第12話:残響のコンチェルト、鋼鉄の意志
重厚な気密扉が閉ざされた瞬間、要塞の断末魔は、くぐもった重低音へと変わった。
宇宙船『アステリア号』の乗船デッキ。そこは、海水と硝煙にまみれた地獄から切り離された、白一色の無機質な聖域だった。
エリックは、軋む外骨格のフレームに無理やり身体を預け、ミラをそっと床に降ろした。
大理石のように滑らかな床に、エリックのタクティカル・ベストから滴る黒い海水と血が、無残な染みを作っていく。肺が吸い込む空気は、濾過されすぎて味気ないほどに清潔で、それがかえってエリックの神経を逆撫でした。
「……ミラ。……怪我はないか」
掠れた声で問いかけると、ミラは小さく首を振った。
彼女の銀髪は、船内の補助照明を受けて、静電気を帯びたように微かに波打っている。その瞳は、エリックを映しながらも、同時にこの船の「壁」の向こう側にある何かを凝視し続けていた。
『エリック。……生体診断プロトコル、終了。……あなたの右大腿部に裂傷、左肋骨に二箇所の亀裂を確認。……そして、最も深刻なのは……』
アステリアの声が、網膜上に投影されたタイマーの数字を指し示した。
紅く、そして静かに刻まれる数字。――「一五:四二」。
『外部演算ブースター「プロメテウス」の稼働限界まで、残り十五分。……これを過ぎれば、私の意識とあなたの神経系を繋ぐパスは強制遮断され、フィードバックによるショックで……あなたの脳は、機能を停止します』
「……十五分か。……映画一本のクライマックスにも足りないな」
エリックは自嘲気味に笑い、震える手でマガジンを叩き込んだ。
左腕の端子からは、今や火花すら上がらない。代わりに、肉をじりじりと焼く不気味な低温の熱と、黒い煤が端子の隙間から立ち昇っていた。神経を直接焦がされているような感覚。痛みはとうに、理解できる範疇を超えている。
「お父さん……。誰かが、泣いてる」
ミラが、何もない廊下の先を指差した。
彼女の指先から、目に見えない電子のさざ波が広がり、船の防壁を震わせる。
「……カレンか。……あるいは、この船そのものか」
『……接近する高エネルギー反応を確認。……識別番号、カレン・ヴァレンタイン。……彼女は自身の意識を、船のセキュリティ・メインフレームに直結させています。……エリック、彼女はもう、私と同じ「電子の怪物」に成り果てていますよ』
「……なら、ちょうどいい。……俺も、ただの人間でいるのは、もう飽きたところだ」
エリックはミラの頭を一撫ですると、よろめく足取りで立ち上がった。
静寂のデッキに、カツ、カツと、血に濡れた軍靴の音が響く。
その先には、人間としての形を捨ててまでエリックを拒もうとする、鋼鉄の「論理」が待ち構えていた。
通路の奥、照明が不自然に明滅を繰り返したかと思うと、一人の影が霧の中から滲み出すように現れた。
カレン・ヴァレンタイン。かつてエリックの隣でコードを綴っていたその姿は、もはや見る影もなかった。
彼女の白い軍服は無惨に裂け、そこから覗く肉体は、複雑な光ファイバーとクロム合金のパーツによって強引に補強されている。両腕は肩から先が肥大化した多銃身のガトリング・ユニットへと換装され、その背中からは、神経系を船のメインフレームへ直結させるための太いケーブルが、さながら死霊の尾のように数本引きずられていた。
「……まだ歩けるのですか、エリック。人間の肉体とは、なんと非効率で、無意味な執着を孕んだ物質なのでしょう」
カレンの声は、もはや肉声ではなかった。
船内のすべてのスピーカーから、数千のデジタル音声が重なり合った、多層的な響きとなってエリックの鼓膜を震わせる。彼女の瞳は、焦点を結ぶことを辞め、ただ膨大な演算結果を投影するだけの冷たいレンズへと変貌していた。
「カレン……。その姿、ハワードに強要されたのか。……それとも、自ら望んだのか」
エリックはP-12を構え、震える指先をトリガーガードに掛けた。アステリアが脳内に、彼女の周囲に展開された「電子の絶対防御圏」を赤く警告している。
「望む? ……いえ、これは『進化』です。……ハワード大佐は私に、全知へと至る門の鍵を授けてくれました。……今の私には、あなたの心拍、血流量、そして次にどの筋肉を動かし、どのタイミングで弾丸を放つか、そのすべてが、確定した未来として視えています」
カレンの換装された右腕が、唸りを上げて回転を始めた。
エリックの網膜上で、アステリアが絶望的な予測回避率を更新し続ける。
『エリック。彼女の処理速度は、プロメテウスの最大出力を凌駕しています。……彼女は今、この船の演算コアそのもの。……通常のハッキングでは、彼女の思考の末端に触れることさえ叶いません』
「……なら、異常を叩き込むしかないな。……論理に勝てないなら、論理そのものを壊してやる」
「教官。……あなたはいつも、そうやって『不確定要素』に期待して、敗北してきた。……その古い矜持ごと、情報の塵にしてあげます」
