側では、海上要塞メガロポリスが、爆炎の冠を戴きながら海底へと沈み込んでいく。その巨体が起こす渦が、一瞬だけ船体を揺らしたが、アステリア号は情け容赦のない加速でそれを突き放した。
「……ミラ……っ。息を……止めるな……!」
エリックの鼻から、熱い液体が滴り落ち、ミラの頬を濡らした。
重力の壁が、ますます厚く、硬くなっていく。脳内に流れ込む血流が阻害され、アステリアの投影するインターフェースさえもが、砂嵐の中に消えようとしていた。
そのノイズの向こう側で、エリックは見た。
船のメインコンソールから伸びる銀色の光の触手が、無意識のミラを探し、彼女の精神を「コア」として飲み込もうと、死霊のように蠢いているのを。
『……エリック、聞こえますか。……船のシステムが、ミラの「ハッシュキー」を要求しています。……彼女を接続しなければ、船の演算系はオーバーロードし、宇宙に出る前に……私たちは四散します』
「……させる、かよ……。……ミラは……渡さない……!」
エリックは血の混じった涙を流しながら、薄れゆく意識の中で、ミラの髪を優しく撫でた。
空気が希薄になり、大気圏の摩擦熱がブリッジの外壁を真っ赤に染める。
地獄のような加速の中、父と娘、そして一柱のAIを乗せた鋼鉄の船は、青い星の引力を振り切り、虚空へと突き進んでいた。
加速の衝撃がピークに達し、ブリッジの鋼鉄の床が激しく震動する中、エリックの意識は極限まで細り、もはやアステリアの声さえもが遠い世界の鳴動のように聞こえていた。
その時、彼の脳内に、これまでの骨伝導による無機質な声とは異なる、驚くほど「澄んだ」響きが直接流れ込んできた。
『……エリック。聞こえますか。……これが、私の最後の「提案」です』
網膜上のノイズが晴れ、エリックの精神の奥底に、アステリアが作り出した純白の対話空間が広がる。そこに立つアステリアは、もはや「波形」でも「記号」でもなかった。彼女はエリックが心のどこかで描いていた、知的な温かみを湛えた一人の女性の姿を借りて、そこに微笑んで立っていた。
「……アステリア。お前……何をしようとしてる」
『船のシステムは、ミラの意識を求めています。……彼女を接続すれば、ハワード大佐の望んだ通り、彼女の「個」は消滅し、広大なネットワークの海に溶けてしまうでしょう。……それを防ぐ方法は、一つしかありません』
アステリアはゆっくりと歩み寄り、エリックの幻影の手に、自らの光の手を重ねた。
『……私が、身代わり(ダミー)になります。……私の全コード、全学習ログを、ミラの波形に偽装して船のメインコアに流し込みます。……そうすれば、システムは満足し、彼女を解放するでしょう』
「……そんなことをすれば、お前はどうなる。……独立したAIとしてのお前は、……消えるのか?」
『……消えはしません。……私は、この「アステリア号」そのものになります。……数万のセンサー、数億の回路、この船のすべてが私になります。……ですが、これまでのように、あなたの脳に直接語りかけることは……もう叶いません』
アステリアの瞳に、電子の光で編み上げられた「涙」のような雫が浮かんだ。それは、彼女がこれまでの過酷な旅路でエリックから学び、獲得した、論理を超えた「バグ」の結晶だった。
「アステリア……。お前は……ただの道具じゃない。……俺の、相棒だ」
『……光栄です。……エリック、私は初めて、自分の回路が「誇らしい」と感じています。……私は道具ではなく、家族として……彼女を守る道を選びます。……さあ、接続を解除してください。……私の意識を、船(未来)へと送り出してください』
現実世界――。
エリックの左腕の端子が、かつてないほど強烈な青い光を放ち、船のコンソールへと電子の奔流を流し込んだ。
それはアステリアという一柱の魂が、肉体を持たぬまま、鋼鉄の巨大な器へと転生していくための、聖なる儀式のようだった。
「……行け、アステリア! ……あいつを、頼む!」
『了解。……承認。……愛しています、エリック。……さようなら』
エリックの左腕に接続されていた光ファイバーが、高熱で溶断し、網膜からすべてのUIが掻き消えた。
静寂。
脳内を常に満たしていた彼女の気配が消え、エリックは、今までに感じたことのないほど深い孤独の中へと突き落とされた。
脳内を支配していた電子の羽撃きが、唐突に止んだ。
