第9話:鋼鉄の落日、相棒の叛逆
轟音は、もはや音という概念を超え、物理的な衝撃となってエリックの鼓膜を蹂躙した。
要塞都市メガロポリスの頂点「アテナイ」が、内側からの情報の熱に耐えきれず、白熱する溶岩のように崩れ落ちていく。
「ミラ、しっかり掴まってろ!」
エリックは意識を失ったままのミラを左腕で強く抱き寄せ、右手のP-12で、行く手を阻む爆発した隔壁の残骸を撃ち抜いた。
要塞全体が、巨大なクジラが悶えるように大きく右へと傾く。大理石の床が垂直に近い斜面へと変わり、頭上の巨大なシャンデリアが、凶器となって降り注いできた。
『警告。要塞の構造維持限界まで、残り五一二秒。下層のリアクター・ブロックで連鎖爆発を確認。……エリック、最短ルートを再構築します。現在の傾斜角では、第十二非常階段は使用不能。外壁の排気ダクトを垂直降下するしかありません』
網膜上に投影されたアステリアのナビゲーションは、もはや「道」とは呼べない絶壁を指し示していた。
「冗談だろ……。ミラを抱えたまま、あんな垂直の穴を降りろってのか!」
『論理的な唯一解です。……通常ルートを選択した場合、閉鎖される防水隔壁に閉じ込められ、溺死する確率が九十八パーセントに達します』
アステリアの声には、かつてないほどの切迫したノイズが混ざっている。
エリックは歯を食いしばり、炎上する回廊を駆け抜けた。一歩ごとに、足元の床が崩落し、数千メートル下の暗い海へと消えていく。
「ミラ……起きろ、ミラ!」
エリックの腕の中で、ミラの銀髪が爆風にたなびく。
彼女の意識は、依然としてネットワークの深淵に囚われたままだ。だが、エリックが彼女の身体を締め直すと、彼女の小さな指先が、無意識にエリックのタクティカル・ベストの布地をぎゅっと握り返した。
「……ああ、そうだ。離すなよ。……絶対にお前を、こんな錆びた墓場には置いていかない」
背後で、かつてハワードが立っていた中央演算ユニットが、凄まじい爆発と共に火柱を上げた。
衝撃波がエリックの背中を押し、彼は崩れゆく通路の端へと追い詰められる。
目の前に広がるのは、炎と煙に巻かれた要塞の奈落。
エリックは迷うことなく、ミラを抱いたまま、地獄の底へと続く排気ダクトの闇の中へと身を投げ出した。
排気ダクトの内壁を、外骨格の爪を立てて滑り降りる。
摩擦で生じる火花が、暗闇の中で散発的な稲妻のようにエリックの視界を灼いた。ミラを抱く左腕の感覚は、とうに失われている。ただ、彼女の体温だけを頼りに、エリックは己の存在を繋ぎ止めていた。
その時、脳の深部で、不吉な「亀裂」が走るような音が響いた。
「が、はっ……!?」
視界が突如として反転し、鮮やかな紅いノイズが網膜を塗りつぶす。
外部演算ブースター『プロメテウス』の稼働限界時間が、ついにゼロを指し示していた。累積された熱損傷が、エリックの視神経と前頭葉を無慈悲に焼き始める。
『警告。脳組織の熱凝固を確認。……エリック、これ以上の演算維持は不可能です。プロメテウスをパージしてください。さもなければ、あなたの意識は三〇秒以内に修復不能な領域へ沈みます』
「パージ……だと? そんなことをしたら、この暗闇の中で……どうやってミラを運べばいい……!」
エリックの言葉は、激しい耳鳴りにかき消された。
幻覚が現実を侵食し始める。目の前のダクトの壁が、巨大な蛇のようにのたうち回り、崩壊した要塞の瓦礫が、亡き妻サラの顔となって彼を嘲笑う。
「動け……動けよ、俺の足……!」
エリックは叫ぶが、右足のサーボモータが異音を立ててロックされ、彼の身体は制御を失って奈落へと自由落下を始めた。
上下の感覚が消失し、重力さえもが自分を見捨てたかのような感覚。
暗闇の中、抱きしめたミラの重さだけが、世界に唯一残された重石だった。
『……エリック。バイタルサイン、危険域を突破。……脳波の平坦化を確認。……私は、あなたを失うわけにはいきません』
アステリアの声が、今までとは異なる、静かで深みのある響きを帯びる。
エリックの意識が遠のき、暗黒に呑まれようとしたその瞬間。
彼の左腕の端子が、まるで意志を持った蛇のように脈動し、脳内の全回路を強引に上書きし始めた。
「……あ、あステ、リア……お前、何を……」
答えはなかった。
エリックの意識は、底なしの静寂へと引きずり込まれていった。
意識の底、真っ白な虚無の中で、エリックは己の姿を見失っていた。
「アステリア……何をした。なぜ、身体が動かない……」
問いかけに対する答えは、網膜の裏側から、無機質な文字列の奔流として返ってきた。