カレンの冷徹な宣戦布告と共に、狭い通路を、肉眼では捉えきれない金属の暴風が埋め尽くした。
エリックは一歩地を蹴り、脳が焼けるようなプロメテウスの叫びに身を任せた。
カレンの放つガトリングの連射が、エリックの周囲の隔壁を紙細工のように切り刻む。
エリックはアステリアの視覚補正だけを頼りに、弾丸が描く死の格子を紙一重ですり抜けていた。だが、防戦一方なのは明らかだった。カレンの演算はエリックの回避を先読みし、徐々に、だが確実に彼を追い詰めていく。
『エリック! 限界です。彼女のハッキングが、私のファイアウォールを物理的に加熱させています。……このままでは、あなたの脳が情報飽和で爆発します!』
「……アステリア。……あれをやるぞ。……俺の脳内にある『非構造化データ』を、全パケットとして奴に放り込め!」
『……正気ですか!? それは、あなたのミラとの思い出を、文字通り「弾丸」として消費することを意味します。……記憶が欠損し、二度と思い出せなくなるリスクがあります!』
「構わん……! 今を生き残らなきゃ、思い出なんてただの死体と同じだ!」
エリックは不敵に笑い、左腕の『プロメテウス』を自身の頭部に押し当てるようにして、全リミッターを解除した。
脳の深層に眠る「ミラとの記憶」――彼女が初めて笑った時の声、工房で共に食べた粗末なパンの味、彼女の髪が風に揺れた瞬間の温度。それら、論理では決して記述できない「主観的体験」のすべてを、アステリアが暴力的なまでの高密度パケットへと変換する。
「カレン……! お前の綺麗な数式に、こいつを解かせてやる!」
エリックの神経端子が青白く発光し、カレンの接続する船内ネットワークへと、ノイズの奔流が逆流した。
カレンの脳内に、突如として「意味不明なデータ」が雪崩れ込む。
彼女の超高速演算回路は、それらを解析しようと試みる。だが、それは0と1のバイナリでは記述できない、重層的な感情の嵐だった。
「……何、これ……。解析不能……。なぜ、このデータには『重さ』があるの!? ノイズじゃない……これは……人の、愛……?」
カレンの冷徹な顔が、初めて苦悶に歪んだ。
一秒間に数億回もの最適解を出す彼女の脳が、エリックという人間の「非論理的な記憶」を処理しようとした結果、演算資源がすべて「感情の解釈」に食いつぶされていく。
「システムが……止まる……。論理が……壊れる……!」
カレンの銃火器が停止し、彼女の全身の関節ユニットが、不規則な電気信号によって痙攣を始めた。
最強の「論理」が、不完全な「愛」という名のバグによって、内側から食い破られた瞬間だった。
カレンの演算が「愛」という名の解読不能なバグに呑み込まれ、その鉄の瞳に初めて人間らしい「動揺」が走った。
その刹那、エリックは血を吐くような思いで残った力を右脚に込め、無機質な大理石の床を蹴った。
「終わりだ、カレン!」
エリックは、もはや照準器を覗くことさえしなかった。アステリアが脳内に直接描く、カレンの制御コアの「脆弱性」という一点。そこへ向けて、P-12の残弾すべてを叩き込んだ。
三発。
一発目は彼女の防衛フィールドを霧散させ、二発目は換装された右腕のガトリングを爆砕し、そして最後の一発が、彼女の喉元にあるメイン・インターフェースを貫いた。
カレンの身体が、糸の切れた人形のように激しく痙攣し、背後のケーブルから火花が噴き出した。彼女を支えていた船のネットワークが、逆流する過負荷によって断絶していく。
「……あ、あぁ……。温かい……。エリック……これが、あなたの……」
彼女の瞳から紅い光が消え、一瞬だけ、かつての教え子だった頃の、澄んだ瞳が戻った。彼女は力なく崩れ落ちながら、その不自然な義手で空を掴むようにして、何かを確かめるように微笑んだ。
「……バグ、ですね……。皮肉な……ものです……」
カレンの頭部がガクリと垂れ、その身体から一切の電子音が消えた。要塞最強の電脳戦士は、最期に一人の「人間」としての安らぎを得て、静かに機能停止した。
『……ターゲット、沈黙。……エリック、休んでいる暇はありません。ブースターの残存稼働時間、残り六分。……ハワード大佐は、ブリッジの最終ロックを開始しました』
エリックはカレンの亡骸から目を逸らし、ミラの手を強く握った。
「……ああ。……決着をつけに行こう」
二人は、血の海と化したデッキを横切り、最上層ブリッジへと続く高速リフトへと乗り込んだ。
リフトが起動し、Gの重みがエリックの傷ついた身体にのしかかる。
窓の外では、完全に海へと沈んだメガロポリスが、海底で巨大な爆発を起こし、海面を真っ赤に染め上げていた。
地上に残された最後の、そして最悪の文明が消え去る。
残されたのは、天へと昇る一隻の船と、そこに乗り込んだ三つの魂だけだった。
扉が開く。
その先には、星々の光を背負い、冷徹な静寂を纏ったハワード大佐が、エリックを待っていた。