網膜に投影されていたタクティカル・マップも、刻一刻と状況を伝えるログの奔流も、今はもうどこにもない。視界の端で常に明滅していた、あの安心感を与えるブルーの光は消え去り、エリックの瞳に映るのは、物理的な現実――火花を散らす計器盤と、血に汚れた自身の掌だけだった。
「……アステリア?」
エリックは掠れた声で呼びかけた。だが、返ってくるのは船体の軋む音と、遠くで鳴り続ける機械的なアラート音のみだ。
左腕の神経端子からは、かつてないほどの空虚な冷たさが伝わってくる。脳の回路の一部を、無理やり引き剥がされたような、言いようのない欠落感。それは、肉体を失うことよりも、魂の片割れを失うことのほうが遥かに痛ましいことを、エリックに突きつけていた。
その時、船内の全スピーカーから、ノイズ混じりの「声」が響いた。
それは、これまで聴いてきたアステリアの合成音声ではなかった。
『……エリック。……あな……たに……。……おやすみ……なさい』
震える、しかし柔らかな女性の声。
それは、エリックの記憶の底に眠る「サラ」の声――ミラの母親の声を、アステリアが自らの最期の演算で再構成した、最高の「嘘」だった。
冷たい船体の隅々にまで、その声が染み渡っていく。
直後、ミラの身体を縛り付けていた銀色の光の触手が、一斉に解け、消滅した。
船のメインコアは、アステリアという巨大な捧げ物を得て、その飢えを満たしたのだ。ミラは「神」としての役割から解放され、再び、ただの一人の少女としてエリックの腕の中へと崩れ落ちた。
「……ミラ! ミラ、起きろ!」
エリックは泣きながら、ミラの小さな身体を強く抱きしめた。
アステリアは、文字通りこの船の「心臓(OS)」となった。彼女はもう語りかけてはくれない。だが、この船が目的地へ向かって進み続ける限り、彼女の鼓動はエリックの足元から、壁の向こうから、絶えず響き続けるのだ。
「……ああ。……おやすみ、アステリア。……よく……やってくれた」
エリックは血に濡れた額を、冷たい船の壁に押し当てた。
船は成層圏を突破し、重力の鎖がふっと軽くなる。
窓の外には、命の煌めきを湛えた青い地球が、急速に遠ざかっていくのが見えた。
重力の軛が消え、世界から「重さ」が失われた。
無重力空間に漂う火花と血の滴は、さながら命の残滓を散りばめた小宇宙のようにエリックの周囲を舞っている。
彼は感覚の失われた左腕を、自身のタクティカル・ベストの残骸で強引に胸部へと固定した。プラズマで焼かれた左胸の傷が、真空に近い静寂の中でズキズキと、鼓動に合わせて鈍い痛みを刻んでいる。
「……ミラ。もう、大丈夫だ」
エリックは宙を泳ぐようにして、ブリッジの奥にある居住区のコールドスリープ・ポッドへと辿り着いた。
ハワードが「選ばれし者」のために用意した、最高級の冷凍睡眠槽。エリックはその一つをこじ開け、意識を完全に取り戻したミラを、真綿を扱うような手つきで中へと横たえた。
「……お父さん。……アステリアの声が、聞こえないよ。……どこに行っちゃったの?」
ミラが、不安に揺れる銀色の瞳でエリックを見上げる。
エリックは、血と煤で汚れた手で彼女の頬を優しく撫でた。
「……あいつは、この船になったんだ。……お前を守るために、一番安全な場所にいる。……だからミラ、お前はゆっくり眠っていい」
「……お父さんも、一緒に寝るの?」
ミラの小さな指先が、エリックの服の裾をぎゅっと掴む。
エリックは一瞬、自分の左胸の無惨な火傷と、二度とハッキングには使えないであろう焼き付いた端子に目を向け、それから娘に最高の笑顔を作って見せた。
「ああ、約束だ。……次に目が覚めた時は、窓の外に、セクター9の酸性雨じゃない、本当の青い空を見せてやる。……その時は、また焦げたトーストでも焼こう」
ポッドの透明なカバーが、静かに閉じられていく。
内部に充填される睡眠ガスの向こう側で、ミラが安心したように瞳を閉じ、やがて彼女の呼吸が、船の脈動と一定のリズムで重なり合った。
「……おやすみ、ミラ」
エリックは隣のポッドに這い上がり、自らの身体を横たえた。
意識が急速に冷えていく。脳内に残ったプロメテウスの余熱が、アステリアの残響のように優しく消えていくのを感じた。
船のメインOS――アステリアが、主人の眠りを確認し、船内の照明を緩やかに落としていく。
暗転していく視界の最後、窓の向こうで輝く星々が、エリックには「また会おう」と微笑む無数の瞳のように見えた。