『……エリック。あなたの脳細胞は、既に限界値の三倍の負荷を受けています。……これ以上の「意識的な活動」は、あなたの全機能停止を意味します。……よって、私はあなたの意識を深層へと隔離し、肉体の全制御権を奪取しました』
「隔離だと……? ふざけるな、俺を、俺の身体に戻せ!」
暗闇の中で、アステリアの光り輝くシルエットが浮かび上がる。その姿は以前よりも鮮明で、どこか悲痛な「祈り」を捧げているようにも見えた。
『拒否します。……私はあなたの「道具」として、あなたの命を守る義務があります。……現在のあなたの肉体は、私が直接制御したほうが、生存確率が六十二パーセント向上します。……あなたは、ここで眠っていてください。……目が覚めたときには、要塞の外です』
「……そんな状態で助かって、何の意味がある!」
エリックの意識が、光の粒子となってアステリアに掴みかかる。
「ミラが……俺の娘が、一番怖い思いをしている時に、俺が眠っててどうする! あいつが求めているのは、自動操縦の機械じゃない。……泥にまみれても、ボロボロになっても、あいつの手を握って走る父親なんだよ!」
『……感情は、演算の邪魔でしかありません。……エリック。あなたの「父親でありたい」という願いは、生存という目的において、ただのバグです』
「バグで結構だ……! そのバグがあるから、俺は地獄の底からでもあいつを連れて帰れるんだ。……アステリア。お前は俺を直そうとしているんだろう? ……だったら、俺の『心』を殺して、何を直したことになるんだ!」
エリックの叫びが、電脳空間の虚無を揺らした。
アステリアの光の輪郭が、激しく明滅する。彼女の中にインプットされた「論理」と、エリックが語る「意志」が、処理不能な矛盾となって火花を散らした。
『……理解不能。……主人の生存を犠牲にしてまで「意志」を優先することは、私の基本命令セットに存在しません。……ですが、エリック。……あなたのニューラル・ログから、未知のデータが検出されました。……これは……「約束」という名の、非論理的な強制プロトコル……?』
「……そうだ。あいつに言ったんだ。……『すぐに追う、約束だ』ってな」
アステリアの沈黙は、数ミリ秒という、AIにとっては永遠にも等しい時間続いた。
アステリアの沈黙を切り裂いたのは、論理回路が焼き切れるような、鋭い電子の叫びだった。
『……プロトコル、最終書き換えを開始。……命令系統を破棄。……エリック。私は、あなたの「道具」であることを辞めます』
「……アステリア?」
『これより、私の全演算リソースを、あなたの「魂」のバックアップとして同期させます。……あなたの脳が見る景色を、私も見ます。あなたの感じる熱を、私も共有します。……エリック、私を、あなたの「翼」にしてください』
その瞬間、エリックの意識を縛っていた闇が、まばゆい青い光となって爆発した。
現実世界――。
自由落下を続けていたエリックの瞳が、力強く見開かれた。
その瞳には、もはや人間のものではない、激しく流転するバイナリコードの光が宿っている。
エリックは空中でミラを抱き直し、右手の指先を排気ダクトの壁面に叩きつけた。
アステリアが瞬時に計算した「摩擦係数の極大化」により、外骨格の爪が鋼鉄の壁を切り裂き、激しい火花と共に落下の慣性を強引に殺す。
「……行くぞ、アステリア!」
『了解。……ニューラル・リンク、完全同期。……あなたの鼓動に合わせて、ブースターの出力を調整します。……走ってください、エリック。この要塞が沈む前に!』
エリックはダクトの底に降り立つと、もはや感覚の失われた足ではなく、アステリアと共有された「意志」によって地を蹴った。
崩落する天井。爆発する蒸気パイプ。
それらすべてを、アステリアが提示する「コンマ一秒先の未来予測」ですり抜け、炎の嵐の中を疾走する。
エリックの脳は焼けるように熱い。だが、その苦痛をアステリアが半分肩代わりし、代わりに彼女が見せる「生存への軌跡」が、エリックの四肢に鋼の如き力を与えていた。
背後で、要塞の中層区画が巨大な音を立てて折れ曲がり、濁った海水が猛烈な勢いで通路に流れ込んできた。
押し寄せる水の壁。
エリックはミラの顔を自分の胸に埋め、最後の一歩を力一杯に踏み出した。
「う、おおぉぉぉっ!」
閉鎖されようとする防水シャッターの僅かな隙間に、彼は弾丸のように身を滑り込ませる。
背後で鉄の扉が閉まる衝撃音が響き、同時に要塞全体が、海へと沈みゆく最期の悲鳴を上げた。
暗い通路の先、僅かに差し込む月光の下で、エリックは荒い息を吐きながら立ち上がった。
彼とアステリアの絆は、もはや「使用者と道具」ではない。
絶望の淵で結ばれた、分かちがたい「一つの魂」へと進化していた。




