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6. 勇敢な騎士

 T字カミソリを風呂椅子に置いて、蛇口ハンドルを回した。

 全身の汚れと眠気を含んだ水滴が皮膚の表面をつたい、モザイクタイルを経由して下水へと流れていく。お湯で顔を洗いながら、いましがたまでみていた奇妙な夢を思いだそうと、断片的で曖昧な記憶を繋ぎ合わせて脳内で再生してみる。

 ひと言で表せば、それは不思議な夢。アメリカの地方都市を思わせる土地の広い一軒家がどこまでも等間隔に建ち並び、乾いた芝生のうえを歩きながら順番に家のベルを鳴らす。ただ、それを延々と繰り返すだけの夢。いつ終わるかも知れず、人気のない家を訪ね歩くという粗末な夢。

 夢というのは、人間の願望を満たすためのものであり、人間の見る夢にはすべて何らかの意味があるものだと、そうフロイトは説明している。

 夢には願望がそのままの形で現れる場合と、潜在的な願望が形を変え、歪曲されて現れる場合の二通りがあるとされ、後者の潜在的な願望とは、夢を見ている本人さえも分からないような抑圧された無意識的な願望のことで、性愛的な願望が常に含まれている。

 ぼくの心を、仮に縦長の建造物に喩えたとする。エレベーターに乗って最下層まで降り、薄暗い通路をまっすぐに進み、頑強に補強された銀色の鉄扉を開けると、そこには性愛的な願望が黒い椅子にぽつねんと座っている。

 つまり、寂しげに座っているその無意識的な願望が何らかに形を変えて、具現化した正体こそ昨夜の不思議な夢ということになる。まあいずれにしても憂鬱な月曜日の早朝に、それも風呂場で黙々と考えるには、少々シリアスと言わざるを得ない。

 ぼくは、全身を拭いたバスタオルを洗濯機に放りこんだ。防寒靴下、保温性に優れたタイツ、ボクサーパンツ、ランニングシャツ、長袖クルーネック、長袖クルーネック。

 洗濯かごに小山のように積まれた衣類は、冬という季節の感じをよくあらわしているが、さらにダブルスーツ、ネクタイ、マフラー、ステンカラーコート、革手袋をくわえればそれは風物詩というよりも、非常に煩わしい手間といったほうが的を射ていると思う。

 やれやれ、タンクトップにハーフパンツで外出できる夏が恋しい。着替えにかかる時間や洗濯物の量に圧倒的かつ絶対的な差があり、うだるような八月の暑さはどうも好きになれないが、それを差し引いても余りある。

 廊下の突きあたり、和室のほうから抑揚のない男性アナウンサーの声が聞こえ、昨夜未明どこかの団地で火災があったこと、それと野郎がすでに起きていることをぼくに告げた。


「寝坊か? 成瀬」

「まあ、そんなとこです。 あ、片付けてくれたんですか?」

「それに、朝食まで・・・」

「おうよ。 俺は、成瀬とちがって朝につよいからな」

「当然ですよ。 根本さん、十時すぎには寝てましたからね」

「そりゃ、こたつのせいだな」

「はいはい。 っていうか、これ何人分ですか?」

「冷蔵庫にあったバラ肉、全部使ったでしょう?」

「少しだけ残しても、しかたないからな」

「何ですかこの肉の量。 豚丼っていうより、肉丼ですよ肉丼」

「成瀬、おまえ肉すきだろ?」

「ええ、まあ好きですけど。 とりあえず・・・ いただきます」

労いと感謝をこめて、豚の肉片を豪快に口へ運んだ。

「どうだ? うまいだろ?」

「普通ですね。 焼いた肉の味です」

「つまんねえコメントしやがって。 せっかく作ってやったのに」

「だってこれ、ただ焼いただけでしょう?」

「それでも、二十分はかかったぞ。 いらねえなら、俺が食べてやる」

「いや、食べます」

準備運動をせずに、全力疾走したような朝食。胃や小腸、あらゆる臓器が結託して、これ以上体内に脂質をいれないよう、全力で悪事を働いているとしか思えないほど食欲がない。

