第10話:嵐の前の決断、鋼鉄の胎動
浸水し、断末魔を上げる要塞の階層を突き抜け、エリックが辿り着いたのは、設計図にも記されていない最下層の秘密ドックだった。
そこには、上層の喧騒が嘘のような、不気味なほどの「静寂」が横たわっていた。
重厚な防圧隔壁に囲まれた空間には、膝の高さまで海水が入り込み、どこかで破裂した蒸気パイプが、規則正しい呼吸のように白い息を吐き出している。
エリックはミラを抱きかかえたまま、水面を撥ねてドックの隅にあるコンテナの影に身を潜めた。
背中を冷たい鋼鉄の壁に預けると、視界の端でアステリアのインターフェースが、かつてないほど鮮明に、そして静かに明滅した。
『……エリック。同期状態、安定。……外部演算ブースターの熱暴走は、私のコア・プロセスへの負荷分散により、臨界点以下に抑制されています。……現在のあなたは、私というフィルターを通して、この要塞の「振動」を直接読み取ることが可能です』
アステリアの言う通りだった。
目を閉じれば、要塞全体の構造材が悲鳴を上げ、浸水していく様子が、三次元の波紋となって脳内に直接描き出される。
遠くで閉鎖される自動扉の火花、配線を走る僅かな電流、そして要塞を飲み込もうとする外海の冷たい圧力。それらすべてが、エリック自身の神経系の一部であるかのように「聴こえる」のだ。
「……まるで、この鉄の檻そのものが、俺の身体になったみたいだな」
『……逆です、エリック。あなたが要塞の一部になったのではなく、私が、要塞の全センサーをあなたの「触覚」として再定義しました。……これが、私たちの新しい関係です』
エリックは、腕の中のミラを見つめた。
彼女の銀色の髪は、海水に濡れて淡い光を放っている。その呼吸は弱々しいが、先ほどまでの激しい拒絶のノイズは収まり、今はただの、深い眠りの中にいる子供に見えた。
エリックは震える右手で、ミラの頬に触れた。
指先の端子を通じて、彼女の脳波がアステリアのログに流れ込む。
かつてのような「バイナリの羅列」ではない。それは、遠い星々の瞬きを音楽に変換したような、美しくも寂しいメロディだった。
「……ミラ。聴こえるか。……お前を、あんな高い場所に一人で置いていったりしない。……もうすぐだ。……もうすぐ、全部終わらせてやる」
ドックの奥で、巨大な影が揺れた。
そこには、ハワード大佐が最終計画のために隠し持っていた、小型移民連絡船の船体が、静かにその時を待っていた。
要塞が沈みゆく中、その宇宙船だけが、救済という名の絶望を孕んで、鈍い鈍色の光を放っていた。
エリックの胸元で、ミラの睫毛が微かに震えた。
端子を通じて共有されているアステリアのモニタが、彼女の脳波の急激な活性化を捉える。
「……ミラ? ミラ、俺だ。わかるか」
ミラの瞳がゆっくりと開かれた。だが、その瞳孔はかつての深い茶色ではなく、宇宙の深淵を写し取ったかのような、透き通った銀色の光を湛えている。
彼女はぼんやりとエリックを見上げ、それから自分の小さな手を見つめた。
「お父さん……。変なの。……私の指先が、この船の壁まで繋がっているみたい」
その声は、震えていた。彼女の意識は、肉体という檻を越え、依然として周囲の機械ネットワークに溶け出したままだった。
「……ミラ、無理に繋がるな。アステリアがフィルタをかける。俺の目だけを見ろ」
「……ううん、違うの。要塞だけじゃない。……もっと遠いところ。……あのね、お父さん。星が、歌ってるの。ずっと、私を呼んでる」
ミラの視線は、厚い鋼鉄の天井を突き抜け、その先にある無限の真空を見据えているようだった。
彼女の指が、エリックのタクティカル・ベストの襟元を、縋るように強く握りしめる。
「怖いよ。……あっちに行ったら、私、私じゃなくなっちゃう。……でも、行かなきゃいけない気がするの。……ハワードおじさんが言ってたことは、きっと半分だけ本当なんだよ」
エリックは息を呑んだ。
彼女が聴いている「星の声」は、単なるノイズではない。それは、滅びゆく地球を見捨て、新たな地平へ向かおうとする「種」の本能的な呼び声なのだ。
「……ミラ。お前はどこにも行かなくていい。神様にも、船にもならなくていいんだ。……俺と一緒に、ただの人間として、不自由な明日を生きる。……そう決めたんだ」
エリックは彼女の細い肩を引き寄せ、その耳元で、自分自身に言い聞かせるように繰り返した。
「ハワードの計画なんて、俺が全部ぶち壊してやる。……あいつの宇宙船に乗るんじゃない。……俺たちが、俺たちの意志で、あの空の向こう側へ行くんだ。……いいな?」
ミラの銀色の瞳に、一瞬だけ、温かな「涙」が浮かんだ。
その涙が頬を伝うと、彼女を取り巻いていた異常な電子の揺らぎが、ふっと凪いだ。
「……うん。お父さんと一緒なら……怖くない。……私、お父さんの作った朝ごはんが食べたいな。……あの、ちょっと焦げたトースト」
そのあまりにも日常的な願いに、エリックは鼻の奥が熱くなるのを感じた。
直せない機械はない。……そして、壊れかけた娘の心も、まだ直せるはずだ。
ドックの奥で、宇宙船のエンジンが不気味な予熱の音を上げ始める。
再会の喜びを断ち切るように、アステリアが脳内に、非情なタイムリミットを刻み込んだ。