 野郎はすでに食べたのだろう、テーブルに突っ伏して仕事に備えて力を蓄えているのか、そのまま昼過ぎまでぐうぐう寝れそうな曖昧な姿勢で沈黙をまもっている。

「雪、やんだみたいですね」 

「あの調子で降ってくれればな・・・ 有給つかって休めたのに」

「別にいいですよ、一日ぐらい。 ぼくから言っておきますよ」

「さっすが所長代行。 言うことがちがうね」

「代行なんて、名ばかりですよ。 まあ、たまにはゆっくり休んでください」

「とはいっても生憎の晴れだし・・・」

「それに、朝一でロードローラー点検しないとな」

「R2なら、ぼくがやっておきますよ。 ある程度、研修で習いましたから」

「研修って、おまえ何年前のことだよ。 成瀬には無理」

「手伝ったじゃないですか。 たしか、夜間工事の客に出したR2。 覚えてますか?」

「ああ、あれか。 俺が点検した後だったからな、異常がないのは当たり前だろ」

「なんだ、そうだったんですか」

「やっぱり出るわ、天気いいし。 それに、なんか心配になってきた」

「そうですか、わかりました」

ぼくは、悲鳴をあげる臓器たちを完全に無視して冷めたバラ肉を胃に落としこんだ。

「ごちそうさまです。 もう行きますね」

「行くって、まだ六時だぞ?」

「一服してけよ」

「じゃあ、そうします」

野郎は左腕をのばし、ガラス灰皿をぼくの前に置いてくれた。

「成瀬、おまえ出るの早すぎ。 現場からの電話なんて、滅多にねんだから」

「まあ、そうですけど・・・」

「それとな、いいかげん車買え。 安いのでいいから」

「車ですか。 たしかに欲しいですね」

「来週あたりボーナスでるだろ? 中古車でいいなら、安いとこ紹介してやるよ」

「安いところって、北川自動車ですか?」

「そうそう。 あそこは、うちと付き合い長いから、かなりまけてくれるぞ」

「んん・・・ 迷いますね」

「なにも迷うことはねえだろ。 軽なら安いって」

「いくらですか?」

「そうだな十万から、高くても五十万くらいかな」

「十万って、なんか怪しいですね。 事故車か何かですか?」

「それはない。 規模は小さいけど、北川自動車は堅実な会社だからな」

「じゃあ、とりあえず見るだけなら・・・」

「よし決まりだな。 ようやく成瀬も車デビューかあ」 

「デビューって、見るだけですよ。 安くていい車があったら買いますけど」

「大丈夫、俺が安くしてやるから。 いやあ、これでやっとバイクから解放される」

「なんですかそれ? すごく、不愉快なんですけど・・・」

「っで、いつ行く? 仕事早めに切り上げて、帰りにでも寄るか?」

「まあ、それでもいいですけど」

「じゃあ、八時。 八時でいいか?」

そういえば。その言葉が浮かんだのと同時に、瞬間的に細い糸のような光が脳裏をかすめ、おさげ髪の少女の姿が心によみがえった。今日の夜、ひとりの少女を誘拐犯の手から守り、無事家まで送りとどけるという大切な約束があったことを完全に忘れていた。

 その報酬は昨夜のうちに食道をとおり、強烈な塩酸でどろどろに分解され、血液によって全身へ運ばれてしまい、いまさら約束を断るという選択は、お世辞にも賢明とは言えないだろう。

 問題は、その理由を正直に話すべきかどうか・・・

「おい、成瀬。 聞いてんのか?」

「あ、はい。 聞いてます」

「あんまり遅く行くと、嫌な顔されちゃうからな。 八時くらいがベストだろ」

「あの・・・ そのことなんですけど・・・」

「どうした? 急に改まって」

「やっぱり・・・ 他の日にしません?」

「っは? なんで?」

「実は、今日の夜、用事がありまして・・・ すっかり忘れてました」

「はあ? しらけるな。 なんだよ用事って?」

野郎は胡坐をかき、鋭い剣先のような視線をぼくに向けた。

「いや、なんていうか・・・ すごく説明しづらいなあ・・・」

「いいから、説明しなさい」

「根本さん、アゲハで働いてる女の子わかりますか?」

「バイトの子? ああ、わかるよ。 和風美人って感じだよな」

「実は、その子を今夜、家まで送ってくれって倉本さんに頼まれちゃって・・・」

「なにそれ、送る? どゆこと?」 

「いや、なんか昨日弁当買いに行ったら、ほとんど一方的に説明されて、なんでも最近この辺りに誘拐犯が出没するらしくて、その子、普段は両親と車で帰ってるらしいんですけど、今日は仕事で遅くなるから迎えにこれないみたいで、そしたら倉本さん、女の子がひとりで帰るのは危ないから送ってやれって、まあ、断る理由がないし・・・」

「ふ~ん、なるほどね」

「なんか、面白いイベントが発生したな」

「茶化さないでください。 ちなみに、昨晩の惣菜、あれが報酬の品です」

「前払いってわけね。 なるほど、それであの量か」

「まあ、そういうことです」

「しかし意外だな、成瀬ってけっこう信頼されてんだな」

「どうですかね。 ただ、普通に弁当買いに行ってるだけですよ」

「いや、でもよ、考えようによっては一石二鳥だよな」

「なんですか、その考えようって?」

「惣菜タダでもらったろ? それに、今夜はデートもできるわけだ。 お得じゃん」

「デート? ただの護衛ですよ護衛」

「騎士だろ、騎士。 悪の手から姫を守る勇敢な騎士」

「なんかいい響きだな、騎士。騎士」

「なに言ってるんですか。 ほんと、ふざけた性格してますね」

「成瀬、やっぱり車が必要だな。 どう考えても歩きじゃ格好がつかないだろ?」

「まあ、でも歩いて行ける距離みたいなんで・・・」

「歩きって、おまえこの寒さだぞ?」

「この人、いい年して車もないのかしら? って思われるな」

「んん・・・ そういうもんですかねえ・・・」

たばこの箱を上下に振り、火をつけてふかぶかと煙を吸いこんだ。

「そうだ、あるじゃん車。 マスターで行けよ、スカイマスター」

「っえ? 高所作業車ですか? それ、本気で言ってます?」

「本気だよ。 マスターが嫌なら、ダンプ。 成瀬、運転できるだろ?」

「できますけど・・・ だって、作業車ですよ?」

「歩きよりはマシだろ? 見た目は悪くても、快適な車のほうが俺はいいと思うけどな」

「たしかにそうですけど・・・ なんとなく抵抗がありますね」

「じゃ、こうしよ。 今日はダンプで我慢して、次のデートまでに車を買っておくと」

「ちょっと、勝手に駒を進めないでくださいよ」

「しかも、次ってなんですか?」

「言葉通りだよ。 いいか、成瀬には心の支えが必要なんだよ。 わかるだろ?」

「彼女ですか。 いや、どうですかね・・・」

「まあとにかく、チャンスを無駄にするなよ。 俺はお似合いだと思うぞ、和風美人」

「根本さん・・・ それ、言いたいだけでしょう?」

「だって、名前知らないもん」

「それに、いい響きじゃん。 和風美人。和風美人」

「はいはい。 じゃあ、そろそろ行きますね」

「おう。 俺もすぐ出るから、事務所の鍵あけといて」

「わかりました」

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