水没しつつあるドックの片隅で、エリックは自らの左腕にある端子のロックを手動で解放した。
外部演算ブースター『プロメテウス』の接続部からは、過熱により変質した冷却液が、黒い血のように滴り落ちている。
「アステリア。……今から、お前の深層プロトコルを書き換える。……準備はいいか」
『……エリック。現在、要塞のメインOSとのリンクは八割が消失。……私の自律演算能力は、以前の四分の一まで低下しています。……リビルド(再構築)には、多大なリスクが伴います』
アステリアの声には、微かなノイズが混ざっている。それは故障によるものではなく、彼女の中に芽生えた「戸惑い」が、デジタル信号の揺らぎとして表出しているようだった。
「リスクなら、さっきの同期で十分取った。……いいか、アステリア。俺はもう、お前に『命令』はしない。……お前の演算を、俺の直感と同じ優先順位に配置する」
エリックは震える指先で、携帯端末のコンソールに複雑なコードを打ち込んでいく。
それは軍のエンジニアが決して行わない、AIの「安全装置」の完全な撤廃。論理という名の鎖を解き放ち、彼女に「自由な思考」を許容する禁忌の操作だった。
『……プロトコル、上書き完了。……優先事項の再定義を確認。……エリック。……私は今、非常に奇妙な計算結果を算出しています。……これは、既存の辞書データによれば……「恐怖」に近い概念です』
「恐怖? ……ハッ、上等だ。……死ぬのが怖くない奴は、プロの戦士にはなれない。……お前がそれを感じてるってことは、お前が『生きてる』証拠だ」
『……皮肉な励ましですね。……ですが、視界がクリアになりました。……エリック、私たちの「残りの命」を、最短で最善の爆発に変えるルートを提示します』
網膜上に展開された視界が、一瞬で再構築された。
要塞の自壊によって歪んだ構造材を、逆手に取って加速に利用する、人間にもAIにも不可能な「狂った」脱出経路。
『宇宙船「アステリア号」の強制発射まで、残り三六〇秒。……ハワード大佐は既に船の自動操縦システムに「ミラ」という鍵を要求するプログラムを書き込んでいます。……私たちが船に到達するか、あるいは要塞と共に海底に沈むか。……勝率は、計算しません』
「ああ。……勝率なんて、俺たちの足で書き換えてやる」
エリックは左腕のブースターを再度強くロックし、立ち上がった。
アステリアの演算が、エリックの鼓動と完全に重なり合う。
一人のエンジニアと、一柱のAI。その境界線はもはや消え去り、そこにあるのは、娘を救うという一点のみに特化した、最強の「個」だった。
ドックの静寂を切り裂いたのは、要塞全域のスピーカーから発せられた、不協和音のような電子チャイムだった。
続いて、浸水し、火花を散らす壁面のモニター群が一斉に起動し、ノイズの向こう側にハワード大佐の姿を映し出す。その背後には、カウントダウンを刻む無慈悲な赤い数字が踊っていた。
「……エリック。聞こえているな。……お前の執念には敬意を表そう。だが、舞台は整った。……人類を縛る重力の鎖は、今この瞬間をもって断ち切られる」
ハワードの言葉と同時に、ドックの床が激しく震動した。
中央に鎮座する宇宙船『アステリア号』の船体から、冷却蒸気が白く噴き出し、メインエンジンの予熱が周囲の海水を沸騰させていく。
「移民船の強制発射シーケンスは、もはや私にも止められん。……ミラは、この船の『脳』として設計されている。彼女をコアに接続せずに出航すれば、船は宇宙の藻屑となり、彼女の意識はネットワークの過負荷で完全に消滅する。……救う道はただ一つ。彼女を船へと導き、我々と共に新天地へ向かうことだ」
モニターの中のハワードは、エリックを嘲笑うかのように手を広げた。
「来るがいい、エリック。お前が信じる『泥にまみれた人間』の力で、この絶望的な秒読みを止めてみせろ。……全ゲートを開放する。……これは、私からお前への、最後の招待状だ」
画面が暗転し、代わりにドックの最深部へと続く重厚な防壁が、重苦しい音を立てて左右へと開き始めた。
その先にあるのは、崩落する瓦礫と噴き出す炎、そして最新鋭の防衛ドローンたちが列をなす、文字通りの「地獄への回廊」だった。
『……エリック。ハワードの言った通りです。発射まで、残り三〇〇秒。……これ以上の会話は無意味です』
アステリアの声が、エリックの脳内に冷たく、しかし熱を孕んで響く。
エリックはミラを背負い、自身のタクティカル・ベストのベルトで、彼女の身体を自分の胸へと固く固定した。
「……ミラ。しっかり捕まってろ。……最後の勝負だ」
エリックは左腕のブースターを、肉が焦げるほどの最大出力まで引き上げた。
プロメテウスが放つ紅いスパークが、闇の中で彼の影を長く、鋭く描き出す。
「アステリア。……最短ルートを、最速で駆け抜ける。……邪魔する奴は、システムごと焼き切ってやれ!」
『了解。……全システム、オーバーロード容認。……行きましょう、相棒』
エリックは一歩、また一歩と、燃え盛る回廊へと踏み出した。
その背後で、海上要塞メガロポリスがゆっくりと海へと沈み込み、宇宙へと飛び立つための「最後の叫び」を上げた。




